第9話-1

 それから1週間は、まさしく忙殺の日々だった。


 夏休みシーズン仕様で土日の閉館時間が8時まで伸びたことが、最も負担の増えた理由である。ショーの回数が倍近くになるだけでなく、当然ショーとショーの間隔が短くなるので余裕が失われていく。


 昼と夜の食事も大急ぎで交代でかき込む感じ。休憩もあってないようなものだ。


 平日も、普段は6時閉館でその後2時間ほどのトレーニングだったのが、芸の習得のため集中的に3時間のトレーニングに変わった。平日でも帰宅は10時近くになる。次の朝も6時半起きだ。


 蒼衣の肌は首筋や鼻の上、両腕を筆頭に強烈な日焼けをして、海水に入ると燃えるように痛むようになった。ダイビングで慣れている蒼衣もここまで酷い日焼けに悩まされたのは初めてだ。


 朝から晩まで照り返しの強いプールサイドに立ちっぱなしの生活。その過酷さは想像を絶するものであった。家に帰るとシャワーを浴びる元気もなく、泥のようにベッドに沈み込んで眠る。


 眠りが深くなったせいか、朝は恐ろしいほどスッキリ目がさめるようになった。


 この1週間蒼衣は、夜のトレーニングの時間やショーローテーションの隙間を使って、週明けの火曜日からのショー出演を目指して、若くてやんちゃなモモとの芸の練習に身を入れた。


 水入りを禁止されたのが想像以上に痛かった。ビビの時のように、競泳することで蒼衣に関心を向けさせる手が使えない。


 トレーナーの水入りがないイルカの芸というと、有名なものはジャンプやテイルウォークなどがあり、全てはトレーナーが出したサインにイルカが従うという単純なメカニズム。


 ところがこれが、相当の難関であった。モモが全く言うことを聞いてくれないのである。


 初日のトレーニングで、海原の指示を反芻しながら自信なさげにサインを出した結果、どうもナメられてしまったらしい。新人には珍しいことでもないそうだが、モモの態度は相当蒼衣のプライドに触った。


 今すぐ水に飛び込んでやりたいのを堪えて、努めて毅然と振舞ってみたり少し怒鳴ってみたりしたが、一度ナメられるとなかなか認識を改めてはもらえない。


 根気強く接し続けること8日間。練習を始めて丁度1週間後の閉館日トレーニングで、ようやく信頼関係が形になった。初めてモモが言うことを聞いてくれた時の感動は忘れられない。思わずプールに飛び込んでモモに抱きついた。


 蒼衣の喜びようが嬉しかったのか、それからは何度繰り返しても指示を正確に聞き分けて芸を実行してくれた。海原からも「短い期間でよく仕上げたね」と褒められ、予定通り、翌日の火曜日から出番は僅かだがショーの出演が決まった。


 一方の汐屋とビビも--


 この1週間の激務をぼんやり回顧していた蒼衣の目の前を、低空を飛翔するようにして黒い影が横切った。凪いだ水面が爽やかに切り裂かれ、波が生まれる。朝の陽光を背に波を乗りこなす汐屋の精悍な眼差しが、一瞬だけ蒼衣を捉えて柔らかく細められた。


「すげ……完璧じゃん」


 過ぎ去っていった汐屋の背中に見惚れ半分、ため息まじりに感嘆の声が漏れた。


 汐屋とビビの大技も、この通り、昨日蒼衣とほぼ同じタイミングで満点の仕上がりとなった。本日は7月末日の火曜。先々週のMCぶりに蒼衣がショーに出演する日であり、汐屋とビビの新技を初披露する予定の日だ。


「お互い、どうにか間に合わせることができましたね」


 プールから上がってきた汐屋に手を差し出すと、彼女はその手を取りながら笑顔でそう言った。今日は蒼衣にとっても汐屋にとっても特別な日なので、早めに出勤して開館前に軽いリハーサルを終わらせたところである。


「いや、俺と汐屋さんじゃ難易度が全然違うでしょ」


「とか言って、蒼衣君はこういうのぶっつけ1回目で成功させちゃいそうで怖いですから、しばらくは絶対試したりしないでくださいね」


 汐屋がジト目でそんなことを言う。女性では全国的にも数えるほどしかいないイルカロケットの使い手であるほど運動神経に優れた汐屋だが、確かにイルカサーフィンにはかなり苦労していた。


 ビビをショーローテーションから多めに外して日中も練習時間を確保していたとはいえ、たった1週間でモノにしてしまったのだから凄まじい。悔しいが、深い絆で結ばれたコンビだ。


「俺たちだって負けてないもんな、モモ」


 プールサイドに寄ってきて、汐屋によしよしされているビビを横目に見て面白くない気分になった蒼衣は、新パートナーのモモを餌で釣って撫でくり回した。


 もう自分は一流のドルフィントレーナーだ。イルカに贔屓もえり好みもない。そう思いたくても……やっぱり、ビビはどうしても特別なのだった。


 蒼衣にオススメを聞かれて、全員可愛いから選べないと即答してみせた海原の境地は、まだまだ遠い。


 ミーティングから帰ってきた海原と黒瀬の呼ぶ声が聞こえた。時計を見ると閉館時間5分前。30分後には最初のショーが始まるが、今日は緊張感も程よかった。


 大丈夫、上手くできる。


「今日はかっこいいとこ見せてくれよ」


 海原たちの元へ駆けつける前に、モモとビビの背中をパチンと叩いてそう言った。

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