第7話-2

 天気は生憎の快晴だった。


 今日は7月の下旬に入って向かえる最初の土曜日。既に夏休みをスタートさせた子ども達と、親の休みがかぶればどこかへ出かけようかとなるのも自然の流れ。


 水族館が爆発的に忙しくなるのは、ちょうど今日からだそうだ。ピークは旅行客がぐんと増えるお盆休みだそうだが、この天候も助けて、本日の海鳴水族館は蒼衣が目を疑うほどの来客数だった。体感では普段の休日の2倍近い。


 今日から休日は閉館時間が8時に伸び、ショーの数も7回に増える。当然、非番のペースも減っていくだろう。夏は地獄と海原達に散々脅されたものだが、始まった初日から胃が痛い。


 これはたぶん朝食べたカロリーの暴力が効いているのだろう。そうに違いない。蒼衣は断じて緊張などしていないのだから。


 蒼衣が今日MCを担当する12時半スタートのショーが、あと5分に迫っていた。


「すいません、帰ります」


「潮さん!?」


 舞台裏。巨大なイルカプールを中央に据えたショーステージの裏側には、トレーナーの待機する小屋が建てつけられてる。ショーの合間の休憩時間を過ごす場所でもあるが、蒼衣はまさに逃げ出そうと椅子から立ち上がったところを汐屋に見つかった。


「大丈夫ですよ、今朝のリハーサルは上手でしたよ! 練習通りやれば、何も怖くありませんから。終われば、やってよかったぁって、思えますよ」


 汐屋の言葉さえ、今の蒼衣の耳にはうまく入ってこなかった。蒼衣に聞こえるのはただ、ひたすら外の喧騒だけ。ステージへと伸びる階段の向こう側から、300の客席を埋め尽くしてなお余った大観衆の、あと数分後の開始を待つざわめきばかりが蒼衣に届いて胃を刺激する。


 彼らは楽しみにしている。心待ちにしている。練習し尽くされ、反省と研究が繰り返され、入場料に見合った感動と興奮の提供が約束された、素晴らしいイルカショーの開始を、今か今かと待ちわびている。


 その募りに募らせた期待に応え、真っ先にステージに登場し、ショーを始めるのは、蒼衣の役目なのだ。海原も黒瀬もやってくれない。どれだけ待っても、うじうじとここで手をこまねいていても、ショーが勝手に始まってくれることはない。


 こうして励ましの言葉をかけてくれる汐屋でさえ、この役を代わってくれることだけは有り得ないのだ。


 陸にいるのに息苦しい。もう、蒼衣は出て行かなくてはならない。ショーを始めなければならない。嫌だ。蒼衣は一人きりで、暗い海の底に潜り続けていさえすれば、それで満足だった。ずっとそうだったはずだ。


 どうして今、俺は、ここにいる。


「潮さん。緊張するときはあくびをするといいですよ」


「……え?」


 その言葉はあまりに予想外で、蒼衣は思わず汐屋の顔をまじまじと見つめた。日に焼けた夏の妖精のような可憐な表情は、にこやかで、冗談を言っているようでもなかった。


「深呼吸とかじゃなくて……?」


「はい。大一番に挑む時ほどあくびをしましょう。そうすれば、ほら……不思議でしょ? なんだが自分がものすごく、肝の座った大物になったみたい。なんでも楽勝にやれちゃいそうじゃないですか?」


