第9話-2

 平日ということもあり、客入りもさすがにこの間のMCデビューほどではなかった。


 普段もショー合間の休憩時間に使用している控え室だが、ここでショーのスタートを待ち構えるのは二度目。あの日に比べると胃も痛くないし、緊張感よりも高揚の方が強い。


 水に入れないとは言え、練習してきたことを客にぶつける瞬間が迫っているのだ。隣で汐屋も同じ表情だった。彼女の方がよほどリラックスしているが。


「2人とも緊張はしてないみたいだね」


 海原がのほほんとした笑顔で蒼衣と汐屋の顔を交互に見回す。黒瀬にいたっては後10分で開始だと言うのにコーヒーを買いに行ってしまった。ベテランの貫禄だ。


「今日は一段とアチぃな。お前ら、ぶっ倒れねぇようにしてくれよ」


 背後から野太い声。噂をすれば黒瀬である。汐屋と2人振り返ろうとしたところに、頰に冷たい感触が走った。


「冷やっ!?」


「ホイ差し入れ」


 2人して悲鳴をあげかける。頰に当てられたのはキンキンに冷えた缶ジュースだった。ミックスフルーツの果汁100%。


「一口飲んだらそこの冷蔵庫入れとけ。あんま腹を冷やすといけねえからな」


「あ、ありがとうございます。いただきます」


 お互い今日が特別なショーとなる蒼衣と汐屋に対する、黒瀬なりのエールだろうか。彼は表立って褒めたりとかはあまりしてくれないが、こういう風に分かりづらい表現で労ってくれることがよくある。汐屋と目が合い、どちらからともなく釣られるように笑った。


「海原さん、なんかあの2人最近仲良くないすか?」


「青春だよねえ」


 ゴフッ!? と飲んでいた缶ジュースを吹き出す蒼衣。汐屋には不思議そうに大丈夫ですかと気遣われる始末だ。


「おっさん臭いっすよ……って、海原さん見えないけどもうそういう歳か。結婚とか考えないんすか」


「嵐君だってアラサーだろ。残念ながら相手がいないよ、この仕事するなら生涯独身は覚悟しとかなきゃ」


「まあ確かに暇も出会いも無いっすよねえ。イルカが恋人ってヤツですか」


「違いないね。はっはっは」


「はははは」


 背後で2人が全く笑えない会話をしている。これが蒼衣の未来かと思うと背筋が凍りつく思いだ。2人とも見た目は良いのに、と忍びなく思いながら缶ジュースを再び呷る。


「蒼衣君ってお付き合いしてる方いるんですか?」


 危うく口の中身を全て噴出するところだった。


「げっ、げほっげほっ!?」


「大丈夫ですか!?」


 引き気味の顔をした汐屋に背中をさすられる。海原と黒瀬がケタケタ笑っているのを恨めしく思いながら蒼衣はどうにか無事を伝えた。


「い、いないですけど、なんでですか?」


「いや、さっきの2人の話が聞こえてしまったので、蒼衣君はどうなんだろうと思って……」


「いないです! いたこともないです!」


 最悪だ余計なことまで口走った! 誰もそこまで聞いてないだろ!


「そ、そうなんですか。でも蒼衣君、女性のお客さんから評判いいみたいですよ」


「え、マジですか」


 それは初耳である。蒼衣がこれまでしたことなんてあのMCの日を除けば馬鹿みたいに防水シートを配ることぐらいだが、見ている人はいるのだなぁと思った。慣れないなりに笑顔を頑張っていてよかった。


 ただ、それを言うなら汐屋である。彼女が知っているのか分からないが、汐屋の人気は凄まじい。防水シートを回収する際、紹介してくれと客に頼みこまれた経験が何度もあるし、外からショーを見ていると汐屋の話をする客の声もよく聞こえてくる。


「……汐屋さんこそ、その、彼氏とかは?」


「いないですよ。私もいたことないです」


 弾みで気になっていたことを聞いてしまった蒼衣は、心の底から驚愕した。


「い、意外ですね、モテそうなのに」


「全然ですよ。小学校からずっと女子校でしたし、ほら、隣町のキリスト教の」


 思い当たる学校は1つしかなかった。超のつくお嬢様校ではないか。家が厳しいとか言っていたが、お金持ちの娘さんだったのか。


「同い年の男の子とお友達になれたの、ずいぶん久しぶりなんです。これからも仲良くしてくださいね」


 無垢な笑顔でぺこりと頭を下げつつ、下から蒼衣の顔を覗き込む汐屋を見て、蒼衣は一緒に食事に行ったことを海原に嬉しそうに報告していた彼女を思い出した。


 友達--それは蒼衣の理想とする関係とは近いようで遠いようで、ただ、胸がいっぱいになるほど嬉しいのは確かだった。


「俺も、女友達ってたぶん初めてです。こちらこそよろしくお願いします」


 お互いに深々とお辞儀し合っていると、背後からおじさん2人の悲しい会話が聞こえて来た。


「なんだなんだ、まどろっこしい2人だな。眩しくて直視できんわ」


「若いっていいねえ。僕らも戻りたいもんだ」


「ほんとっすねえ」


 緊張感は吹き飛んでしまったが、ショーの始まる時間が迫ってきていた。耳を澄ませるまでもなく、会場の方向から地鳴りのように観衆の気配が届いてくる。


「さて、始めようか。凪ちゃん蒼衣君、ミスしても慌てず笑顔でね」


 本日もMCを務める海原がそんな言葉をくれて蒼衣たちを追い越すと、ステージへとつながる階段に足をかけた。彼がBGM係のスタッフと視線を合わせると、手元を離れていた緊張感が急激に帰ってきて心臓に絡みついた。


 大丈夫。上手くやれるさ。今日は自分にそう言い聞かせられるだけの余裕がある。海原が軽やかな足取りで階段を駆け上がり始めた。あれはスイッチが入った海原の背中だ。BGMが完璧なタイミングで流れ出し、景気のいい声を上げながら海原が階段の頂点に消える。蒼衣達の出番も、間もなくである。


 隣の汐屋に目線を向けたとき、蒼衣は珍しいものを見た。汐屋の手が、小さく震えているのである。ぎゅっと固く目を閉じ、胸の前に両手を添えて集中している。


 あれだけ練習した大技を初披露するのだ。普段より緊張して当然か。蒼衣は勇気を出して彼女の手を取った。


「汐屋さん、あくび」


「え? ……あ」


 汐屋が教えてくれたことだ。緊張するときはあくびをするとほぐれるって。彼女は決まり悪そうに蒼衣を見上げて笑ってから、ちょっとあっち、向いててくださいと頬を染めた。


 蒼衣が向こうを向いてやると、その間にあくびを終えたのだろう。もういいですよ、と腕をつつかれる。


「……ありがとうございます。ずいぶん楽になりました」


「助けられてばかりじゃ、友達って感じじゃないですから」


 蒼衣が笑うと、汐屋は初めて見る目になって蒼衣を見つめた。


「……ふふ、ビビの気持ちがわかった気がします」


「え?」


「なんでもありません。さあ、行きましょう!」


 彼女にしてはぐいぐいと力強く、蒼衣の背中を押す汐屋。振り返ると黒瀬が居心地悪そうに苦笑していた。


「イチャイチャすんのは仕事終わってからにしてくれよ。おし、行くか」


 拡声されて届いてくる海原のセリフ内容が、蒼衣達の飛び出すタイミング直前に来た。3人は笑い合って駆け出し、夏の光に満ちたステージに向かって並んで階段を駆け上がった。

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