第6話-2
無事にショーが終わると、海原と黒瀬、イルカたちに盛大な拍手が送られる中、黙々と防水シートを回収していく。
蒼衣のショーでの役目は、たったこれだけ。
代わりに課せられているのが「観察」することだった。猛暑日の屋外プールの外で、座ることもできずひたすら海原たちのショーを観察。
ただ見るだけでなく、時系列順にショーの展開を記録したり気になったところをまとめたものを、「観察日誌」と称して毎日海原に提出しなければならない。平日でもショーは1日4回もあるのに、それを全てだ。
最初の頃は甘んじて受け入れていた蒼衣だが、もともと息を止めること以外に関しては忍耐力の足りない男である。クソ暑い中、すぐそこに海水プールがあるのに入ることを許されない状況が1ヶ月も続いているとなると、いい加減フラストレーションがたまってきていた。
「……お前らはいいよなぁ。一日中泳げて。俺もイルカになりたいよ」
客がはけたところで蒼衣はプールに歩み寄り、中を悠々と泳ぎ回るイルカたちに愚痴を吐いた。開館中は、イルカはこのショー用の屋外プールで過ごす。蒼衣たちも僅かな休憩時間を譲り合って、彼女たちの世話をして次のショーまでの時間をこの外で過ごしていくことになる。
その日も当然のように、4度のショーに蒼衣が出演することはなかった。5時半からの最終ショーを終えると、プールの壁面を開き地下トンネルのような道を通って、例のトレーニング用プールにイルカと共に戻る。
ここでも蒼衣は1人だけ徒歩での帰還だ。防水シートを干したり、あれだけ言ったのになお少ないながら置き去りにされたゴミなどを片付けたり、ショー会場の掃除をこなしてから初めてプールに戻ることができる。その頃にはとっくに閉館時間の6時を過ぎて、空も徐々に茜色に染まろうかという時刻になる。
日焼けでヒリヒリ痛む首筋を濡らした手のひらで冷やしながら、蒼衣はトレーニング用プールに戻った。強烈な日射の下で長時間の勤務は、ただ立っているだけでも相当体力を奪われる。強靭な体が取り柄の蒼衣も、この時点で疲労困憊だ。
だが、閉館したからといってまだ帰れるわけではない。これからおよそ2時間近くは、イルカとのトレーニングの時間だ。蒼衣が水に入れるのは、ようやく今からである。
ストレッチももどかしく海水に身を躍らせた蒼衣は、待ち侘びたその冷たく柔らかい感触に歓喜した。水を得た魚とはこのことだ。激務で火照った体が冷やされていく。日焼けにしみるが、そんなの構っていられない。
お待たせ、ビビ。
蒼衣の入水に反応し、プールを優雅に泳いでいたビビが一目散に飛んできた。蒼衣の周りをぐるぐる泳いで、体当たりのような威力で体を擦り寄せてくる。
そのツルツルした頭を、なだめるようにぺちぺち叩く。イルカの肌はゴム質で弾力があって、水の抵抗をいかにも受けなさそうな触り心地がする。
焦らされているのはビビも同じだった。あの日以来、ビビは蒼衣を明らかにお客様ではない特別な人間として認識してくれるようになったが、一緒に泳げるのは夜だけで、ショーでは蒼衣の出番はない。
ショーになると決まってステージの外に出る蒼衣を見て、ビビが、「あいつはショーをやらないのか」とでも言いたげな目で海原たちを見ることもある。それが嬉しくて、それ故に悔しい。
夜トレーニングの内容は、今は蒼衣自身の育成が主になっている。毎晩、イルカへの各種号令、餌の正しい与え方、触れ合う上での禁止事項、芸の意義などなど、多岐にわたる知識や技能を、海原たちが小分けにして手ほどきしてくれる。
蒼衣は息巻いて、それらをすぐさま完璧に覚えた。早く身につければすればそのぶん早く、本番に出られる日が早まると確信したからだ。
記憶力と複写能力には自信があった。蒼衣は海原たちが感心するほどのスピードで、仕事内容も含め彼らから教わったことは全て数日のうちに吸収してみせた。
実際、蒼衣は今やショー以外の全ての職務を完璧にこなしている。ミスもほとんどしたことがない。相変わらず愛想のいい接客なんかは苦手なままだが、それでも給料分の働きは絶対にしている。
「それなのに、どうしてショーに出してくれないんですか?」
トレーニングを終え、明日のぶんの餌を冷凍庫から出しておいたりだとかイルカ日誌をまとめたりだとか、諸々の仕事も全て終わらせ、更衣室で帰り支度を始めた時、蒼衣は勇気を出して海原と黒瀬に聞いてみた。
「いや……そりゃあお前」
黒瀬が苦笑気味に言葉を探していたところを、海原が手で制してにこやかに笑った。
「蒼衣君、この仕事なめてる?」
ピシィッ、と全身が石化したかと思った。
「うん、確かに君はよく働いてくれてるよ。飲み込みも早いし文句ない。昇給も秒読みだろう。けどね、ショーに出るのだけは他の仕事と話が違う」
海原は蒼衣の提出した今日の観察日誌に目を通しながら続ける。
