第9話-3
蒼衣の仕事は、ショーの序盤から中盤にかけて、モモに指示を出し予定した順番とタイミングで芸を行使させること。汐屋はビビを、黒瀬は残り2匹を同時に担当する。
海原の登場に合わせた4頭同時の大ジャンプが終わり、それぞれが着水したタイミングで蒼衣達が一斉にステージに飛び出す。笑顔と、観客に手を振るのを忘れずに、激しく泡立ったプールの中からいち早く担当のイルカを見つけなければならない。
モモの姿を見つけると、所定の位置に立って彼女を待つ。モモも集合場所と蒼衣の姿の2点を確認して、間違いのないように帰ってくる。そこまでできて、最初のご褒美を与えるのだ。エサを与えるのはとにかくスピーディーに。
片手に持ったバケツから取り出した魚を、飛び出したモモの口に放り込む。この瞬間は何度やっても肝が冷える。軍手はしているが、万が一手を噛まれたらボロボロに食いちぎられる危険もあるのだ。
嬉しそうにサバを頬張る、というよりほぼ丸呑みにするモモの姿は愛らしいが、野生のイルカは集団でホホジロザメを襲って殺すことさえあるほど凶暴な一面を持つという。信頼はしても、油断はしてはいけない。
「元気よく飛び出して来ましたお兄さんお姉さん達、今日はうちのスタッフ総集合でーす! ご覧の通り、イルカチームは美男美女の精鋭でやらせてもらってます。はいあの、笑うとこじゃないですよ」
美男のところで胸を張った海原に対して笑いが起こり、海原が突っ込んでどっと観衆がわいた。やはり海原は場慣れしている。自分のMCと比較して叫びだしたくなるほどだ。
「冗談はさておき、右端のイケてるお兄さん、あそこに立つのは今日が初めてなんですねぇ。いいですね、初々しい! 私にもあんな時代がありましたねぇ。皆さんどうか、今日だけは小さなミスも笑って許してあげてください」
リハーサル通り蒼衣に話が飛んでくる。観客の目が蒼衣1人に注目していく感覚はうっと喉が詰まるようだったが、どうにか笑顔で手を振りお辞儀。主にマダム達から黄色い声援が送られる。
凪ちゃんの言ってた評判いい相手って、おばちゃんかよ……。
「それでは早速参りましょう! まずは本日初陣のお兄さんと、その相棒モモちゃんから景気付けに一発お願いします!」
蒼衣が手のひらを下に向けて腕を差し出すと、モモは了承したように勢いよく水面から半身を出した。手のひらにモモの吻が触れる。同時にハンドサインで指示を出す。
全ては練習通り。モモはぐんっと上体を下に傾けて十分な深度をとると、水面を突き破ってその体を大空に舞わせた。その高度は実に6m。最もシンプルな芸。毎日何十回も目にしているただのジャンプ。それでも目の当たりにするたびに、否応なく全身の血が踊る。
割れんばかりの大歓声をその身に浴びて、モモが盛大に着水。彼女の喜びが水しぶきとともに蒼衣に浴びせかかるようだった。得意げに帰還したモモにご褒美のエサを与える時、蒼衣の表情は自然に笑顔だった。ホッとひとまず安堵しつつ、よくやった、とモモの頭を撫でる。
「お見事! バッチリ決めて来ましたさすがお兄さん!」
海原が観衆を盛り上げる中、モモが帰ってくると同時に汐屋と黒瀬がイルカをスタートさせていた。負けじと飛び上がった3頭の連続ジャンプに、不意を突かれた観衆が熱狂する。
蒼衣が加わったことで、演者の数が増えショーの質が上がっている。蒼衣はその事実に興奮した。
このプールは蒼衣が増えてもまだ広すぎるほどのスペースがある。療養中のスタッフが戻って来れば、もっともっとエキサイティングなショーを作れるだろう。先のことを考えただけで胸が踊る。
イルカの数も増やしたい。全国の水族館を回って、色んなショーを見て勉強したい。
今はまだ、海原の用意した脚本に従うだけだが、ゆくゆくは自分もショーのデザインに携わってみたい。シロイルカとかゴンドウとか、他の種類のイルカが入ってくればもっと面白くなる。
そして、やっぱりビビと、もっともっと難しくてやり甲斐のある技をマスターして、このはち切れんばかりの観客たちに見せつけたい。
ショーを進めていきながら、蒼衣の頭の中は次から次へと湧いてくる希望的なインスピレーションで溢れていった。仕事が楽しくなってくる瞬間--それが人それぞれあるのだとしたら、蒼衣にとってそれは今だった。
蒼衣の投げたフリスビーは水面と平行に、美しく直線の軌跡を描いた。その真下をぴったり背面で泳ぐモモが、獲物を捕らえる肉食魚のように飛び上がってフリスビーを見事にキャッチ。蒼衣も思わず小さくガッツポーズ。
これで蒼衣の行う演技は、全て終了した。観客から惜しみない拍手が送られる。やりきった表情で、モモと2人観客に手を振った。不思議なことに、水に入らないでいた方が息が上がる気がする。
「時間が経つのは早いもので、あっという間にショーも終わりの時間が近づいて参りました。最後はなんと、本日初披露の新技を、ベテランイルカのビビちゃんと紅一点のお姉さんに見せてもらいます!」
