第13話-1
8月25日土曜日、午後9時。ビビ復帰ショーのリハーサルが無事終了した。
ビビが再び泳ぐ姿を、今日初めて見たBGM係のスタッフは、泣いていた。蒼衣がむせ込みながらプールサイドに這い上がるや否や、飛びかからんばかりに駆け寄られ、興奮と感動を伝えられる。
「すごいよ! なんてすごいやつなんだ君は!」
蒼衣は朦朧とする視界に彼の上気した丸顔を捉えると、力なく苦笑した。本当にすごいのはビビの方だと伝えたかったが、あいにく呼吸に精一杯。
蒼衣は続いてプールサイドに打ち上がってきたビビの背中を撫でてやった。いよいよ明日だ。運命の日、と言えるほど緊張も気負いもなかった。
盲目の老イルカと罵られたビビは今、蒼衣が少し助力を添えてやるだけで、これほどなんの問題もなく泳げるようになった。明日例え失敗があったとしても、蒼衣にはもう、それで十分過ぎる。
「明日はあのクソオーナーの高い鼻……明かして、やろうぜ」
どうにか声が出るようになった蒼衣はビビに勝気な笑みを向けると、よろめきながら立ち上がった。BGM係の男が気圧されたように後ずさる。
さすがに酸素が足りない。部分練習なら問題ないのに、リハーサルの消耗はやはり別格だった。
ショーが始まって終わるまでの30分間、蒼衣はほとんど水面に顔を出すことができないのだから。
「蒼衣君!」
心地いい声に名前を呼ばれた瞬間、ばふん、と蒼衣は柔らかい感触に包まれた。覚束なかった視界が真っ暗になる。温かくてふわふわのバスタオル。自分の顔を包み込んでいるものの正体が分かると、途端に激烈な眠気に襲われた。
汐屋にタオル越しに抱きしめられるという、この状況に照れを感じる元気も今はない。蒼衣はなすすべなく彼女の胸に体重を預けた。タオルの上から優しい手つきで頭を撫でる汐屋は、呼吸ができるように口だけはタオルで塞がないでくれていた。
「本当に……お疲れ様でした。蒼衣君は私の誇りです」
「……大げさですよ。まだ明日が残ってます」
呼吸が安定してくるのに並行して、蒼衣は現状の大変さに気づいてきた。膝から崩れた蒼衣を汐屋に抱きしめられている。この1ヶ月半で何百回と凝視したか分からない彼女の膨らみの好ましい感触を、今はじめて、タオルたった1枚を挟んで顔面で感じている。もはやこのタオルがいらない、タオル邪魔だなもう!
「お疲れ様」
海原の声が聞こえた。残念ながら回復してきてしまったので名残惜しさを感じつつ汐屋から離れる。海原と黒瀬が、何か今まで見たことのないような顔で蒼衣を見下ろしていた。
照れくさくなる。
「あの日君が選考試験を受けにきてくれたこと、とても幸運に思ってる」
「同じく。お前のお陰でビビも俺たちも救われた。俺ァお前のこと、面と向かって褒めてやったことなかったかもしれねえが。尊敬できる仲間だ。そう思ってる。ずっと思ってた」
予感通り、むず痒い展開になった。揃いも揃ってやめてくれ。先輩たちの蒼衣を見る表情を見るとたまらなくなる。
泣いてしまいそうだから、やめてくれ。
「明日に備えて今日はもう上がりなさい。凪ちゃん、君も上がっていいから蒼衣君を送っていってあげて」
「え」
海原の予想外の言葉に目を丸くした蒼衣とは正反対に、汐屋はいい返事をして首を縦に振った。
「そんな状態で運転させられないからね。車は置いて帰りなさい。明日も出勤は午後からでいいから、ゆっくり寝て昼ごろ電車でくるといいよ。仕事は僕らに任せな」
「……ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて」
正直ありがたい話だった。もったいない待遇だと思ったが甘えさせてもらうことにする。蒼衣は頭を下げ、最後にもう一度ビビに挨拶を交わしてから更衣室に入った。
いよいよ明日だ。何度目かになるその声が頭の内側から響いてくる。全身を締め付けるウェットスーツから解放されるとどっと疲れが押し寄せてきた。気が緩むとぶっ倒れそうだ。
この3週間、肉体を限界を超えて追い込んできた自覚はある。朝から晩までビビと一緒にプールに潜り、まさしくイルカと同じように生活した。
ビビが陸にいる時間を少しでも減らすため、朝は誰よりも早く出勤し、夜は毎日10時を超えて居残った。ビビの肺呼吸が安定しない日があると泊まり込んで彼女の側にいた。
きつかったのは蒼衣だけではない。汐屋たち3人は、蒼衣がビビに専念できるよう、調餌や雑務、ショースケジュールの全てを肩代わりしてくれた。当然非番はゼロ。
定期閉館日の月曜も、全員が朝から出勤して蒼衣のサポートと、他の4頭のイルカの世話を引き受けてくれた。
海原は蒼衣が泊まり込むときは必ず付き合ってくれたし、黒瀬は蒼衣の体に気を使ってかやたらと食事を奢ってくれた。
汐屋は蒼衣の負担を減らすべく、ビビの盲導犬役を暇を見つけては代わってくれた。蒼衣のようにうまくできないと悔しそうにしていたが、十分すぎるほど助けになっていた。
イルカチーム全員、過酷を極めた3週間ではあったが--充実していた。
それはビビが、日を追うごとに元気を取り戻していったから。水中をあんなに恐れていたビビが、蒼衣と一緒なら本当に気持ちよさそうに泳ぐのだ。
蒼衣はもちろん、イルカチームにとってそれが何よりの喜びで、頑張れる活力になっていた。だからこそ、いよいよ明日だ、と心がざわつく。
今更になって緊張感が膨れていく。ビビが泳げるようになって蒼衣は満足してしまっていたが、明日のショーのためにどれだけの人が力になってくれたかを思い出したのだ。何よりビビの命を救うために。失敗は絶対に許されない。
蒼衣は着替えを済ませると、ビビをケージに戻し締め作業を行なっていた海原と黒瀬の元に駆け寄った。不思議そうに蒼衣を見つめる2人に、蒼衣は感極まりながら頭を下げる。
「今日までありがとうございました! 俺がビビに専念できたのは、みなさんのおかげです! 本当に……ありがとうございました!」
「野暮なことを言うな」
黒瀬が照れを隠すように鼻で笑った。
「明日は最高の日にしようね」
海原の笑顔に、力強く頷く。更衣室から出てきた私服姿の汐屋とともにもう一度頭を下げると、2人はトレーニングプールを後にした。
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