第16話-2

 このBGMのラストは、畳み掛ける三度の和音が彩る。そのタイミングに合わせて2頭ずつツインジャンプを決め、最後は--ビビと汐屋のイルカロケットで締める計画となっている。


 この演技をデザインしたのは蒼衣だ。汐屋は、なぜ飛ぶのが蒼衣ではなく自分なのか、と恐縮していたが、蒼衣が飛ぶわけにはいかない。


 蒼衣はビビの盲導犬だ。ビビが、蒼衣の力を借りて、蒼衣以外のトレーナーと演技を成功させる。そこに意味があるのだ。ビビが完全に蘇ったと証明する、最高の演出になる。


 蒼衣の意識は風船のように、気を抜けば手を離れて行きそうな状態にきていた。珍しいことじゃない。ここからが本当の忍耐の時間。


 母の言葉も案外間違っちゃいない。蒼衣にとってこのショーは、己に勝つか負けるかの勝負だ。


 息はまだもつか? もたせるに決まってるだろう。


 水中でもなお端から端までを鮮明に見渡せる蒼衣の視力は、汐屋が美しい飛び込み姿勢で入水して来たのを即座に捉えた。彼女と目と目を合わせる。


 お互い、力強く一度だけ頷いた。


 2度目の交錯を完璧に決めて蒼衣とイルカたちは一列縦隊を編成していく。黒瀬が鋭く吹いた犬笛の音が蒼衣の耳にも微かに届いた。


 その瞬間、ビビを除く4頭のイルカたちはこれ以上ない完成度で左右に弾けた。迅速に2頭ずつのペアを組む。その光景に、力一杯背中を張られたように気持ちが引き締まる。


 うちのイルカたちは最高だ。最大の立役者は彼女たちである。どうしてもビビに人員を多く割かざるをえないこの状況で、モモたちはそれぞれ自分の動きを完璧に暗記し、BGMと黒瀬の犬笛だけを頼りに確実に実行してくれる。


 ビビのエコロケーションが使えなくなり、イルカ同士のコミュニケーションが取れなくなってしまった後も、モモたちはビビを自分たちのリーダーとして疑っていなかった。


 ビビがショーに復帰した時の彼女たちの生き生きした姿は、今も頭に焼き付いて離れない。


 1秒ごとに光が薄れ、霞んでいく視界に、一人だけ独立して泳いでいた汐屋の背中を確かに捉えた。


 爆速で彼女の元へ迫る蒼衣とビビより僅かに水面に近い場所で、じっと蒼衣たちを待っている。空っぽの頰を膨らませ、ただ、汐屋の待つ場所を目指して遮二無二水を蹴った。


 もう蒼衣には前しか見えない。けどそれで十分だ。他のことは、海原と、黒瀬と、汐屋と、モモたちと、そしてビビがしてくれる。


 蒼衣は蒼衣の仕事を、死んでもやり遂げるだけだ。


 アップテンポに突入したBGMが終焉に近づく。いよいよクライマックス。苦しい時間も間もなく終わる。最後の、一踏ん張りだ。そう言い聞かせることで、ダメ押しの気力を奮い立たせる。


 下から突き上げる軌道で汐屋に肉薄。ルートは見えた。蒼衣は剣呑な眼差しで汐屋を見上げた。彼女もまた、静謐な瞳で蒼衣とビビを待ち構えていた。


 ビビをあそこまで、最高速度で送り届ける。それが蒼衣の最後の仕事。イルカロケットに必要な加速は蒼衣の全速力にほぼ等しい。上等。ブザーを握る手に力が籠る。長い長いフルマラソンの、完走は目と鼻の先だ。


 全身のしなやかな筋肉に力を漲らせ、斜め上にいる汐屋めがけて水を蹴とばそうとした蒼衣は、その瞬間、身も凍るような恐怖を覚えてハッと背後を振り返った。


 血塗れの釜を振りかぶった死神がそこにいた。


 暗転。


 何も見えない。何も聞こえない。全身を巡る糸がプツンと切れて力が抜ける。


 蒼衣はこれまでで最も長く、最も絶望的な、ブラックアウトに襲われた。


 決して緩めるまいと固く結んでいた唇が緩み、本能的に酸素を求めた結果大量に水を飲んた。ガボッ、と空気の代わりに蒼衣の肺を満たす、この上なく流動的で隙間のない液体。


 胸に迸る裂けるような激痛。失速する。どんなに全力を絞り出しても、芯のない両脚からは蚊ほどの推進力も出ない。何も見えない。


 死ぬ。原初的な恐怖が去来する。そう思うほど余計に水を飲む。苦しい。苦しい。苦しい。


 死んだ方が楽だと思えるほどの苦痛が喉を掻き毟っても、蒼衣はなぜか、空気を求めて上を目指そうとしなかった。


 今にも無数の泡に変わって消えていきそうな意識を、剥がれた端からかき集めるようにして、歯を食いしばり目をかっ開いた。


 息を呑み期待してくれている観客の前に、最初に現れるのがゲホゲホ噎せこむ蒼衣だなんて、そんなの許されるはずがない。


 あの水面をぶち破る役目は、ビビと汐屋をおいて他にいない。踏ん張れ。根性見せろ。浮くな! 噛み締めた唇が破れて、血が滲む。


 今日までビビと、皆と、どれだけ高い壁を乗り越えてきたと思っている。それなのにあとたった数秒が堪えられないのか。


 まだ、泳げるだろう。--……当たり前だ!


 風前の灯火だった意識を最後の刹那燃え上がらせたのは、持ち前のプライドだった。全身の隅から隅まで力の残りカスをかき集めて、蒼衣は吠えた。水中を駆け抜けるBGMがグランドフィナーレを迎える。


 危うく手を離れて落ちていくところだったダイビングブザーを毟り取り、握り潰さんばかりにスイッチを押した。一度は蒼衣を見失っていたビビが、その音に反応して魚雷の如く背後から迫る。


 ほんの一瞬でいい。ビビに負けない速度がいる。ビビと汐屋があの水面をぶち破れるなら、この後自分がどうなったって構わない。構わないから。


 --泳げ!

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