第2話-2

 よくよく考えれば当然のことだ。


 関係者用出入り口から館内に入り、暗く埃っぽい業務用通路を海原と並んで歩きながら、蒼衣は呆然と思った。


 イルカのショーがどんなものだったか、記憶ははっきりしないが、一般人が誰でも簡単にできるものではあるまい。いかに父の紹介とは言え、そんな簡単に雇ってもらえるわけがなかった。


「蒼衣君? 聞いてるかな?」


「あ、はい! 聞いてます!」


 うっかり相槌を忘れていた。海原が掻い摘んで話してくれた説明には一応耳を向けていた。


「身体的な適性検査と、精神面の適性診断があるんですよね」


「そうそう。試験の中で総合的に見ていく感じだから、気に留めておいて。あ、ついたよ」


 廊下を歩いたり角を曲がったり、階段を上ったりすること数分。蒼衣は殺風景な、10畳ほどの控え室じみた場所に案内された。眼科にあるような視力検査用のボードが壁際に用意され、対角に丸イス。


 促されるまま持参した履歴書を手渡し、丸イスに腰掛ける蒼衣。そのまま簡単な視力検査が行われた。結果は両目2.0。


「うん。大吉さんに聞いてた通り、視力は問題ないね。今時メガネいらずの若者って珍しいから、大事にしなよ」


「はあ……」


 蒼衣は目が良い。そういう家系というのもあるし、本もマンガもテレビも見ずに海にばっかり潜っていたせいもあるのかもしれなかった。詳しく測定すれば2.0よりも高い数字が出るだろう。


「潜水する仕事だから視力は良いに越したことなくてね。最近はゴーグルタイプの眼鏡もあるし、それだけで不合格ってことはしないんだけど」


「はぁ……」


 気の無い相槌を連発するのもそろそろ限界が近かった。ただでさえ興味を失いかけていた職場に入るために、これから採用試験を受けなければならないのだから、やる気を出せという方が無理な話である。


「潮 蒼衣君、今年で23歳か。大吉さんには学生時代お世話になっててね。君には実はずっと会いたいと思ってたんだ。来てくれてありがとう」


 履歴書に目を通しながら、向かいに座る海原が柔らかい物腰で話し始める。人付き合いの苦手な蒼衣でも、次第に彼にリードされるように、不思議と自然に会話できるようになっていた。


「いえ、こちらこそ」


「蒼衣君は、イルカが好きなの?」


 え、と蒼衣は当惑した。海原は軽く聞いてみたというような表情だったが、反射的に不必要に構えてしまったのだ。どうやら予告なく面接が始まったらしい。


「まぁ……好き、ですかね」


 もっと上手く嘘がつければいいのだが、それは蒼衣の苦手分野であった。


「ふぅん。じゃあ、海は好き?」


 海原ににこやかに見つめられて、蒼衣は無意識に背筋を伸ばしていた。


「好きです」


「……なるほど。うん、よく分かったよ」


 海原は口元に含むような笑みをたたえて、大きく二度頷いた。


「これからプールに向かうけど、何か聞きたいことはないかい? なんでも答えるよ」


「え?」


 もう終わり? 蒼衣は面食らった。今まで受けて来た就職活動の面接は、長いもので30分を超えるものもあったし、圧迫的な質問を畳み掛けられるようなことも珍しくなかった。


 こんな拍子抜けする面接は初めて受けた。


「特にないかな?」


「えーっと……じゃあ、給料を教えてください」


 さすがの蒼衣でもやらかしたと直後に思った。いきなり金の話なんて不躾にも限度がある。それでも、もはや蒼衣がこの職場で気になっていることと言えばサラリーぐらいしかなかったのだ。


 海鳴水族館。久しぶりに訪れてみて改めて、立派で華やかな建物だ。ましてイルカショーといえば水族館でも花形。知識と技術が必要な専門職でもあるわけだし、気にしないようには振舞っていたものの、給料はかなり期待していい額とみていた。


