第六話 羽ばたく者たち 第四幕 永遠のライバル(5)
◇
ログアウトし、エントリーシートから下りてきた迅雷は、ヘルメットを脱ぎ、レーシンググローブも外してそれらを座席に抛り込むと、満面の笑顔を浮かべている翔子と黙って握手を交わした。
意外にも大騒ぎしたりはせず、静かに湧き上がる喜びを共有しながら、ただ握手をして互いの肩や腕をぽんぽんと叩き合う。
「迅雷さん」
「ことりもお疲れ」
迅雷はことりとも握手をしハグをすると、次につばさの前に行って彼女とも握手をした。
「……おまえが駄々をこねたときはどうなるかと思ったぜ」
「あう」
つばさが微妙に目を伏せた。迅雷は怒ってはいなかったが、もう少しいじってやろうかとも思っていた。だが、そのとき翔子が迅雷の服の袖をつまんで云う。
「ジェニファーさんからコール来てるよ」
「えっ?」
「運営主催のイベントレースの場合、優勝チームやからレース後のインタビューとかあるねん」
「そんなのあるの?」
「うん。さすがにバーチャルでみんな色んなところからログインしてるから表彰台でシャンパンファイトとかは無理なんやけど、その代わりにそういうのあるねん」
翔子が頷きながらそう云うと、迅雷はそんな翔子の後ろに回ってその肩を背後から押さえ込んだ。
「え、なに?」
「おまえチームリーダーなんだから代わりに優勝インタビュー受けてくれよ。こういうのリーダーの仕事だと思うし」
「えええ、面倒くさがってるだけやろ!」
そう云う翔子を、迅雷は後ろからピットブースのところまで押していった。渋々といった様子でヘッドセットをつけた翔子だが、インタビューに答え始めると途端に饒舌になって楽しそうにしているのだから調子のいいものだ。
そのインタビューが終わり、ジェニファーが今日のレースの模様をハイライトで振り返る段になると、今度はチーム・ストームヴィーナスからのコールがあって、通信画面に憮然とした様子のホケキョが顔を出した。
翔子がマイクを切り替え、ヘッドセットをつけずとも会話できるようにしてくれた。それを待ってホケキョが云う。
「優勝おめでとう……と一応云っておくけれど、本当は云いたくないくらいだわ」
実際、ホケキョの顔には悔しさが溢れている。頭では勝者を称えねばと解っていても、心では悔しくて転がり回りたくなるのは負けたときには当たり前だ。
迅雷にはその気持ちがわかったし、翔子もレーサーであるからにはやはり理解できたのだろう。翔子は慰めるような口ぶりで云った。
「いや、おおきに。上辺だけでもそう云ってくれたら充分よ。それでどうしたん?」
「うちの真玖郎ちゃんとそっちの疾風迅雷との、個人的な約束についての件よ。疾風迅雷、あなた真玖郎ちゃんとの勝負で、勝ったら負けた方はなんでも云うことを聞くという条件をつけたそうじゃない。それで真玖郎ちゃんに、自分の前でF1ドライバーになるように誓わせるって云う話だけど……」
「ああ、たしかにそんな賭けをしてこの勝負に臨んだな……」
あれは忘れもしないプリンスとの勝負のあとのことだ。真玖郎が迅雷の携帯デバイスに電話をかけてきたことに始まり、勝負の約束をしたのだが、その際に負けた方が勝った方の云うことを一つなんでも聞くという話になり、こんなやりとりをしたのだ。
――俺の前に来い。そして俺の前で改めて誓うんだ。F1レーサーになるって。
――ずっと前から君のファンだった女の子がいるんだ。一回だけでいい、その子とデートしてやってくれ。
