第7話-1

 寝過ごした!


 スマートフォンの時刻表示を見るなり、蒼衣は血相変えて飛び起きた。よりにもよって今日である。


「蒼衣ー、起きなくて大丈夫なの?」


「起きてる!」


 起こしに来たらしい夏子の声とかぶせ気味に叫ぶと、部屋を飛び出して浴室に直行した。寝癖を温水で無理矢理なおす。頭がさっぱりしてくるにつれ絶望的な気分になってきた。やはり仮病を使って休んでしまうか、と、今日まで何百回は頭をよぎった苦肉の策を、今一度本気で検証し直す。


「いよいよ今日ね蒼衣。お母さんたちちゃんと見に行くから!」


「だからいいよ来なくて! ホントにいい! マジで来ないで!」


 着替えを済ませ食卓につくなり夏子はこの調子だ。口を酸っぱくして来るなと釘を刺しているのに、見に来る気満々である。しかも朝食はカツカレーにカツ丼。試合前の高校球児か。


「固えこと言うなよ蒼衣ィ。一人息子の晴れ姿なんだぜ。特にお前は部活もやって来なかったから、俺たちこういうの見に行くの初めてなんだよ。行かせてくれや、な?」


 上座に座る大吉のセリフである。お前はさっさと漁に戻りやがれ、と蒼衣は心中で毒づいた。まさか今期に限って船団が縮小して、お偉いさんの大吉に珍しい長期休暇が与えられるなんて、神も仏もありはしない。


 ピロン、と机上のスマートフォンが音を立てた。ロック画面の下側に飛び出したメッセージアイコン。差出人は涼太だった。


『はよっす! いよいよデビュー戦だな! 気合い入れてけよ! 最前列で見ててやらぁ(爆笑)』


 どいつもこいつも勝手なことを。


「それにしても、ウチの蒼衣がまさかイルカショーに出るなんてねえ。ジャンプさせたりするんでしょ、かっこいいじゃなぁい」


「俺の息子だからな、当然だ」


「だーかーら!」


 物覚えの悪い両親に堪忍袋の尾が切れた蒼衣は、思い切り声を張り上げた。


「何度も言ってるじゃん! そういうジャンプさせたりとかはできないの! 俺は今日……MCなの!!!」


 本当に、こんな嫌がらせを思いついた海原は聖人の皮を被った悪魔だ。自分で口にしてますます鬱々とした気分が加速する。仕事行きたくない行きたくない行きたくないよぉ!


「ふむ。母さん、MCってなんだ」


「あらお父さん。音楽が聴けるやつじゃなかったかしら」


 バカ両親に突っ込む気力も失せて、蒼衣は2000キロカロリーはあろう朝食をかっ込むとヤケクソで家を飛び出したのだった。




「あ、おはよう蒼衣君。逃げずに来たようだね」


 職場到着。更衣室に入ると、裏にある黒さを隠そうともしない爽やかな笑顔で海原が蒼衣を迎えた。セリフがもう完全に極悪人のそれだ。


「同情するぜ。俺も入りたての頃最初にやらされたのはMCだったな。緊張するだろうが割り切ってやることだ」


「はい……」


 黒瀬の励ましに涙が出そうである。黒瀬もやらされたということは、MCは海原流の通過儀礼なのだろう。


「ショーぶち壊しになっても知りませんからね……」


「そんな無責任なこと言うなんて蒼衣君らしくない。君はアルバイトでもボランティアでもなくウチのスタッフだ。ショーの成功はウチの利益に直結しているんだよ。ショーを成功させ続けることは、我々イルカチームの義務と言える」


 正論はこんなにも人を傷つけるんだなぁと蒼衣は身を以て思い知った。


「プレッシャーをかけるようだけど、君はそれぐらいの方が吹っ切れるんじゃないかと思ってね。大丈夫。本当に無理だと思ったら任せないよ」


 3人で更衣室を出る。海原は蒼衣の肩を叩いて優しく言ってくれた。ほぼ同時に、隣の女子更衣室から出て来た汐屋が蒼衣の姿に気づいてぺこりと頭を下げた。


「おはようございます潮さん。今日、緊張すると思いますけど頑張ってくださいね。応援してます」


 今日という日は応援の言葉をかけてくる者全てが鬼か悪魔に見えたものだが、天使がここにいた。


「は、はい、頑張ります」


「大丈夫ですよ。あんなに練習したじゃないですか。私たちもフォローしますし、自分を信じてください」


 蒼衣の右手を両手で軽く包み込むように握り、笑顔でエールを送る汐屋、いや天使ナギエル。そうだ。あんなに練習したではないか。本番は持ち込めないが、何十回も書き直したおかげで台本は頭の中に入ってる。


