第4話-2

 思えばパートナーに決まったときから、蒼衣はビビが気に食わなかった。


 それはとても本能的なもので、なぜ彼女が気に入らないのか、理由を言葉にすることができないでいた。


 それがはっきりしたのは、練習時間になり、とりあえずビビにフラフープを投げてみたときだった。


 ビビが見事一発でフラフープをキャッチし、器用にくるくる回しながら返しにきたときは素直に感動した蒼衣だったが、フラフープを受け取った瞬間、ビビは退屈そうに瞳を曇らせてプールに潜っていったのだ。


 蒼衣は思った。あれ、これ、遊んでもらってるの俺じゃね?


 どおりで腹が立つわけである。イルカたちにとって蒼衣たちはせいぜい「お客様」がいいとこで、間違っても「主人」じゃない。


 蒼衣がビビに抱いていたのは、小学生の頃涼太の家に遊びに行ったとき、彼が飼っていた小さな室内犬に感じた苛立ちと同じ感情だ。動物に下に見られる感覚が、蒼衣の高尚なプライドには屈辱であった。


 そんな状態でどんな芸を万が一成功させたとしても、それは蒼衣の実力ではない。そう思うようになった。あくまでビビが、お客様のために「遊んでやっている」だけ。


 前3人の演技はどれもそれに当てはまる。投げた魚やボールやフラフープを上手くキャッチできたのは、イルカの能力が高いから、ただそれだけの理由だ。イルカに向かってものを投げるだけなら小学生にだってできる。


 そうではなく、ドルフィントレーナー、即ちイルカを鍛える者としての資質を見せつけるにはどうしたらいいか。蒼衣の大層なプライドは、やがて1つの結論を導き出した。


 蒼衣の方が、ビビと遊んでやればいい。


 汐屋たちのように完全にイルカを飼い慣らして操るのはまだ無理でも、せめてイルカのモチベーションを「遊んでやっている」から「遊んでもらっている」にシフトできれば、側から見た試験官たちの印象は違うはずだ。


 この主従関係を確たるものにするには、本来長い時間を一緒に過ごすことが必要だろうが、手っ取り早い方法がある。


 それが、蒼衣の泳ぐ姿を、ビビに見せつけることだった。



 深い、深い青を切り裂いて蒼衣は水中を飛翔する。嬉しげに漏らした鳴き声を海水に溶かしながら、ビビがすぐ後ろを猛追する。重い物体が水を掻き回す音が、地鳴りのように耳朶を打つ。


 ついてきてるか、ビビ。まだまだ上がるぞ。


 水を蹴って加速。背後の気配も圧力を増す。興奮に肌がぶわりと音を立てるようだった。イルカってこんなにバカ速いのか。直線勝負じゃ勝ち目がない。


 瞬く間に迫った前方の壁を蹴飛ばし、急速Vの字ターン。イルカには真似のできない芸当。虚を突かれたビビをいったんは引き離したものの、軽やかに壁スレスレをUターンし、すぐさま後ろぴったりに追いついてくる。恐るべき水泳能力だ。


 蒼衣は他の受験者が手を替え品を替え実践できそうな芸を探している中、練習時間のほとんどをプールの中に費やした。練習に使えるプールの範囲は4分の1と狭かったが、水中での蒼衣の身のこなしを一目見た瞬間にビビの見る目が変わったのを肌で感じた。


 練習中も練習が終わってからも、ビビはずっとそわそわしていたはずだ。だから蒼衣が一声呼んだだけで嬉しそうに飛びついてきた。早くこのプールを目一杯使って泳ぎたい。その気持ちの一点では、蒼衣とビビは強く共鳴していたことだろう。


 たった30分で主従関係を築くことは不可能。だから、蒼衣はただ、自らの能力を披露することでビビに、強烈な関心を向けさせた。


 今のビビは、蒼衣の意のままに動かせる。


 --どうだ、恐れ入ったか! これが俺の答えだ!


