第5話-1

 快晴。柔らかく穏やかな波。布団を思わせる水温。海のコンディションはこれ以上無かったが、蒼衣の時化しけた心は凪ぐどころか荒れる一方だった。


 もっと深く。蒼衣はまるで人間が空気を求めるように、我武者羅に手足を動かして深海を目指す。喉の奥が詰まる。口いっぱいに綿が押し込まれていくようだった。普段の何倍も早く限界が訪れても、蒼衣は潜水をやめない。


 暗くて冷たくて、静かな場所に行きたい。地上の光も色も、届かない場所がよかった。まだ思い出す。どれだけ締め出しても浮かんでくる。ここより冷たい水温。狭いプール。不思議な動物の匂い。風を切った感覚。大歓声。不合格の宣告--


 潜っても潜っても、どんなに酸素の供給を止めても、普段の余分な思考が削ぎ落とされていく感覚は訪れない。目が霞む。驚くことに、泣いているのだった。喉が詰まって吐きそうになる。


 不意に心臓が早鐘を打った。強く、速く、殴りつけられるような鼓動。瞳孔が開く。正体不明の寒気。どちらが上で、どこに向けて潜っていたのか、方向を見失う。全身から大音量の警報が聞こえる。


 息ができない。苦しい。冷静さが栓をひっこ抜いたように、瞬く間に抜け出て行く。目をこじ開けて八方どこを見渡しても真っ暗闇。ブラックアウト。恐慌に陥りながら漠然と死を悟る。


 水中で暴れかけた蒼衣の手が、誰かの手によって力強く掴み取られた。一瞬硬直した隙に口の中にレギュレータを詰め込まれる。ゆっくり、ゆっくり肺に酸素が満ちていくにつれて、蒼衣は徐々にパニックから覚めていった。


 再び鮮明になってきた視界の端に映った金髪。心配そうな顔で蒼衣を覗き込んでいる涼太に、ハンドサインで問題ないことを伝える。涼太に助けてもらいながら、蒼衣は時間をかけて水面に顔を出した。


 船に上がった途端、軽いめまいがしてよろける。水深計の表示を見て激烈な屈辱を感じた。蒼衣はほんの水深15mという地点でパニックに陥っていたのである。


「大丈夫かよ。蒼衣がパニックなんて珍しいこともあるもんだな。長らくバディやってっけどまともに助けたのなんか初めてじゃねえか?」


「……悪い、助かった」


 ダイバーの多くは、パニックの脅威と戦っている。心の不安、焦り、恐怖。水中の深いところにいると、時折、多くはそんな精神的弱りが原因で極度の混乱状態に陥ることがある。これがパニックだ。


 これまで蒼衣は類いまれなる、パニックと無縁のダイバーだった。幼い頃から精神的負荷の強い素潜りを、時にはバディすらなしで日常的に平気で続けてきたせいなのかもしれない。


 むしろ深く潜れば潜るほど、蒼衣は頭が冴え心が穏やかになり気持ちよくなるという重度の変態であった。体験して初めて、身をもって思い知る。パニックとはこれほど恐ろしいものだったのかと。


「冷静に対処してくれた涼太のおかげだ。最悪死んでたかも」


「用意しては毎回使わずじまいだったタンクをようやく使えて、むしろ嬉しいってもんよ。……つぅか、今朝なんたらトレーナーの試験とやらでけっこうな無茶したんだろ? 疲れてたんだよ。今日はもうやめとけや」


「……あぁ、そうだな」


 帰りの運転は涼太が引き受けてくれた。岸に向かって走り出した小型船の上で、蒼衣は経験したことのない劣等感に唇を噛み締めた。大きな太陽は西に傾き始め、澄んだ青空のバランスが少しずつ崩れていく。


 蒼衣はドルフィントレーナーの試験に落ちた。


 原因は分からない。蒼衣は理由を追求することができなかった。できることを全てやって、自信もあった。その上で否定された衝撃とショックが、思った以上に強すぎたのだろう。


 蒼衣の不合格に納得できず食ってかかってくれた戸部に対しても、海原は「合格基準や採点内容には言及できない」と苦笑気味に応対していた。蒼衣は誰とも口を聞くことなく、無言でプールを出て、気づけば着替えて父の車に乗っていた。


 車内の記憶も曖昧だ。大吉はどうだったとも聞かなかったし、蒼衣も、せっかく紹介してくれた大吉に対してごめんの一言も口にできなかった。


 母は何か小言を言ってくるかと思ったが、帰ってきた蒼衣と父の顔を見るなり、何も言わずに昼食を作ってくれた。


 自室に戻ってようやく1人の空間に浸れたとき、蒼衣は初めて強烈な苛立ちを覚えた。叫び出したくなった。壁を殴りつけたくなった。けれどそういうのは、最もダサいのだと知っていたから必死に我慢した。


 無性に海に潜りたくてダメ元で涼太を誘った。涼太になら話せることがあると思った。普段は短い文面で用事を伝える蒼衣が電話をかけてきたことに何か感じてくれたのだろうか、電話口の涼太の返事は快いものだった。


 それでも結局、迎えにきてくれた涼太に、徒歩で海に向かう間話せたことは、父の紹介でドルフィントレーナーの試験を受けたこと、上手くできたのに落ちたこと、この2つが精一杯だった。


「蒼衣ィ」


 操縦室から、前を向いたまま不意に涼太が声を張り上げた。


「……なに?」


「お前のそんな顔、オレ初めて見たぜ。なんでも簡単にこなして、たまにできねぇことがあったらできねぇままにしておいて、ダイビングしてねぇ時のお前はいっつもつまんなそうだった。そんなお前がさ……そんな悔しそうにしてんの初めて見たから、ちょっと嬉しいっつーか」


 蒼衣の方こそ、珍しいものを見た思いだった。ボキャブラリーに乏しく、言葉に困ると「それな」とか「あーね」とか、聞いているのか分からないような相槌を使う涼太が、自分なりに言葉を探して蒼衣を励ましてくれている。


 悔しそう、か。この苛立ちには悔しさという名がつくらしい。悔しくなるほど、自分はあの場所に、惚れ込んでいたというのだろうか。


「なにがそこまで、お前をそうさせた?」


「俺は……」


 人前で泳ぐのが気持ち良かった。職場に綺麗な人がいた。技術を観衆に披露して歓声を浴びるのが爽快だった。どれも事実で、どれも違う気がする。


「……分かんねぇよ。あそこに何があったのか、どうしてこんなに、忘れられないのか……ただ、何か、あそこに忘れ物がある気がする」


 試験が終わってからも、家に帰ってからも、海に潜っていてもずっと、あの場所に後ろ髪を引かれている感覚があった。大切なものを忘れてきた。だからこんなにモヤモヤする。


「なるほど。んじゃさぁ、今から行ってみっか」


「は?」


「海鳴水族館だよ。今……5時か。6時閉館だよな、飛ばせば最後のショー見れんだろ」


「おい、やめろ」


「面舵いっぱーい! ヒャッフー!」


 ファンキーな奇声をあげて金髪ギャル男が舵を思いっきり左に切る。船体がぐわりと傾き、危うく振り落とされかけた。


 そっちは取り舵だバカ!


 手すりに叩きつけられた蒼衣が泡を食ってツッコむ間も無く。エンジン全開で加速した小型船は、蒼衣の悲鳴を乗せて海鳴水族館を目指し、海面を滑るように爆速で走り出した。

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