観衆の盛り上がりは最高潮。蒼衣と黒瀬が一歩下がって、今日のエースにスペースを譲った。汐屋は緊張を感じさせない可憐な笑顔で前に進み出るとお辞儀。ビビも伸び上がって観衆にアピールする。
「本日挑戦するのはドルフィンライド、またの名をイルカサーフィン! 長い説明は不要ですね。2人で息を合わせて、行ってもらいましょう!」
しん、と、時が止まったように静まり返る会場。BGMの音量も絞られ、痛いほどの静寂が汐屋の小さな背中にのしかかる。その場にいるだけで、胃がキリキリと痛むような空間だ。蒼衣は拳を固めて祈った。
どうか、成功しますように。
汐屋がプールサイドに尻をつけ、足を水面すれすれに浮かせて両手を尻の横に。ビビは水中を旋回して汐屋から助走距離を取ると、再び水面に浮上した。
止まっている状態のイルカに乗っても、数秒と堪えられず落ちてしまう。走り出すと安定する二輪車と同じ要領で、少し助走をつけたイルカに半ば飛び移るようにして乗るのがドルフィンライドのコツであり、同時に最初の関門だ。
言うまでもなく、高い身体能力と、イルカとの深い連携が必要になる。
集中状態に入った汐屋の、細められた静謐な眼差しに、蒼衣の体が縫い止められる。彼女は、途方もなく美しかった。
ビビがスタートを切った。緩やかに加速しながらプールの壁すれすれを泳ぎ、そのしなやかな痩躯をネジを巻くように僅か回転させて、平らにした横腹を水面に。
最高の姿勢だ。これで決められなければドルフィントレーナーの名折れ。
果たして--
爆音じみた歓声が真夏の大気を震わせた。見事ビビに乗り移ることに成功した汐屋は、水面を力強く切り裂きながら両足をピンと伸ばして立ち上がり、満面の笑みで客席に手を振る。そんな不安定な体勢でも、下半身を巧みに使って紙一重の安定性を保っている。ズバ抜けた運動能力だ。
ビビもまた、汐屋が直立しやすいように体をすぼめ、ボディの凹凸を極限まで減らし真っ直ぐ泳ぎ続ける。その難しさは人間の蒼衣には検討もつかないが、観衆の割れんばかりの拍手喝采は、間違いなく汐屋とビビ、両者の絆に対して平等に注がれていた。
これこそイルカショーのあるべき姿。彼女たちと同じステージに立てることを、蒼衣は今心から誇らしく思い--
「……ビビ?」
遅効性の毒を飲んだように緩やかに、異変に気付いた。
広大なプールを、一定のスピードで円を描くように泳いでいたビビの速度が、徐々に、確実に速くなっていく。ジグザグに、デタラメに、まるで錯乱したように進路を無茶苦茶に変更し続けながら加速していく。
必死にバランスを取り続けていた汐屋も、ついになす術なく振り落とされた。
ビビの悲鳴が聞こえる。割れるような頭痛と戦うような、聞いているだけで苦しくなる声。滅茶苦茶にプールを掻き回す彼女の姿は、無鉄砲な有人魚雷に見えた。
不審げにざわめき始めた観客を海原がなだめ始める間にも、ビビの苦痛に満ちた叫びは耳を覆いたくなるほどに激しくなっていく。
「ビビ!」
堪えようなく迸った悲鳴が会場を駆け抜ける。蒼衣は気がつけば水に飛び込んでいた。
こんな怖い青色は初めてだ。水が黒く、暗く、淀んで見える。
高速で泳ぎ回るビビによって荒れ狂った水中で目を凝らし、必死にビビを探す蒼衣の目と鼻の先を、弾丸の如く黒い塊が掠めていった。ビビだ。蒼衣の姿にもまるで気づかない。
壁に体のあちこちを掠めながら暴れ回るビビの姿は痛々しく、恐怖さえ覚えた。本能の示すままプールの一点を目指し全速力で水を蹴る。ビビがここに飛び込んで来る気がしたのだ。
果たしてその通りになった。プール全域を無軌道に暴れ狂っていたビビが、向こうから蒼衣めがけて突貫して来る。ビビの心は泣いていた。恐怖に怯えて泣いていた。採血の注射針にも微動だにしないあのビビが、これほど取り乱す姿なんて見たことがない。
--ビビ、俺だ! 止まれ!
両手を目一杯広げて蒼衣はビビの行く手に立ちふさがった。彼女とは、顔を突き合わせるだけで意思の疎通ができた。2人の間にだけ成立する青く透明な伝達回路が瞬く間に走って、蒼衣とビビは通じ合えた。
それなのに。もう、ビビの言葉が聞こえない。蒼衣の声も、きっと何も届いていない。蒼衣が真正面にいるのに、ビビはほんの少しも速度を緩めないのだ。慟哭を上げて肉薄する黒い塊は、もう蒼衣にとって凶器でしかなかった。
--お前、俺が…………見えないのか……?
呆然と水中に突っ立った蒼衣の真横スレスレを大砲の如く横切ったビビは、その勢いのまま、プールサイドの壁に轟音を上げて激突した。会場を文字通り震撼させて、憑き物が落ちたように大人しくなったビビは、海水の底にゆっくりと沈んでいった。
時間をかけて振り返りその様子を目の当たりにした蒼衣の意識も、ビビと同じように、ずるりと海底へ引きずりこまれた。
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