 金が手元にあったからといって蒼衣に使い道など思い浮かばないが、単純に、給料は高ければ高いほどステータスになって蒼衣のプライドが満足するのだ。ドルフィントレーナーという響きもなんかかっこよくて苦しゅうない。


「あれ、大吉さんに書類渡してなかったっけなぁ。あの人全部ポケットに入れてそのまま捨てちゃうからな……ごめんごめん、ちょっと待ってね」


 海原が手元の書類をガサガサやって、目当てのものを見つけたらしい。1枚の紙切れを机の上で滑らせて、蒼衣に正面を向くように提示してくれた。


「合格する前提だけどこれが蒼衣君の初任給だね」


 トン、とゴツゴツした指が示した箇所に目をやって、瞬間、蒼衣は心の底から絶句した。



 820円(時間給)。



「…………………へ?」


 目を疑うとはこのことである。何度注意深く見直してもその数字は変わらなかった。時給820円。はっぴゃく、にじゅうえん? なんだこれ、ピザ屋のバイトより低いぞ、夢でも見てるのか。


「まぁ、そういう反応になるよね。気持ちはわかるけど、どこの水族館も最初は似たようなものなんだよ。悪いね。1ヶ月の研修期間が終わればすぐ50円上がるから」


 馬鹿にしてんのか! 蒼衣は目をひん剥いてわなわな震えた。50円アップで喜ぶなんて高校生じゃあるまいし。


「さて、疑問も解決したことだし、プールに行こうか。いよいよ本格的な試験が始まるよ。他の子も待ってるだろうし」


 さぞ楽しみだろうという満面の笑みで蒼衣の肩をバシンと叩く海原に、蒼衣はもう相槌さえ打てなかった。


 ……ん?


「海原さん、他の子って……?」


「あれ、大吉さんから聞いてない? そんなに大々的な求人はしてないのに、全国から志願の声が後を絶たなくてね。既に20人は超えてるかなぁ……まあ今の所全員不合格なんだけど」


 聞いてないにもほどがある!


 蒼衣は採用試験の段階から寝耳に水なのだ。あのテキトー親父め、ろくに詳細も覚えてないのに紹介しやがったな。蒼衣の胸にふつふつと怒りの感情が燻りはじめる。


「そろそろ決めないとスケジュール的にもマズイんだけどなぁ。そういうわけで、頑張ってくれよ蒼衣君。さ、プールへ行こう」


 蒼衣の心境などお構いなしで、海原は蒼衣の背中を押して無理やり視力検査室から退出させた。来た道を戻り、さっきとは違う角を曲がる。


 --ここは、ブラックだ。ブラック企業というやつだ。


 ダンプカーのような馬力で背中を押されながら、蒼衣は泣きべそ半分に悟った。


 紹介してもらった翌日にもう出勤だなんて、思えばそこからおかしかった。それほどまでに一刻も早くドルフィントレーナーの代理が欲しいということだろう。状況は切迫していると見た。


 その一方で、全国から話を聞きつけて訪ねてくれた20人を軒並み突っぱねる非情さ。矛盾している。人事が足元を見ているからだ。


 次々入社を志望して来るのをまるで当然のように思って、前途有望な若者をゴミのように捨てる。自分を落としてきた今までの企業と、ここもなんら変わらない。いや、それと比較したって雇用条件が劣悪だ。


 頼まれたって入ってやるものか。蒼衣は心に決めた。こんなところ、さっさと試験に落ちて帰ってやると。


 押されるがままだった蒼衣は、まもなく自分の足で歩き始めた。やがて金属製の重い扉の前に来ると、海原が力を込めてそれを開く。


 薄暗かった視界に鮮やかなブルーが飛び込んだ。


 屋内プールだった。蒼衣を取り囲む3面の壁は全面ガラス張り。磨き抜かれた壁面は朝の陽光を室内へ導き、揺れる水面を煌めかせる。一辺20メートルほどの正方形のプール。学校やスポーツセンターにあるようなものと異なり、かなり深さがありそうだった。


