第5話-3

 その言葉は、2人とも予想していなかったようだった。唇を噛んでずっと頭を下げ続ける蒼衣に、やがて海原が一言だけ返した。


「いいよ」


「え?」


 思わず頭を上げる。完全にダメ元だった。海原はこちらに歩み寄ってくると蒼衣を追い越し、ポケットから取り出した鍵束で扉を解錠した。どうぞ、と促されるまま蒼衣は中に入る。


 斜めに差し込む夕陽を受けて、プールの水面はオレンジ色に輝いていた。


「普通はお引き取り願うところだけど。ビビの方も、あれからずっと寂しそうにしてたもんでね。ショーにも身が入らなくてどうしようかと思ってたところだったんだ」


「……そう、ですか」


 言葉を失いかける。海原が壁際の何かを操作すると、今朝のようにプールの壁面の一部が開き、やがて向こう側から彼女たちが泳いできた。同じように汐屋に先導されて、イルカたちがこのプールにやってくる。


 ビビはすぐに見つけることができた。


「ビビ……」


 なぜ今まで忘れていたのだろう。なぜあの時思い至らなかったのだろう。自分の愚かしさに反吐が出そうだった。蒼衣がプールの淵ぎりぎりにしゃがみ込むと、ビビは蒼衣を見つけて、静かにこちらに向かって泳いできた。ビビと目が合う。途端にたまらなくなって涙が滲んだ。


「……今朝ぶりだな。俺、お前に2つ、言いたいことがあってきたんだ」


 今日の最終試験。完璧の出来だと思った。実際それは、ほとんど完璧だったのだろう。戸部たちの反応を思い出せば、見る者を感動させるほどのショーを行えたことは揺るがない事実なのだから。


 だが、あの時蒼衣は。全てが完璧に決まった瞬間、津波のように押し寄せた快感に流されるままに、たちまち陸に上がり、拳を突き上げ、ひたすら余韻に酔いしれた。


 たった1人で。


 その瞬間は、何よりも爽快感と快感が全身を支配して、気にも留めなかった。ただ完璧に理想をなぞった己の能力を賞賛していた。


 その時、ビビは。一緒に水中を競争して、最後に蒼衣を、煌めく蒼い膜の向こう側へ押し上げてくれたビビは、蒼衣がさっさと陸に上がってしまった後。1人ぼっちのプールの中で、何を感じていたのだろう。どんな顔を、していたのだろう。


「情けないよ。お前の顔をもう一度見るまで、まったく思い至らなかった」


 堪え切れなくなった分の涙が頬を伝ってプールに落ちた。最低なことをした。いざ思い出したら、もう会って謝らずにはいられなかった。寂しかっただろう。不愉快だっただろう。せっかく--


 あぁ、と蒼衣は改めて納得する。今こそ全てが分かった。蒼衣がこの仕事に感じていた抗いがたい引力は、能力を見せつける快感でも汐屋たち上司でもない。


 イルカという、ビビという存在だ。


 築きたかったのは主従関係のつもりだった。このプールの中で、蒼衣はビビと遊んでやっているつもりだった。けれどどうだ。全速力で泳いでも軽々追尾してくるビビの能力に高揚し、興奮し、無邪気な子どもに帰ったように遊んでいたのは蒼衣も同じではなかったか。


 蒼衣はイルカの能力に魅せられ、彼女たちと心を通わせた瞬間の快感に、骨の髄まで取り憑かれていた。気づいていなかっただけで。覚えたことのないその感情に、名前をつけられないでいただけで。


 本当に忘れられなかったのはロケットジャンプが決まった瞬間ではなく、その少し前、ビビとこのプールの中で一緒に泳いだ時間だ。水に溶けてお互いにだけ伝わるような、見えない青色の言葉を交わして通じ合えた気がしていたあの瞬間だ。


 あのジャンプは、蒼衣とビビのそんな境地が生み出した副産物に過ぎない。寸分狂わず蒼衣の足裏を貫いたあの衝撃。ぶっつけ本番だったのはビビも同じだ。あのジャンプは、蒼衣とビビ、2人が完璧だったから完璧だったのに。