 目の前に汐屋がいる手前気が引けたが、手で口を隠しつつ大きなあくびをしてみた。


 瞬間、うわ、と蒼衣は目を見開いた。


 脳にゆっくり酸素が入ってきて、視界がゆるやかに鮮明になっていく。誘発された僅かな眠気が、石のように凝り固まっていた全真の力を抜いていく。


 さっきまでど緊張していた自分が、馬鹿のように思われた。自分は今、こんな大事な舞台の前に大あくびをするほど余裕をかましている。


「……はは、ホントだ。楽勝かも」


 化かされたような気分だった。汐屋が得意げに笑う。


「緊張しすぎるぐらいなら、いっそナメてかかる方が潮さんらしいですよ」


「え、どういう意味ですか」


「まあまあ。採用試験の最終演技のとき、すごく堂々としてたから。あの時の『どんなもんだ、俺を見ろ!』って感じの潮さんになってもらいたくて」


 たまらず羞恥心で、火が出たかと思うほど顔が火照った。


「う……あの時の俺に、戻っていいんですか? だって結果は不合格だったわけだし」


「大丈夫ですよ。今なら、あの舞台の中に脇役はいないって分かってるでしょう。むしろ忘れないでくださいよ。潮さんも主役なんですからね」


 汐屋凪は同い年の先輩。彼女はいつだって蒼衣の力になる言葉をくれる。蒼衣の見えていない景色を示してくれる。その包容力は、まるで海のようだ。


「……イルカに好かれるわけだ」


「え?」


 なんでもないですよ、と笑って、蒼衣は汐屋に背を向けた。時間だ。外の喧騒が高まる。緊張は、当然している。


 汐屋に追いつきたい。彼女と同じ景色を見てみたい。新たに芽生えた目標が、一歩目を踏み出す力に変わった。


 待機部屋とステージをつなぐ階段。屋外の陽光が充満する出口の向こう側から、熱狂的な喧騒が降り注いでくる。その脇にスタンバイしている音響係に片手で合図した。


 行きます、のサイン。


 数度のリハーサルを経た仲だ。頷いてBGM発動のスタンバイをしてくれる。背後を振り返ると、お揃いのウェットスーツ姿の汐屋、海原、黒瀬が手を振ってくれた。


 蒼衣も今、彼らと同じウェットスーツを身にまとっている。いつも下に着込んでいるが、思えば開館中にこの姿になるのは今日が初めてだ。


 全員が主役、か。


 不思議な気分になった。なんと言えばいいのだろう。給料をもらって、海鳴水族館のスタッフとして、イルカチームの仲間として、これから蒼衣は、"仕事"として舞台に立つ。


 その実感が、ようやく湧いたと言えばいいのだろうか。この1ヶ月間、慣れないこと、覚えることばかりで、定職についたという実感がまるでなかった。


 階段を上っていく。一段ごとに心臓の鼓動が強く、早くなっていく。それでももう、後ろ向きな気持ちは全ていったん置いてきたから。


 階段の終わりを目線の高さが追い抜いた。目が眩むほどの陽の光をプールサイドが反射して、その場所は蒼衣の人生に覚えがないほど、鮮烈な輝きに満ちていた。


 ぶあーっと、視界いっぱいを埋め尽くす数百人の大観衆。深く青い、海のように巨大なプールが目の前に広がっている。その中を泳ぎ回るイルカたちの迫力が、ここから見るとかっこいいでも美しいでもなく、この上なく「頼もしい」と感じるのだと初めて知る。


 完璧なタイミングでオープニングミュージックが流れ始め、前方から割れんばかりの歓声が上がる。微かな潮の香り。陽光と観衆の熱気。揺れる青い水面と、バンドウイルカ。そうか、と、蒼衣はため息のように納得した。


 ここが、俺の職場なんだな。


 その実感はほとんど爆発とか、電流に近い勢力で蒼衣を侵食した。ひどく浮世離れしたこの場所に、蒼衣は仕事として立っている。これからも立ち続ける。


 そうだ。



 俺はドルフィントレーナーになったんだ。



「--こーんにーちはー! 本日は海鳴水族館にご来館いただきまして、ありがとうございます! 暑い中お待たせいたしました、当館名物イルカショー、開演いたしまーす!」


 恐らく今夜ビデオで見返せば鳥肌モノだろう。およそ自分のものとは思えない人懐っこい声と笑顔で、蒼衣はショーを開演させた。


 リハーサルでもここまで己を捨てることはできなかったというのに。何が自分を吹っ切れさせたのか蒼衣には分からなかったが、とにかく今だけは、客観的に自分を見てはならない。見てしまえば終わりだ。


