第10話-1
蒼衣はその日の深夜、病院のベッドで目を覚ました。傍には心配顔の両親がいた。
聞くところによると、溺れる前に何か強烈なショックで意識を失ったことが幸いして、あまり水を飲まずに済んだらしい。体の異常と言えば鼻の奥が塩辛いぐらいで、すぐに退院の手続きを取って自宅に帰ることができた。
母いわく、汐屋が消灯時間の直前まで傍についていてくれたらしい。ショーのこと、ビビのこと。蒼衣が一刻も早く欲しい答えは、どれも両親からは得られなかった。
海原から、しばらく休みなさいと父経由で伝えられてはいたが、家でじっとしていられるはずもなく。翌日蒼衣は朝イチで職場に向かった。
普段より早くついたにも関わらず、既に3人全員が出勤してプールサイドに難しい顔を突き合わせて立っていた。蒼衣の姿を認めるなり全員顔色を変える。
「蒼衣! 体は大丈夫なのか!」
黒瀬に名前を呼ばれたのは初めてかもしれなかった。問題ないことを伝えると3人とも心から安堵した顔になる。ひどく心配をかけてしまっていたようだ。やはり顔を見せにきて良かった。
「本当に悪かった。あの時1番に飛び込まなきゃいけなかったのは俺だったのに……」
「いえ、溺れた俺が悪いです。それより……ビビは?」
最も気になっていたことをようやく聞けた。3人の顔が露骨に曇ったのを見て、最悪の想像に支配される。蒼衣は壁のように立ちはだかる3人を押しのけてプールサイドに張り付いた。
1、2、3、4……1頭足りない。どれだけ目を凝らしてもプールを泳ぐイルカの数は4頭だった。
ビビがいない。瞬間、全身の血が凍結した。
「ビビは、あそこです」
汐屋の苦しげな声が示した先には、プールの横、普段は何もない場所に背の低い檻のようなケージが建っていた。我を忘れてそこに駆けつける。
その中にビビはいた。
蒼衣の姿を見るなり顔をもたげてきゅうと鳴く。へなへなと、足腰の力が抜けた。頭の部分に亀裂のような傷跡が痛々しく走ってはいるが、ビビはこんなにも、元気そうだ。
「よかった……ビビ、無事で……!」
「無事じゃないよ」
背後から諭すような声。海原だった。黒瀬が止めに入ろうとするが、海原は有無を言わさぬ態度で黒瀬を制する。
「昨日のCT検査で、ビビのメロン器官に重大な損傷が確認された」
平坦な声の裏で、ぎり、と音が出るほど歯を食いしばって、海原が蒼衣にそう告げる。
メロン器官の損傷。それの意味することが、ドルフィントレーナーとなった蒼衣には分かってしまった。
視界がブラックアウトする。
イルカの視力は、水中では1メートル以下の範囲しか見通せない。濁った海水を泳ぐ上で視力に頼る必要性が薄く、退化したものと考えられている。
その代わりに発達したのが聴力だ。イルカは超音波を発し、その跳ね返りを下顎骨でキャッチして障害物の位置を確認している。
狩りやイルカ同士のコミュニケーションにも広く用いられる他、人の心を解する能力とも深い関係性があるとされるその能力は「エコロケーション」と呼ばれ、イルカをイルカたらしめている最大の特徴と言っていい。
噴気孔内で作り出した超音波を、一点に集中する器官がメロンだ。イルカの前頭部にあるとされている。ハッ、と蒼衣は喘ぐように悲鳴を漏らした。
「まさか、ぶつけた衝撃で……」
「メロンの損傷は、中央からナニカに蝕まれたようにも伺えた。ビビの様子がおかしくなったのは頭をぶつける前だ。今となってはどちらなのか断定できないが、これは外傷ではなく奇病が原因の可能性も高いと、獣医は推定していたよ」
足場が陥落したようになって、蒼衣はよろめいた。
メロン器官が機能しない。それが意味するのは、そのイルカはもうエコロケーションでなんの情報も得られないということ。
イルカの肉眼での視野は海中でたったの1メートル以下。ましてやビビは高齢だ。若いイルカに比べてさらに視力が劣るはず。
そんなの、もう、盲目に等しい。
「ビビは、もう……泳げないってことですか……?」
海原は答えなかった。代わりに黒瀬が慎重に口を開いた。
「見ての通り、陸に上げておけば落ち着いたもんだ。陸なら視力は2.5メートル以上で安定する。俺たちで言う遠視ってやつだ。水にはこれまでと同じようには入れないかもしれないが……」
何を黒瀬らしくないことを。苛立ちで歯が軋るような音を立てる。
これまで1日の大半を水中で過ごしてきたイルカに、突然陸での生活を強いて何事も起きないわけがない。ストレスに耐えかね、陸でイルカが暴れれば自分の体を滅茶苦茶に傷つけることになる。
