第14話-1

 憎らしいことに、アラームを解除したにも関わらずほぼ同じ時間に目が覚めた。


 8月26日、日曜日。午前6時50分起床。生活リズムというのは恐ろしいものだ。父がたまに帰ってきた日まで毎日6時に起きていた理由がようやく分かった。


 二度寝しようにも気分はスッキリしていて、昨日不可解なブラックアウトに襲われたのが嘘のようだ。いっそいつも通り朝イチで出勤してやろうかと思ったが、今は少しでも体を休めるのが務めと思い直し、ごろんと仰向けに寝転がる。


 暇だ。


 蒼衣の部屋に娯楽の類はほとんどない。本も漫画もゲームも、テレビさえ置かれていない殺風景な部屋だ。海さえあれば何もいらなかったから、そういえば蒼衣は潜る以外に暇の潰し方を知らない。


 今更そんなことに気づくぐらい、充実していたのだろうか。忙しくてもしんどくても、蒼衣はあの職場が好きだ。ドルフィントレーナーという仕事が好きだ。


 新しい趣味を、見つけてみようか--そんな風にふと思ったのはなぜだろう。仕事が充実しているというのに趣味を探したいと思うのはなんだか矛盾くさい。


 けどきっと逆だ。ドルフィントレーナーという仕事を深く知っていくにつれ、その魅力を少しずつ感じられたから蒼衣は信じられるようになったのだ。


 まだ蒼衣が知らないだけ、出会っていないだけの感動は、この世にいくらでもあるのだろうということを。


「……いよいよ、今日か」


 天井を睨んだ蒼衣の目は鋭くも、余裕があった。


 今日のショーでビビに商業価値があるとオーナーに証明できなければ、ビビを救う水槽は建設されない。そうなれば、いくらビビが蒼衣のついている間は泳げるようになったとは言えども、彼女の命はそう長くもたないだろう。


 そうはさせるものか。ビビは仲間で、相棒で、親友だ。絶対にそんな死に方はさせない。例え別れの日は来るんだとしても、その度に尽くせる手は全て尽くして抗ってやる。


 ただ何より。今日は蒼衣とビビの夢が再び叶う日だ。ショーが始まったなら、成功させると言う強い気持ちだけ残して、後は難しいことなんて考えなくていい。


 思いっきり楽しんでいこう。


 興奮してますます眠れなくなった蒼衣はベッドから起き上がり、シャワーを浴びるべく1階に降りた。時刻は7時40分ごろ。リビングに入るなりジュワァァァ……と何かを景気良く油で揚げる音が聞こえて戦慄する。


 まさか--


「あ、おはよう蒼衣! 今日は絶対に勝てるように、お母さんカツカレーとカツ丼とそれからシンプルにカツを揚げるからね!」


 キッチンで上機嫌に夥しい量の豚肉を揚げている母の夏子に、蒼衣は「だからショーに勝ち負けはないって……」とさえ言えなかった。なんで前回の果敢なメニューに加えてシンプルにカツを揚げようと思ったんだ。買い込みすぎだろ他の食卓にカツ足りてる?


 シャワーを浴びる気分でもなくなり、蒼衣はテーブルについて戦々恐々と殺人料理の完成を待った。夏子は基本的に料理の腕は確かで、作る食事は全て絶品なのだが、献立の創造性に大きな課題が残る。


 テーブルに所狭しと置かれた、例え夕飯でも遠慮したい破壊力の朝食を家族3人で囲む。さしもの大吉もこれには頰を引きつらせた。


「母さん……どうしてシンプルにカツを……」


 絶句していた大吉がどうにか振り絞ったのがそれだった。夏子は首をかしげる。


「この間のショーじゃ蒼衣がミスっちゃったから、お母さん責任感じちゃって。今度こそ成功しますようにって」


 気持ちだけは本当にありがたい。なるほどこれがありがた迷惑か。


 ちゃっかり母の前にはカツすら入っていないただのカレーのみが置かれているのが憎らしい。この女は男ならなんでもいくらでも食うと本気で思っているのだ。確かに大吉も蒼衣も大食いの部類だが、栄養のバランスが恋しい。


 蒼衣と大吉は目を合わせると、健闘を称え合うように目を伏せた。控えめに言ってイカレているとは言え、悪気なく、むしろ蒼衣のためを思って作ってくれた食事だ。米粒ひとつでも残してはならない。男2人は強く共鳴し、一つ大きく深呼吸すると同時にスプーンを取った。


 シンプルに揚げたカツをおかずにカツカレーとカツ丼をかっ込む。大丈夫、何を言っているのか分からないのは蒼衣も一緒だ。


 たっぷり30分かけて激闘に勝利した蒼衣と大吉は、顔を青くして机に伏した。もう食えない、という状態を極限まで体験した。夏子が嬉しそうに手を合わせて食器を洗いに行く。母の喜ぶ姿を見られたのだ、よしとしよう。


「はい蒼衣、これ」


 夏子の洗い物が終わる頃には蒼衣も僅かに回復していた。机に座って大人しくゆっくり水を飲んでいた蒼衣に、歩み寄ってきた夏子が何かを差し出した。


 中学生の時からお馴染みの風呂敷に包まれた大きな弁当箱。蒼衣はなぜだか普段とは違う、感慨深い気持ちでそれを受け取った。


「あのさ、母さん。毎日美味い弁当作ってくれてありがとう」


 何気なく滑り出た本音に、母は雷に打たれたように固まった。


「な……なんだよ」


「だって……高校の卒業式の時だって言ってくれなかったからぁ! 一生言ってもらえないと思ってたからぁ!」


 泣き出してしまった母に蒼衣の方がしどろもどろになる。そうか、普通は卒業式の日に言うものなのか。


「ごめん……我ながら遅いけど母さんのありがたさに最近気づいたっていうか。今日は見に来てくれるんだろ。精一杯やるから、俺。水の中にいて見えにくいかもしんないけど、見てて」


 余計に夏子が大泣きしてしまって居心地悪くなった蒼衣は、結局予定より1時間も早い電車で出勤したのだった。

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