第7話-3

 全員が主役なのだと汐屋は言った。このままではダメだ、と漠然と思った。イルカや汐屋たちにフォローしてもらい、どうにか不自然でないMCを務めることができた程度では、とても主役とは言えない。


 視線を客席からプールに移す。一糸乱れぬ動きで一斉に手を振った3名のトレーナーに連動して、4頭のイルカがその巨体を同時に踊らせる。着水の轟音。両手を掲げる汐屋たちに合わせ、再び、今度は時間差で連続して跳ね上がるイルカたち。煌めく水しぶきを浴びる彼女たちは、輝いている。


 それは疎外感に近かった。あの空間に蒼衣はいない。あの輝かしい世界の一員に、蒼衣はなれていない。どんなに声を張り上げても、結局誰も、蒼衣を見ていないのだ。


 これでいいのではないか、と思った。客はイルカを見に来ているのだ。蒼衣を見に来ているのではない。イルカが輝きさえすれば、トレーナーが目立たなくたっていい。拍手を促したり、イルカを紹介したり、蒼衣の役目はイルカの引き立て役だ。


 実際そう思っていた。ショーが始まる直前までは。けれど汐屋のあの言葉の意味を考えてしまう。主役でありたい。それは蒼衣の思いでもあった。どうすれば、あの一員になれる--


 ハッと我に返ったときには、ショーが完全に中断していた。


 やってしまったと思うにも遅すぎた。頭がホワイトアウトする。とっくにイルカたちは芸を終え、次に進めなければならないタイミングを大幅に逃していた。


 ショーがどこまで進んでいて、次に蒼衣は何を言うべきなのか、その全てが頭から消えている。観客の不審げな目が、一斉に蒼衣1人に集中していく。


「え、えっと」


 言葉が力を持たなくなる。もうどうやったってさっきまでの空元気は出せなかった。静まり返る会場に、BGMだけが流れ続ける。あんなに繰り返し練習したのに、完璧に頭に叩き込んだのに、一度ぶっ飛んだものは頭のどこを探しても見つけることができなかった。


 いっそ消えてしまいたいほどの静寂が、次第にざわめきに変わっていく。何か言わなければ。パニックになればなるほど、頭は働いているようで一つも動いていない。


 屈みこんでしまいそうになった時だった。針のむしろに立たされたような空気を、水の弾ける快音が爽やかに切り払った。停止していた時間が動き出したような感覚につられて、蒼衣はプールの方角に目を向ける。


 今日一番の高度にその巨躯を舞わせるイルカが、蒼衣にはすぐにビビだと分かった。最高点でしなやかに体を捻り、水しぶきを八方に散らしながら滞空するその姿は、花火の如く見る者全てを魅了した。


 着水。客席まで水浸しにする規模の水しぶきに、歓声も興奮気味に上ずった。反射的に、ようやく海原たち3人の方を見た蒼衣だったが、彼らの表情も驚きを隠しきれていなかった。今のジャンプは、彼らの指示ではない。


 まさしく蒼衣は、またしてもビビに助けられた。


 水中に戻ったビビは、プールの中を優雅に泳ぎまわりながら、ゆっくり蒼衣の方へ近づいてくる。恐らくこの場にいた全ての人間が、ビビの動きを目で追っていた。ビビはたった一度のジャンプで、人々の目を釘付けにしたのだ。


 ビビが蒼衣の立つプールサイドのすぐそばまで泳いでくると、顔を出し、全身の半分までもを出して蒼衣をまっすぐ見つめた。口を開けて、その小さく平べったい手のようなヒレを左右に動かして、蒼衣を誘っている。


 きっと彼女の言葉が分かったのは、蒼衣だけではない。その愛らしい姿から読み取れるものは、誰の目から見ても明らかなほどだったから。


「……俺と、泳ぎたいのか?」


 耳にかけ、口元に固定したマイクが蒼衣の声を拾い、会場全域に届けてしまったが、構わなかった。これはビビが作ってくれたチャンスだ。汐屋の言葉の意味も、同時に掴みかけた気がする。


 後は上司の了解を得るだけだったが。確認すべく海原たちの方に目を向けた蒼衣は、彼らの表情に背中を押された。


「あらぁ、ビビちゃんの熱烈ラブコールは断れませんね! お兄さん、MC交代!」


 汐屋のナイスフォローでお膳立ては整った。何から何まで、助けられてばかりだ。頭が上がらない。蒼衣はせめて精一杯の笑顔を作ると観客に手を振って、駆け寄ってきた汐屋とハイタッチ。


 口元のマイクを外して汐屋に預けると、ビビのすぐ横に飛び込んだ。あれから1ヶ月、磨き上げた飛び込みが会場のため息をさらっていく。ドボン、と水中に入った瞬間に、頭の中に残った泥が綺麗に払われた気分だった。


 踊るようにして歓喜を表現するビビの頭を撫でる。イルカは人の感情に敏感な生き物。蒼衣の焦りや不安の気持ちを察知して、どうにか元気を取り戻そうとしてくれたのかもしれない。


 犬は、飼い主が落ち込んでいるとボールを持っていって「投げてくれ」とせがむことがあるらしい。それは犬が遊んで欲しいのではなくて、いつもこのボールで遊ぶときの飼い主は楽しそうだった、ということを覚えているからなのだそうだ。


 それに照らし合わせるなら、練習時間にビビと一緒に泳ぐ時、蒼衣が内心とても楽しんでいたことはどうやら筒抜けだったらしい。こいつは泳げは元気になるだろ、とでも思われたようだ。本当に生意気である。