 君には夏休みど頭のショーで、MCを担当してもらう--海原にその死刑宣告を受けた日のことを思い出した。


「なんで俺がMCなんですか!? ダントツで適性ないじゃないですか! 俺なんかが進行役しちゃったらショーはお通夜ですよ!」


 蒼衣は全力で食ってかかった。MCとは普段海原が担っている役である。ショーに出ているイルカ達を正確に見分け、それぞれをコミカルに紹介しながら、巧みな話術で滞りなくショーを進行していく。


 よく通る声と、明るく元気な笑顔は必須。加えて時には軽快なジョークを飛ばし、観客たちに話を振りその反応に合わせたユニークなリアクションをとったり、とにかく総合的なコミュニケーション能力と表現力が求められる。


 海原は元小学校教諭をしていたらしいが、どうりで、と納得した。


 蒼衣はまさしくその能力が欠如しているために、就活時代ひたすら面接で落とされ続けたのだ。てっきりMCは海原が担当と決まっているのかと思っていたし、まさかデビュー初回で蒼衣にそれを任せてくるなんて夢にも思っていなかった。


「だからこそだよ」


 海原は有無を言わさぬ笑顔でそう言った。


「蒼衣君は、ドルフィントレーナーに必須の潜水能力と、イルカと共鳴する能力を高い水準で持ち合わせている。だが君は自分で言ったように、ショーエンターテイナーとしての能力、つまり観客を楽しませる能力が全く足りてない。このままでは、ショーに出ても練習した技術を披露することに終始するだろう。それではもの足りないんだよ、イルカショーっていうのは」


 1ヶ月前の蒼衣なら、聞く耳も持たずにふて腐れ、こんな素晴らしい才能をMC役で潰すなんて海原はなんと上司の器がないことか、と憤ったに違いない。


 しかし蒼衣は、言われて咄嗟に、汐屋と黒瀬が見せてくれたエキシビジョン、それからこの1ヶ月ひたすら観察日誌を書かされた、日々のショーの内容を思い出した。


 それらには、ストーリーとでも形容できそうな筋道があった。ジャンプ、キャッチボール、フリスビー、イルカロケット。一見単発な芸と芸は違和感なく繋がっていた。


 それはMCの海原はもちろん、黒瀬や汐屋、それにイルカたちパフォーマーの手腕によるもの。


 芸と芸の間には、必ず観客の目を意識したイルカ対トレーナー、トレーナー対トレーナー、もしくはトレーナー対観客のやりとりがあった。それは必ずしも言葉とは限らない。


 例えばトレーナーの演技力によってイルカが何か喋っているような錯覚を観客が起こすこともあるし、この間のエキシビジョンでは、汐屋の入水までに一連の笑えるやりとりがあった。


 もし蒼衣が今の段階でショーに出たなら、習得した芸の1つ1つを「次、次、次」と披露する非常に淡白なショーが出来上がるだろう。これでは芸の質がどれだけ高くとも、それこそお通夜である。


「……演技力とか、エンターテイナーとしての能力って、MCだけじゃなくてドルフィントレーナーなら絶対必要ってことですか」


「うん、そういうこと。厳しい言い方になるけど、今の君にはまだパフォーマーは任せられないってことさ。MCを経験すればきっと殻が破れるよ。それに」


「……それに?」


「たまには僕も、喋ってばかりいないでイルカちゃんたちと泳ぎたいじゃない」


 それが一番の理由かよ、と蒼衣はうな垂れたのだった。上手くやったらやったで、「今日から君が海鳴イルカチームの正MCだ!」とか言って押し付けられるのでは、と悪い想像をしてしまう。


 海原の話を聞いて、蒼衣は奮い立つどころかこの仕事の適性に疑問を感じてしまうようになった。MC抜てきを告げられたあの日から、本番当日となった今日まで、蒼衣は悩み続けた。ずっと苦しみ続けた。


 もう、分からなくなっていた。


 ビビと力を合わせて、観客をあっと言わせる技術を披露し、拍手喝采と賞賛の眼差しをさらう。これが蒼衣の憧れた、ドルフィントレーナーの、全てだ。


 それでは足りないのだと、海原から知らされてしまった。気の利いたジョークを言ったり道化を演じたり、笑顔で観客に手を振ったり、そういうことを蒼衣は、仮に無事今日が終わっても、MC役ではなくなっても、これから一生強いられる。


 そんなの全く柄じゃないし似合わない、というか絶対、やりたくない。できない。スベりでもしたら一生立ち直れないし、もっともっと、他にやりたいことがあるのに。


 蒼衣の憧れた世界は、ドルフィントレーナーのほんのわずかな一部分でしかなかった。それを知らされてなお。


 今でも、この仕事が好きだと、胸を張って言えるのか。


 蒼衣にはそれが、もう分からなくなってしまっていた。

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