 蒼衣は感情を爆発させて鯱のごとく泳いだ。気分がいい。どれだけ引き離そうとしても嬉しげについてくるビビを振り返るたびに、高揚が膨れ上がる。


 一本の生き物のように繋がって泳げば泳ぐほど、蒼衣はビビと目に見えない何かで精神的に接続していくような感覚に支配された。


 それはさながら、海水に溶ける青い糸。縦横無尽に泳ぎ回る蒼衣とビビを結び、互いの裸の意思と感情が貿易される。蒼衣は背中から伝わるビビの興奮と高揚が、自分とまったく同じ水準で拮抗していることが何より幸せだった。


 惜しむらくは、1分という制限時間。蒼衣の体内時計は憎らしいほど正確だった。


 水中でもう一度深く息を吸うように、気を引き締め直した蒼衣はがくんと上体を折って、最深部を目指し潜水した。


 これだけ激しい動きを続けたせいか、さすがに消耗が早い。一刻も早く水面に上がりたいのを精神力で堪えて、息を詰め、唇を結び、水底へ。


 半月を描くようにプールの底へ到達すると、最後の力を振り絞って床を蹴飛ばした。推進力を得て上昇していく体。ビビは蒼衣の軌跡を寸分狂わず辿り、プールの底に到達すると蒼衣を真下から見上げる。


 もはや余裕は失われ、鬼気迫る血走った眼でビビを見下ろしながら、くい、と肩越しに親指で水面を指した。


 水面の向こう側まで--俺を運べ、ビビ。


 蒼衣の不遜な態度に対して、なぜだがビビも挑戦的に笑ったように見えた。


 練習でも当然合わせる暇などなかった。狭い場所で行えば大事故になる恐れがある。


 だが、広い場所ならできる。自信があった。初めて目の当たりにしたあの瞬間から、脳裏に焼き付いて離れなかった映像を、壊れるほど再生してイメージと修正を繰り返し、己に落とし込んだ。


 練習風景を見守っていた海原たちの度肝を抜く、本番限りのサプライズ。決めてみせる。後は、ビビが蒼衣の意図どうりに動いてくれるかどうか。


 不思議なことに、来るという確信があった。果たしてビビは尾びれを高速で左右に動かし、打ち上げ花火のような勢いで蒼衣目がけて突き上がってきた。蒼衣の辿った道を一直線にそのまま辿って来る。


 優秀なスナイパーだ。この瞬間のための鬼ごっこである。


 息は限界を超えていた。膝を曲げ、両足を揃えた蒼衣は、霞む視界で真上を見上げる。光のカーテンに覆われた水面が揺れる。直後、くっつけた足裏のど真ん中を正確無比に撃ち抜く衝撃。危うく横に吹き飛びそうになるのを、鍛え上げた体幹でやっと耐える。


 びりびりと顔を殴りつける水に負けじと目を押し広げると、光を孕んだ蒼い天井が視界いっぱいに拡大していた。心の準備もクソもなかった。屈めていた両足に力を込める。煌めく膜をぶち破るその瞬間、蒼衣は恐れを忘れて我武者羅にビビの頭を蹴った。



 空気と音を取り戻した世界で、蒼衣は雄叫びのような歓声に包まれた。



 復活した重力が内臓を掻き乱す。体の内側から冷え込むような恐怖。それを上回る悪魔的な快感が、蒼衣を鷲掴みにして離さなかった。高い天井がすぐそこに見えたところで視界が反転し、青い水面が代わりに蒼衣を迎える。


 空中を舞っていた時間は本当に一瞬に感じられた。自由落下にその身を任せ、蒼衣はしなやかに着水。激流のように押し寄せる興奮に背中を押されて、蒼衣はすぐさまプールの外に転がり出た。


 心臓が体験したことのない速度で早鐘を打っている。耳の血管までどくどくと煩い。普段は数秒もあれば元に戻るのに、いつまで経っても呼吸が全く安定しなかった。


 成功した。成功させた。どんなもんだ。これぐらい朝飯前だ。泉のように湧き出てくる誇らしい感情。だが、仰向けに倒れた蒼衣の視界に映る、天井に向かって突き上げた拳は正直だ。


