第8話-2

 ラップで口を塞がれたみたいになって、押し黙ってしまった蒼衣を慰めるように汐屋は柔らかい笑顔を作った。


「大丈夫ですよ。健康チェックも水質・水温管理も徹底して行っています。さっきはああ言いましたが、昔に比べて少しずつ、イルカに最適な食事や水について分かってきていますから。血液等の定期検査の結果から見ても、何より普段の様子を見ても、ビビは健康体ですよ」


「……そうですよね。いや、ビビが元気すぎるぐらい元気なのは分かってるんですけど」


 イルカは人間のように調べ尽くされた種ではない。思えば当然だったが、盲点だった。分からないことの方が多い生物なのだ。その神秘性がイルカの魅力であり、水族館に人々が足を運ぶ理由の1つでもある。


「なんか、自覚しちゃったな」


「いつか来る別れのことですか?」


「はい」


 どんなに長くてもあと30年でビビは亡くなってしまう。考えもしなかった。当たり前のことなのに、蒼衣は今初めて自覚したのだった。


 ずっと一緒にショーをしていくんだと思っていた。ずっと一緒に働くのだと思っていた。


 なんだろう。じわじわと、鉛がたまっていくように胃のあたりが重苦しくなる。


「イルカとのお別れは、たぶんこの仕事をしていれば避けられないことです。私も、今のうちからすごく怖い。みんなあんなに可愛くて、いい子で、大好きなのに。考えたくもない……けど覚悟はしておかなきゃって思ってます。その日を1日でも遅らせるためにも、毎日の仕事に手を抜かないようにしないと」


「そうですね。今日汐屋さんと話せてよかった」


 本心がするっと滑り出て、直後に頰が熱を帯びた。グッドタイミングで料理が運ばれて来たので、どうにか不自然な空気にはならなかった。


「わぁ、美味しそう。イルカたちみんな元気なのに湿っぽくなっちゃいましたね。食べましょ!」


「そ、そうっすね!」


 スープとサラダとライスのついた、豪華なランチだった。これで850円とは穴場があったものである。


「あ、美味い」


 蒼衣の注文したライスグラタンは、クリーミーでチーズたっぷりでとても蒼衣好みだった。かなり熱いのでしっかり息を吹いて冷まさなければならない。


「ハンバーグもすっごく美味しいですよ。どうぞ」


 小皿に切り分けたハンバーグを1切れ乗せて差し出してくれた。蒼衣も約束通りライスグラタンを分け与えてやる。ところでライスグラタンとドリアってどう違うんだ。


「潮さん、ライスグラタンとドリアってどう違うんですかね」


「同じこと思ってました!」


 思わず大きな声を出すと、汐屋は可笑しそうに笑った。可愛い。仕事ができて若干近寄りがたいイメージだったが、今日でなんだか距離が縮まった気がして、浮ついた気分になった。


「あの、言いそびれてたんですけど。土曜のショーはすみませんでした。メチャクチャにしちゃって……」


 今なら言えると思って、気にしていたことを伝えた。海原も黒瀬も汐屋も、あの日のことを何も言ってこない。蒼衣の方から謝るべきなのは分かっていても、優しさに甘えてずっと言い出せずにいた。


「なにも謝ることなんかないですよ。本当に。いきなり数百人の前でMCなんて、ほんの数日練習しただけでできるわけないんですから。むしろ、とっても頑張ってたと思います」


 汐屋の表情は、蒼衣が謝ってきたことに対して不思議そうだった。


「いや、でも、セリフ飛ばしてMC代わってもらって、ショーのプラン土壇場で勝手に変えて……迷惑かけまくったなって。現に、日曜日のショーはMCもやらせてもらえなかったし」


 実際にリベンジの機会を与えられても完璧にやれる自信はなかったが、悔しい気持ちはあった。あのショーで気づけた大切なことを、次なら活かせるかもしれないと思ったし、活かしたかった。


「あぁ、それは海原さんの予定通りですよ。潮さんにMCをやらせるのは1回きりって、最初から決めてたみたいです」


「え!?」


 汐屋は口に手を当てて苦笑気味に笑う。


「人が悪いですよね海原さんも。彼に言わせれば、仕事は適材適所だそうです。苦手だったりやりたくないことを無理やりやらせる必要はない。それが得意で好きな人がやればいいだけ。ただ、まったく経験しないのと一度経験するのでは、お互いの仕事の理解も今後の成長も変わってくるって言ってました」


「……それ、俺に言ってくれればいいのに」


「そうですよね。潮さんが自分から海原さんに謝ったとしたら、そう言ってくれたんじゃないかと思います」


「うっ」


 手厳しいが正論だ。


「実際、やってみてよかったんじゃないですか? たぶん、一番大事なことに気づけましたよね。それが分かったから海原さんたちも、きっとなにも言わなかったんですよ」


 蒼衣は感服していた。今目の前にいる美しい女性が、蒼衣と同じ年数しか生きていないとは到底思えなかったからだ。汐屋は蒼衣と比較にならないほど広い世界が見えていて、それでいてそれを少しも鼻にかけず、優しいフォローまで抜かりない。


