第8話-1

 生まれて初めてヘアワックスなるものをつけた。


 どうせ海に入ったらぐしゃぐしゃになるのだからと、これまでヘアスタイルに頓着したことのなかった蒼衣だが。急遽めかし込まなければならなくなり、呼べばすぐ来る便利な友人、涼太を慌てて召喚し、手ほどきを受けた次第。


 染髪もしたことのない地毛の黒髪は、何をどういじったのか緩やかなパーマをあてたようにくしゃっとまとまり、ひたいを爽やかに出しつつ前髪が自然に流されていた。


「お前、美容師だったのか……」


「なんでだよ。大学生ならこれぐらいできろダイビングバカ」


 服装もコーディネートしてもらった。蒼衣の普段の私服は、もっぱら白Tシャツと半パンとサンダルというラフで色気のないものなのだが、午前中涼太が買い物に付き合ってくれた甲斐あり、今日身にまとっているのは淡い水色のシャツと細身のジョガーパンツ。くるぶしを露出する白色の平べったいシューズが、足元を軽やかで涼しげな印象にまとめている。


 姿見に移った姿を自分で見ても、夏らしく洒落た格好だ。専属スタイリストとして涼太を雇いたいぐらいである。


「礼ならいらねえぞ。約束通り等価交換だ。あの女っ気ゼロだった蒼衣がデートに誘われたというそのお相手を、影からこっそり見させてもらう」


「今更だけど悪趣味極まりないな……見たらすぐ帰れよ」


「分かってるって!」


 でかいサングラス、猛暑日の日光に当てられてもはや白に近い金髪、ド派手なアロハシャツ。そんな目立つ姿でこっそり見るだけと言われても不安になるに決まってる。


「ほんとに大丈夫だって! 親友のデートの邪魔はしないっつの。あ、ほら、もう待ち合わせの時間じゃねえのか?」


「だからデートじゃないって……ただの上司だから……」


 言いつつ、腕時計の表示を確認すると確かに待ち合わせ5分前だ。蒼衣たちが今いるのは海鳴駅の南出口にある男子トイレ。待ち合わせ場所は、南出口のすぐそこにある噴水前だ。


「ただの上司に会うために、お前が髪の毛セットしてくれなんて言い出すわけないだろ! お兄ちゃんは嬉しいぜ蒼衣、お前もとうとう男になったんだな……」


「いつお前の弟になったんだよ、俺いくから、そこでこっそり覗くだけにしてくれよ。ほんとに、マジで」


「あいあーい! いってら!」


 無性に不安だったが、時間だ。蒼衣はもう一度だけ鏡を確認するとトイレから出た。小走りで噴水前に駆けつけると、1人、人待ち顔の女性が携帯を見るでもなく佇んでいる。ドキンと心臓が跳ねた。


 年の近い女の子と、時間を示し合わせて会うなんて正真正銘初めての経験だった。嘘だろもう来てる。まだ気づかれていないこの段階、いったいどんな顔してどれくらいの速度で駆け寄っていくのが正解なのか。


 と、不意に振り返った彼女と目が合った。蒼衣が軋るような音を立てて頰を引きつらせたのに対し、彼女はぱあっと向日葵のような笑顔を咲かせる。


「こんにちは、潮さん」


「す、すいません、待ちました?」


「いえ、私もついさっき。待ち合わせなんて久しぶりだったのでつい家を早く出すぎてしまいました」


 大きく広がった白い帽子を風で飛ばないように片手で押さえながら汐屋が笑う。ロングスカートタイプの紺色ワンピース。白いフリルが端にあしらわれた、ノースリーブのワンピースだった。彼女にとても似合っている。汐屋には、夏がとても似合う。


「そ、それで今日はどこに?」


「急に誘っちゃってごめんなさい。私もあんまり、お店詳しくないんですけど。洋食の美味しいカフェがあるそうなんです。そこはいかがですか?」


「は、はい、洋食大好きです!」


「よかった。じゃあ行きましょう」


 微笑んで蒼衣の手を引く汐屋。蒼衣が自力で歩き出すとすぐ離してくれたが、心臓が止まるかと思った。低い位置にある彼女の服や髪が揺れるたび、柔軟剤やシャンプーのいい香りが届く。


 ドギマギしていると、スマホを入れていた右太もものポケットが猛烈に振動した。大量のメッセージ通知である。怪訝に思い、汐屋に気取られないように後ろ手で画面を確認すると、30件以上ものメッセージは全て涼太からだった。


