第15話-1

 ショープールに到着するなり、汐屋源治はうねるような人の波でごった返した客席を目の当たりにして眉根を寄せた。


 道中、車内のラジオが報せていた今日の最高気温は37.6度。午後2時を過ぎた今の気温はそれにほぼ近しいはずだった。気を抜けば死人が出るような猛暑日だ。にも関わらず、この人の数は凄まじい。ショーの開始を待ちわびる潜めたような喧騒が大気を揺るがすようだった。


 盲目のイルカ、ビビのニュースは隣県に住む源治の耳にも届いていた。メロン器官という致命的な機能を失ったにも関わらず、ショーの出演を目指すという美談のどこかが人々の琴線に触れたのか。満車の駐車場には県外ナンバーも目立ち、ホテルの予約を取るにも苦労したほどである。


 付き人とともに圧倒されかけながらショープールの周囲を徘徊していた源治に、小柄な人物が声をかけてきた。


「汐屋オーナー、お待ちしておりました。お忙しい中ご足労痛み入ります」


 腰が曲がり小学生ほどの背丈になった白髪混じりの老人。ツナギ姿が妙にハマった柔和な顔つきの好々爺だ。鯨川、この水族館の館長である。


「構わないよ。ウチの水族館にこれだけ人が集まっている光景を見れただけでも来た甲斐があったというものだ。最も……肝心のショーが成功しなければ何もかも水の泡だがね」


 目を細めた源治に、鯨川はゆっくり首を縦に振る。普段から源治に頭の上がらない、気の弱い男だったはずの彼が、今日はどういうわけか妙に落ち着き払っている。常にほぼ閉じかけの目も心なしか開かれ、注視すればいつもより腰も伸びている気がする。


「……彼の調子はどうですかな? ほら、私に向かって威勢良く啖呵を切って見せた、あの青年は。イルカの盲導犬になるとか言っていましたが」


 鼻で笑いそうになるのを堪えて問う。あんな妄言を未だに間に受けている自分が我ながら滑稽にも思えた。彼はあの後、海原あたりにこってり説教くらったことだろう。


 半ば戯れの約束だったが、先日本当に、鯨川から指定通りの日時にショーをするので来てくれと連絡があったときは正直驚いたものだ。どんな方法を思いついのか知らないが、本気であのイルカを舞台に上げる気らしい。今日は思い切り笑ってやるつもりで遥々足を運んだのだ。


「私も彼とビビの演技を見せてもらったのは一度だけです。練習風景をこっそりとね。それを見て私は……今まで何を見て来たのかと頰を張られた気分になりました」


 糸目を開いた鯨川の鋭い眼が、刺すように源治を捉える。


「生き物の持つ無限の可能性を見せつけられた瞬間でした。彼とビビを誇りに思います。ああ……始まる前から野暮でしたな」


 鯨川は仙人めいた調子で穏やかに笑った。まるで人が変わったようだ。あの男とあのイルカが、変えたというのか。


「……それは楽しみだね」


 鯨川の案内で、源治と付き人は客席の上部に案内された。仮設の屋根がついた特等席だ。高い位置から、広いプールの全域を一望できる。浜風も心地よく、悪くない席だった。少しでも源治のご機嫌を取るためにあぁでもないこうでもないと議論を重ねたのだろう。その姿を想像して、源治はいっそ哀れにさえ思った。


 ビビとかいうイルカのために経費を割くつもりなど源治には毛頭ない。鯨川たち現職の者が感じているより何倍も、今の海鳴水族館の経営状況は苦しい。汐屋ビル本社も低迷期が続いており、源治に張っている虚勢ほどの余裕はなかった。


 せめて憂さ晴らしに見せてもらおう。この3週間愚直に頑張った彼らの成果とやらを。付き人に扇子で扇がれながらショーの開始を待つ。


 広々としたプールを漠然と眺めていた源治は、客席よりも向こう側、丁度プールを両サイド真横から挟むように、青い派手なハッピ姿の屈強な男たちがぞろぞろと二手に分かれて集合していくのに気づいた。


 男たちがそれぞれ担ぐ、真っ赤な鯛や黒く雄々しい鰹などが意匠化された、ド派手な色彩の大漁旗が浜風に靡く。さすがに目立つので観客もざわめき始めた。


「……館長、あの連中は?」


「ああ、地元の漁協の青年団ですよ。ショーを盛り上げたいと申し出てくれまして。ビビの特訓に際しても力を貸してくれたようで、断りきれませんでね。旗を振るぐらいならと許可したんです」


「ふうん……」


 源治は一目でガラの悪い漁協の青年団とやらをさして興味もなく見下ろした。思えば地元の団体とこんな風に連携することがこれまであったろうか。


 この水族館に出資を始めてもう20年以上経つが、源治はまるで全く知らない場所にショーを見に来ているような錯覚を起こしていた。


 果たして、時刻が2時半を迎えた。軽やかなBGMが流れ始めると同時、漁協の男たちが気合い一閃、一斉に身の丈を超える旗を振り上げる。


 風を受けて踊る力強い色彩の乱舞に、それまで青年たちを怪訝に見守っていた観客たちが否応無く熱狂する。腰を落とし、一糸も乱れず大漁旗を操る男たちの動きはよく訓練されたものだった。


 ショーは源治の知るどれよりも、盛大に開幕した。間も無くステージの向こう側から、満面の笑顔で1人の男が飛び出してきた。水泳選手のような肉体を海鳴のウェットスーツに包んだ海原である。


「どうもー! 皆さんこんにちは、本日は海鳴水族館にご来館いただきまして、まことにまことに、ありがとうございます! 今日は全国、いや、全世界初公開! 海鳴イルカチームの特別公演を、ぜひ最後まで楽しんでいってくださーい!」


 海原の進行している姿を見るのも5年以上ぶりになるが、全力だった。持ち前の愛想の良さと軽快さは変わらず、その上でこのショーにかける強い気持ちが全面に現れている。その迫力にさしもの源治も圧倒されかけた。


「今日はすごいお客さんの数ですね。皆さんのおめあてはやはり彼女でしょうか。せっかくですから、当館自慢の他のイルカたちの頑張る姿も、しっかり目に焼き付けて帰ってくださいねーっということでいきなりいきまーす!」


 ごうっ、と唸りを上げる水面。天を衝くような水柱を上げて、4頭のバンドウイルカが高空を舞った。6m以上は到達しただろうか。不意を打たれた総勢500近い観衆から歓声が迸る。


 その巨体が着水すると、大量の水しぶきが客席に向かって降り注ぐ。打ち水に近い現象なのか、イルカショーが始まると周辺の気温がすうっと冴えるように低下するのだ。


 源治はビビの姿を探していた。海鳴のイルカの数は5頭のはずだ。海原の言葉から読み取っても、今ジャンプした中にビビはいないはず。源治の目で確認できる限り、着水して水中を泳いでいる影は4つ。


 間も無く海原と同じ場所から飛び出して来た、例のチンピラ崩れのような金メッシュの男と、娘の凪がイルカたちに餌を与えていく。1人2頭ずつ受け持つようだ。


 そんなことより、ビビはどこにいる。

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