第4話-1
笛の音が鋭く屋内プール全域に響き渡り、30分間の練習時間は、本当にあっという間に終了した。
「はい、集合してくださーい!」
海原の号令で、蒼衣を含め、それぞれペアのイルカと入水していた受験者全員がプールから上がり、元の隊形に集まった。イルカたちは代わりに飛び込んだ汐屋に導かれ、実に大人しくプールの隅に固まっていく。
「最終確認です。演技の時間は1人1分。内容は自由ですが、イルカを乱暴に扱ったりイルカのストレスになるような行動は慎んでください。みなさんの練習風景を見させていただいた限り、大丈夫そうでしたけどね」
いい返事こそ返すものの、戸部たちの表情は固かった。極端に短い練習時間に加え、イルカとは初対面。たった1分間のショーとはいえ、形にしろという方が無理難題だ。
唇を引き結び、不安を隠しきれない様子の彼らを、蒼衣は横目で一瞥した。
「それでは始めていきましょう。トップバッターはどなたですか」
「は、はい!」
声をうわずらせながらも、勢い良く挙手したのは戸部。
「はい、戸部くんとララちゃんのコンビですね。それじゃあスタンバイお願いします」
戸部はプールの対岸まで歩いていき、相棒のララを待つ。間もなく汐屋がララとおぼしき一頭のイルカを先導して、戸部の元に届けた。
「じゃ、始めてくださーい」
「は、はい!」
緊張した面持ちで戸部が手を挙げた。片手には小魚の入ったバケツを持って、見た目はそこそこ様になっている。
口に咥えられた笛から、震え気味に音が鳴った。演技スタートだ。黒瀬と汐屋がしていたように、水面に向かって戸部が差し伸べた手のひらに、見事、ぬっと浮上してきたララの吻が触れる。
お、と募った期待感は、すぐさま萎んでしまった。水に戻ったララは、そのまま深く潜るでもなく、何か特別動くでもなく、ただじっと戸部の顔をきょとんと見つめている。
要するに、なにも起きなかったのである。
「ララ、ドンマイ! もう一回だ!」
戸部の固い笑顔と猫なで声が苦しい。頑張って、と隣の女性受験者が耐えかねたように振り絞った。
戸部はおそらく、ララにジャンプをさせようとしている。だがそれは蒼衣が早々に断念したものだった。
戸部が気づいていたかは分からないが、エキシビジョンで黒瀬と汐屋は、芸の最初にイルカと目を合わせ、なにか複雑なハンドサインを素早く、さりげなく伝えていた。
その直前に必ず行なっていたのがあの、手のひらにキスをさせるという行程。つまりあれは「今からサインを出すぞ」という、イルカの注意をトレーナーに向けるための行為に過ぎず、それ自体に具体的な指示はなにも込められていないのだろう。
芸ごとに決められているハンドサインをマスターしない限り、既存の芸はなに一つイルカに指示することができない。なるほど、ふざけた試験である。
30分というあまりに短い練習時間からも分かる通り、きっと最初から海原たちは、完成度の高いコンビネーション演技など期待していない。
では、何を。
「すみませんね、お客さん!」
突然戸部がそんなことを叫んだので、蒼衣はハッと我に返った。
「普段はバンバン飛んでくれるんですけどね、今日はちょっと、ララちゃんお腹が減ってご機嫌ななめみたいですー。さっきご飯あげたばっかりなんですけどねえ」
その手があったか!
