第10話-3

 家に早く着きすぎないために行った病院では、汐屋がしてくれたのと似たような診断が下された。数日は絶対安静、快復には1週間以上かかるとのことだった。


 湿布と包帯でぐるぐる巻きにされた左手首は、仕事にさえいかなければ驚くほどなんの支障もなかった。蒼衣は包帯が取れるまでの3日間、自室で屍のように過ごした。


 両親には、仕事中の事故で怪我をし、休暇をもらったと言って誤魔化している。とは言え溺れて気絶した翌日のことだ、不審がられたのは間違いない。


 ようやく包帯の取れた4日目の今日も、どこへ行こうとか何をしようとか、1つも思い浮かぶものがなかった。海に行きたいとさえ思わなくなっていた。


「蒼衣、入るぞ」


 ドンドン、と不器用で乱暴なノックの直後勝手に入室してきたのは、父だった。1ヶ月半もの休暇のおかげで日焼けも落ち着き、雰囲気が柔らかくなった気がする。


「返事する前に入ったらノックの意味ないだろ」


「細かいこと言うんじゃねえよ」


 豪快に笑いながら勝手に床にどっかり座る。蒼衣は渋々寝転がっていた体勢を改め、ベッドの上に座る。


「何か用?」


「海原から電話があってな。お前と連絡がつかないって心配してたぜ」


 ちっ、と危うく舌打ちが出そうになった。海原からはあれから何度も着信があった。知らない番号からも同じくらいの着信が来ている。恐らくは黒瀬か汐屋のどちらかだろう。


 それがビビについての何かしらの報告なのか、また蒼衣に対して何か言いたいことがあるのか定かではなかったが、全て無視していた。


「何があった」


「……別に何もねえよ」


「そうか」


 すんなり引き下がった大吉に蒼衣は危うく前につんのめりそうになった。


「じゃあ俺の独り言になるんだが。父親ってのは普段から威張るだけで基本使えねえが、息子が仕事で悩んだときだけは一番の助けになってやれるもんだ。気が向いたら話せよ」


 父の優しささえ今は疎ましかったが、憂さ晴らしに聞いてもらうことにした。


 蒼衣は父に、点々と、投げやりに全てを話した。ビビというイルカがもう泳げなくなるかもしれない状態になったこと。そんなビビを無理矢理泳がせようとして、自分が怪我をしたこと。それが理由で、海原に実質の謹慎を言い渡されたこと。


 ほら、やっぱり。蒼衣はうんざりした。言葉にして整理すればするほど醜いのは自分自身だ。


 蒼衣は受け入れたくなかっただけだ。ビビがもう泳げないこと。蒼衣の、ビビと舞台に立ち続けるという夢がもう一生叶わなくなること。それを否定したかっただけだ。


 ビビのためにとった行動じゃない。海原の言う通り、トレーナーを名乗る資格もない最低の行動だ。


 それでも。


 ビビがいない職場あそこなんて、蒼衣には何の意義も見出せない。


 一昨日だったか海鳴水族館のホームページを見て、蒼衣は愕然とした。そこにはイルカショーの日程が、ほぼ通常通り表記されていたのだ。


 ビビがショーの最中にあんなことになったのに、もう泳げなくなってしまったのに、たった数日空けてもうイルカショーは開演される。


 まるでビビというイルカなど最初からいなかったかのように、何も知らない観客に何も悟らせぬまま、トレーナーはショーを成功させなければならない。


 それがドルフィントレーナーの仕事なんだとしたら、蒼衣には到底務まらない。


「俺はトレーナー失格だよ。そう思うだろ。イルカを贔屓しないなんて無理だ。ビビを諦めるなんて無理だ。だから……もう無理なんだよ」


 こんなモチベーションであの職場に戻ることは、海原も黒瀬も、汐屋も、イルカたちも、蒼衣自身も許さない。


 職場に戻れば、蒼衣は恐らく、海鳴水族館の戦力として働けることだろう。いずれはビビに後ろ髪を引かれることもなくなるかもしれない。


 けれどビビと共に見た、あの輝きに満ちた青は、二度と見ることができない。多分それは、ピザ屋のバイトと変わらない。


「俺、他の仕事探すよ。今は面接もちゃんとやれる自信あるんだ。条件が良くて俺に合った仕事を、一からちゃんと探してみる。この夏ほど、充実しなくたっていいから」


「そうか。いいんじゃねえか?」


 大吉は興味なさげに頷いた。好きなものを仕事にできた彼には、そういう考え方もあるということがよく理解できないのかもしれない。


「なぁ蒼衣。そのイルカとショーに出たいって夢は、お前だけの夢なのか?」


 不意を打たれて固まる。その言葉の意味が、蒼衣には分からなかった。


「まぁ、夢なんてのは重ねた妥協に埋もれていくのが人生だ。ただ先輩としてアドバイスしとくなら……どんなに捨てたと思って、深いとこに沈んで二度と掘り出せなくなった夢でも、忘れることだけは一生できねーんだぜ」


