第16話-1

 水圧から解放された鼓膜を、大歓声が震わせる。


 ビビが大一番で過去最高のジャンプを決めたとき、蒼衣は初めて顔を水面に出すことができた。ビビが降ってくる前に急いで壁際に避難してからようやく最初の息つぎ。


 ダイナミックに着水したビビは、離れたところにいた蒼衣を正確に見つけると、自力で泳いできて蒼衣の胸に飛び込んだ。ビビを受け止めた瞬間、ひく、と頰が痙攣する。


 バカ。感極まるには早過ぎるだろう。蒼衣は自分を叱りつけたが、それでも。


 この光景はどうだ。視界いっぱいを覆い尽くす、超満員の客席から降り注ぐ喝采。地鳴りのような歓声が、水を伝ってビリビリ蒼衣の体を痺れさせる。


 あぁ、思い出した。


 ビビ……俺たちがずっと夢に見たのは--この景色だったよな。


 ダメだ。今は呼吸を整えろ。どれだけそう言い聞かせても否応なく鼻の奥がツンとして、ぐっと気道は塞がれていく。ビビにしがみついて必死に堪えたが、固く結んだまなじりから涙が溢れて止まらない。


 帰ってきた。もう一度叶えることができた。全てはビビ、お前のおかげだ……!


「お兄さーん? 大丈夫ですかー? すみませんね皆さん、お兄さんが落ち着くまでちょっと待ちましょう」


 そう言う海原こそ鼻声だ。蒼衣は声を上げて泣きながら笑った。


 お客さんの温かさに甘える形で、蒼衣はゆっくり自分が落ち着くのを待つことができた。スタッフの咄嗟の機転か、BGMが別のものに切り替わる。


 イルカの芸の中にはBGMの音に合わせて行うものが多くあるので、このまま予定を超えて曲が流れてしまうと修正が難しくなるのだ。


 ショーの最中に泣いてしまうなんて言語道断だが、今日だけは許してもらえるだろう。元々、今日は最初のジャンプが終わったら気がすむまで呼吸の安定に時間を使っていいと海原に言われていたというのもある。


 お客さんまでもらい泣きしてしまって、ショーはたっぷり1分間、温かい湿っぽさの中で一時休止していた。ビビだけが、早く続きをやろうとせがんでうるさかった。


「はい、どうやら落ち着いたみたいです! お待たせいたしました! ショーはまだまだ続きます。皆さんどうか最後まで、楽しんでご覧ください!」


 少し目を赤く腫らした海原の声に合わせて、最初のBGMが少し巻き戻されて再生された。大丈夫。もう涙も引っ込んだ。呼吸も問題ない。


 蒼衣は再び深く肺に空気を満たすと、口を引き結んでビビを見つめた。待ちくたびれたとばかりに鼻を鳴らしてビビは先に水中へ。蒼衣も一度目を閉じて気持ちを入れ直すと、ひと思いに再び顔を水の中に沈めた。


 外の喧騒が、水に入るとプレスされたように薄く延びて沈下する。代わりにスピーカーから流れるBGMが水没した鼓膜を揺らす。


 ここから先は蒼衣とビビだけの演技ではない。他の4頭と、黒瀬と汐屋、全員で作り上げていくショーだ。難易度は何倍にも高まる。


 蒼衣は生きてきたどの瞬間よりも、高揚していた。もう不安などない。2人の夢は再び叶ったのだから。


 今はこれから数々の極めて難しい演技に挑戦していくことに対して、高揚以外の何もない。


 BGMが予定のタイミングに差し掛かった瞬間、蒼衣と全てのイルカたちが一斉にスタートを切った。


 ビビは蒼衣のすぐ後ろをぴったり追従してくる。無論、彼女に蒼衣の姿は見えていない。蒼衣は左手に握った"ある物"を利用して、ビビに自分の居場所を伝えていた。


「ダイビングブザー」という道具がある。


 ダイバー同士が水中のコミュニケーションに用いる警音器だ。とは言え非常時以外これといった使い道もなく、不特定多数のダイバーが集まるようなスポットでの使用はマナー違反だったりもする。


 一応所持していた蒼衣だったが、これまで活用することはほとんどなく倉庫に眠っていた代物だ。


 あの日ビビが聴覚を頼りに水面に上がった蒼衣の位置を特定した時、蒼衣はこのブザーを使って自分の位置をビビに教えられないかと思いついた。


 名案だと思ったが、ことはそう簡単に運ばないものである。


 翌日から早速網の中でビビにこれを試してみたが、ビビは最初ブザーの音を酷く怖がった。周囲にどんな障害物があるか全く把握できないビビにとって、何もないところから大音量が聞こえるのはかなりの恐怖だったようだ。