『ふざけんな!』


『上司ってこないだショーに出てたあの子かよ!!』


『かわれ!!』


『紹介しろ!!!』


『俺たち友達だろ?』


『お願いします』


『紹介してください』


 以下、土下座スタンプの連打。蒼衣は呆れてスマホを収めた。可愛い彼女のいるやつが、何を贅沢言っているのか。


 だが、涼太の言う通りだ。どうして彼女ほどの美人が自分なんかを食事に誘うのか、蒼衣は皆目見当がついていなかった。


 汐屋から唐突な誘いを受けたのは、一昨日の土曜日。蒼衣が初MCを務め、色々やらかしたあの日の仕事終わりだ。覚悟していた海原からのお説教が意外にもなく、肩透かし感を覚えながら帰宅しようとした蒼衣に汐屋が声をかけてきたのだった。


 月曜日のお昼、空いてませんか? よかったらお食事でもどうかと思ったんですが。


 同い年の部下に対して相変わらずのきっちりした言葉遣い。蒼衣は困惑した。ひたすら困惑した。同時に即答で快諾した。月曜は海鳴水族館の定休日で、確実に暇なのだ。


 そういう次第で非番の昼下がりに汐屋と2人、食事に来ているのだった。汐屋に連れられて入ったのはレトロな喫茶店。窓際の席に向かい合って腰掛け、お互い少し悩んでから注文した。


 汐屋が二択で悩んでいたものの内のひとつを、蒼衣が頼んで少し分けてやるという提案を汐屋は無邪気に喜んだ。


 初経験なので分かるはずもないが、なんとなく、デートの雰囲気だった。


 蒼衣のライスグラタンと汐屋のハンバーグが来るまでの間、蒼衣は手持ち無沙汰にお冷やを飲みまくった。現在は氷だけとなったグラスをそれでも呷るが、ただ唇が冷えるだけだ。


「あ……あの、潮さん。不躾だとは思うんですが」


 汐屋の方も少し普段より緊張している風だったのだが、そんな彼女が突然蒼衣の目をまっすぐ見て切り出した。海のようなその瞳に吸い込まれそうになる。


 彼女の表情は真剣そのもの。まるで熱い想いを今まさに告白しようとするかのような。ごくりと生唾を飲み込んでどうにか返事をした蒼衣に、汐屋もたっぷり時間をかけてようやく可憐な唇を開いた。



「どうやったら、潮さんみたいにビビと仲良くなれますか」



 一切の曇りもないキラキラした瞳で、若干身を乗り出しながら、汐屋は蒼衣の期待の左斜め下を行く質問を浴びせて来た。


「……えっと、汐屋さん?」


「すみませんっ、貴重なお休みを割いていただいてまでこんな話に付き合ってもらっちゃって……でも私、潮さんに憧れてるんです! 知りたいんです、どうやったら潮さんとビビみたいな関係を築けるのか!」


 仮にもド素人で臨時採用の部下に向かって憧れてるとまで言ってのけた。あり得ない期待をしてしまった自分に死にたくなったが、蒼衣は同時に、汐屋の真っ直ぐな人間性を眩しく思った。


 生粋のイルカバカだな、この人。


「あの……俺の目には汐屋さんの方がよっぽどイルカに懐かれてるように見えますけど。ビビ以外のイルカはまだ俺の言うこと聞いてくれない時けっこうあるし、ビビとだって、懐かれてると言うよりはなんか、悪友って感じだし」


「それっ! その関係が羨ましいんです! ビビは大人しいお姉さんだったんですよ! なのに潮さんと出会ってから、あなたの前でだけあんなにやんちゃに、あんなに生き生きと、そしてあんなに可愛く……ずるいです!」


「話がズレてきてませんか……?」


 確かに、海原が最初蒼衣にビビを勧めてくれた時も、ビビはみんなのリーダーで、賢く優しい子だと言っていた。イメージできるのは、どちらかと言えば思慮深く気配りのできる、大人しい性格。蒼衣の知るビビとはまるで違う。


「ビビはもう30年以上生きてるおばあちゃんですからね。あの子が潮さんと出会ってあんな風に変わったのは、海原さんも黒瀬さんも、本当に驚いてたんですよ」


 ビビの年齢を聞いたのは思えば初めてで、同時に不思議な涼しい風が胸を一筋吹き抜けていった。


 30歳を超えると、イルカはおばあちゃんと呼ばれる年齢になるのか。


「あの……イルカの寿命って」


 聞かなければ良かったとすぐに後悔した。汐屋は一瞬硬直して、それから自然体で教えてくれた。


「正確には分かっていない、と言うのが一番いいかもしれません。野生のイルカは非常に広い範囲の海洋を泳ぎ回り移動して行くので、生まれてから亡くなるまでのイルカを最初から最後まで観察できた例はないんです」


「じゃあ……水族館のイルカは?」


 やめておけ。知ってどうするのだ。心の中の自分が大音量で待ったをかけたが、自制は効かなかった。


「最高齢では60年生きたイルカがいたそうです。数年で亡くなってしまうイルカもいます。情けない話ですけど……イルカについて私たちはまだ知らないことだらけなんです」

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