第3話-3

 笛の音に合わせ、一糸乱れぬ動きで汐屋と黒瀬が手を伸ばす。下に向けたその手のひらに吸い寄せられるように、2頭のイルカが勢いよく飛び出しキスをした。


 目を疑う。キスの瞬間、イルカたちが助走をつけた様子は全くないのに胴体の8割以上が水から浮き上がったのだ。あんな細っこい尾びれ1本でそんな馬力が出せるものなのか。


 沈み込んだ2頭が水底に消えると、残る2頭も同じようにして後を追う。プールを覗き込むと、多少の屈折はあるが、透き通った海水の向こうで4頭が優雅に群泳する様子が確認できた。


「みなさんおはようございまーす! 本日は当海鳴水族館にご来館いただきまして、まことにまことにありがとうございます! 当館自慢のイルカちゃんたちの頑張る姿、ぜひ目に焼き付けて帰ってくださいねー!」


 びっくりした!


 すぐ近くの海原が、拡声器無しとは思えない馬鹿でかい声量で突然叫び出したのだ。高くてよく通る声だ。50m先でも余裕で届きそうである。少なくともこの至近距離で出す声量じゃない。


「まずはぁ、イルカちゃんたちからみなさんへ挨拶がわりのー……」


 ハイテンションで海原が拳を突き上げた瞬間、静かな水面から、一斉に生命の塊が飛び出した。


 全身を突き抜ける衝撃の通った先から肌が粟立つ。鳥肌なんて久しぶりに立てた。優に5m以上も舞い上がった黒い獣は、最高点で鮮やかに弧を描いて水面にダイブ。爆発じみた勢いで大量の水飛沫が跳ねる。


「すっ……げ」


 これがさっきまでの無垢で無害なイルカか。ただただ圧倒される。とてつもない存在感と迫力。呆けているうちに4頭は再び十分な加速を得ていた。


「特別サービス、もう1ぱーつ!」


 水面から発射された巨体は先ほどより1m以上も高く空を舞った。この屋内プールの天井がやけに高い理由がようやく分かる。蒼衣たち4人は、無意識に吠えていた。


 一際すさまじい水飛沫が全身に降りかかるのにも構わず、蒼衣はイルカの次の挙動から目を離せなくなっていた。4頭は汐屋たちの元に戻ると、ご褒美とばかりの魚を与えられてご満悦だった。


 イルカの能力は蒼衣の想像を遥かに凌駕するものだった。キャッチボール、フリスビー、時間差ジャンプ。その後の演技のどれを取っても大迫力。


 かと思えば、ピンポイントで蒼衣たちに向け手を振りながら水面に顔を出して泳ぐ、という女子悶絶もののパフォーマンスも合間に挟まれ、その芸達者さには舌を巻かざるを得ないものがあった。


 海原の進行も見事だ。これだけ高速で入り乱れていても4頭を正確に見分け、それぞれのイルカを適切に紹介していく。時には軽快なジョークを飛ばし蒼衣たちを沸かせた。


 濃密な5分が瞬く間に過ぎ去り、海原が名残惜しげに口を開く。


「いよいよ、最後の演技の時間になってしまいました。どうですかみなさん。これまで見て来て、最終試験の参考にはなりそうですか? まさか楽しむのに夢中だったなんてことはないですよね?」


 おそらく全員が図星だったことだろう。苦笑をさらっていった海原が満面の笑みで手を挙げた。


「スタイルのいいお姉さんはともかく、最近下腹が気になり始めたお兄さんは、突っ立ってばかりいないでイルカと一緒に泳いだ方がいいんじゃないですか? というわけで……」


 海原の意味深な発言に、黒瀬が自分のお腹をつまんでわざとらしく頭を垂れる。その後ろを、ぷるんとした唇に人差し指を当てながら、汐屋がそろりそろりと歩み寄っていく。しーっ、のポーズだ。絵になる仕草に見惚れる間も無く。


