第16話-3

 文字通り命を燃やして蒼衣は最後の力を得た。水を飲むたびに肺を貫く激痛も、吹けば飛びそうな意識をその度強く持ち直せるぶんだけありがたい。


 不思議な感覚に包まれた。水と同化したように体が軽い。水の呼吸に合わせて、するりするりと、なんの抵抗も受けず進んでいける。まるで空か、宇宙空間を飛んでいるみたいだった。


 この後、自分は死ぬのだろうと、蒼衣はなんとなく直感した。


 汐屋めがけて弾丸の如く一直線に水中を駆け抜けた蒼衣は、正真正銘最期の力を振り絞って左手のブザーを手渡した。途端に、ズンと全身に鉛を詰めたような重量がのしかかる。


 ……後は、2人なら完璧にできるだろ。


 張り詰めていた糸が切れ、蒼衣はゆっくり水底へ沈んでいった。浮上せず沈んでいく蒼衣の動きに不安げな表情になった汐屋を、蒼衣は親指を立ててあしらった。


 ここでやめたら台無しだ。飛べ。もう自力で水面に顔を出す力も残っていないが、頼むからショーが終わったら早く助けに来てくれよ。


 汐屋は果たしてどこまでを汲み取ってくれたのか、一度強く頷くと、蒼衣から受け取ったブザーを二度短く切るように鳴らした。持ち主が切り替わった合図だ。ビビはこれを受け、頭を突き出して発射台の姿勢を取る。


 ビビは音だけを頼りに、恐れを捨て、全てを信じ切って最高速度で。汐屋はそんなビビのために、どんな誤差も修正できるよう迎撃態勢を整えて。


 雲を掴むような話だと人は笑うだろう。いいから黙って見てろ。すぐに大歓声に変えてやる。


 ゆっくりプールの底に沈んでいきながら、蒼衣は煌めく水面を見上げた。ビビがミサイルのように海を切り裂いて汐屋の足裏を撃ち抜く。蒼衣を水底に残し、2人はぐんぐん水面に向かって打ち上がっていく。


 --行け。行け。行け。


 拳を握って掲げる。行け、ビビ。飛べ。お前を哀れむ外のやつら全員に、見せつけろ。


 汐屋を押し上げるビビの後ろ姿に、無数の淡い、蒼い燐光が集まって、彼女の背に大きな翼を与えた。死をすぐそばに迎えた蒼衣だけに見えた幻覚だったかもしれない。蒼衣は構わず、その光景の美しさに涙を流した。


 見せつけろ。お前はもう--自由だ。


 まさに2人が蒼い膜をぶち破って、大観衆の見守る大空を舞うという直前。蒼衣は意識を手放しかけながら涙を海水に溶かした。


 --待って。


 なんと罪深いことを口にしたのだろう。ようやく自由を取り戻したビビがまさに飛び立とうというこの時になって、今更。


 やっぱり俺も、そこに連れて行って欲しかった--そんなふざけたことを願うなんて。


 プールの底に背中をつけた蒼衣は、果てしなく遠のいてしまった水面を見上げて細く長いため息をついた。


 吐くものなどもう何もない肺の中身に代わって、何か全てを手放すように。


 最後の和音が打ち鳴らされると同時、翼を目一杯広げて地上へ飛び出していったビビの姿は、汐屋とともに見えなくなった。


 聞こえない。今あの向こう側で轟いているはずの歓声を、ビビに浴びせられる惜しみない拍手喝采を、蒼衣だけが聞くことができない。


 心残りがあるとしたらそれだけだ。後は……全てが終わったんなら、最後はビビと抱き合いたかった。


 それが叶わないのは、きっとあの日、ビビを無視して陸に上がってしまった報いだろう。意識が泡のように天に昇っていく。とてつもない力で瞼が閉じようとする。


 突然、揺れる蒼い膜の中心を何者かが突き破った。まさに最後の門を閉ざす間際だった蒼衣の意識が、束の間こじ開けられる。


 派手に着水したその影は、蒼衣めがけて一心不乱に潜水する。助けが来たのだ。朧げに理解した。助かるかもしれない。この麻薬じみた眠気の中で、気を確かに持ち続けられれば。


 視界が割れたように歪んで、うまく見えない。誰だ。汐屋か。黒瀬か。海原か--射し込む陽光を背に、泣き叫びながら一心不乱に飛び込んでくるのはその誰でもなかった。



 ビビ。



 蒼衣は死の淵を彷徨っていたのも忘れて片目をこじ開けた。ダイビングブザーは汐屋に渡した。プールの底にいる蒼衣の手には、もう何も握られていない。


 ビビは一切の蛇行もなく一直線に蒼衣の元へ辿り着いた。必死で蒼衣の背中とプールの固い床の間に頭をねじ込もうとする。ビビの泣きじゃくる声が聞こえる。


 夢見心地でビビの体に触れた蒼衣は微かな活力を取り戻し、衰弱した両腕に精一杯の握力を巡らせどうにかビビの逞しい身体にしがみついた。


 蒼衣の体を持ち上げたビビは、初めて深い暗闇に放り出されたような顔をした。周囲をキョロキョロ見回して不安げに鳴く。やはり目は見えないままだ。それなのに……喉がきゅうっと狭くなる。



 お前の真っ暗な世界の中に、俺が、いたのか。



 ビィーッ、と真上から警音が水を伝って蒼衣とビビの耳に届いた。着水した汐屋が、血相変えてこっちに向かいながら鳴らしてくれているのが見えた。


 道を見出したビビは、男一人抱えているとは思えないほどの馬力でロケットのように急浮上。水面がみるみる拡大されていく。蒼衣はビビにしがみついて、そして。光の網を浮かべた蒼い水面を、とうとう突き破った。


 待ちわびた酸素を取り込むより前に、大量の水を吐かねばならなかった。ビビの背に乗っかってゲホゲホ噎せ返る姿はこの上ないほど無様だったはずだ。


 それなのに、蒼衣が姿を現した途端会場は爆発じみた歓声に揺れた。蒼衣は憔悴しきった目を丸くする。


 生きている。生きているのか。惜しみない拍手喝采に包まれて、蒼衣はビビの背の上でようやくそう自覚した。


「……はは……ビビ……やっぱりお前は…………最高だよ」


 飛び込んできた海原と黒瀬と汐屋に、ほとんどもみくちゃにされるように救出されながら、蒼衣は笑って静かに目を閉じた。

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