 こういう関係を、なんて言ったかな。


 遊ばれるのでも、遊んでやるのでもない。お互いを認め合って、競うと気分は高揚して、力を合わせれば1人じゃ起こせない奇跡を起こせる。


 こういう関係を--真っ先に浮かんだのは涼太の顔だった。


「せっかく、友達になれたのにな……今更だけど、今日はごめんな。それから、最高だったよ、今日のお前」


 言い終わるかどうかというところで臨界に達した。堰が切れたように次から次へと涙が溢れる。悔しさの理由が分かった。やり切れない気持ちで立ち上がる。


「俺は……もうお前と二度と泳げないって、決まっちゃったから……悔しかったんだな」


 頬を潮の香りが伝った。涙で声は震えて、言葉尻がしゃくりあがる。こんな柄にもないこと、確かにすぐ自覚しろという方が無理だった。うつむき、ほぞを噛み、ぐっと苦労して唾を飲み込む。


 その瞬間、水面が激しい音を立てた。


 ビビが怒ったのかと思った。涙を拭いかけた腕をおろしてビビの様子を見ようとしたとき、彼女の気配は目と鼻の先に接近していた。ワケも分からぬ間に、上唇の少し上を、柔らかく跳躍したビビの吻がちょいと突っついた。


 時が止まる。胸の底から温水プールのような柔らかい液体がゆっくり湧き出て満たされていくような、不思議な気分だった。


 すぐにビビは水しぶきをあげてプールに体を沈ませてしまったが、また浮上して、蒼衣を見つめるときゅうと鳴いた。許してくれたのだと、エゴでなく信じられた気がして、蒼衣は言いようもないやるせなさに打ちひしがれた。


 --なんで、俺はお前のトレーナーじゃないんだ。


 毎日顔を合わせて、毎日一緒に泳いで、技を磨き合い、成長し合い、2人の力で観客を沸かす。これほどしっくりくる素晴らしさはなかった。


 もう何もかも遅い。分かっている。だから蒼衣は鼻水をすすり、涙を乱暴に拭うと踵を返し、じっと行方を見守ってくれていた海原と黒瀬に、赤く腫らした目を向けて。


「俺……ドルフィントレーナーを、目指します」


 睨むように宣言し、頭を下げた。


「次回以降の採用試験で、今度こそ合格してみせます。泳ぎも、もっともっと、練習します。だからその時は、また……ご指導、よろしくお願いします」


 顔を上げ、今度はプールから上がってきていた汐屋の方に向き直る。自分の落ち度をなぞっていくのは屈辱でも、どうしても全ての落とし前をつけてゼロからスタートしたかった。


「……ご期待に添えなくて、本当にすみません。今日、汐屋さんは俺に、伝えようとしてくれましたよね」


 何か、やり残したことはありませんか。


 汐屋は多分、演技を終えた蒼衣にそう言おうとしていた。彼女は蒼衣に期待してくれていた。このまま放っておけば不合格となりゆく運命だった蒼衣を、惜しいと思ってくれたからあの時、特別扱いを承知で教えてくれようとしていた。


 思えば今日の受験者に、演技の後イルカを労ってやった者が1人でもいたか。


 それこそが最終試験の、唯一の評価基準だったに違いない。演技の出来も、演技中のイルカとのやりとりもなに一つ重要ではない。全てが終わり、受験者の気が抜けたその時、初めて本当の両者の関係は明瞭になる。


 パートナーのイルカに対する賞賛と敬意と感謝、愛情が少しでもあれば、どんなに上手くいかなくたって終わった後にイルカを労ってやれただろう。落ち度があれば謝って、こうすればよかったと、反省を共有できたかもしれない。


 エキシビションが終わった後、汐屋はきちんとそれを行なっていた。蒼衣が見ていなかっただけで、黒瀬も、もしかしたら海原もイルカと対話していたはずだ。


 ドルフィントレーナーの精神的適正とは、きっとそれだ。イルカを愛する心。主でも従でもなく、対等に尊重する心だ。驚くべきことに、今の自分にはそれがあると思えた。


 だから、また必ずここに来る。


 やることを決めたら気持ちは前に、上に、引っ張り上げられた。ビビのトレーナーになる--それが今日から、蒼衣の夢になったのだった。


「うん」


 海原はなぜか楽しそうに笑って黒瀬と目配せした。黒瀬は苦笑気味に頷いた。汐屋は、蒼衣とビビを交互に一瞥して、それから嬉しげに破顔した。


「蒼衣君。君を海鳴水族館のドルフィントレーナーとして採用したいんだけど、どうだろう」


「……え」


 それは、蒼衣の人生が、音を立てて色づき始めた瞬間だった。

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