第6話-1

 蒼衣は自分でも驚いたのだが、いざ仕事に就いたとなると自動的に早起きができるようになった。


 無意識に気が張っているものなのだろうか。出勤初日なんかは、普段から無意味に早起きする大吉より30分も早く目が覚めてしまい、白みかけた空の光と静寂にぼんやり包まれた我が家が、なんだか全く知らない場所に思えたものだ。


 アラームの設定は6時半。間も無く母の夏子が起きてきて、朝食を作ってくれる。その日のメニューは、だいたいが昼の弁当の中身に持ち越される。


 大吉は毎日6時には起きて、日課のラジオ体操をしている。オフの期間ぐらい、ゆっくり昼まで寝てればいいのにと思う。


 7時15分に家を出れば、出勤時間の8時にゆとりを持って職場に向かえる。蒼衣は決して朝が強い方ではないので、これが毎日続くとなると正直かなりきつい。


 大吉と夏子に見送られて今日も普段通り家を出る。スーツに身を固める必要がないのが嬉しいところだった。家族兼用の自家用車で出勤。仮に道が混雑していても5分前には到着できる。


「おはようございまーす」


「あぁ、おはよう蒼衣君」


「おう」


 採用試験の会場にもなっていた練習用イルカプールが蒼衣の朝の職場だ。更衣室に入ると海原と黒瀬が既に来ていた。蒼衣も干していたウェットスーツを着た上から作業着を着込んで、海原たちに続いて更衣室を出る。


 そうか、今日は汐屋は非番か、と少し残念に思った。定休日の月曜日を除いて基本は全て出勤のイルカチームだが、土、日、祝日や夏休みなどの連休シーズン以外は、ローテーションで非番をもらえることがある。


 特に平日は客入りとの兼ね合いでショーの数を減らしているので、1人非番の確率が高い。臨時採用の蒼衣と、やはり女性ということで汐屋には海原たちが優先的に非番を回してくれていた。


 7月に入ってもう3周目の水曜日。蒼衣が海鳴水族館に雇用されてから、1ヶ月近くが経過していた。少しずつ仕事には慣れてきたものの、毎日ヘトヘトになって帰るのは相変わらずだった。


「嵐君と蒼衣君、今日の調餌ちょうじよろしくね」


「はい」


「うーす」


 海原の指示で蒼衣達は調餌場に。その間海原はチームリーダーとして朝の集会に向かう。


 更衣室と同じくプールに隣接された場所に、調餌場というのがある。20畳ほどの空間に、大きな冷凍庫、横に長いシンク、それから向かい合わせにまな板が2枚置かれた広いテーブル。


 ここは、イルカ達の餌を用意する場所だ。


 昨日の閉館前に冷凍庫から出しておいた、今日1日分の餌--50kg以上もあるサバ、サンマ、シシャモ--自然解凍の進んだこれらの内、午前中分を流水で完全に解凍してから、大きな魚は食べやすいように包丁で切り身にしていく。この作業が調餌である。


 9時半の開館、そして10時のショーに間に合わせるために、とにかく調餌はスピード勝負。雑菌などを殺すため一度急速冷凍させたこれらの魚は、鮮度も維持されており青臭さがそこまでない。


 だが、大吉がカツオなんかを丸々1本持って帰ってくることもザラだった蒼衣でも、既に事切れた大量の生魚たちの空ろな眼差しに見つめられる感覚はなかなか堪える。


 解凍が終わった魚のトレーを真ん中に置き、黒瀬と向かい合って調餌スタート。小さな魚はそのままバケツへ、大きなものはまな板に乗せてカットしてからバケツへ。


 蒼衣も初日に比べれば随分慣れた方だが、魚を真っ二つに斬る感覚は決して好ましいものじゃないし、これだけの数となると重労働だ。


 向かい側からズパーンズパーンズパーンズパーン! と景気の良い快音がマシンガンのように響いてくる。黒瀬の手際は本当に凄まじい。関係ないが、この男ほど刃物が似合う男もそうはいないだろう。彼の調餌はまるで薪割りだ。


「気になってたんですけど、イルカの食費ってどんぐらいなんですか?」


「まあ、ウチは1頭あたり年間80〜90万ってところだな」


「うわぁ、そんなに」


「バンドウイルカは1日10kg食うからな」


 海鳴水族館には、5頭のイルカがいる。あの時蒼衣達の試験を手伝ってくれたのは4頭だったが、受験者が全員残っていればもう1頭も出てくる予定だったそうだ。基本的にショーは3〜4頭のイルカでローテーションしている。