 音量を下げたり、音の高さを上げてみたりして、ビビがなるべくストレスを感じない音を手当たり次第模索したり、地上で十分聞かせてから水中に移行したりと試行錯誤をするうち、どうにか音を怖がることはなくなった。


 そして、根気強い反復訓練の末、とうとうビビはこの音がする方向に必ず蒼衣がいると覚えてくれるようになった。ビビの生活が劇的に変わったのはそれからだ。


 ビビは網の外に出ることができるようになった。音の鳴る方に泳げば蒼衣がいる。蒼衣についていけば壁にぶつからない。それらのことを覚えていってからというもの、ビビはまさしく、蒼衣を盲導犬として泳ぐ能力を獲得したのだ。


 本当はその後、いざ全体でショーの練習となってから、このブザーの音に他のイルカが反応してしまってショーどころではなくなるという未曾有の危機に直面することになるのだが……あぁ、思い出したくない。


 この音の先に蒼衣がいるとビビに覚えさせるより、自分にとってこの音は何の関係もないと他の4頭に覚えさせることの方が、実は何百倍も大変だった。汐屋たち3人の献身的な協力なくしては成し遂げられなかったことだろう。


 だが、それ以上に乗り越えなければならなかった最も高い壁がある。


 ビビの盲導犬を担うに当たって、蒼衣は必然的に、イルカと同格の速度で、かつ、同格の潜水時間で泳ぐ必要に迫られたのである。


 ブザーの音についてくる以上、ビビは蒼衣を決して追い越せない。つまり健常だった頃のビビと少なくとも同じ速度を蒼衣が出せなければ、かつての力強いジャンプは取り戻せないことになる。


 それも、ただスピードが出せればいいという話ではなかった。ショーが始まれば、蒼衣は長ければ連続5分以上も無呼吸で泳ぎ続けなければならなくなる。


 そのラスト10秒にフィニッシュのジャンプを設定しようにも、蒼衣の体が持たなければビビに加速を与えてやれない。


 海原たちは、そこには拘らず加速が必要ない芸を中心にショーを組み立てようと言ってくれたが、蒼衣はどうしてもビビを完全に蘇らせたかった。


 速度の方は、涼太が普段使っている"フィン"という足ビレを採用することで飛躍的に向上した。それまで素潜りに拘って使ったことのなかった蒼衣だったが、慣れてみるとこれがすごい。水を掻ける量が段違いだ。


 潜水時間の方は、ひたすら練磨するほかない。ビビの訓練とは別に毎晩居残って水に潜り続け、僅かずつ限界タイムを伸ばしてきた。


 信じ難いことに、今の蒼衣は全速力で泳ぎ続けても連続5分以上無呼吸でいられるようになってしまった。黒瀬が「そろそろエラが生えてくるんじゃないか」と本気で引いていたのを思い出す。


 --ついて来てるな、ビビ。まだまだ上げるぜ。


 蒼衣は全身を駆け巡る高揚に身を任せ飛ぶように泳いだ。振り返らなくても分かる。もう、ビビは自由だ。


 一時は暗く、黒く淀んでいた水中の世界は、今や初めてビビと一緒に泳いだ日の青を蘇らせた。


 こうしてイルカの視点でショーに参画していると、まるで自分がイルカになったかのように錯覚する。


  顔の形までイルカのような流線型とはいかない。速度を上げるたび向かう水が牙を剥いて張り手のように蒼衣の額を叩きつけるが、蒼衣は歯を食いしばって更に加速する。


 増していく水圧に耳が鳴っても、酸素が栓を抜いたように体から消えていっても、蒼衣はギアを上げ続けた。


 唸りを上げて泳ぐ蒼衣のスピードが、ついにイルカたちと完全にシンクロした。6頭のイルカは、美しい規則的な等間隔を空けて時計回りに真円を描く。力強い海流が生まれ、プールの中心に渦を作っていく。


 今度は8の字。次は交錯。練習通りの芸を決めるたび、肺の中身が恐ろしいスピードで消費されていく。全身の細胞が酸素を補給しろと警笛を鳴らす。


 まだだ。まだ顔を出すわけには行かない。蒼衣は何もない口の中を無理やり飲み込んで最後の力に変え、無我夢中で水を蹴った。

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