 ガッツポーズなんていつぶりだ。こんなに熱くなったことがこれまであったか。ちょっとコツを掴めば勉強も運動も、大抵のことはなんでもできた。人付き合いとか愛想笑いとか、苦手なものとはハナから向き合ってこなかった。


 こんなに真正面から何かをぶち破った感覚は、生まれて初めてのような気さえする。


「おい、大丈夫か!」


「すごい! すごすぎだよ潮君!」


「かっこよかった!」


 蒼衣の前に演技を終えていた3名が、口々に騒ぎ立てながら蒼衣の周りに駆けつけた。戸部に肩を貸してもらって起き上がる。ぐらり、と貧血に似た目眩に襲われた。久しぶりに、限界のもう一つ限界を超えてしまったようだった。


「悔しいけど完敗だ。練習でもあんなことやってなかっただろ。ぶっつけ本番で成功させちまうなんて……天才かよお前」


「その……ファンになっちゃったかも。絶対、ショー見に来るからね。またすごいジャンプ見せてね」


「泳ぎも超速かったぁ。ほんとにかっこよかったよ」


 曖昧な笑顔でそれぞれに礼を言いつつ、待ってくれている海原たちの元に戻りながら蒼衣はぼんやりと考えていた。


 時給820円。夏場はまだマシだが気温が下がれば職務も過酷だろうし、こんな演技を1日何度も観客の前でやらなければならない。安賃金に釣り合わないハードな仕事だ。


 それでも、さっき、あの20メートル四方のプールの中で、蒼衣は圧倒的な体験をした。今でも頭がぼーっとして、上手く言葉にできないし、思い出すことも難しいけれど。


 大吉の言う通りだった。ダイビングの非日常に慣れきっていた蒼衣の体が、強烈に反応するほどの刺激と快感が、あの青の中にはあった。


 この仕事のことをもっと知りたい。それはもはや、どうにもできない欲求だった。


 ドルフィントレーナーになりたい。


「お疲れ様、蒼衣君。ケガはない?」


 迎えてくれた海原に笑顔で頷いて、蒼衣は戸部にも礼を言って自力で立った。


「無茶しやがる。練習でやろうとしてる様子がありゃ止めてたとこだ。何事もなくてよかったが」


「あ、あの」


 怒っているのか笑っているのか分かりにくい黒瀬を押しのけて、汐屋が、何やら言いにくそうにしながら蒼衣の前に進み出た。


 何かを伝えようとしている。その姿は形容のしようもないほどに可憐だ。これからはこんな美人が上司になるのかと思うと、足元が浮つく。


「潮さん、その……」


「だめだよ凪ちゃん」


 何を言いたがっていたのか、結局蒼衣は知れずじまいだった。海原が優しくも、有無を言わさぬ笑顔で汐屋をそう制したからだ。とんだお邪魔虫である、なんとなくいい雰囲気だったのに。


「は、はい」


「さて……これで試験も全て終了しました。遠方から来られている方も多くいますし、結果は早い方がいいでしょう。既に出ているので、今から発表させていただきますね」


 整列してください、という海原の言葉に、全員が最後の整列をした。どことなく物寂しい気分になる。せっかく少し仲良くなれたのに、この戦友たちとは今日を最後に離れ離れになってしまう。


「もうわかりきってるよね」


 隣に並んできた女の子がいたずらっぽく笑った。またここまで会いにくると言ってくれた子だ。蒼衣も自然と笑顔になる。そのやりとりにわだかまりは感じなかった。


 この3人も同じ仕事を目指す者たち。またどこかで会うこともあるだろう。柄じゃないが、これが終わったら連絡先を交換しておこうと思った。今日の出来事だけでも、酒の席で最高の肴になりそうなものばかりだ。


「結果を発表します」


 汐屋がよく通る声でそう言って、そして蒼衣と目が合った。






「厳正な審査の結果。残念ながら本日、合格基準に達した方はいらっしゃいませんでした。皆様の今後のご活躍を、職員一同お祈り申し上げます」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る