ドルフィン・デイズ!外伝―Calm Blue―-5


 凪を乗せて、蒼衣は自宅の近くまで車を走らせた。車内はずっと無言だったが、その沈黙も、今は気にならなくなっていた。


 目的の場所に車を停め、助手席に回り込んで扉を開け、凪をおろした。海沿いの道は、少し階段を降りるとすぐ小さな私有の港がある。そこに停泊しているのは――蒼衣の船だ。


「乗ってください」


 一足先に乗り込み、揺れる船体を落ち着かせてから、そっと長い手を差し伸べる。凪は少しの困惑と、なにか憧憬しょうけいのようなキラキラした光を瞳に浮かべて、手をとった。


「わぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」


 船は軽快に海上を走り出した。今日は快晴、波も穏やかでクルージングには絶好の日和。最初から思いついていれば、と歯噛みしつつ、高速で流れゆく海面を船から身を乗り出すようにして眺めている凪に満足する。


「気持ちいいですね! 私、海の上なんて初めてです!」


「いいでしょう! 俺を育ててくれた場所です!」


 船のエンジン音で、声を張り上げなければお互いの声が聞こえない。それがかえって蒼衣の心を解放した。


 果てしなく広がる海と、それを覆い尽くしてあまりある、突き抜ける青空。無限の青に浮かぶ、豆粒ほどの船。


 これが、蒼衣の生きてきた世界だ。


 海と空しか視界に入らないほどの沖まで来て、蒼衣は船を停めた。澄みきった青空は徐々に西のほうから赤く焼けて、ゾッとするほど美しいグラデーションを描き始める。


 蒼衣は操縦席から出て、船首の方に凪を呼んだ。走り寄ってきた凪と並んで、二人で煌めく海面を眺めた。


「……素敵な場所。ずっとここで潜っていたなんて、羨ましいです」


「今度は一緒に潜りましょう。ウェットスーツ持ってきてください。あ、でも……」


「なんですか?」


「髪とか、化粧とか、こんなに綺麗なのに、海に入っちゃもったいないかなって」


 街では逆さに振っても出なかった言葉が、するりと滑り出した。


 凪は激しく目を泳がせ、顔の下半分を両手で覆ってうつむいてしまった。彼女の方には街での余裕が一切ない。まるで海の上ここでだけ、立場が逆転してしまうみたいな。


 顔が熱を帯びるのを西日のせいにして、バクバクうるさい心臓を飲み込んで、蒼衣はカラカラの口を開いた。


「ここ、大好きな場所なんです。ずっと、これさえあれば他に何もいらないと思って生きてきました。実際、この青い世界を超える興奮なんて周りのどこを探してもなかったし……でも、海鳴水族館での毎日は、それを超える刺激ばかりで、俺夢中で……最近はすっかり、そういえば来てなくて」


 脈絡がない。知るか。溢れてくる順番に、全部、言え、伝えろ。


「大好きな場所だったこと、思い出して。この美しい世界を、一緒に見てほしいと思ったんです。――俺の、大好きな人に」


 二人を、鮮やかな緋色が照らした。夕陽を浴びて、立ち尽くした凪の目が揺らぐ。海のように、この世で最も美しく。


「汐屋凪さん。あなたのことが、大好きです」


 涙の味は、どうして海に似ているのだろう。


 夕陽に負けないほど顔を赤らめて、うなずいた凪の目から一筋の涙がこぼれる。近寄ってそれを拭いながら蒼衣は思った。


「お……遅いです、もう。私、ずっと待ってたんですよ」


「すみません。ホント、ヘタレで」


「蒼衣君はいつもそうですね……遅れてやってきて、待たせて、それなのに、ぜんぶ帳消しにさせるようなことをするから……ずるいです」


 私も、好きです。上目で見上げた凪に、今度は蒼衣の顔が発火した。


 胸がいっぱいで息ができない。他に何も考えられない。まるで、溺れているみたいだ。こんな海なら一生潜っていたい。


 彼女と出会ってからの記憶が、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。尊い思い出の一つ一つが海に溶けて混じり、二人を包み込む。



 ――ふふ、今のは頭突きじゃなくて、チューですよ。



 初めて会った日の、今より少し髪の短い凪が、唇を突き出して微笑む。


 いや――いやいや、付き合って数分だぞ、早いって、早すぎるって。軽い男だと思われるって。我慢しろ、俺、大事にしたいってことちゃんと行動で凪ちゃんに示せ!


「……キスしてもいいですか」


 どんなに理性が怒鳴りつけても、海の上では抑えがきかず、気づけばそう口走っていた。そうだ、もうずっと前から、蒼衣はこの場所では、誰よりワガママだった。


「えっ、そ、そ、それは、ちょっと、まだっ」


 凪はガチゴチに硬直した体で後ずさった。それで我に返った蒼衣は、慌てて両手を振って「い、今のなしっ、忘れてください!」と叫んだ。いい加減にしろ、なに調子に乗ってんだ、バキバキ童貞が!


 しばらく二人は黙って、さっきより少しだけ距離をあけて海を眺めていた。次第に日は西に沈みかけ、早くも空の東側は薄紺色に染まり始める。


「……そろそろ、帰りましょうか」


 暗くなってはいけない。凪の返事を待つより早く、蒼衣は操縦室に足を向けた。


 そのとき、服の裾を凪に掴まれた。振り返ると、思いのほか近い距離で凪がこちらを見上げていた。


「あ、あの、蒼衣君……」


 ひどく赤面して、それ以上はどうしても言えないみたいだった。凪がなにを言おうとしているのか、蒼衣にはさっぱり分からなかった。よっぽど言いにくいことらしいというぐらいしか。


 数秒、沈黙が続いた。凪が口を開けたり開いたりしている間、蒼衣はじっと、凪のあまりに美しい顔を見つめていた。結局凪は、それを口にすることができなかった。


 代わりに、真っ赤な顔で、チュッチュッ、と唇を二回鳴らした。




『Calm Blue』――完

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Blind Blue 旭 晴人 @Asahi-Aoharu

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