これが迅雷と真玖郎がお互いに望んだことであった。
その賭けは、もちろん無効にはなっていない。だが今となっては、迅雷の方にそのつもりがなかった。
「あの賭けはもういいよ。だって俺とあいつの、これからの勝負の舞台はバーチャルサーキットなんだから。だからF1じゃなくていい」
そんな言葉が自分の口から出てきたことに、迅雷は自分で驚いた。けれど心は晴れ晴れとしていて、つまりこれは本心からの言葉なのだ。そう思って、迅雷はなおも云う。
「そう、オンライン・フォーミュラでも、今日みたいな勝負が出来るんだ。俺のなかでは、もうリアルとバーチャルが並び立っている。だから疾風迅雷と隼真玖郎じゃなく、ライトニング・バロンとナイト・ファルコンっていう関係でも、俺は構わないよ」
そんな迅雷の言葉を聞いて、ホケキョは意外そうに目を瞠ったあと、優しい笑みを浮かべた。
「……そう」
そこで会話が途絶え、沈黙を少し変に感じた迅雷は、咳払いすると云った。
「ところで真玖郎と話したいんだが……」
するとホケキョもまた真顔に戻り、首を横に振る。
「今は駄目。今、千早とめぐるが介抱にあたってるけど、精も根も尽き果てたような状態なのよ。さっき私が駆けつけたときには本当に疲労困憊で……」
そう云ってホケキョは気がかりそうな目をすると、肩越しにエントリーシートの方を見た。迅雷は自分にも見せてほしかったが、それが叶うはずもなく、ホケキョが顔を前に戻して云う。
「それにちょっと恥ずかしいみたい」
「恥ずかしいって云うと……」
「汗を掻いて疲れ切った顔をあなたに見せたくないのよ」
そんなことは気にしなくていい。迅雷はそう思ったが、その横で翔子が「わかるわかる」としきりに頷いていた。
「それにあなたは男の振る舞いをしていた真玖郎ちゃんしか知らないでしょう。私が初めて会ったときの真玖郎ちゃんもそうだったわ。髪はベリーショートで、言動もなんだか男っぽくてね……そして真玖郎ちゃんの身の上を知ったときから、あの子を女の子にするための、私の一大作戦が始まったのよ」
そう語るホケキョはいつしか卓子に両肘をつき、両手の指を組み合わせて楽しげであった。
「髪を少しずつ伸ばさせて、お化粧の仕方を覚えさせて、一緒に御洋服を買いに行ったり、女の子らしいことをいっぱいさせてみたり……楽しかったわねえ」
「そう、か……」
迅雷は少し、ほんの少しだけれど、ホケキョのことがわかって嬉しかった。
「あんた、真玖郎のことが可愛いんだな」
「ええ。あの子がどんどん女の子になっていくのが見ていてとても素敵だったわ。でも、だからこそ、あなたのことは嫌い。あの子を一番女の子にできるのが、私じゃなくてあなたなんてね。ふん!」
その理屈が、わかるようなわからないような迅雷である。
嫌いと云われて迅雷が傷ついた顔をしていると、ホケキョは咳払いを一つして居住まいを正し、気を取り直したように云った。
「話を戻しましょうか。賭け事の件はもういいとして、どうにせよ、あなたと真玖郎ちゃんは一度ちゃんと会った方がいいと思うの。もちろんリアルで」
そう聞いて、迅雷は少しばかり緊張した。
――今の真玖郎と会うのか。
レース中、通信画面越しに対面した真玖郎はヘルメットを被っていたので迅雷にはわからないが、恐らく今の真玖郎は迅雷の知っている真玖郎とはかなりの別人になっている可能性が高い。
――あいつが髪を伸ばして、スカート穿いて、俺の前に出てくるの?
