ドルフィン・デイズ!外伝―Calm Blue―-3
待ち合わせ場所である海鳴駅南口の噴水前に、蒼衣は午前十一時に到着した。実に約束の一時間前である。
凪と、以前にも一度だけ食事をしたことがある。そのときの待ち合わせ場所もここだった。あのときは、五分前に到着したのに凪が先に来てしまっていた。その反省を活かしすぎてしまった結果である。
九月に入って残暑も落ち着き、秋の気配がわずかに顔をのぞかせ始めた。梅雨明けと同時に爆発的に暑くなって、二ヶ月足らずで嘘のように終わるのが海鳴の夏の特徴だ。噴水前に立つ蒼衣の装いは、前の待ち合わせと比べて随分大人びていた。
白のカットソーに濃紺のテーラードジャケット。黒い細身のパンツを、スラリと長い脚で見事に履きこなしている。もともと見てくれだけならモデル顔負けの男である。行き交う女子高生たちが色めき立って見つめるほど、今日の蒼衣はキマっていた。
例によって、呼べばすぐ来る便利な友人、略して
お礼に軽食でも奢ろうとしたが、涼太は「どうせこの辺来るつもりだったからな、昨日奢ってくれたしいいよ」とヒラヒラ手を振って帰っていった。今日に限っては普段のしつこさが妙なほど鳴りを潜めている。あいつなりに気を遣ったのだろうかと思うと、思わず口元が緩んだ。
「……なにニヤけてんの? キモいよ」
随分低い位置から響いた遠慮のない物言いに、蒼衣はギョッとそちらを向いた。
長い黒髪が可愛らしい、まだ幼い女の子が、冷たい目で蒼衣を見上げていた。
「凛……なんだお前かよ。おどかすな」
「なにしてんの、こんなとこで。それにそのカッコ」
「えっ!? 似合ってない!?」
幼女とはいえ女の子、女性の意見に変わりはない。途端に自信を失って服の裾を掴んだ蒼衣に、凛はじっと蒼衣の全身を観察し始め、最後に目が合うと、ややあって首をぷいっと横に向けた。
「……ヘンではない」
「そ、そうか……ならいっか」
息をするように毒を吐く凛が思いのほかマシな評価をくれたことに、肩すかしをくらった気分で蒼衣は息を吐いた。
「それで、なんでいるの」
「いいだろ、なんでも」
「もしかしてデートとか? ってそんなわけないか、お兄ちゃんにかぎって……」
言いかけて、蒼衣のギクッとした反応で何を察したのか、細めていた凛の目が途端にまん丸に見開かれた。
「えっ!? ほ、ホントにデートなの!? だれと!? お兄ちゃんカノジョいたの!?」
顔を赤らめ、大口を開けて驚きなにやら慌てている凛の、そう見ない年相応な表情が珍しくて蒼衣は笑った。
「なんだよ、そんなに焦って。デートとかカノジョとか、そんな言葉どこで覚えてくるんだか」
「あせってないっ!! ……ふ、ふーんっ、よかったね、カノジョできて」
「いや、彼女ではないけどな」
変なところで自信のなさが出て、いらない訂正をしてしまった。なんだか、凪のことを嘘でも彼女だなんて言ってしまうのは、どうしても恐れ多くて。
どこか威勢を失っていた凛の顔が、「えっ」と途端に元気を取り戻した。
「な、なーんだ。それ、デートじゃないじゃん。おかしいと思った」
急転直下、鼻歌でも歌い出しそうなほどご機嫌になった凛にムカつく。そんなに俺の不幸が嬉しいか、こいつは。
「デートはデートだろ」
「ちがうもん、デートはつきあってる人たちがするんだよ」
「ちがいますー、二人で外で会って話せば、もう立派なデートですー」
十歳にも満たない幼女と本気で口論する、残念すぎる二十三歳。なんだか前にもこんなことがあった気がする。
「ふーん……じゃあ、これも、デート?」
ふと、丸い目でじっと蒼衣を見上げて、凛が自分と蒼衣を交互に指さした。晩夏の日差しで焼けたのか、ほおがほんのり赤くなっている。
「あー……そうかもな、うん」
自分で定義した手前、否定するわけにもいかず、妙な小っ恥ずかしさを隠して蒼衣はうなずいた。「そっか」と小さく呟き、素早くそっぽを向いて凛は言った。
「あーあ、サイアク、初デートがお兄ちゃんとだなんて」
「悪かったな」
「しかたないから、またデートしてあげるよ」
「え?」
「凛がもっと大きくなって、こーこーせーくらいになって、まだお兄ちゃんにカノジョがいなかったら……毎日デートしてあげる!」
遠くで凛の母親が、凛を探しているのが見えた。最後は早口で叫ぶなり、振り返らずに走り出した凛を蒼衣は呆然と見送った。
そんなに先の話にしなくても、こっちはいつでも待ってるよ。海鳴水族館のショープールで、ビビと一緒に。
「お待たせしました。ふふっ、今の、凛ちゃんですよね?」
今度こそ、蒼衣の全身がピシッと硬直した。
すぐ横に走り寄ってきて、微笑み混じりに声をかけてきた女性の方を振り返る前に、蒼衣は心する。相手は大天使ナギエル。それも私服姿のナギエルだ。直視する前に、予め入念に彼女の美しさを網膜の裏に投影して耐性をつけておかなければ、その輝きに眼球を焼かれる羽目になる。
一度深呼吸し、十分に凪の美貌を頭に思い浮かべてからそちらを振り返った蒼衣は、しっかりと眼球を消し炭にされた。
「……どうかされました?」
立ったまま昇天した蒼衣の顔を、凪が心配そうに覗きこむ。水に潜る仕事ということもあるが、以前のデートでも一切の化粧っ気がなかった顔に、「極上の肉に塩コショウだけ振っときました」程度ではあるが、しっかりと化粧が施されているではないか。
日に焼けた小麦色の肌はより一層きめ細かく透明感とハリを
何より、普段は大雑把に一つ括りにしている艷やかな髪が、ふわりと胸のあたりまで、毛先を緩く内巻きにしておろしてあって。それだけで全く別人みたいに見えるから、女性の髪って不思議だ。
これが――汐屋凪の完成形。何をする気だ、彼女は俺を殺しに来たのか。
「今日はどちらに連れて行ってくださるんですか?」
少しだけ距離を詰めた凪から、ふわりと香るいい匂い。満足に声も出せず、蒼衣はどうにか凪を昼食に誘った。
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