第8話-3

「あれ? 2人一緒?」


 プールに到着するなり、今日朝から出勤してくれていた海原が目を丸くして迎えてくれた。咄嗟に顔に出た蒼衣の表情を目ざとく見つけて、にんまりと愉快げな笑みを浮かべる。


「仲良くなったみたいだね。よかったよかった」


「はい、食事を一緒にして来たんです」


 凪ちゃんなんで言っちゃうの!?


 ギョッと真横を振り向く蒼衣。嬉しげに海原に報告する汐屋の顔は、学校であったことを母親に話す無邪気な娘のそれだ。同僚の男女がオフィス外で密会デートというニュアンスは彼女の中にカケラも存在しないらしい。


「早く自主トレ始めましょうよ……」


「蒼衣君元気出しな。物事の捉え方は人によって違うものだよ」


 海原のフォローが追撃でしかない。


「まあ、時間になったし始めようか。今日からのトレーニング内容だけど、実はイルカたちにいくつか新しい芸を仕込もうと思って。特に、ビビと凪ちゃんにはコンビでの大技を習得してもらいたいんだ」


 かくして。


 蒼衣はイルカが芸を習得するまでの一部始終を、初めて目の当たりにすることとなったのだった。


「今回凪ちゃんに挑戦してもらうのは、"ドルフィンライド"。知ってるよね?」


 当然知らない蒼衣とは裏腹に、汐屋はその名を聞くや否や表情を綻ばせた。


「ドルフィンライド! いいんですか!? 黒瀬さんもまだやってない技ですよ!」


「あの筋肉ダルマに乗られたらイルカがかわいそうだよ。その点凪ちゃんは細いから問題なし」


 言ってやろ。海原が陰で筋肉ダルマって呼んでること黒瀬に言ってやろ。


「……イルカの上に、人が乗る芸なんですか?」


 蒼衣の問いに海原が頷く。


「でもただ乗るだけじゃない。イルカの体にトレーナーが乗って、波乗りする。イルカロケットに匹敵する最高難度の技だ」


 イルカに乗って波乗り!? なにそれ超楽しそう!


 全身がそわそわと疼くのを、蒼衣は必死で抑えつけた。今回指名されたのは汐屋で、蒼衣ではない。汐屋の相手がビビというのがまた歯痒かった。


 やってみたい。ビビと、それに挑戦してみたい。いくら新参者の自覚があってもどうしようもない欲求だった。汐屋もそれを感じ取ってか、気遣わしげに蒼衣を見た。


「蒼衣君、ビビが取られちゃって寂しいのは分かるけど、この忙しいシーズンに芸を仕込む一番の目的はビビのリハビリなんだよ。最近のビビは蒼衣君が気になってショーに集中できていない。この間はいい方向に転んだけど、お互い依存してしまうのはよくないだろ? 蒼衣君にも、別のイルカとコンビを組んで基本的な芸の施行練習をしてもらうから」


 ふて腐れた顔でもしていたのだろうか。海原が苦笑気味に意図を説明してくれた。確かに、蒼衣もドルフィントレーナーである以上ビビ1人に傾倒するのはよろしくないだろう。ショーはビビのいないローテーションだって回ってくるのだし、色んなイルカと関わっておかなければとは思っていたところだ。


「……って、芸の練習をしてもいいんですか?」


 ビビ以外のイルカとは、これまで健康管理に際してしか関わることが許されなかった。これはどちらかと言えば、蒼衣をイルカという動物に慣れさせるための配慮である。


 1頭1頭まったく性格の違うイルカを、一度に何頭もいきなり相手にできない。最悪お互いに怪我をしたり、トラウマを植え付けられてしまう可能性さえある。


 それらを予防するために、新人はまず1番相性のいいイルカとコンビを組んで、そのイルカの世話を通して色々学んで行く形をとるのだ。


「来週以降を目標に、蒼衣君にも本格的にショーに出てもらいたいと思ってる。とは言えしばらくは水入り禁止だけどね。そろそろ他のイルカたちとも、関わっていってもいい頃合だろう」