「ドボーン!」


 海原の合図に合わせて汐屋が黒瀬の背中を突き飛ばした……かと思いきや。黒瀬は土壇場でひょいっと横にかわしてしまった。代わりに盛大に水をはねてプールに落ちる汐屋。


「あららら……お姉さんが落ちちゃいました。まあこれはこれでいいでしょう!」


 どこまでがシナリオ通りなのか、3人の演技力のせいで判断できない。蒼衣は無意識に身を乗り出していた。


 イルカと人間が、同じプールに入った。それが何を意味するのか、これから一体何が始まるのか。期待と高揚が抑えきれない。


「それではみなさん、ご唱和ください。いきますよー! 10、9、8、7、6、……」


 唱和などしていられない。蒼衣の目は煌めく水面の向こう側に釘付けになっていた。


 洗練されたフォームで青の中を泳ぐ汐屋。そのすぐ後ろを、正確無比に追いかけるイルカ。汐屋が進路を変え、真下に潜水する。イルカが後を追う。


 深度を深く取って上体をもたげた汐屋の背後を、ぴったりとイルカが追随する。まるでホーミング機能つき魚雷だ。


 ふと、汐屋が上昇をやめて膝を屈めた。両足を人魚のようにぴったりとくっつけて。瞬間、イルカが、加速した。


「3、2、1……」


 イルカの力強い鼻先が、精密機械の如く正確に足裏を捉える。大人1人の重量を物ともせずに尾びれをかき回し、猛スピードで水面めがけて押し出す。とてつもない馬力だ。ぐんぐんと突き上げられていく汐屋は、人間離れしたバランス感覚で体勢を保ち--


 海原の突き上げた拳と完璧にシンクロしたタイミングで、人間ロケットが水面を突き破った。


「マジかよ……」


 目が自然に見開かれていく。高々と舞い上がった汐屋は、両手を広げてくるりと旋回し、芸術的な弧を描く。光る水滴を振りまく彼女の美しさが、見事に着水した後もずっと網膜に焼き付いて離れなかった。


 エキシビションを終えた汐屋と黒瀬、そして4頭のイルカたちに、受験者たちから惜しみない拍手が送られた。蒼衣は手を叩くのも忘れて呆然としていた。


 何か、この体のどこにあるかも分からない心を直接握って揺さぶられたような衝撃に貫かれて、全身にうまく力が入らない。


「さて、みなさんには今からこんな感じにやってもらうわけですが」


 改めて、できるかバカ野郎という話である。


「特に最後のイルカロケットなんかは、女性トレーナーでできるのは全国でも数えるほどしかいませんからね。全く真似しなくていいですよ。あくまでイルカとの親和度を見せてもらうための試験です。ここで経験していただいておけば、採用後の育成もスムーズになりますし」


 海原の説明を聞きつつ、蒼衣の目は汐屋を探していた。彼女は未だプールの中で、一頭のイルカと戯れていた。彼女に撫でられて、蒼衣の目にもイルカは心から嬉しそうな表情をしているように映った。


 ……あれ、あいつもしかしてビビか?


 なんとなくあの、愛嬌がありつつもどこか憎たらしい顔、そんな気がする。無性にそんな気がする。まさか自分までイルカの見分けがつくようになってしまったのかと、蒼衣は複雑な気分になった。


「バンドウイルカという種は温厚で人懐っこい性格と言われていますが、イルカやシャチが事故で人を殺したこともあります。これから30分間の練習時間を設けますが、何かわからないことがあったり、身の危険を感じたりしたときはすぐに指示を仰いでください」


 海原のいきなりの真剣な声音に一同緊張が走る。確かにあれだけの馬力を持つ獣だ。愛情表現でさえ人間の体はひとたまりもないかもしれない。


 時刻は9時を回ったところだった。ここは9時半開館のはずだが、戸部たちの話にちらっと出ていたのを聞く限り、どうやら試験日はイルカショーの日程を午前中減らすことで、採用試験の時間を捻出しているようである。


 そこまでするなら日を改めればいいのに、と蒼衣は思った。また明日集合して最終試験から再開した方がお互いのためではないか。たった30分とは、練習時間があまりに少なすぎる。


 それとも本当に、ハナから演技の出来は重視していないのか? ならなぜここまで立て続けに受験者が落ちている?


