第13話-2

 初めて入る汐屋の車の中は、思わずくらっとするほど甘くていい匂いがした。


 淡い水色の軽自動車の助手席に、促されるまま乗り込んだものの、外は真っ暗、オレンジ色の室内灯でほのかに照らされた車内に隣り合わせで2人きり。


 緊張しない方が無理なシチュエーションだった。


 普段は2人になるとさり気なく会話を振ってくれる汐屋なのに、今日に限って無口である。シートベルトを締め、室内灯を消し、「行きましょうか」と一言だけ囁いて汐屋は車を発進させた。


 車内にゆったりとした音楽が流れ始める。イヤホンすら持っていないダイビングバカの蒼衣は当然知らないアーティストだった。汐屋の趣味はこういうのなのか、となんだかプライベートな領域に踏み込んでいる気がして気持ちが浮つく。


「あの、お家はどのあたりなんですか?」


「え!? えっと、ここ右に曲がって、この海沿いをずっと真っ直ぐお願いします!」


 呆けている間に海鳴水族館の前を横切る道路の前まで来ていた。慌てて道案内する蒼衣の指示に従い、ハンドルを右に切る汐屋。夜の9時半、車通りも疎らで道は薄暗かった。


 家に着くまで30分はある。どうする、何か話を振った方がいいのか。軽快に運転する汐屋をちらりと伺う。数秒おきに街灯の光に撫でられる彼女の横顔は、形容に困るほど美しかった。


「疲れているでしょう。寝ていてもいいんですよ」


「い、いえ、ぜんっぜん眠くないんで!」


 この状況で眠れる男はよほどの大物だろうと蒼衣は思った。とは言ったものの疲労は確実にたまっていたのか、頭がうまく働かず、全く会話を振ることができない。5分、10分、ほとんど沈黙の状態が続いていた。


「……蒼衣君。実はずっと、謝りたかったことがあるんです」


 不意に彼女は、そんなことを告白した。


「え?」


「私、父が苦手なんです。幼い頃からそうです。彼と目が合うと体が動かなくなって……私があの時父を説得できていれば、ビビも蒼衣君も、あんなに苦しい思いをすることはなかった。なのにビビも蒼衣君も、そんなの物ともしないみたいに毎日頑張って。日に日にビビは蘇っていって。……だからずっと言い出せなかったんです」


 車が暗いトンネルに侵入した。汐屋は苦々しげに唇を噛んでいた。


「ごめんなさい……私に意気地が無いばかりに、蒼衣君に全てを背負わせてしまって」


「そんな風に思ってたんですか?」


 融通の利かないほど真面目な人だ。蒼衣は呆れ半分苦笑した。


「オーナーが汐屋さんのお父さんって知った時は驚いたけど、仕事に親も子も関係ないですよ。イルカチームとしてあの水槽を提案して、拒否された。だから今度は別の方法で戦おうとしてる。それだけじゃないですか」


 海鳴水族館イルカチーム。汐屋はその一員としてこの3週間、やれることは全てやってきた。蒼衣は知っている。そして明日も同じように、イルカチームとして全員が力を尽くして、最高のショーを作る。


 それが仕事というものだ。


 仕事というと、義務だとか与えられたものをこなすとか、ノルマをクリアして賃金をもらうとか、そういうイメージを抱きがちだ。実際蒼衣もそうだった。けれど蒼衣はドルフィントレーナーになって痛感したのだ。


 本来仕事というのはもっと恣意的で、感情的なものではないかと。この3週間、イルカチームは普段の比じゃないほど働いた。血反吐を吐くような思いもした。それはもう与えられたノルマでもないし、手当てが余分に出るわけでも当然ない。