蒼衣は初めて戸部に尊敬の念を抱いた。海原と黒瀬の顔つきも一変し、愉快げな笑みを口元に浮かべて目を見合わせる。
おそらく本番で芸がうまくいかないことを練習の段階で確信し、予め用意しておいた文句。ララの失敗をトーク力で誤魔化し、やり過ごすつもりだ。ふざけているようでこれは多分、かなり本質をついている。
イルカだって生き物なのだから、体調や機嫌によってショーがうまく進まない日もあるだろう。そんな時、MC役が賑やかすだけで観客の満足度はかなり違うはずだ。
戸部はその対応力をアピールする方向に、早い段階から頭を切り替えてこの本番に臨んだのか。したたかな男である。ただ、蒼衣にはどのみち、逆立ちしたって真似できない芸当だ。
「まったく、しょうがないな! ララちゃーん!」
海原たちの反応に勢いを得たか、戸部は会心の笑顔を浮かべてララの名を大声で呼ぶと、バケツから比較的大ぶりの魚をむんずと掴んで掲げた。ララの目の色が変わる。
「ごはんだよー!」
ぽーんっと放り投げられた魚がくるくる回転しながら放物軌道を描く。ララは勢いよく潜水して深度をとると、宙を舞うエサめがけて垂直に飛び上がった。巨躯をくねらせ見事その口で魚を掴み取ったララに、2人の女性受験者の口から黄色い歓声が飛び出した。
「はい、そこまで!」
海原の号令とララのダイナミックな着水が同時だった。戸部はやりきった表情でこちらに駆けてくる。始まる前とは別人のように機敏な動きだ。どこか誇らしげな真顔。
当然、彼の中では大満足の出来だろう。だが、蒼衣の分析に間違いがなければ、戸部は不合格確定だった。
自分の番を今か今かと待ちながらショーの行方を見守る蒼衣。2人目、3人目の演技も滞りなく進行していく。
戸部が示した方向性に不安も和らぎ、彼のエネルギーに触発されたか、2人とも随分固さが取れたように伺えた。
ビーチバレーボールと、フラフープ。自由に使っていいという指示だったそれらの小道具を持ち出して、笑顔と明るさ、華のある見た目を活かして、持ち時間を精一杯盛り上げる。
そんな彼女たちの頑張りに応えるかのように、モモはボールを見事にトスしてパートナーに返し、トトは放り投げられたフラフープを吻でキャッチしくるくると回した。
イルカの芸の鮮やかさに、自分の番が刻一刻と近づいていることも一瞬忘れるほど、蒼衣は見入ってしまった。
演技を終えた彼女たちは、戸部と同じように、緊張感から解放された安堵と、演技が上手くいった喜びに表情をほころばせ、始まる前よりも堂々として帰ってくる。
すごかったな。案外やれた。楽しかった。気持ちよかったよね。最終試験の重圧から解放された受験者3人は、小声で興奮気味に語り合っている。唯一その輪に混ざれないのは、まだ演技を終えていない蒼衣だけだ。
「お疲れ様でした。じゃあ最後、蒼衣君。お願いします」
「はい」
いよいよだ。海原に名を呼ばれて、蒼衣は返事もそこそこに前に進み出た。演技を終えた3人が無遠慮に応援の言葉を投げかけてくる。
「ビビ、行くぞ」
演技の邪魔にならないよう、汐屋がプールの隅に固めていたイルカたちの群れに向かって蒼衣はそうひと声かける。その瞬間、群れから一頭のイルカが飛び出して、対岸に向かってプールサイドを歩く蒼衣のすぐ側に駆けつけ、ぴったり寄り添うように泳ぎ始めた。
ざわりと、室内中が揺れたのが蒼衣は快感で堪らなかった。
対岸に到着。顔を上げれば揺れる水面を挟んで向こう側に、小さくなったみんながいる。今や全ての視線が、蒼衣1人に注がれている。
「お前が呼んだだけで来たもんだから、みんなビビってたな」
くくく、と邪悪な笑いが喉の奥から漏れる。蒼衣とビビはイタズラの共犯関係がするように目を合わせた。
「落ち着けよ。合図はまだだ」
それは水面に顔を出したり沈んだり、落ち着きのないビビに対して言ったのか、それとも自分に言い聞かせたのか、分からなかった。
「始めてください!」
何か得体の知れない期待を秘めたような、力のこもった号令が迸った。次の瞬間、蒼衣は犬歯を剥き出しにしてニヒルな笑みをたたえると--用済みの餌入りバケツをその辺に捨てて、思い切りプールサイドを蹴飛ばした。
「えっ……」
「ん!?」
「はぁぁぁ!!?」
大小様々な驚愕の声を置き去りに、待ち侘びた海面を突き破る。豪快な水柱を上げ、蒼衣は一気にプールの底付近まで潜水。狂喜乱舞するビビに笑いかけ、そのまま、ロケットスタート。
切り取られた海の世界で、蒼衣は快哉を叫んだ。
ついてこい、ビビ。鬼ごっこだ!
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