「親父も……諦めた夢があるのかよ」


 蒼衣には意外だった。好きなことを仕事にして自由奔放に生きている男だと思っていたから。父の体が初めて小さく見えた。


「まぁな。母さんと結婚してお前が生まれて、それで諦めきれちまったんだから、夢じゃなかったのかもしれねえけどな。蒼衣、お前は諦められるのか?」


 蒼衣は閉口した。ビビの笑顔が脳裏に咲くたびに、ビビと泳いだ海の青を思い出すたびに体が疼く。それでも途端にビビの苦しむ姿と叫び声がフラッシュバックして、浮きかけた腰が再び椅子につくのだ。


「不思議なもんだと思わないか? 人が夢を抱く時、そのほとんどは無意識に職業に結び付けるだろ。別にそれを仕事にする必要なんかどこにもないのに、なんでなんだろうな」


「……それは」


「ガキの頃から分かってんだろうな。人間働いてる時間が1番長えんだって。生きるために、家族のためにやりたくねえこと歯ァ食いしばってやるのも仕事さ。けどそれだけじゃねえ。逆もある。この仕事のために生きてるって瞬間を勝ち取れる奴がいる。それが夢を叶えたやつだ。その仕事に夢を見続けられるやつさ」


 大吉はそこまで長広舌を振るってから、らしくなさを自覚したように苦笑すると、よっこらせと立ち上がった。


「お前の人生だ。お前が決めろ。けど。まだ届くなら手を伸ばせ。……まっ、夢が叶わなくたって人生はそれなりに楽しいけどな。人間都合良くできてるもんだ。どちらにせよ、世話になった職場にはきちんと筋通して来いよ」


 最後は普段の彼らしく話を締めくくった大吉は、手をヒラヒラ振りながら出て行った。1人になった蒼衣を、散らかった思考の奔流が襲う。


 お前は、諦めきれるのか--うるせえよ。諦めるしか、ないだろうが。


 自分の夢を押し付けてビビを苦しめるわけにはいかない。そんなのトレーナーでも、友達ですらない。


 もう蒼衣は、夢を見るのも怖いのだ。結局こんな風に、突然呆気なく奪われるぐらいなら、夢のために犠牲にする金も時間も、心だって馬鹿らしい。


 最初から割り切れる仕事を選べば、こんな思いをしなくて済む。


 リフレインする父の言葉に唇を噛んだ蒼衣の耳に、ケータイの着信音が飛び込んだ。


 また海原か。辟易しながら卓上のスマートフォンに目をやると、涼太からの着信だった。彼には謹慎を受けた初日の夜、唯一事情を話して相談に乗ってもらっていた。涼太は思いつく限りの慰めや励ましをくれたが、どれも蒼衣の力にはならなかった。


「……もしもし」


『おう蒼衣ー、ケガはどうだ?』


「今日包帯が取れたとこ。やっと洗えてさっぱりしたよ」


 他愛もない会話。涼太の声は軽薄を装っているが、気遣わしげだ。


『あー、職場にはもう戻んないのか?』


 聞き辛そうに尋ねる涼太に、蒼衣の胸は痛んだ。蒼衣がドルフィントレーナーになったのを、最も喜んでくれていたのは両親よりもこの涼太だった。ショーを見に来てくれたあの日は、興奮気味にカッコよかったと言ってくれた。


 だが涼太の声は、戻って欲しい、と言いたいわけではなさそうだった。ショーに出る蒼衣をもう一度見たいが、ビビとの特別な絆を知っている涼太は、ビビの身に起こった話を聞いて、蒼衣の気持ちを深く察してくれていたから。


『……やっぱ、辛いよな。そんでよ、これは全然断ってくれてもいいし、なんつーか、余計なお世話だってお前怒るかもしんないけど』


「なんだよ?」


『いや、お義父さん……彼女の親父さんに話したらさ。営業部に人員の空きがあるし、俺の紹介なら信頼できるって、蒼衣、お前を雇ってくれるって言うんだ』


「……え」


『お節介ですまん。ホント断ってくれていいから。けど俺も営業部だから、一緒に働けたら楽しそうかもと思ってよ。悪ィけど早めに返事だけくれ。……蒼衣が元気ねぇの嫌だからさ俺。連絡待ってっから。そんじゃな』


 通話が切れた後も、蒼衣はしばらくスマートフォンの画面に目を落とし続けた。

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