第10話-2

 熱く痺れるような痛みが左手首を駆け巡る。水中では悲鳴も泡となって滞り、蒼衣はたまらず水面に顔を出した。


「蒼衣君!」


「蒼衣!」


 血相変えて駆けつけた汐屋と黒瀬が、力を合わせて蒼衣の右腕を掴み引き上げてくれた。じんじんと疼く左手首がみるみる腫れていく。汐屋が膝をついて慎重に診察してくれたが、少し動かすたびに激烈な痛みが走った。


「骨に異常はなさそうですけど……内出血が酷いです。すぐ病院に」


「骨ヤらなかったのが奇跡だろ。関節が柔らかいからだろうな」


 激しい痛みと無力感。苛立ちが無数の虫のように体内を這い回る。発狂を堪えて歯軋りする蒼衣の耳に、プールの水が排水口に吸い込まれていく微かな音が届いた。


 プールを挟んだ向こう側で、海原がプールの水を抜く操作を行なっていた。ビビが溺れる、もしくはまた壁に激突するのを防ぐためだろう。


 一度抜いた水を再び張るのには、かなりの時間とコストがかかる。ビビを少しでも落ち着けるためか、普段ショーで使っているBGMが流れ始めた。水中のスピーカーから、ビビにもよく聞こえるはずだ。


 何やってんだ。今更自分のしでかした過ちを自覚する。ビビを再び危険に晒した上に自分まで怪我をして、結果全員の手を煩わせた。ビビが暴れたことも、突然水を抜かれることも、他の4頭のイルカたちにとって大きなストレスになっただろう。


「蒼衣君、今日は帰りなさい」


 険しい表情で歩いてきた海原がそれだけ言った。冗談じゃない。迷惑だけかけたまま帰るわけにいかない。痛む手に視線を落としたままほぞを噛み、蒼衣は首を横に振った。


「仕事の邪魔だから帰れと言ってるんだ」


 聞いたことのないほど威圧的な声に、肩が小さく跳ねた。視界が熱を帯びて明滅する。屈辱で顔から火が出そうだった。


「怪我が治るまで出勤しなくていい。ビビの今後についてはイルカチームだけじゃなく、館長ら上役や他の部署同席の会議を重ねて話し合っていく。進展したら連絡するよ」


 その柔らかくも冷徹な言葉に、裏切られた気持ちがした。蒼衣の反駁は震えた。


「……俺だって、イルカチームだ。ビビのトレーナーだ。海鳴のドルフィントレーナーだ! 俺のいないとこで、勝手に決めないでくださいよ!」


「イルカたちを身勝手な理由で危険に晒した奴に、ドルフィントレーナーを名乗る資格はない!」


 初めて海原に怒鳴られて、それまで猛烈に煮え滾っていた頭の芯がすうっと冷めるような気分を覚えた。


「……ごめん、今のは少し……」


 海原の二の句を待たず、蒼衣は汐屋と黒瀬の支えを振り切って静かに立ち上がった。2人が蒼衣の名を呼ぶにも構わず、視線を床に落としたまま海原の横をすり抜け、幽霊のような足取りでプールサイドを去った。


 更衣室に入り、扉を閉めた途端、凍結した感情が再沸騰を始めた。全身の細胞が、逆向きに撫でられるような不快感。


「……ァァァァァァァアッ!!! クソッ!!!」


 目の前のロッカーを力任せに殴りつけると、更衣室中に虚しい音が反響した。

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