「イルカとのトレーニングに使うプールだ。プールと言っても、張ってあるのは海水だけどね」


 蒼衣はやさぐれていた気分の全てを、一瞬すっかり忘れ去った。


 うず、と全身の細胞が疼く。鼻腔を突き抜ける潮の匂いが、蒼衣を海の男へと豹変させる。この全身が冷たい海水に沈むその瞬間を想像するだけで興奮する。


「水着は持ってきてくれたよね? 貸し出したいにもこれだけの人数分はなくて。そこの更衣室で着替えたらあそこに集合だ。もうみんな集まってる」


 海原の示す方を見ると、言う通りそこにはウェットスーツ姿の男女が6名、微妙な距離感で集合していた。あれが海原のいう"他の子"、即ち採用試験のライバルだろう。


 海原によると、採用試験の開催は2日おきで、今日で5度目。さすがにそろそろ合格者を出さないとまずい状況らしい。知ったことではない、自業自得だ。


 そんなモチベーションでも、人を待たせていると思うと動きが機敏になるものだ。蒼衣は更衣室に入り手早く自前のウェットスーツに着替えると、最低限に手首や腱を伸ばしてから集合場所へ駆けつけた。


「よし、これで全員だね」


 プールのへりに集合してみて蒼衣がまず気づいたことは、事前に集合していた6名のうち採用試験を受ける者は4名だということだった。


 では残りの2名は何者だったかというと--今、整列した蒼衣たちと対面するように立って口を開いた海原の横に、その2名が並んでいる。3人ともオレンジ色のラインが入ったお揃いのウェットスーツ姿だ。海原はいつの間に着替えたのだろう。


「改めまして、この度は当館の求人にご志願いただきありがとうございます。当館のイルカチーム、リーダーの海原です。本日は、よろしくお願いします!」


 ハキハキと進行していく海原の礼に合わせて蒼衣たちも「お願いします」と声を揃えた。プールサイドのつぶつぶが裸足に心地よい。


「副リーダーの黒瀬くろせだ。よろしく」


 海原のすぐ隣にいた男が、低く凄みのある声で挨拶した。蒼衣たちの挨拶もどもり気味になる。


 年齢は見た感じアラサー。背は平均より低めだが、ウェットスーツが強調する引き締まった肉体と、自然な黒髪の中一部だけ金色に染まった前髪が隠す、狼のような静かで鋭い眼光の威圧感は形容しがたい凄みがあった。


 まったく蒼衣の知るところではないが、こんな人が子どもに笑顔を届けられるのだろうかと心配になってしまう。


 と、そんな黒瀬兄さんを差し置いて、蒼衣を含めた5名の視線を釘付けにしていたのが3人目の、女性だ。


汐屋しおやです。昨年入ったばかりの新米ですので、今日は私の方が勉強させてもらうつもりで見させていただきます。よろしくお願いします」


 清廉かつ、まだ僅かに幼さの残る笑顔。ぴったりとしたウェットスーツに強調された細長くしなやかな四肢と女性的な曲線。後ろでひとつくくりにされた長い髪は、艶やかな烏の濡れ羽色。


 健康的に日焼けした小麦色の肌なのに、透き通るほどきめ細かい。冬の凪いだ海を思わせる、凛と冴えた深い色彩の瞳。背は高くないが、すらりと伸びた背筋と落ち着いた佇まいは貫禄さえある。


 蒼衣はこれほど透明感のある女性に会ったことがなかった。同い年ぐらいだろうか。初めて見たときから正直目を奪われていたが、見た目の若さから受験者側の人間だと思い込んでいた。


「さて、自己紹介も終わったので、さっそく試験に移っていきましょう!」


 海原が笑顔で手を叩いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る