「そもそも、ドルフィントレーナー限定の求人って存在しないんだ。君の職種も書類上は、ドルフィントレーナーではなく水族館スタッフということになっているはず。本来、スタッフになっても配属先の希望が叶うことは稀だよ。僕もイルカ担当になれたのは4年目からだ」
「え……そうなんですか?」
寝耳に水だった。
「今回は、欠員が出たからピンポイントで臨時募集をした。だからある程度は即戦力になる人材が欲しかったのも正直なところ。あの時蒼衣君を落とすのは、こっちも惜しく思ったよ、本音はね。だからビビに謝りに来てくれて嬉しかった」
「……それなら。俺、この1ヶ月見てて思ったんですけど、今の海原さんたちってけっこうカツカツですよね? たった3人でショー回して俺のことも面倒見てくれて……臨時採用って助っ人みたいなはずなのに、俺は足引っ張ってるじゃないですか」
正直な気持ちだった。蒼衣の目にも、今の海原たちはギリギリで持たせているように見える。蒼衣は今は雑務でこそ力になれているが、最初仕事を教えてくれるときは全員30分も早く出勤してくれたし、閉館後のトレーニングも蒼衣のせいで大幅に時間が伸びている。
これならいない方がトータルで海原たちは楽なのではないか。怪我で療養中というもう1人のスタッフが戻るまで凌げばいい。ショーに出られないのなら、自分はなんのために雇われたのか。雑務係ならアルバイトでも雇えばいい。
望まれて雇われたからには、目に見える形で職場の戦力になりたい。それが蒼衣のプライドだった。いてもいなくてもいい歯車になるぐらいなら、また毎日海に出るだけの生活に戻った方が……
「困ったな。蒼衣君。少なくとも僕らは、君を一時的な仲間だとは思ってないんだけど」
「え?」
「臨時の募集だったけどさ。僕らは君の能力と、イルカを思う気持ち、それからその強い向上心を買ってるんだ。君さえ良ければだけど、蒼衣君には正規のスタッフになって欲しいと思ってる」
黒瀬が「言っちまうのかよ」と笑った。蒼衣は話についていけなかった。
「だから、ゆっくりやっていこうって、僕らで相談して決めたんだ。焦って君を壊したくはないからね。ビビたちもその方が嬉しいはずだ」
思えばこのとき、蒼衣は感動のあまり聞き流していた。壊す、という物騒なワードを。
「君はどうかな。入院中のスタッフが帰ってくれば辞めるつもりで働いてた? 一生懸命仕事を早く覚えようとしてる姿を見てると、そうじゃないと僕は思ってたんだけど。どうだろう、ウチの正スタッフになる気はあるかな」
低賃金、重労働、その上一度もショーに出してもらえない。この1ヶ月で蒼衣の貧相な忍耐力は限界に近づいていたところだった。いや、限界を超えてしまったからこそ今、海原に不躾なことを聞いてしまったのかもしれない。
だが、割れんばかりに膨れ上がっていた蒼衣の不満は、海原のたった一言で、巧みに秘孔を突かれたようにあっさり解消されてしまった。
認めてくれていた。長期的な視野で蒼衣を見てくれていたから、時間を惜しまず育成をゆっくり丁寧に進めてくれていた。その事実に感激したのだ。蒼衣は夢見心地で首を縦に振った。
「うん! どのみち蒼衣君が次の就職先を探し始めてしまう前には、この話を持ちかけようと思ってたからね! いやーよかったよかった!」
じーんと感動をかみしめていた蒼衣は、その後背を向けた2人の小さな声での会話を聞き逃していた。
「またそうやって上手いこと丸め込んで……えげつないっすねホント」
「はっはっは、蒼衣君ほどの人材を手放せるわけないだろ? 他の水族館に盗られたらどうする。よく働くし体力は無尽蔵だし、意外と馬鹿正直で熱い男だから扱いやすいことこの上ない。彼は僕の手で最高のトレーナーに育て上げるんだ!」
「……職務と関係ない日誌まで書かせて何企んでるかと思ったら。元教師の血ですか?」
「そんなところかな!」
2人でこそこそ、何を話しているのだろう。蒼衣は首をかしげる。
「ま、そういうわけで、本来イルカの担当になるまでに数年、なってからも4ヶ月ぐらいはショーに出れないのが普通なんだ。蒼衣君はこれでもかなり駆け足なんだよ。僕らに気を遣ってくれるのは嬉しいけど、気にせずゆっくりいこう」
「は、はい」
こちらを振り返った海原の笑顔が何やら胡散臭い。これは何かを企んでいる顔のような気がする。
「とは言え、気づいているかもしれないけどそろそろビビちゃんのストレスが見過ごせないレベルに来てる。君とショーに出たくて仕方ないんだろう。僕らとしては妬いちゃう気持ちもあるけど、どうだろう。夏休みシーズンど頭のショーで、一度デビューしてみるかい?」
苦節1ヶ月。とうとうこの時が来たと、蒼衣は心を躍らせたものだった。
そんな自分を、未来の蒼衣が見たらきっと張り手を食らわせて目を覚ませと叫んだことだろう。逃げろ、と遺言を残したかもしれない。
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