 手を振る蒼衣に対して沸き起こった拍手と歓声が呼び水となったかのように、水面から一斉に4頭のイルカが飛び出した。客席から轟く雄叫び。


 高々と打ち上がった海獣の巨体が水面に叩きつけられると、噴火じみた勢いで水しぶきが迸る。上空にうっすら虹が走った。


 イルカが飛び出したタイミングはもちろん偶然なんかではない。イルカは、オープニングのBGMのどのタイミングで飛び出せばいいのか、完璧に覚えている。蒼衣の方がその瞬間に挨拶を終えるよう調節しているのだ。


 ぞくぞく、と快感が肌を撫でる。なんだこれ。蒼衣はただタイミングに気をつけて喋ることしかしていない。それなのに。


 練習したことが上手くいくって、こんなに気持ちいいのか。


 着水したイルカ達に、遅れて登場した海原、黒瀬、汐屋が魚を与えていく。蒼衣は少し彼女たちから離れるように位置取ると、マイクを強く握りしめた。


「さっそく見事なジャンプを見せてくれました、イルカちゃんたちは今日もとっても元気です! ここで本日のイルカちゃんたちを紹介させていただきたいと思います、まずはとっても元気な女の子、トトちゃーん!」


 むず痒い! 努めて深く考えないようにしながら蒼衣は愉快なお兄さんを演じる。蒼衣の紹介に合わせて海原がトトにハンドサインを出すと、客席から見て左端にいたトトは水面から勢いよく飛び出した。


 ジャンプではない。トトは尾びれを高速で動かし続けることで、水面の上に"立っていた"。「テイルウォーク」と呼ばれる技で、イルカのお家芸の1つ。その愛らしく、かつ迫力のある姿に大歓声が上がった。


 続いてモモ、ララ、ビビを紹介していく。彼女たちも同じように、呼ばれるとテイルウォークでアピールした。イルカたちは紹介される順番通りに並ぶよう訓練されているし、蒼衣が呼ぶのに合わせて汐屋たちが対応するイルカに合図を出してくれるので、名前を間違えることはない。


 そうでなくても、蒼衣はビビ以外のイルカの区別がだんだんとつくようになって来ていた。


 滑り出しは順調だった。海原たち3人の無言の表現力のおかげで、蒼衣の拙い進行でもショーは滞りなく進んでいく。イルカたちもさすがの安定度だ。


 いける。蒼衣が海原のように面白い喋りができなくても、イルカの芸の完成度で客は十分エキサイトしていた。大丈夫だ。ショーとしてちゃんと成立している。


 客席の最前列に見覚えのある一団を見つけた。目が合うなりこちらに向かって手を振ってくる。両親と、それから涼太だ。


 ま、マジで来やがった。心の底から来て欲しくなかった蒼衣は危うく感情を顔に出しそうになる。


 だが、思えばあの壊滅的に朝の弱い涼太が、今日は午前7時よりも前に激励(?)のメッセージを送ってくれた。朝は素直に受け取らなかったが、彼もそれだけ気にかけてくれていたということ。


 ブンブン手を振る涼太は楽しそうに笑っていたが、決してバカにするような感じではなかった。柄じゃないことをしてる自覚はあったが、あんな風に見てくれていると、安心する。両親の表情も全く同じだった。


 その後も、滞りなく数々の芸を練習の通りこなしていくイルカ。計画通りにショーを組み立てていくトレーナー。ショーも終盤に差し掛かる。


 気を抜くな。このまま最後まで、ミスなく、汐屋たちとイルカたちの邪魔をしないように、無難に進行していくだけだ。それでショーは成功する。自分に言い聞かせ続け、その通り、一切気を抜かず蒼衣はここまで進行を続けてきた。


 しかし。


 本当に、それでいいのか。小さな疑問が波紋を立てた。

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