 これは崇高な道徳心か。美しい自己犠牲の精神か。そうではなく、これが仕事の意味なのだと、今の蒼衣はそう思う。


 ドルフィントレーナーの仕事は、イルカを愛することなのだから。


 仕事は労働と賃金の交換であると同時に、心と心の交流でもある。それを忘れなければきっと、どんな仕事にも夢を見られる。


 だから汐屋の謝罪は見当違いだ。


「俺、この3週間の仕事……毎日超楽しかったですよ?」


 歯を見せて笑った蒼衣に、振り返った汐屋の瞳から。つー……っ--と綺麗な雫が滴り落ちた。ギョッとして肩を跳ね上げる。


「な、なんで!? すいません俺なにかカンに触ることいいました!?」


「あっ、違いますこれは……! み、水抜きしてなかったから海水が出て来ちゃったんだと思います!」


「目から!?」


 動揺が運転に現れたのか、慌ただしく左右に揺れる車。対向車がいなかったのが幸いである。間も無く車は長いトンネルを抜けた。蒼衣の家までもう半分もない。


「あ……あの、蒼衣君」


「はい?」


「……すみません、やっぱりなんでもないです」


 おかしな人だ。まだ何か謝り足りないことでもあるのだろうか。汐屋は何度も小さな口を開いては閉じを繰り返し、やがてギリギリ聞き取れるかどうかの微かな声で。


「明日のショーが終わったら、きっと蒼衣君は……すごい人気者になると思います」


 そんなことを呟いた。


「そ、そうですかね? ずっと水中から出てこないトレーナーなんてバカみたいだと思いますけど」


「蒼衣君は分かってないんですか! ビビの前を泳ぐあなたの姿がどんなに……」


 頰を真っ赤に上気させて怒った汐屋は不自然に言葉を切って、冷房の勢いを一段階上げた。


「とにかく明日のショーが終わったら、蒼衣君は女の子にチヤホヤされたり、連絡先を渡されたりするんです」


「ぐ、具体的ですね。それはまあ嬉しいですけど」


 蒼衣の反応のどこが気に入らなかったのか、汐屋ははあっ、とため息をついた。なんなんだこの人。


「あ、この団地です。入っちゃったら転回難しいんで、ここでいいですよ」


 蒼衣の家のある住宅街の入り口に差し掛かったので、名残惜しさを感じつつも汐屋に礼を伝える。車を止めた彼女は何か思いつめたように険しい顔をしていた。


「今日はありがとうございました。家逆方向とかじゃなかったですか? 気をつけて帰ってくださいね」


 ドアを開けて降りようとした蒼衣の右腕を、熱い手のひらが掴んで制した。時が停止したのかと思うほど、その一瞬は長く長く感じられた。


 ドギマギしながら振り返ると、汐屋が蒼衣の方へ体を精一杯捻って、泣きそうな顔を火照らせて蒼衣を見つめていた。


 彼女の海に似た青い瞳に映る自分の顔も、負けないくらい赤かった。


「明日はビビの命運が決まる大事な1日です。だから、お返事はいらないので……その代わり同僚権限で抜け駆けを許してください。--私、蒼衣君のことをお慕いしています」


 約23年生きた中で、それは指折りの衝撃だったはずだった。それでも例えば電流とか爆発とか、そういう威力ではなくて、その幸福感は例えば水が柔らかく満ちていくように、ゆっくり蒼衣の全身に浸透していった。


 こういうとき言葉が出ないのは、文字通り溺れているからだ。蒼衣はパクパクと酸欠の金魚のように口を開閉し、ようやく僅かに落ち着くや否や悲鳴に近い声を上げた。


「な、なんで!」


「なんでって……」


「いつからですか!」


「……恥ずかしいです、教えません」


 ここまで暴走してから我に帰る。ゆっくり満ちていった幸福の水は、最高点に達すると津波のように蒼衣を真上から叩きつけた。やっぱり言葉は出てこない。ただ、汐屋に触れたい。その衝動だけが抑えられなかった。


 けれど蒼衣は全精神力を消費してその衝動を叩き伏せた。


「あ……明日! ショーが終わって、全部終わったら、返事しますから!」


「……はい。待ってます」


 彼女の笑顔に、蒼衣は夢見心地で頷いた。不本意ながらドアを開けて外に出る。クーラーの効いた車内とのギャップでずいぶん蒸し暑く感じた。明日も暑くなるだろう。


 Uターンして蒼衣に運転席側を近づけた汐屋は、窓を全開まで開けると気の抜けたような笑顔で蒼衣を見上げた。


「大事な日の前にごめんなさい。なんだか今日を最後に、蒼衣君が遠くへ行ってしまう気がして……」


 言葉の途中でハッと言葉を飲み込むと、汐屋は赤みを増した顔をしかめた。


「明日、最高のショーにしましょうね」


「……はい」


 今なら1時間だってぶっ通しで潜ってみせる。力強く頷いた蒼衣に、汐屋は「おやすみなさい」とぎこちなくはにかんで車を発進させた。何度も交わしたはずなのに、そのおやすみはまるで初めて聞いたような音をしていた。


 地に足のついていない足取りでフラフラと団地の坂を登りながら、緩やかに実感を噛みしめる。あの日、涼太と2人でこの坂を登って家に帰ったのが遠い昔のように感じられた。


 ビビは泳げるようになり、ずっと憧れていた人に告白された。この夏ほど幸せな季節がこれまで一度でもあっただろうか。


 笑いを抑えられなくなって蒼衣は駆け出した。拳を握って雄叫びを上げる。体が羽のように軽かった。蒸し暑さも吹き飛ばす爽快な気分に背中を押されて、蒼衣はスキップ混じりに走る。


 --プツン、と電源が落ちた。


「……ぉ?」


 時間を盗まれた。そんな感覚だ。上り坂を景気良く走っていたはずの蒼衣が、次の瞬間その坂に体を横たえていた。側頭部から受け身も取らず着地したらしく、思い出したようにズキズキと傷口が痛み出す。


 傾いた夜の街を虚ろに見つめながら、蒼衣は漠然と足元を忍び寄る冷気のようなものを感じた。頭がうまく働かない。強烈な眠気が脳を侵食する。吐き気がする。


 ほんの数秒で、それらの症状は夢だったかのように消失した。蒼衣は動揺しながらも立ち上がり、痛むこめかみを手で押さえる。


 目の前が一瞬真っ暗になった。光も音も消えて、まさに電源を落とされたような。この症状に蒼衣は覚えがある。ダイバーなら多くが経験し、戦う存在。


 しかし今、蒼衣は陸地を走っていただけだ。


「"ブラックアウト"……地上で……?」


 背後に、鈍色にギラつく鎌を背負った黒い影を見た気がして、蒼衣は即座に振り返った。当然そこには、夏の闇夜に塗り潰された下り坂があるだけだった。

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