「……やべえ、想像できねえ」
思わずそう独り言を漏らしてしまった迅雷に対し、ホケキョがねじ込むように云う。
「あなたも真玖郎ちゃんと直接対面したいでしょう?」
拒否は許さぬような口吻であったが、元より迅雷にも逃げる気はない。
「そうだな……今のあいつがどうなってるか想像すると怖い気もするが、やはり俺も真玖郎には会いたい。会ってこの目で、全部を確かめてみたいよ」
「
ホケキョが満足そうに笑ったとき、しばらく黙っていた翔子が口を挟んできた。
「なんか意外やな。あんたは迅雷君と真玖郎ちゃんを会わせたくないのかと思ってたわ」
「会わせたくないですとも! でも、仕方ないじゃない。真玖郎ちゃんには疾風迅雷しかいないみたいなんだから! 忌々しいったらありゃしないわ。だいたい――」
と、そこで言葉を切ったホケキョは、迅雷を突き刺すように睨んでくる。
「だいたい、あなたの女性関係ってどうなってるわけ? 千早とダークネス・プリンセスが走ってたときの会話、こっちにも筒抜けだったんですからね! 恋人が三人? それとも他にまだいるの? もしかしてこの調子で四人五人と増やしていく気? もうもうもう!」
「あ、それはまあ……うん、その、なんだ。またの機会にしようじゃないか」
迅雷がそんな遁辞を弄すると、ホケキョの目つきの鋭さが増した。
「いいわ。でも、当日は私も真玖郎ちゃんに同行するから。ええ、二人きりで会わせてなるものですか。そのときにきちんと話を聞くわよ?」
「あ、はい。了解です」
迅雷が思わず丁寧語になってしまって、その場は許された。
そのあと離席したホケキョは真玖郎と話をし、迅雷との再会にあたって待ち合わせの日時を指定してきた。
「どうせなら冬休み中の方がいいでしょう。お互い時間もあるし」
「そうだな」
こうした次第で、迅雷は年明けの一月某日に、都内某所で真玖郎と会うという約束を交わした。
そのあと少し迅雷たち四人とホケキョで話をし、このレーシングルームを使える時間が迫ってきたこともあって会話と通信を終えようとしたところで、ことりがふと思い出したように云った。
「あの、そういえば……」
「なあに、ことりちゃん?」
ホケキョはどうやらことりを気に入ったらしく、とても優しい声でそう応じた。迅雷が自分との温度差に少し傷ついていると、ことりが云った。
「ホケキョさんの本名って、まだ聞いてませんよね?」
「あら、云ってなかったかしら。私の名前は――」
◇
そのあと迅雷たち四人はレーシングルームを出て、エレヴェーターで一階に下りてきた。時刻はまだ夕方にもなっていない。皆、疲れており、いつもの喫茶店で一息入れようかという話になった矢先だった。
横合いから大らかな拍手の音が聞こえてきて、顔を振り向けると、クイーンのフレディ・マーキュリーにそっくりな男が笑顔で立っていた。
「はっはっは! コングラッチュレーションだ、ボーイ!」
「サイモン先生!」
久しぶりに見るサイモンの姿に迅雷は相好を崩し、軽やかな足取りでサイモンの前まで歩いていった。
広くたくましい胸の前で腕を組んだサイモンは一つ頷いて云う。
「先ほどの勝負、私もそこのカフェ・パドックから観戦させてもらっていたぞ。見事な勝利だったな、ボーイ」
「ありがとうございます」
迅雷がそう礼を云うと、サイモンはそんな迅雷の顔を見、目のなかを覗き込んだあとで
「いい顔をしているな。色々と勝負の感想などを聞こうかとも思ったが、その顔を見ることが出来ただけで十分だ」
そこでサイモンは、迅雷の後ろに控えていたつばさたちに目を投げた。
「ガールたちも久しぶりだな。見覚えのないガールも一人いるようだが……」
すると翔子が一歩前に出てきた。
「どうもはじめまして、御空翔子って云います」
「うむ。私はサイモン・マンセルだ。このボーイに英語を教えた者であり、オンライン・フォーミュラの運営に協力する者であり、また一バーチャルレーサーでもある者だよ」
「あ、その辺の話は聞いてます。な、さっちゃん?」
翔子がつばさに話を振ると、つばさは肩をすくめて車椅子からサイモンを見上げた。
「いつも突然、現れるんですね」
「はっはっは。これでも私は色々と忙しくてね、あちこち世界中を飛び回っているのだよ」