「食費なんざ大したことねえ。水道代の方が何百倍もやばいぞ。ウチは海水をすぐそこから汲んでこれるからいいが、淡水魚も扱ってるだろ? 淡水の場合は掃除用の水もいる。月で900万近くはかかってるな」


「月!? 年間じゃなくて!?」


 水道代だけでなく、水温調節の光熱費もバカにならない。これまでの話を結びつければ、水族館をたった1ヶ月維持するのに1000万はくだらない額が必要ということになる。


 それはあまりに規格外の数字だった。蒼衣の給料が低いのも(納得したくないが)納得である。人が海の生物を観察できる最も身近な場所、水族館。その維持はこんなにも莫大な費用と、スタッフの献身的な勤労が支えている。


 今や自分がその一員であるというのは、不思議と悪い気分ではないのだった。


 調餌を終えた黒瀬と蒼衣が、仕上がった餌を持ってプールに戻ると、帰ってきていた海原がイルカ達の健康チェックを始めるところだった。


 基本、毎日行うのは体温計測。電子体温計を用い、イルカの肛門から、直腸にコード状の感温部を挿入して測る。


 イルカの平熱は36〜37度。人より僅かに高いぐらいだ。平熱より高い場合は体調不良や病気の可能性を疑うことができる。


「オペラント条件付け」という名前を蒼衣はこの世界に入って初めて聞いた。行動形成法の1つで、簡単に言えば、報酬と懲罰、いわゆるアメとムチによって、自発的にある行動を行うよう学習させることだ。


 イルカの訓練には、1つはこのオペラント条件付けを用いる。芸を仕込むためだけでなく、トレーナーとイルカ双方が安全に毎朝の健康チェックを行うために必要なことだ。


 泳いでいるイルカを相手に肛門に体温計をぶっ刺すなど不可能だし、網で乱暴に捕らえようものならイルカもトレーナーも溺れてしまう危険がある。


 プールの水を抜くという手もなくはないが、イルカが混乱してトレーナーや自らの体を傷つける可能性もあるし、さっきの水道代の話もある。


 そこで、水族館のイルカはオペラント条件付けによって、体温計測の際、プールサイドに沿って仰向けに浮くという姿勢を自発的にとるよう訓練されている。


 計測が終わるまでの数分間、実にいい子にしてその姿勢を維持するのだ。


 週1回の体重測定では自らプールサイドに上がって体重計に上るし、そのほか定期的に行われる呼気、胃液、血液、便、尿の検査や心電センサーの装着に際しても、イルカ達はそれぞれ適切な姿勢を取る。


「36.6度。うん、トトちゃん今日も元気ですねー」


 優しい笑顔で体温計を引き抜き、トトの腹を撫でる海原。蒼衣もぼんやりと、イルカ達5頭の違いがわかるようになってきていた。未だにパッと見分けがつくのは、ビビだけだが。


 体温計測を終えた順に餌を与えていく。この後は簡単な掃除。プールの清掃は年に数回、シーズン前に行うようで、蒼衣が受験する直前にイルカプール清掃大会が行われたらしい。どうりでプールも水も綺麗だと思ったのだ。


 スタッフ限定のイルカプール清掃大会は、何やら盛り上がるイベントのようだ。その日はショーも休みになるので、確かに気分転換にはいいのかもしれない。


 プールサイドや調餌場の簡単な掃除を終えたところで、時刻は9時半の開館時間に迫った。ここまでが朝の仕事。慣れるまではこの段階でもうかなり疲れたものだった。


「さあ、今日も1日頑張っていきましょう!」


 開館直前に、海原から恒例の挨拶がある。基本毎日このセリフだ。今日も相変わらず馬鹿でかい声である。


 海鳴水族館、本日も開館の時間を迎える。平日ということもありすぐさま駆け込んでくるような客は珍しいが、それでも10時からの最初のショーにはぼちぼちの人数が集まる。


 例えたったの1人でもお客さんがいれば、イルカチームは全力でショーをする。それがイルカとトレーナーの、エンターテイナーとしての矜持である--



「……はーい、イルカさん達がジャンプしたらすごい水しぶきが上がりますからねー、お召し物濡れないようによろしかったらこちらのご利用いかかですかー……」


 本日最初のショーの、10分前。まばらに入り始めた客は当然最前列の席から埋めていく。最も水跳ねの激しいロケーションだ。蒼衣はそんな人々に、死んだ声と淀んだ営業スマイルで透明な防水シートを配る。


 ドルフィントレーナーになって間も無く1ヶ月。今日までのイルカショーにおいて、これが蒼衣の唯一の仕事だった。


 いつになったら、ショーやらせてくれんだよ……。


 猛暑日の炎天下、観客に聞こえないように蒼衣は盛大なため息をついた。

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