そもそも陸に長期間いれば、イルカの肺は自重に耐え切れず徐々に潰れて機能を失っていく。そうなればいよいよビビの命が危険に晒される。それを知らない黒瀬たちではあるまい。
かと言って水に入れば、ビビの視野は極端に狭まり、また昨日のようにパニックを起こしてしまうだろう。ビビが苦痛を覚えずに過ごせる場所は、もうどこにも存在しない。
考えれば考えるほど希望を奪われていく感覚。意識に、暗い蓋がされたようだった。脳が全く働かない。何一つ受け入れられない。だってビビは、こうやって普通に--
縋るように目を向けたビビが、視線に気づいてこちらを見上げた。その頭に走る恐ろしい傷跡は、激突の衝撃を雄弁に物語っている。
きゅう? と不思議げに鳴く。何でそんな怖い顔をしているんだと、そう無垢に尋ねるように。もう蒼衣は、いてもたってもいられなくなった。
「あ、おい!」
黒瀬の制止の声を振り払って踵を返すと、一目散に更衣室に飛び込む。乱暴にロッカーを開けてウェットスーツを引っ掴むと、素早く袖を通しにかかった。
海鳴のドルフィントレーナーになってから今日まで、ビビを目で追わなかった日はない。
ビビとタッグを組んでショーに出演し、最高のパフォーマンスで観衆の拍手喝采を攫う。その瞬間を毎日思い描いていた。MCを任されても、モモとタッグを組んでからも、蒼衣の目はずっと、気がつけばビビを追っていた。
--それなのに、バカか!? なんでビビの異変に気づかなかったんだよ俺は!?
蒼衣はビビに、一体何度助けられた。セレクションの最終試験の時も、MCでセリフが飛んだあの日も、業務の過酷さに挫けそうになった夜も。ビビはいつだって蒼衣を引っ張って、蒼衣に何度も、夢を見させてくれた。
それなのに。昨日蒼衣はビビを
どんだけ情けないんだよ。ここまで自分を嫌い、罵ったことなど蒼衣にはなかった。血の味がするほど奥歯を噛む。ウェットスーツの装着を終えるのももどかしく、チャックも閉めかけのまま更衣室を飛び出した。
「蒼衣君、何を……!」
蒼衣の顔つきを一目見て泡を食った海原も無視して、ビビのケージに飛びつく。鋼鉄製の冷たい檻。こんなとこに閉じ込められて、かわいそうに。
今出してやるからな。
「何考えてるんだ! やめなさい!」
珍しい海原の怒鳴り声も、蒼衣の耳には響かなかった。金具を外して解錠すると、一思いに扉を解放して怒鳴りかえす。
「このままずっと陸に置き続けるつもりですか!? 見ててください、昨日はいきなりのことでパニックになっただけですから!」
ビビは案の定、扉を開けるなり解放された表情で水面めがけて腹ばいに進んでいった。こうなっては人の手では止められない。海原と黒瀬を押しのけるように入水したビビに続いて、蒼衣も飛び込む。
プールの水が異様に冷たく感じた。ウォームアップで体も温めずにいきなり飛び込んだからだろうか。それになんだか、暗いし、怖い。
ビビは蒼衣のすぐ隣にいた。彼女がまた水中にいるその姿を目にして、ほっとする。思った通りだ。視野が数十センチと言えど、全く見えていないわけじゃないのだ。蒼衣が付いていれば、きっと落ち着いてくれると--
蒼衣の思いを無情にも跳ね飛ばすように。数秒と待たずビビに異変が起きた。
それはまるで、蜂の大群に襲われているような姿だった。ヒレを、全身を滅茶苦茶に動かして暴れ回る海獣。抑えつける間もなく、いとも簡単に弾き飛ばされる。
焦燥を抑え、蒼衣は再び接近を試みた。しかし蒼衣が体に触れても、必死でビビの目に映り込もうとしても、ビビはパニックでそれどころではなかった。
その我武者羅な馬力で蒼衣を再び吹き飛ばすと、力任せに泳ぎ始める。あっという間に、ビビの姿が暗いプールの向こうに消える。
慌てて懸命に後を追う。かつて2人で一緒に競争したプール。今は蒼衣がビビの後を追っている。あの日と違い、もう、ビビの声が聴こえない。
--聞いてくれ……止まってくれ、ビビ……ッ!!!
ビビの苦痛の叫びだけが、蒼衣の内耳をガンガン揺らす。蒼衣の叫びはそれにかき消され、届かない。さらに激しく速度を増すビビが、前方の壁に向かって猛進するのを見て身も凍るような恐怖を覚えた。
エコロケーションが使えない今、ビビに壁との距離を測る術はない。色の認識力も人より大幅に弱いイルカの目では、激突の寸前まで壁を認識することすらできない。
蒼衣は呪詛を吐いて水を蹴飛ばした。人間離れした一直線の加速。ジグザグに暴れながら壁に突進するビビの前に、間一髪腕を割り込ませる。
次の瞬間、さし挾んだ左腕に体感したことのない激痛が走った。
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