嘘か本当か判らぬ口調でそう答えたサイモンは、そこで迅雷に目を戻した。
「ところでボーイ。今日の勝利を祝して、私から一つボーイにプレゼントがある」
「プレゼント、ですか?」
目を丸くした迅雷に首肯を返したサイモンは、にやりと笑って先ほど迅雷たちが下りてきたばかりのエレヴェーターを親指で示した。
「というわけで、カモンボーイ」
一緒にエレヴェーターに乗れ、ということなのだろう。
迅雷はそう了解したが、それにはつばさが異論あるように口を挟んできた。
「お兄さんはこれから私たちと喫茶店で軽い祝勝会をする予定なんですが、よかったらサイモンさんもどうですか? プレゼントならその席でもいいでしょう。ホットケーキ、奢りますよ?」
「非常に魅力的な提案だ。だがただプレゼントを渡すだけではなく、ボーイに改まった話があってね。男同士が話をするときは風に吹かれながらと昔から決まっているのだよ」
「どこの国の作法や」
思わずそう突っ込みを入れた翔子だったが、彼女はすぐに気を取り直したように云った。
「ほんなら、ウチらも一緒に行く?」
迅雷としては別に断る理由もなかったが、誰がなにを云うよりも早く、サイモンが翔子たちに片手の掌を向けてきっぱりと云った。
「いや、これは男同士の話。悪いがガールたちは遠慮してもらいたい」
「えええ、ウチら除け者ですか」
翔子は不満を隠さなかったが、サイモンは相手を宥めるように続けた。
「なあに、それほど長くはかからないさ。ボーイはすぐに君たちに返そう。だから先に行っていてくれたまえ」
するとつばさとことりと翔子の三人は顔を見合わせたあとで、揃って迅雷を見つめてきた。迅雷としては、サイモンがそう云うなら本当に折り入った話があるのだろうと思ったし、是非はなかった。
「先に行っててくれ。俺もあとから行くよ」
「わかりました」
つばさは文句の一つも云うかと思ったが、ここは聞き分けがよかった。翔子がことりに代わってつばさの車椅子のハンドルを握りながら云う。
「ほんならウチらはウチらで女同士の話でもしよ」
「じゃあ迅雷さん、またあとで」
ことりがそう云ったのを潮に、三人はカフェ・パドックを回り込んで奥の喫茶店へと向かった。
それを見届けた迅雷は、気持ちに区切りをつけるとサイモンに視線をあてた。
「それじゃあ先生、どこへ行くんです?」
「もちろん屋上だ」
サイモンの答えは明朗であった。
こうした次第で迅雷がサイモンに連れて来られた場所は、センターの四階部分からいったん屋上駐車場に出て建物を回り込み、階段を上った先にあるこぢんまりとした展望台であった。
地上五階の眺めで、プリンスとの勝負の前日にことりに連れてきてもらった、あの場所である。
「ボーイはここへ来たことがあるかな?」
「前に一度。しかし誰もいませんね」
「寒いからな」
暖かい時期であればベンチに人影もあろうが、凜冽とした真冬の風が吹く十二月では、わざわざ屋外で一休みしようなどと考える者はいないらしい。
つまり二人きりで、話をするにはうってつけであった。
「そういえば……」
迅雷は以前から、機会があればサイモンに訊きたいと思っていたことがあったのに心づくと、忘れないうちにと思って急いで云った。
「サイモン先生もバーチャルレーサーなんですよね。DNはなんなんですか? よかったら、今度俺と一勝負しませんか?」
するとサイモンは困ったような、しかしどことなく嬉しそうな微笑を浮かべると、迅雷の質問には答えないまま上部に黒い欄干のついた透明な柵の方へ行き、そこから秋葉原の街並を見晴るかした。
「先生?」
不思議そうに小首を傾げた迅雷に、サイモンは背中を向けたまま語る。
「ふむ、どこからどう話したものか……ボーイにプレゼントを渡す前に、ちょっと私の昔話を聞いてもらいたいのだが」
「昔話ですか? 構いませんよ」
迅雷はサイモンを尊敬していた。ただ英語を教えてもらったからという理由だけで、師と仰いでいるわけではないのだ。だから長話くらい、喜んで聞ける。
迅雷の快活な返事に、サイモンは「うむ」と一つ頷くと、街並に視線を向けたまま語り始めた。
「実は私は、子供のころ、F1レーサーになりたかったのだ」
「へえ」
迅雷は驚いたが、そこまで意外というわけでもなく、引き続きサイモンの話に耳を傾けた。