 頭を悩ませているうちに、海原によって受験者たちにイルカが割り振られた。蒼衣には根回ししていた通りビビが指定される。


 先ほどのエキシビションの衝撃と、不透明な最終試験の合格基準。それから得体の知れない感情がごっちゃになって、蒼衣の頭の中は散らかっていた。練習時間の開始が告げられ、各々とりあえずイルカとの面会に向かったが、蒼衣の足取りは重かった。


 目眩を覚えて硬く目を閉じると、まぶたの裏に映るのは先ほどの光景ばかり。青の中を自由に泳ぎ回り、圧倒的な存在感で空を飛んだイルカの姿。美しく宙を舞った汐屋の姿。


 あれがどうしても、忘れられない。


「どうしました?」


 柔らかくも凛としたその声にハッと我に帰ると、立ちすくむ蒼衣のすぐ側まで1頭のイルカを引き連れて泳いできた汐屋が、心配そうに蒼衣の顔を見上げていた。


「気分が良くありませんか? あれだけ長時間息を止めた後も、続く試験でも潜りっぱなしでしたもんね」


「ああいえ、ぜんぜん、体はなんとも」


 へりに手をかけて登ってきた汐屋に、蒼衣は反射で手を差し出した。「ありがとうございます」とはにかんで汐屋が手を取る。引き上げてもほとんど重さを感じなかった。いざ至近距離で見ると、直視できないほど可愛い。


「彼女があなたのイルカです。とてもいい子ですよ」


 やっぱりこいつがビビだった。あれだけのショーを見せつけられてしまっては、もうその能力を疑うことはできない。


「ビビ、さっきは悪かったよ」


 珍しく素直な気持ちになって蒼衣はビビに先ほどの非礼を詫びた。多分それほどに、感動したのだ。蒼衣が屈みこんでビビに顔を近づけると、きゅるんと瞳を輝かせてビビが初めてしっかり蒼衣の目を見た。


 ……よく見たらお前、けっこうかわいいじゃんか。


 次の瞬間、おでこにハンマーでぶん殴られたような衝撃が走った。たまらず悲鳴を上げて尻餅をつく。


「いってぇ!?」


 ビビがあろうことか頭突きをかましてきたのである。正確には鼻なのか吻なのか分からない顔から突起した部分が、蒼衣のひたいをど突いたのだ。


「こんにゃろ、人がせっかく仲良くなろうと……」


「ふふ、今のは頭突きじゃなくて、チューですよ」


 背後で汐屋が愉快げに笑う。不覚にも汐屋がその単語を発したことにどきっとした。


「い、威力強すぎませんか……」


「勢い余っちゃっただけでしょう。少し顔を引き気味にして受け止めなきゃいけません。そうすると」


 吹き飛ばされた蒼衣の代わりに前に出た汐屋が、ちゅっちゅっ、と唇で小さく音を鳴らした。ビビが勢いよくその鼻を伸ばして飛び上がってくる。汐屋はそれに合わせて少し体をそらし、ビビを包み込むように受け止めた。


 目を閉じた汐屋の唇と、ビビの口先がピトッと触れた。それはほんの一瞬のことだったが、スクリーンショットで焼き付けたようにずっと頭から離れない。写真集の見開きを飾れるほど絵になる光景だった。


「このように、口同士をつけることができますよ。ビビちゃんはイケメンさんが好きですから、ぜひやってあげてください」


「は、はい……」


 口をあけて惚けることしかできない。彼女が立ち去ったらすぐにやろう。今なら間接的に凪ちゃんともチューしたことになるはずだ。ほんとに絶対やろう。蒼衣は鼻息荒く心に決めた。


「頑張ってくださいね。応援してます」


 鬼も萌え殺すような笑顔を残して汐屋が去っていった。試験官の立場として1人の受験者と長く関わってはまずいのだろう。彼女が背をむけたのを確認して蒼衣はビビに向き直った。


「さあビビ、来い!」


 汐屋がやっていたように唇で音を鳴らしてビビを誘う。ビビはきらーんと目を輝かせると、弾丸の如く飛び出して蒼衣の脳天を貫いた。


「いてぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

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