「ほんとですか!?」


 とうとうこの日が来た。ショーに出られる。今度はMCではなく、イルカとともに演技をするパフォーマーとして。ようやく一人前だと認められた気がして蒼衣は口角を緩ませた。


「良かったですね、蒼衣君!」


「あれ。呼び方変わってるね」


 労ってくれた汐屋のこれまでとは違う蒼衣の呼び方に、目ざとく反応した海原。即刻話題を変えるべく蒼衣はわざとらしく首を左右に動かした。


「あっれー、今日黒瀬さんは!?」


「今日は休みだよ。彼にもたまにはお休みをあげなきゃね。というわけで、凪ちゃんも大技の調教は初めてだし、僕1人で君たち2人を見ることはできないから、今日はまず凪ちゃんとビビのトレーニングから始めよう。蒼衣君も後学のためによく見ておくといい」


 人不足の現場は大変である。早く海原たちの手を煩わせないレベルになって、彼らの力にならなければと蒼衣は息巻いた。


 着替えと準備体操を済ませた蒼衣と汐屋は、素早く海原の元へ戻った。プールでは5頭のイルカが悠々と泳いでいたが、その中の1頭が呼ばれるまでもなくこちらに近づいて来た。


 ビビである。蒼衣がウェットスーツに着替えて来たのを見て、一緒に泳げると勘違いしたらしい。可愛い奴め。


「ごめんねビビ、今日の相手は蒼衣君じゃなくて私だよ」


「おいビビ、汐屋さんの足引っ張んなよ」


 プールの淵ギリギリににじり寄って来たビビの頭を、汐屋と2人して撫でる。笑って様子を見ていた海原が、ポケットから笛を取り出して首にかけた。そう言えば蒼衣は、あの笛が何の役割を持つのか知らない。


 イルカへの号令に使うのかと思いきや、その役割を担っているのはハンドサイン等で、セレクションの最終試験でイルカの注意を向けるために戸部たちが用いていた気がする。蒼衣はいきなり飛び込んだので使っていない。


「始めようか。凪ちゃん、他のイルカたちに休憩の指示を出して隅に固めたら、ビビと並走して水面を泳いでくれる?」


「分かりました」


 ざぶーんと飛び込んだ汐屋が指示通りに動いている間、海原が蒼衣に解説してくれる。


「これは犬笛ドッグホイッスルと言って、その名の通り犬なんかの調教に使うんだけど、イルカにも有効なんだ。彼女たちにとって聞き取りやすく聞き分けやすい高音が鋭く鳴るからね。オペラント条件付けについては前教えたよね?」


 蒼衣は頷く。アメとムチによってある行動を自発的にとることを覚えさせる、行動形成法の一つだ。


「この笛は、簡単に言えば"褒める"役割を担っている。正確には笛を鳴らし、その直後に餌を与えることで『笛がなったら餌がもらえる』と覚えさせているんだ。健康チェックのための各姿勢やジャンプなどの芸は、その姿勢やジャンプを行なったタイミングで笛を吹くことを繰り返していくことで、徐々に『これをすると褒められる』と覚えこませていってる」


「なるほど……ん? 姿勢はまだ分かるんですけど、ジャンプってイルカたち勝手にやるものなんですか?」


 ジャンプの瞬間に笛を吹こうにも、イルカにジャンプをさせなければ笛は吹けないわけで、でもジャンプの指示を聞いてくれるようになるには笛を吹き続けてジャンプをすると褒められると覚えさせなきゃならないわけで……うむむ、ひよこが先か卵が先か。


 思えば、イルカが元々トレーナーの指示なしに実行できる行動でないとオペラント条件付けは成立しないことになる。


「意外かもしれないけど、バンバンするよ。イルカはジャンプ大好きだからね。僕らで言う、歌を歌うとかスポーツをするとか、そういうのに近いのかも。むしろこの狭いプールじゃ危ないから、指示なしにジャンプするなって教えてる」