「だが、なれなかった。ボーイには今さら云うまでもないことだが、モータースポーツというのはとかく金がかかる。私の家庭にはその環境がなかった。父は私の夢に理解を示してくれ、こっそり農場のトラックを運転させてくれたりもしたが、とにかくない袖は振れなかったのだ。大学まで行かせてくれただけでも感謝せねばならなかった」
迅雷は黙って頷いた。迅雷の家庭は中の上と云ったところで、青梅に祖父母の代からの持ち家があり、両親は共働きの会社員とそれなりに恵まれていた。そうでなくては、子供のころからキッズカートに乗るという環境自体が与えられなかっただろう。
「ところでボーイには弟妹がいるらしいが、私にも弟が二人いてね。父が病に倒れると弟たちを大学に行かせるために働かなくてはならなかった。F1でなくともレーサーを目指そうかと思っていたこともあったが、こういう事情で夢は封印したのだ。それでも車を趣味にしてはいたから、自動車業界で働いていたのだがね。そして月日が流れ、私ももう若いとは呼べる年齢ではなくなっていた。そんな時期になって、業界の友人がきっかけで、まだ正式稼働前のオンライン・フォーミュラに出会ったのだ」
そこでサイモンは迅雷を振り返った。子供のような笑みを浮かべていた。
「夢中になったよ。そこには私がかつて夢見た世界があった。自分が若返ったような気がした。そしてベータ版で優秀な成績を残すと、オンライン・フォーミュラの専属テストドライバーにならないかという打診があった。私は迷った。運営側の人間になることで、一バーチャルレーサーとして自由な活動ができなくなることを憂えたのだ。だがそれは杞憂だった。分けて考えてくれればいいですよ、という話だったのだ」
「それで自動車業界時代の
迅雷が先回りして云うと、サイモンは出来のいい生徒を見るようににっこり笑って頷いた。
「まあ、そんなところだ」
そこでサイモンは、顔つきを真面目なものに改めた。
「さて、前置きは終わりで、ここからが本題だ。ボーイは、オンライン・フォーミュラのワールドグランプリを知っているかね?」
「もちろん。フォーミュラクラスのレーサーだけで戦う、OFの世界一決定戦でしょう。真玖郎は、去年それの総合三位になった」
「そうだ。F1グランプリと同様、三月から十一月にかけて全二十戦が行われ、その日程はF1カレンダーが発表後、それとはずらすかたちで決定される。将来的にF1ドライバーが参戦してくることを見越しているからだ」
それに相槌を打った迅雷は、そこでちょっと思案顔になった。
「でもOFがこれほどのものなら、F1ドライバーたちがとっくに雪崩を打って入ってきていてもおかしくはないですがね……」
「もう既にその雪崩は起きつつある。最初の一年は無視されていたが、二年目でそれに気づく者が出てきて、三年目の今年は、正体を隠しているので真偽は不明だが、恐らくF1ドライバーだろうと噂される者が出てくるようになった。ボーイだって、リアルレーサーでありながらバーチャルレーサーになったのはつい最近ではないか」
「……そうですね」
そう考えると、迅雷は血が沸き立つような思いであった。
まだ自分は、カテゴリーとしてはF3である。しかしオンライン・フォーミュラでなら、一足先にF1ドライバーと戦えるかもしれないのだ。
しかも、その数はこれからどんどん増えていく。
「出たくはないかね、OFのワールドグランプリに?」
サイモンの、星空から手を差し伸べてくるような言葉に、迅雷は飛びついていた。
「出たい! 出たいです! でも、俺に出られますか? まだバーチャルレーサーになって一ヶ月で、OFのトップドライバーたちと比べたらDPもそんなに貯まっていないのに」
「もちろんDPは一つの目安ではある。だがなにより重要なのは速いことだ。外野のざわめきはスピードでねじ伏せることが出来るだろう」
そんな雄々しい言葉の数々は、迅雷の胸を熱く打った。
そしてそんな迅雷に、サイモンは
「ボーイへのプレゼントというのはな、OFワールドグランプリへの招待状なのだ」
それを聞いて迅雷はサイモンに抱きつきたくなった。
だがサイモンはそんな迅雷の行動を見越したように、両の掌を向けて迅雷を制すると先を続けた。
