第11話-2
「……はい?」
ざわ、と会議室が震撼する。海原の口元は穏やかだが、目が笑っていなかった。
「イルカ1頭生かすのに食費だけで月90万円。ショーに出られないとなれば新しいイルカを仕入れるか、ショーの質を落とさなければならなくなる。どちらにせよ大損害だ。それなのに君たちはこれだけの人数が、商業価値のない老いたイルカを延命する方法に、揃いも揃って何日も頭を悩ませてたのかい?」
機械のように淡々と嘲笑する父に、凪の頭が高熱を帯びていく。こうしている間にもビビは苦しんでいるのだ。徐々に酸素を上手く取り込めなくなる、筆舌に尽くしがたい苦しみと戦っているのだ。この男にはそれが分からないのか。
「むしろどうやってこれまでと同等のショーを顧客に提供するか、一刻も早く具体案を考えたまえ。盲目のイルカをどうするかはその後でよかろう。見ていて心が痛むというなら、どうかな、いっそすぐそこの海に帰してあげるというのは」
バキィッ、と凄惨な音がすぐ隣で響いた。黒瀬の叩きつけた拳が机に亀裂を走らせたのである。激昂する鬼の如き形相で立ち上がった黒瀬を、泡を食った声で鯨川館長が止める。
「机に虫でも止まっていたかね?」
源治はほんの僅かも狼狽を見せなかった。小刻みに震えながら奥歯を噛み締める黒瀬の憤怒の形相に、周囲のスタッフ達が一斉に椅子を動かして距離を取る。既に進行のため立ち上がっていた海原だけが、普段と変わらない飄々とした態度で黒瀬の肩に手を乗せた。
「座りなさい、会議中だよ」
黒瀬は構わず源治を睨みつけたまま、ついに岩のような拳を固く握り締めた。
「戯言もいい加減にしろよジジィ……! ビビは30年間この水族館に貢献して来たイルカだぞ! 退職後の待遇まで不自由なく図ってやるのが俺たちの務めだろうがッ!!!」
「躾のなってない部下がいるみたいだね海原君。そんな人情で飯が食えるのかい? 少子化で客数の減少傾向にある中、全国的に見て水族館はもう飽和状態。経営は苦しく一寸先も見えない……ですよね館長」
「え、ええ、おっしゃる通りで……」
「そんな現状で、一銭にもならないイルカのためにこんな水槽作ってる余裕なんかないんだよ。そんなことより急務なのは他の水族館と差別化されたユニークなショーやイベントのデザイン。今日はついでだからその話をしに来たんだ。ああそこの君、この資料を配ってくれたまえ。私が考案する秋季以降のイベントプランなんだが……」
ついに爆発した黒瀬が机を蹴飛ばして議席の中央に乗り込んだ。悲鳴が飛び交うのにも構わず大股で源治に接近すると、その胸ぐらを重機のような威力で掴み引き上げる。
机を挟んで締め上げられているこの状況で、これほどの殺気を向けられても源治はそのアンドロイドのような表情を変えなかった。
「黒瀬さん!!!」
凪は無我夢中で叫んだ。暴力沙汰になれば黒瀬の解雇は免れない。
「私を悪者扱いするのは勝手だが、イルカの病気はトレーナーの責任じゃないのか? そんなチンピラみたいななりをして、どうせお粗末な健康管理だったんだろう。見逃してやるからこれを機に改めることだ」
「訂正してください」
黒瀬を追いかけて源治のすぐそばまで来た海原が、静かに、燃えるような声でそう言った。
「おっしゃる通り、ビビの体の異変に最後まで気づけなかったのは我々の責任です。しかし、私の部下は誓って職務に手を抜いたことはありません。訂正願います」
一触即発を感じ取り、1秒ごとにざわめきを増す会議室。源治が侮蔑的に鼻を鳴らした。
「君たちトレーナーは暑苦しいから嫌いだよ。君、いい加減離してくれないか。シャツに皺がつく」
「…………あんたは……ビビを……………このまま、見殺しにしろって言うのか…………………?」
どうにかこうにか絞り出したような、聞くに耐えない震えた声。源治はその言葉に、能面を不本意げに歪めた。
「人聞きの悪いことを。イルカの死なんて、君たちには慣れっこだろ」
やばい、と感じた時には遅かった。凪が駆けつけるよりも海原が止めるよりも早く、黒瀬が獅子のように吠えて固めた拳を振りかぶった。
次の瞬間、扉の開く乾いた音が会議室の時を一瞬止めた。黒瀬が冷静さを取り戻すには、現れた人物は十分すぎた。