 気まぐれで猫に似ていると例えられることの多いイルカだが、こういう犬っぽいところもあって、言葉に尽くせないほど愛らしい。


 --ありがとう、ビビ。


 その気持ちも、きっとビビには伝わったはずだ。言葉は話せなくても、イルカはまるで魔法のように人の感情を読み取るから。


 行こう。蒼衣がプールの壁を蹴ると同時にビビも仕事モードに入った。今度はちゃんと、ハンドサインでこれからの意図を伝える。前みたいに鬼ごっこの延長から強引に合わせてもらうようなことはしない。


 あれから何度も練習した。ショーに出られなくても蒼衣がこの仕事を続けてきたのは、夜のトレーニングでビビと一緒に泳げるから。


 あの時は言語化できなかった感情に名前がついた今、ビビとの時間が蒼衣の宝だった。一日一日、地道に時を重ねて、即席タッグだったあの頃のインスタントな繋がりが、大事に大事に育てられていった。


 まだたった1ヶ月。それでも蒼衣とビビの間を結ぶ、海に溶ける目には見えない青色の絆は、少しずつ太く強固になってきた。蒼衣が魅了されたのは、この感覚だ。ビビと確かに心を通わせた、その瞬間の有無を言わせぬ感覚だ。


 水中を魚雷の如く猛進する蒼衣と、追従するビビ。この高速競泳は蒼衣たちにしかできないパフォーマンス。観衆の反応は分からないが、手応えはビビと共有していた。


 気持ちいい。思えばこのプールを泳ぐのは初めてだった。練習用の2倍以上の広さがあるここなら、蒼衣もビビも全力で泳げる。これまで全速力で海を泳いだ経験の少なかった蒼衣も、この1ヶ月の鍛錬で速度と耐久力を大幅に磨いた。


 8の字を描いたり交錯したり、同時に片手と片ヒレを水面から出して泳いだりと、練習した演技を次々に成功させていく。正直バリエーションはまだ乏しく、習得したモノはこれでほぼ全て出し尽くしてしまったのだが、ショーの残り時間的には丁度良い。


 あの日初めて2人で泳いだ時は、どちらかと言えばライバルと競うような高揚だった。けれど今は、仲間と練習したことを成功させたときの快感。チームスポーツと縁のなかった蒼衣には強烈な刺激だった。


 ラストスパート。ビビに最後のサインを出す。誰かが指示を出してくれたのか、他のイルカたちが蒼衣とビビを応援するように外周を周っている。緊張感がぐんと高まった。


 練習で失敗したのも一度や二度じゃない。直前はMCの練習ばかりだったし、ビビも予定していた別の芸の練習に追われていたはずだ。お互いぶっつけ本番なのは、あの日と変わらない。


 別の芸に切り替えるか? 今更そんなことを思った。けれど、成功させたい。ビビに、汐屋たちに与えられたこのチャンスには、最高の形で応えたい。応えなければならない。


 定位置についた蒼衣は上空を見上げた。屋外の水面は一層力強く煌めき、蒼衣に、ぶち破れと囁く。ほんの一瞬、足元を泳ぐビビと"連結"したような感覚を覚えた。


 ビビの言葉が、青を伝ってはっきりと鮮明に内耳に響く。そう言えばあの日も一瞬だけこんな感覚があった。


 --ああ、いつでもこい。


 答えた瞬間、ビビはロケットのように真上に急加速。あの日の何倍も力強く蒼衣の足裏に激突する。今なら、あの時ビビがどれだけ力を加減し、飛びやすいようにアシストしてくれていたのか分かる。


 信頼関係を得た今、遠慮は無用だ。こちらも恐れはない。爆速で水面に突撃していく。前後左右に吹き飛ばそうとする抵抗力を、完璧なフォームで受け流した。


 猛烈な勢いで目の前に迫った蒼い膜をぶち破り、蒼衣の体は夏の大空を舞った。


 太陽が、雲が掴めそうなほど近い。数百人の熱狂的な絶叫に包まれた瞬間、無重力を感じながら蒼衣は言葉を失うほどの衝撃に貫かれた。


 最高点で着水姿勢に移り、安全な体勢でプールに再び飛び込む。今度こそは、この感動を一刻も早く共有したい相手がいた。周囲を覆う微細な白い泡を押し退けて彼女を探す。ビビは、弾丸の如くこちらに向かって飛び込んでくるところだった。


「ビビ! やったぞ! お前最高だ!」


 水面にお互い顔を出したところで感情が爆発し、蒼衣はビビに満面の笑みで抱きついた。興奮気味にヒレをパタパタ動かしながら、ビビは大きく伸び上がって、体当たりばりの威力で蒼衣にキスをした。


 イルカの形容しがたい愛らしさは、こういうところなのだ。悶えながらビビと抱き合う蒼衣が、観客の熱い視線に気づいたのは間も無くだった。


「お兄さんとビビちゃんの素敵な絆が、ご覧いただけたでしょうか! 皆さん今一度大きな拍手をお願いします!」


 汐屋の扇動に割れんばかりの拍手喝采。今更のように息を荒げながら、蒼衣は強く、確信していた。


 客はイルカを見に来るのでも、もちろん蒼衣トレーナーを見に来るのでもない。


 人とイルカが心を通わせた、その姿を見に来るのだ。


 汐屋の、全員が主役、という言葉の意味が今なら分かる。MCも目立たなきゃとか輝かなきゃとか、そういうことじゃなくて、ステージに立った全ての人とイルカが、確かな絆で結ばれていることを、ショーの中で表現しろということだ。


「……ビビ。今日はありがとな。次からはたとえ一緒に泳げなくても、ちゃんとお客さんに伝えられる気がするよ。俺たちが、最強のタッグだってこと」


 どっと疲れはてた蒼衣が、へなへな脱力しながらそう言うと、対照的に元気いっぱいなビビは呆れたように鼻を鳴らした。

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