「だがこの招待状は、招待状であると同時に挑戦状でもある」
「挑戦状?」
「そうだ。もしこの挑戦を受けるなら、OFのワールドグランプリに参戦する上で面倒な障害は私が取り払ってやろう。無論いきなり決勝のグリッドを与えるなどありえないが、予選への入り口は開けてやろう。その代わりボーイはここで私に誓うのだ。数多の試練をくぐり抜け、OFのワールドグランプリでチャンピオンになってみせると!」
「誓います!」
サイモンの心の空で閃いた稲妻が、迅雷の心の空にまで伝わってきたような、それはそんな宣誓であった。
男二人は互いの目の中を覗き込むと、そこにあるお互いの秘めた闘志を確認して笑いあった。
「ならばよし!」
サイモンが、すべてを取り纏めるようにそう声を発したときであった。
「話は終わり?」
突然の女の声に、迅雷もサイモンも驚いて階段の方を振り返った。いつの間にか、そこに金髪に青い目をした女性が立っていた。
「ジェニファーさん!」
そう、それはジェニファーだった。
実況レディのユニフォームを着て先ほどまで仕事をしていたはずの彼女が、今は私服に着替え、金髪を首の後ろで束ねている。
そんなジェニファーを、サイモンが咎めるように見た。
「ジェニファー、いつからそこにいた?」
「中継が終わったあと、すぐに着替えてつばさちゃんたちにメールしたら、あなたが迅雷君をどこかに連れていったって聞いたのよ。だからまあたぶんここでしょう、と。あなたって高いところ好きだから」
まるで煙となんとかのように云うな、と迅雷はのどかに思ったが、サイモンは少し気分を害しているようだ。
「盗み聞きとは感心しないな」
「たまたまよ、たまたま」
ジェニファーは少しすまなそうな顔をして肩をすくめた。してみると、迅雷とサイモンの話の後半あたりを聞いてしまったのだろう。だが迅雷としては別に話を聞かれても問題はない。
ジェニファーは微笑みながら迅雷たちに近づいてきた。
「それで、本当に迅雷君が来年OFのワールドグランプリに出場できるように手配する気?」
「ルール上、問題はないはずだ。フォーミュラクラスのレーサーなら誰でも出場権はある。実際は累計DPやバーチャルレーサーとしてのキャリアも考慮されるが、それは一つの目安に過ぎない。今年のナイト・ファルコンがそうだったように、ずば抜けて速ければいいのだ。それをどうのこうの云う年寄りは、まだオンライン・フォーミュラの運営にはいないだろう?」
そこで言葉を切ったサイモンは、ジェニファーを見て笑った。
「それにジェニファーだって見たいはずだ。ボーイが世界を相手に戦うところを」
「ま、それはそうなんだけどね」
笑ってそう肯んじたジェニファーは、迅雷の横に立つとその左肩に自分の右腕を置いた。迅雷としては、その程度の接触でも胸がどきついてしまう。
迅雷が少なからず勇気を持って、ジェニファーの横顔を間近に見たとき、サイモンを見ていたジェニファーは彼を試すように笑った。
「でも、それがあなたの目的だったんでしょう?」
「む……」
サイモンはちょっとたじろいだ。迅雷はわけがわからない。
「サイモン先生の、目的?」
するとジェニファーは迅雷に視線をあて、一つ頷いて云った。
「私たち運営サイドの人間のあいだじゃ有名よ。ミスター・サイモンが速いレーサーとの勝負に餓えているって。彼が将来有望なドライバーをオンライン・フォーミュラの世界に勧誘して回っていたのは、もちろんそのドライバーにOFが有用だと信じていたから。そしてOFの発展を願っていたから。優れたドライバーとオンライン・フォーミュラは互いに互いを高め合うことができる。でも、それとは別に彼自身の目的があった」
「それが、優れたドライバーをオンライン・フォーミュラの世界に取り込み、彼らと戦うってことですか?」
迅雷が話の先を読んで訊ねると、ジェニファーは大きく首肯してみせた。
「イエス。誰も損しないから、別にいいんだけどね」
そこで言葉を切ったジェニファーは、サイモンに視線を投げると云った。
「あなたは迅雷君をオンライン・フォーミュラの世界に引き込み、そして今度は迅雷君と戦うために彼をOFワールドグランプリの舞台に引き上げようとしている。そういうことでしょう、ミスター・サイモン。いいえ、こう云おうかしら。バーチャルレーサー、レッド・ファイター」
