第1話-2
沖から岸へと戻った蒼衣と涼太は、漁船を停めてアンカーを降ろすと陸に上がった。
この船は蒼衣の実家の物だ。父が遠洋漁業を営む漁師なので、ほとんど戯れ用だった一番小さな船を、大学進学と同時に譲り受けた。必要な免許も拍子抜けするほど簡単に取れてしまい、それ以来乗り回して遊んでいる。
蒼衣はレジャー性の強い浅瀬でのダイビングよりも、もっぱら深海を目指してひたすら真下に潜るのが好きなので、気軽に沖へ出られるようになったのはかなり大きい。
涼太が女を乗せたいとかでたまに船を貸すのだが、どうやら素潜りに同伴してくれるのは彼なりのギブアンドテイクのようだ。顔に似合わず律儀なところのあるやつである。付き合いももう20年になる。
港から蒼衣の家まで徒歩10分ほど。熱されたアスファルトをビーサンで踏みしめて緩やかな坂道を登る。焦がさんばかりに照りつける灼熱のビームを疎らに受け止める、斜めに伸びた木の青々とした屋根の下を通ると、もうすっかり夏の香りがした。
木漏れ日の降る坂を抜け団地に入ったところで、涼太が不意に口を開いた。
「つーか蒼衣、トシってのは冗談にしてもそろそろ無茶はやめた方がいいんじゃねえか? マジで死ぬぞそのうち。オレだって毎日ついてやれるわけじゃないし」
「なんだよ今更。大丈夫だって。涼太のいないときは限界来る前に切り上げるようにしてるし。体調管理もちゃんとしてる」
「そういうことじゃなくて……ほら、お前……」
涼太は一瞬だけ躊躇ってから、肌を焦がす陽光と同じくらい容赦のない言葉を放った。
「だからほら……働けよ! このまま一生フリーターとニートのハーフ状態続けるつもりか? もう後輩どもまで次々内定決めてってんぞ」
まさか涼太にまで危機感を煽られる段階に来ているとは思っていなかったので、ふて腐れ半分内心ドキッとした。
「……うるせーな。大学5回生に言われたくねえ」
「いや、それがさ、かくいうオレも就職先決まったんだわ」
「はぁ!?」
思わず今日イチ大きな声が出た。派手な海パン姿のチャラ男はきまり悪さ半分、得意げ半分に白い歯を見せて笑う。
「彼女の親父さんに挨拶に行ったらさ、あの寺田工業の社長さんだったんだぜ信じられるか? 割とある苗字だから思いもしなかったけど、ラッキーだな。気に入ってもらえて、割といいポストで働かせてくれるって」
この悪友を殺してもいいだろうか。寺田工業といえばこの
「ふっざけんなよ棚ボタ野郎! またそうやってしれっとなんの苦労もなく生きてくってのか! 社会なめんな!」
「お前に言われたくねえよ……ま、棚ボタは認めるけどな。彼女と3年間真摯に付き合って来たのも、親父さんに気に入られたのもオレの行いの良さだろ」
ぐうの音も出ない。確かに涼太はチャラく見えるが、恋人とは実に真剣に付き合っていたし、何より舌を巻くほどの社交力がある。致命的なバカと遅刻癖さえなければ、そもそも無事に単位を取って大学を卒業して、それなりの職場に就職できていたであろう男だ。
「……そっかぁ、ついに同期でニートは俺だけか」
「まあまあ、一応半分はフリーターだろ! 新しいバイト始めたんじゃなかったっけか、ほら、ピザ屋の」
「やめた」
涼太が言葉を切ってそっと天を仰いだ。
「3日は続けたぞ、俺にしてはもった方だ。店長は愚痴っぽいし、少し早く入ったってだけで高校生が俺にタメ口だぞ? あんなレベルの低い奴らと働くなんて」
「何度目だよそうやってやめんの……ダイバーのくせに忍耐力なさすぎだろ」
「だって! 時給もクソ安いのにまかない前にタイムカード切られるし、手は油でギトギトになるし客は図々しいし」
「結構普通だぜ、それ?」
まだいくらでも羅列できたのに、涼太が本気で呆れたようにため息をついたので不本意ながら口を閉じる。
「忍耐とか、愛想笑いとか、ほら、八方美人に徹するってやつ? そういうのがお前の壊滅的な苦手分野だよな。そんなんだから面接で落とされんだよ。滑り止めまで滑りまくったのは傑作だったな、ほら特にあれ、安住損保の面接。志望動機なんて答えたんだっけ」
言わせるの何度目だ。思いながら蒼衣はあの日真顔で答えた通りのことを渋々口にした。
「……『御社なら職場として、私の生涯を捧げようと覚悟できるギリギリセーフのラインだったからです』」
「ぶっひゃっひゃっひゃっ! そりゃ落ちるわ!! 腹いてえー!!! そもそもお前、滑り止めでさえ県有数の企業ばっかだもんよ、強気すぎんだろ! 安住損保が滑り止めとか地元で聞いたことねえー!」
そんなことを言われたって、採用されても行きたいと思えない会社の面接になぜ行く必要がある。大学受験の際も第1志望のひとつしか受けなかったぐらいだ。
涼太は蒼衣の大学のすぐ隣にある私立大学に進学したので、大学生になってもよく遊ぶ仲でいれたのは幸いだった。
「とことん社会に向いてないよお前は。
いかにも理不尽と縁遠そうな、とかく要領のいい涼太に言われても説得力は感じられなかったが。「置いてっちまうぞ」という厳しい言葉にはハッとさせられた。涼太にここまで言わせてはさすがに情けない。
「……そうだな。また、何か新しいバイト探してみる」
「その調子だ。お前の場合技術的に困る仕事はそんなにねえだろ。まずは1年もたせてみろ。働きぶりがよければ正社員として雇ってくれるかもよ」
「大学時代にバイトしなかったツケが回ったかな」
「はは、それはあるかもな。実家生の悩みってやつだ」
そうこう話しているうちに、我が家の前に着いた。集合住宅街に埋没したいたって普通の一軒家。とはいえこの団地はそこそこの高級住宅街なので、周りと見劣りしないというだけで実はそれなりの家なのかもしれない。
遠洋漁業というのは、どうやら結構儲かるらしいのだった。ちなみに涼太の家はこの団地を抜けた先の、山の麓付近にある。徒歩で行ける距離だ。
「んじゃ、明日からはしばらくダイビングお休みってことでいいな?」
「……しゃーない、そうするよ。母さんが毎日どっから集めたんだって量の求人を用意しててさ、とりあえずそれに目を通してみるかな。また連絡する」
「おうよ。またなー」
涼太と別れ、やや気乗りしない気持ちはありながらも玄関扉の鍵を開けた。もうそろそろ(本来なら今年の春からだが)、好きなことを犠牲にして働かなければならない年齢なのだ。今更になって再び自覚する。
憂鬱だ。吐き気がするほど。このまま夏が終わらなければいいのに。
「……あれ」
ただいまと言って中に入ると、玄関に男物の長靴。最初は客が来ているのかと思ったが、よくみると見覚えのある代物だ。
「……親父、帰って来てるのか」
父のことは決して嫌いではないが、めんどくさいことになった。
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