第14話-2
「おはようございます」
おはようには少し遅い時間だったが、出勤時の挨拶はやはりこれがしっくりくる。トレーニングプールには3人ともがいて、蒼衣を見るなり目を丸くした。
「随分早いね。ゆっくりで良かったのに」
「まぁ、ちょっと色々あって」
「いよいよだなァ。楽しんでいけよ」
海原と黒瀬が蒼衣の元に駆け寄る中、汐屋はその少し後ろでもじもじしていた。うまく輪に入れないでいる。目が合うなり、蒼衣はどんな顔をしていいか分からなくなって逸らしてしまった。
「体調は万全かい?」
確認事項のように聞いて来た海原に、蒼衣は自然な間を開けて答えた。
「完璧です。なんなら今日のショーは全部俺に任せてくれてもいいのに」
「ははは、頼もしいけど、今日は一球入魂でいこう」
海原の言う通り、本日のショーは事前から告知をして、14時半からの一度のみ開演というスケジュールになっている。
ビビにとっても蒼衣にとっても1日に何度もショーをこなすのは体力的、精神的に難しく、かと言って前後のショーをビビ無しでやるとなると、内容が大きく変わって他のイルカたちが対応できなくなる恐れがあるためだ。イルカチーム全員がビビのショー1本に力を注げるようにという意味もある。
その代わり、今日は海鳴水族館全体の協力をフルに要請して、イルカショーの観客席を追加仮設して大幅に拡張している。
広報部がホームページで大々的に『盲目のイルカショー』を謳って宣伝し、その話題性は数日前に新聞沙汰にもなった。
蒼衣とビビの連携が十分完成したところで踏み切ったのでほとんど直前の宣伝となったが、それでも地元メディアを中心に期待以上の盛り上がりを見せ、今日の来場者数はピークのお盆休みを上回ると予想されている。
ビビのハンディを売り文句に使うのは、会議でも意見の別れたところだ。結局「ビビの頑張りを知ってほしい」「ビビの商業価値を示すとオーナーに約束した以上やむを得ない」「ハンディを抱えた人たちに勇気を与えられるかもしれない」などの意見に後押しされて、全面的に"盲目"を売り出す形になった。
蒼衣は、皆が言うほど難しくは考えていなかった。ビビはそんなこと気にしないと知っていたからだ。ただビビなら1人でも客が多くて、一身に注目を浴びている方が嬉しいだろうと思ったから、ビビの宣伝に賛成した。
とは言え扇動しすぎた結果、決して失敗の許されない状況に自らを追い込んでしまったのは確かである。蒼衣が今日下手を打てば、それだけで海鳴水族館が存亡の危機に立たされる可能性もある。
「……その割には、あまり緊張してないみたいじゃねえか」
「俺には観客の姿がほとんど見えないですからね。案外リハと同じ感じでやれそうです。イルカもこんな気持ちなのかも」
「図太くなったもんだなぁ」
呆れたように黒瀬が笑う。実際、緊張感は程よく頭はフラットだった。今までのどのショーよりも、必ずうまくできる確信がある。裏打ちされた努力を積んできたのだから。
ビビのケージに歩み寄った。ビビは蒼衣の姿を見るなり、普段とは明らかに違う空気感で挨拶を伝えて来た。さすがに緊張しているのかと思ったら、違う。
「はは……待ちくたびれたって? 悪かったよ、ちょっとカロリーの化け物と戦ってたんだ」
本当に図太いのはどっちだか。どうやら蒼衣は、この悪友に似てきてしまっているらしかった。
「あの……蒼衣君」
いつの間にかすぐ横に来ていた汐屋に呼ばれて、蒼衣は飛び上がりかけながら振り返った。
「お、おはようございます」
「体、本当になんともないんですか?」
真っ直ぐな視線に射抜かれて、ほんの一瞬、硬直する。明らかに確信を得ている目だった。
「……どうして?」
「さっき海原さんに聞かれた時の答え方が、なにか変だったから」
うまく応えられたつもりだったのに、それが逆に不自然だったのだろうか。海原と黒瀬は誤魔化せたのに。
「全然なんともありませんよ、ほんとに。それより今日の夜予定空けといてくださいね」
「えっ……!」
「返事するって言ったじゃないですか。俺着替えてきます」
お茶を濁し、汐屋が動揺している隙をついて彼女の横をすり抜けると、蒼衣はそそくさと更衣室に入った。
昨日は少し疲れていたのだろうが、今は本当になんともない。余計な心配をかけてショーに影響が出ることの方が怖かった。本番のたった30分ぐらい、辛抱できない蒼衣では--
視界が暗転する直前、今度は前触れを察知できた。倒れこむ方向を床からロッカーに修正した。体当たりのような勢いで肩からロッカーに激突し、派手な音が鳴る。膝をついて、荒く細かい息を繰り返しながら手のひらで顔を覆った。動悸が信じられないほど早い。
「……ふざけんなよ、ここにきて」
目がぼやける。くわん、くわん、と脳が直接揺れているような気持ち悪さ。ぎゅっと目を固くつぶると、こめかみの奥が釘を打ち込まれるように痛んだ。
1日しっかり休んだはずなのに、またこれだ。地上でのブラックアウト現象。まるでプラグを抜かれたみたい視界が突然真っ暗になって、全身の機能が一瞬停止する。
ショーが失敗する--その予感が初めて蒼衣を包んで心に細波を立てた。騒ぎを大きくして集めた大観衆の前で、盛大に啖呵を切ったオーナーの前で、ショーは物の見事に崩壊する。それ見たことか、そのイルカはもうダメなんだと嘲笑され、そしてビビは……蒼衣に失望するだろう。
--ふざけんなよ。あんなに練習して、完璧に形にしたのに、こんなことで……こんなことで……!
深く、深く、深呼吸をして、蒼衣は必死で呼吸を安定させようと試みた。昨日よりも回復に随分時間がかかる。苛立ってはダメだ。余計に心拍が乱れる。そう言い聞かせても、理不尽に対してやり場のない怒りは抑えられなかった。
マシンガンのように早まる鼓動。揺らぐ視界。杭を打つような頭痛。誘発される吐き気。耳鳴り。症状が昨日の比ではない。自分の身に、何が起きている。
この3週間、人間では考えられないような長時間蒼衣は水の中にいた。分かっているさ。これはその代償なんだろう。そんなの覚悟していたさ。そんなの、いくらでも受けてやるつもりだった。
でも今じゃないだろう。どうして明日まで待ってくれない。ビビには、今日しかないんだ。蒼衣は奥歯を砕けるほどに噛み締めた。憔悴しきった両眼に、危うい光を灯す。
「……命を賭けるって、言ったもんな。望むところだよクソったれ」
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