迅雷は咄嗟に言葉もなかった。
――レッド・ファイター。
「サイモン先生が、レッド・ファイター……」
驚くには驚いたが、その一方、心のどこかでもしかしたらその可能性もあるのではないかと思っていた。
まず迅雷がサイモンからもらったブルーブレイブに注ぎ込まれた膨大なポイントの出所を考えれば、サイモンがOFのトップドライバーであることは明白だ。
次にサイモンはいつぞや仮想Gフォースについて、『彼のレッド・ファイターですら、七〇パーセントにカットして走っているという噂だ』などと嘯いていたけれど、そんな話をどうして知っていたのか。
それにレッド・ファイターの名前を迅雷が最初に聞いたのもサイモンの口からであったが、あのときサイモンは迅雷がレッド・ファイターを超えるだろうと予言したのだ。サイモンがレッド・ファイターでなかったら、その言葉はいささか失礼ではないか。
そしてなにより、サイモンは赤が好きだ。
迅雷がサイモンを見ると、サイモンは恥ずかしそうに笑って頭を掻いた。
「私はF1レーサーになりたかった。だが、なれなかった。そしておじさんになってからオンライン・フォーミュラの世界に出会ったのだが……どうやら私には、才能があったようなのだよ。気づくのが遅すぎたが」
「先生……」
こういうとき、迅雷はなんと声をかけてよいのかわからなかった。
だが黙って聞いていればよいのだろう。サイモンは構わずに話し続けていた。
「私はもう四十歳を過ぎている。仮想Gフォースも普段は七〇パーセントに落として走っており、要所要所でしか一〇〇パーセントにはしないくらいだ。本気の勝負が出来るのは、あと何年だろうな……」
だが、そこでサイモンの浮かべていた笑みの種類が変わる。恥ずかしそうなものから、闘志に溢れた勝ち気なものへ。
「そんな私にも夢がある。それはF1ドライバーや、将来F1ドライバーになるような有望なレーサーがどんどんオンライン・フォーミュラの世界に入ってきてくれること。そして彼らと、血の滾るような熱い勝負をすることだ!」
そこでサイモンは迅雷を勢いよく指差して云う。
「ゆえに! ボーイをOFのワールドグランプリに出場させるというのは、私からの招待状であり、挑戦状なのだよ!」
「その勝負、受けましょう」
先ほどのチャンピオンになるという誓いと合わせて、二重の誓いだ。
だがサイモンに対しては、二重の誓いでも三重の誓いでもよかった。
サイモンはにっこり笑うと迅雷に近づいてきて、右手を差し出してきた。迅雷がその手に自分の手を差し出し、二人は固い握手を交わす。
「ボーイは来年からヨーロッパに行くのだろう?」
「はい」
「ならば次に会うのは来年の春、バーチャルサーキットでのことだな」
「ということは、日本を?」
「うむ、少し離れることになる。まあネットワークで繋がった世の中だ、物理的な距離などもはやないに等しいがね」
そう云って片目を瞑ったサイモンは、迅雷の手をより強く握った。
「ところでボーイ、ヨーロッパへ行ったら、ボーイはヨーロッパでのOFの盛り上がりに驚くことになるだろう」
「そうなんですか?」
「うむ。元よりモータースポーツの本場はヨーロッパだ。日本人が野球とサッカーの話をするように、ヨーロッパ人はサッカーとモータースポーツの話をする。OFが正式稼働するやあっちではまたたくまに普及し、今やセンターの数もバーチャルレーサーの層の厚さも日本やアメリカより上だ。時差の関係上、日本では向こうの人間とマッチングする機会もなかなかなかっただろうが、ヨーロッパへ渡れば、ボーイの環境はリアルでもバーチャルでも激変するぞ。まだ見ぬ多くのライバルがボーイを待っている」
そうした未来予想図を聞いて、迅雷の胸に熱い喜びが広がっていく。
リアルでは、本場ヨーロッパで揉まれたヨーロッパF3の猛者たちが。
バーチャルでは、モータースポーツの盛んなヨーロッパの人々と生活する時間が合うようになり、マッチングの機会が増える。そしてレッド・ファイターとナイト・ファルコンがいる。
――リアルでもバーチャルでもレース、レース、レース! なんて幸せなレース人生だろう!