「へえー」


 それでか、と納得したのは、ビビを含めイルカたちが、お腹いっぱい餌を食べた後でも「指示くれ、号令くれ」とせがむように寄ってくることがよくあるのを思い出したからだ。


 オペラント条件付けによって確かにイルカたちは、餌欲しさにトレーナーの言うことを聞いてくれるが。イルカの芸は本来、彼女たちが暇つぶしやストレス解消のために行ってきたものが元になっていたようだ。


 餌のために仕方なくやっているわけではなく、イルカは芸が好きなのである。不思議な生物だ。


「これから、凪ちゃんにビビと泳いでもらって、ビビがイルカサーフィンに必要な姿勢をとった瞬間にのみ笛を吹くという作業を続けていく。他のイルカに休憩の指示を出したのは、関係ないイルカがこの笛に反応するのを防ぐためだ。蒼衣君は、僕が笛を鳴らすたびにビビに魚をやってくれ」


 調餌された魚が大量に入ったバケツを手渡される。この青臭さももう慣れたものだ。


「なるべく笑顔で、ついでに撫でたりしてやってくれ。褒められてる、喜んでくれてるとビビが感じれば犬笛の効果が高まるから」


「分かりました」


 イルカはトレーナーの顔色や内心を常に伺っている、繊細で感情に敏感な生き物だ。「これをしたら喜んでくれる」とイルカが感じることで、芸の習得が早くなるというのは頷ける気がする。


 餌を与える際に笑顔と褒めることを徹底していけば、海原の言う通り、犬笛の音そのものに「褒められた」とイルカが感じられる効果が付いてくるということだろう。


 上手くできているが、根気のいる作業だ。ジャンプなんかは、いつ来るかわからないその瞬間をじっとひたすら待ち構えていなければならないのだから。


「準備できました」


 汐屋が戻ってきた。海原が頷く。


「ビビに覚えさせるのは、片方の横腹を水面から出した姿勢だ。凪ちゃんはその横腹を足場にしてビビの上に立つことになる。ビビがその姿勢を取りやすいように、凪ちゃんも同じ体勢で並んで泳いであげて」


「はい。ビビ、行くよ」


 優雅に壁を蹴って泳ぎだした汐屋にビビがしっかりついていく。円を描くように泳ぎながら、汐屋はビビの姿勢を傾けようと実演を交えて奮闘していた。


 最初は困惑気味にまっすぐついていくだけだったビビだが、すぐに汐屋の意図を読み取り始めた。改めて賢い動物である。


 イルカの脳みそは人間よりも大きく、全身と脳の比率も人間に次いで大きい。人間よりもイルカの方が知力が高いと熱弁する研究家もいるほどだ。


 とは言えイルカには人で言う指のような、極めて精密で器用に動かせる部位が存在しないため、脳の大きさでは優っていても人間ほど発達はしていないだろうというのが今の所の一般的な見解だ。


 だが、イルカに関しては分かっていないことの方が圧倒的に多いのも事実。実際彼女たちと触れ合っていると、その能力には驚かされてばかりである。例えばイルカは、お互いを名前で呼び合うという非常に希少な習性を持つ種であるらしい。興味の尽きない存在だ。


 ドリルのようにゆっくり螺旋回転しながら泳ぐ汐屋に合わせてビビが同じ動きをし、海原が、ビビの横腹が真上に来たタイミングに合わせて正確に犬笛を吹く。


 意図がだいたい伝わったところで、汐屋が今度は完成形の姿勢をとって泳ぐ。真横を向いてまっすぐ泳ぐのは見ているだけでも難しそうだが、汐屋は苦にもしない。ビビはすぐに、その姿勢を真似て泳ぐことができるようになった。


「やるじゃんビビ。その調子でやれよ」


 ご褒美のエサを食べさせながら蒼衣はビビを労ってやった。汐屋も束の間の休憩。あと数回繰り返して完璧に覚えこませたら、次はいよいよ汐屋がビビの上に乗る練習に移るらしい。


「俺もすぐ追いつくからな。俺は汐屋さんより重いぞ」


 若干のジェラシーを噛み殺してビビの背中を叩くと、ビビは不思議そうに蒼衣を見つめた。

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