こんばんは、旭です。
本日は我が校の卒業式でした。新型コロナウイルスの影響で例年同様とはいかず、在校生や来賓のいない形での式となりましたが、練習も満足にできなかった中、子どもたちが一生懸命頑張って、色んな意味で記憶に残る素晴らしい卒業式になったと思います。
さて、僕は教員生活の二年目を終えようとしていますが、今日巣立っていった生徒たちは、僕が人生で初めて担任を受け持った学年の子どもたちです。
前年度二学年を担当し、今年度は一学年の担任となったため、彼らと近い距離で過ごしたのはたった一年間。これまでも会うたびに笑顔で話しかけてくれていましたが、今日、僕の知らぬ間に大きく成長した彼らの背中には驚かされました。
予期せぬ休校を挟み、実感のないまま別れの時を迎えた今日。旅立っていく彼らに対して、僕が抱いた感情はなんだったでしょうか。嬉しさ。寂しさ。もちろんあります。ただ、ふとわき上がって自分でも驚いた感情があります。
悔しさです。
卒業証書授与。担任の先生方が、一人ひとり、僕の知っている名前ばかりを呼んでいきます。クラスを受け持った子、授業を受け持った子、何気ない場面で会話した子。凛とした声で返事し、起立する彼らの後ろ姿を見て、僕が思い出したのは、彼らに「してやれたこと」ではなく、「してやれなかったこと」でした。
もっと話を聞いてやりたかった。もっと話しかければよかった。もっと時間をかけて授業準備をすればよかった。あのとき、もう一言かけていればよかった。あのとき、あのとき、あのとき……。
僕は今日、教師の仕事に終わりがないことを悔しさから学びました。子どもたちにしてやれることは、突き詰めればキリがないのです。マッハ20で動ける殺せんせーでもあるまいし、教師ひとりの体では限界があります。
子どものために身を粉にして、100時間を越える無賃労働さえ苦にせず働く先生もいます。僕はとてもじゃないが、そんな先生方に負けないぐらいに取り組んできたとは言えません。
そんな僕の悔しさや、いっそ謝りたい気持ちなんて気づきもせず、晴れやかな顔で前だけを見つめて、卒業生は颯爽と退場していきました。僕はこのとき、もう一つの事実に気づきました。
教師がしてやれることは無限にあっても、子どもたちはそんなものなくたって、たくましく生きていけるということです。
矛盾するようですが、教師がいらない、という意味ではありません。子どもは間違えながら学ぶ生き物ですから、僕たちが導いてやらなければいけません。成績など人生にかかわるものをたくさん扱いますから、気を抜くことは許されません。
しかし、子どもの強さを信じて、その上で一人ひとりと誠心誠意向き合うことが、他の何より大事だと痛感しました。
本当に面白い仕事です。きっと生徒たちは、僕の一つの授業や指導なんて、大きくなるにつれきれいさっぱり忘れるんでしょう。それでいいんだと思います。ただ、仲間と久しぶりに会ったとき、「いい先生だったなぁ」なんて思い出してもらえるぐらいの先生になりたいですね。