エピローグ
タン、タン、タン。包丁が魚を断つ軽快な音が調餌場に響く。
エプロン姿の蒼衣は鼻歌交じりに調餌に励んでいた。まだ黒瀬ほどではないが、蒼衣の調餌スキルもなかなかのレベルに仕上がってきている。
先月はこういう雑務を全て皆に任せきりだったので、蒼衣なりの恩返しのつもりで、今月は毎朝早めに出勤して調餌を終わらせているのだった。
と言えば聞こえはいいが、実際は「しばらく水に入るの禁止」と医者に釘を刺されてしまったので、これぐらい引き受けないと割に合わないのだ。もうその禁も解かれたが、なんとなく続けてしまっている。
調餌済みの魚が大量に入ったバケツを持ってトレーニングプールへ向かおうとすると、まさに調餌場に入って来ようとするところだった凪と鉢合わせた。
「あっ、蒼衣君おはようございます。今日も早いんですね」
「うん。特に昨日の夜はテンション上がってあんま眠れなかったから」
あぁ、と納得顔の凪にバケツを半分持ってもらい、2人してプールへ。
「ビビー」
蒼衣が呼ぶ前から蒼衣の姿を見つけていたビビは、水面に顔を出したまま器用に蒼衣と凪のそばまで泳いできた。顎を開閉して餌をくれとねだる。
「おはようビビ。餌より先に健康チェックな」
苦笑してビビの頭を撫でる。まったくこいつは、いい歳して食欲が衰えることを知らない。
ちょうど1ヶ月前のビビの復帰ショーは、完璧な出来とは言えなかった。何しろトレーナーが1人溺れて死にかけたのだから。
しかしショーの成功を目指す過程で、ビビがこのプールで生活できるほど水に慣れたことが一番の収穫と言える。視界はほとんど機能しなくても、今や動揺することなく静かに浮いたりゆっくり泳いだりするのである。本当に神経の太いイルカだ。
一方の蒼衣は、あの後運び込まれた病院で「低酸素脳症」と診断された。
死の危険はもちろん後遺症の可能性もあったと医師に脅されたが、不思議なほど症状は軽く、大事をとって2週間も潜らなければ問題ないと言われたのだった。丈夫な体に産んでくれた両親に感謝しろとも言われた。
数日の入院費も含めCT検査や通院費等、医療費はバカにならなかったが。どういうわけかあれほど財布の紐の硬かったオーナーが全額負担してくれたので夏子が卒倒せずに済んだ。
ショーは完全な成功を収められなかったが、海鳴水族館とビビ、それからついでに蒼衣の名まで一躍全国に轟いてしまったので、蒼衣の治療費を面倒見ても余りある旨味があったのだろう。どうやら凪は、そう思ってはいないみたいだが。
凪と言えば、彼女の予言通りあの日を境に病院や職場に押しかけてまで蒼衣に何やら差し入れを持ってくる女性が後を絶たなくなった。いつぞやの、選考試験で一緒だった2人の女の子も来てくれた。全部凪が追い返してしまったが。
「おはよう蒼衣君」
「おう、蒼衣ィ」
海原と黒瀬が出勤してきた。蒼衣も正式雇用となったことだし、凪と2人で相談して、朝の仕事は基本2人でやることで海原たちに同意をもらっている。これまで非番を優先的にもらってばかりだったから、働き過ぎのおじさん達には少しでも休んでもらわないと。
来月頭には療養中のスタッフもいよいよ戻ってくるみたいだし、少しずつ、仕事も落ち着いてくることだろう。
「いよいよ復帰戦だね」
健康管理と餌やりが終わり、開館前の朝礼を終えた直後、海原がそんな風に声をかけてきた。
隠していた高揚が筒抜けだったのだろうか。蒼衣は無邪気に笑った。
「はい!」
入水を2週間前に解禁されてから、今日に照準を合わせ、今度はくれぐれも無理をしないようにと全員に繰り返し念を押されながら蒼衣はビビとショーの練習を再開していた。
これから蒼衣がビビとショーに出られるのは、1週間に1日、その中の1度のショーだけ。館長は、蒼衣がそう公約することで初めて2人の今後のショー出演を許可してくれた。
回数は減ってしまったけど、そのぶん毎週日曜日が楽しみで仕方ない。次の日は休みだから凪と一緒に過ごせるし、そういう意味でも。
ザボン、と蒼衣は辛抱たまらずプールに飛び込んだ。フィンは気合い入れて随分前から装着してるし、左手にダイビングブザーも持った。
「まあたぶんこれがなくても、お前は俺のこと見つけてくれるんだろーけど」
嘯いた蒼衣のそばに、案の定ビビがすり寄ってくる。ブザーは鳴らしていない。こんなのなくたって、俺たちは見えない青い糸で結ばれてるんだから。
10時半からの開演に向けて、海原たち3人は普通に歩いてショーステージに向かう。去り際、凪がぎこちなく蒼衣に手を振った。
可愛い。
「……なんだよ」
ごつん、とビビが小突いてきたので蒼衣は唇を尖らせた。ヒューヒュー、と冷やかしてでもきたのだろうかと思ったが、目を合わせると逆である。自然と口角が緩む。
妬いてんのかよ。可愛いやつだな。
顎をパクパクさせるビビに、蒼衣は眉根を寄せた。そう言えばさっきも同じことをしていたな。ねだっていたのは餌じゃなかったのか。
「お前ほんと好きだな……凪ともお前とぐらいしたいもんだよ」
まんざらでもない気持ちで蒼衣はビビに向き合った。きゅうと鳴いてビビが飛び上がってくる。蒼衣は目を閉じて、ビビとキスをした。
「まったく……行くぞ、相棒」
照れ隠しに背中を向けると、蒼衣は大きく息を吸って、ビビと同時に、輝く水面の向こう側へ飛び込んだ。
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