イルカチームの証であるオレンジ色のウェットスーツに身を包んだ、日に焼けた背の高い青年。数日ぶりに見る彼の雰囲気は少し変わっていた。その精悍な視線に射抜かれて、黒瀬の手から力が抜ける。
「……なんだ君は」
議席の中央にまで歩いて来た青年に、黒瀬から解放された源治は訝しげに問うた。青年は鋭く一度敬礼すると言った。
「本日謹慎が明けました、イルカチームの潮です」
この時凪は、自分でもなぜ涙が出たのか分からなかった。源治は忌々しげに眉をひそめると、意地悪く笑って蒼衣の肩を叩く。
「まだお仲間がいたのか。今ちょうど、ビビとかいうイルカのために水槽を作る話を断ったところだ。そんな金を出す余裕はないんでね」
「はい、必要ありません」
「……なに?」
笑って言い放った蒼衣に、源治だけでなく一同が同じ反応をとった。
「ビビはこれまでと変わらず、あのプールで生活して、これからもショーに出続けます。これからは--俺がビビの目になりますんで」
蒼衣の黒曜石のような瞳には、一縷の曇りもなかった。
「……なんだと?」
源治は目を瞬かせた。
「これから俺は出勤時間の全てをビビと共に過ごします。ビビの目として、朝から夜まで彼女の隣で生活するんです。訓練次第で、ビビは俺をさながら盲導犬のように駆使して再び自由に泳げるようになれるはずです。確信があります。俺に任せてみてくれませんか」
口をあけて呆けたような源治の間抜け面は、そう拝めるものでもない。ここにいる全員が似たような反応だった。やがて、心底愉快げな笑い声が源治の口から迸った。
「ハ、ハハハハハッ! ゆとり世代の自由な発想には頭が下がるね! イルカに盲導犬? 傑作だ! 人間にそんな役が務まるわけないだろう! アレが1日にどれくらい潜水し続ける生き物なのか知らないわけではあるまい!?」
「妄言と受け取ってもらうのも構いません。それなら俺が恥をかく姿を見れると思って今度のショーにお越しください。ビビが海鳴にとって有益をもたらすと、証明してみせます」
その言葉に、いかれた馬鹿を見るようだった源治の目がその質を変えた。
「……ヤケクソだけでモノを言っているわけでは無いようだな。盲目のイルカがショーに出る、か……なるほどメディアが騒ぎそうな美談だ」
「ショーが成功した暁には、水槽はもちろんビビのために今後あらゆる協力を惜しまないと約束してくださいますよね」
人が変わったような蒼衣の饒舌ぶりに、凪も海原も黒瀬も呆然とするしかない。蒼衣は誰よりも源治と対等に会話している。それはもはや、会話というより取引だった。
商業価値のないイルカに金は出さないという発言を逆手にとって、源治が首を縦に振らざるをえない状況を作り上げた。会議の内容を外で聞いていたのか。初めて会うはずの源治の性格や思想をよく把握している。
一度は必要ないと言った凪たち提案の水槽まで、いつの間にか公約の中に紛れ込んでいる。初めて会った頃はコミュニケーションが不得手だったはずなのに、いざ話せるようになるとこれほど頭の回転が早い男だったのかと、凪は感服の目で見つめた。
「……死ぬ気か。無茶をやってトレーナーに死なれても海鳴のイメージダウンになるだけだ。遺族に訴えられてもたまったものじゃない」
「必要なら誓約書でも書きましょうか? 徐々に死に向かっているのはビビも同じ。あいつのためなら、俺は命を賭けます」
これほど力の籠った言葉を聞いたことが今まであったろうか。凪のまなじりから零れ落ちた涙が、頬を伝って温かい筋を引いた。源治はその迫力に気圧されたように、息を呑み、やがて心から解せないとばかりに問う。
「なぜ……そこまで無謀になれる」
蒼衣は形のいい目を柔く細めると穏やかに笑った。
「俺が、ドルフィントレーナーだからです」
心臓を素手で鷲掴みにされたような感触が、激痛に近い衝撃となって凪の胸をジクジク刺激する。隣で黒瀬が、歯を見せて笑った。
「……面白い。3週間やろう。夏休みシーズン最終日のショーに間に合わせてみたまえ。14時半からの1時間、スケジュールを空けておく。せいぜい命を大切にすることだ」
不愉快なのか一周回って愉快なのか、源治は蒼衣の肩を去り際に叩き、高らかに笑いながら会議室を後にした。
当然ながら、もう会議どころではなくなっていた。
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