 プライドの高い蒼衣にとって劣等感は天敵だ。しかし今、これまで覚えがないほど他人との差を自覚したにもかかわらず、いっそ晴れやかな気分ですらあることが不思議だった。


「この仕事、好きですか?」


 聞こうと思っていたことを汐屋の方から尋ねられて、蒼衣は虚をつかれた。


「--好きです」


 その割にあっさりと、勝手に口から滑り出した言葉に、蒼衣は自分で心の底から驚いた。


「よかった」


 その心から安堵したような笑顔が、蒼衣の胸を激しく揺さぶった。


 その後話題は戻り、汐屋は再びイルカと仲を深める秘訣を蒼衣に熱心に聞いてきた。既にイルカにモテモテの汐屋に手ほどきできるようなテクニックなど1つもない蒼衣は弱り切った。


「ほんとに何もないんですって。俺の方こそ教えて欲しいぐらいですよ、どうしたらそんなにイルカたちに慕われるのか」


「潮さんはまだ1ヶ月、対して私は2年目ですよ! 私なんか全然です!」


 今や蒼衣の目標となった彼女に評価されるのは悪い気分ではなかったが、ぽっと出の蒼衣にここまでストレートに教えを請おうとするなんて清々しいほどプライドのない人だ。


 あっちにこっちに話題は盛り上がり、気づけば来店して2時間近くが経過していた。


「そろそろ行かなきゃいけない時間ですね」


「あ、ほんとだ。もうこんな時間なのか」


 汐屋に言われて、時を忘れていたことにようやく気づく。時刻は午後2時半。今日は閉館日だが、3時にトレーニング用のイルカプールに集合するよう海原に言われている。


 閉館日も当然イルカの世話等、必要な仕事は少なくない。1人か2人の出勤でローテーションを組んでいるが、蒼衣は今の所臨時採用ということもあり閉館日は問答無用で非番だった。


 そんなわけで月曜日に出勤するのは初めてなのだが……なんでも夏休みシーズンは、3時から7時まで閉館日を利用した集中的トレーニングをするらしい。職場がストイックすぎて怖い。


「4時間って普段の2倍じゃないっすか。絶対きつい……」


「楽ではないですけど、楽しいですよ。なんていうか、学校がないのに部活だけやりに来てるって感じでワクワクするんです」


「あ、変態だ……」


 軽口を叩ける間柄になれたことが、蒼衣にとってとても大きな収穫であった。名残惜しいが出なければならない時間だ。どちらからともなく鞄から財布を取り出す。


「はぁ、楽しかった。ご迷惑でなければまた誘ってもいいですか?」


 満足げに笑って汐屋がそんなことを言う。リップサービスだとしても蒼衣は小躍りするほど嬉しかった。


「是非! あ、気になってたんですけど、俺に敬語やめませんか? なんかむず痒くて」


「あ……ごめんなさい、癖なんです。家が厳しかったので、タメ口ってほとんど使ったことなくて違和感が」


 なるほど、確かに1つ1つの立ち振る舞いといい、育ちの良さが滲み出ている。そういうことなら無理強いはできないか。


「じゃあ、蒼衣君って呼んでもいいですか?」


 油断していたところに強烈なパンチが飛んで来た。


「は、はい、全然!」


「ふふ、よかった。タメ口も、頑張って挑戦してみる……ね?」


 自分で言ってみてその違和感が強かったのか、汐屋は決まり悪そうに顔を背けて立ち上がった。僅かに見える顔の端がほのかに赤い。


 内心悶えつつ後を追う。自分が誘ったのだから全額払うと汐屋が言って聞かず、レジの前で揉めに揉めたが、結局は「次は蒼衣君が払ってくれればいいですから」という汐屋の「次」という言葉に打ち負かされ、結局ご馳走になってしまった。


 海鳴水族館は海鳴駅から徒歩5分圏内。蒼衣は車を職場の駐車場に停めて歩いて来たのだが、汐屋も同じ口だった。2人並んで、徒歩で出勤。


「ごちそうさまでした。次は絶対俺が奢りますから」


 勇気を出してそう切り出す。後で涼太にデートに使えそうな飯屋を聞いておこうと思った。


「楽しみにしてます。ご飯美味しかったですね」


「……また敬語になってますけど」


「あ、ごめんなさい! じゃなくて……ごめん……?」


「合ってますよ」


 思わず吹き出す。可愛いことこの上ないが、この調子だといちいち指摘していたら会話にならない。汐屋の喋りやすいようにしてもらおうと思った。呼び方を変えてもらえただけでも、蒼衣は既に天にも昇る心地である。

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