十七歳の日本人で、これほど多くの戦う機会に恵まれたレーサーは自分くらいのものだろうと思うと、迅雷は自然と笑ってしまう。
「では、グッドラックだボーイ!」
握手を振り千切ったサイモンは、その手を広げて迅雷の胸の高さに持ってきた。迅雷はそれに自分の右手で応じて、二人はパンと互いの掌を打ち付けあい、そして迅雷はサイモンに背中を向けた。
ジェニファーがするすると寄ってきて、サイモンに軽く手を振ったあとで階段を下りていく迅雷のあとを追ってくる。
そんな迅雷を見下ろして、サイモンは云った。
「ボーイが駆け上がってくるのを待っているぞ!」
サイモンは燃えていた。
◇
サイモンは、しばらくあそこに留まっているのだろう。迅雷と一緒にエレヴェーターに乗るのでは体裁が悪いからだ。
展望台からの階段を下りてきた迅雷は、ジェニファーとともに屋上駐車場から建物に入って、エレヴェーターを待ちがてらジェニファーに尋ねた。
「ジェニファーさんは知っていたんですね、サイモン先生がレッド・ファイターだって」
「まあね。このセンターの職員は、みんな知っているんじゃないかしら」
ジェニファーは悪戯っぽく笑うと、必要以上に迅雷に身を寄せてくる。迅雷はたちまち肩に力が入るのを感じた。
そんな迅雷に、ジェニファーが囁き声で問う。
「レッド・ファイターに勝つ気?」
「勝ちますよ。まあ実際のところ勝負はやってみなくちゃ判らないんですけど、やる前から負けることを考えるわけがない」
「そう」
するとジェニファーは迅雷の腕を取り、エレヴェーターを待っているはずなのに、迅雷を階段の方へ誘った。
「ジェニファーさん?」
「いいからいいから」
そう云うと、ジェニファーは迅雷の手を引いて、階段を一歩一歩ゆっくり下り始めた。一階と二階ならともかく、四階にあたるここまでを階段で上ってくる酔狂者はいないと見えて、階段はがらんとしている。
そこへ、ジェニファーの声はよく響いた。
「迅雷君はつばさちゃんのことが好きなんでしょう」
「え……」
もちろん好きだが、ジェニファーがどうしてそんなことを云い出したのかわからず、迅雷は咄嗟に返答できなかった。
そこへジェニファーはなおも云う。
「つばさちゃんだけじゃなく、ことりちゃんのことも好きで、翔子ちゃんのことも好きなんでしょう。違う?」
「……ち、違いません」
既につばさたち三人とは、そういう約束が出来ている。ジェニファーの前でだけ取り繕うわけにもいかず、迅雷はそう認めていた。
階段の踊り場まで来たところで、ジェニファーが迅雷を振り返った。
「そして私のことも好き」
「はい、好きです」
今度は返答に詰まりかけた先ほどとは違い、切れ味鋭く率直に出てきた答えであった。雛が卵から孵るように、あるいは種子が芽吹くように、それは自然なことだった。
ジェニファーが
「よろしい。それなら、本当にレッド・ファイターに勝っちゃったら、誰より速い男になったら、私もあなたの女の一人になってあげる」
「……え」
「これは、その約束ね」
咄嗟に二の句を継ぐことも出来ぬ迅雷に対し、ジェニファーはにっこり笑って近づいてくるとその背中に腕を回して、迅雷の唇に自分の唇を重ねていた。
初めてのキスは、熱く、柔らかく、蒸れ立つ花の香りに包まれて、迅雷は春の夢を見ているかのようだった。
……。
その後、ジェニファーと二人で例の喫茶店に顔を出したとき、迅雷はつばさに顔が
そうして五人でお茶をして、一段落がついたころ、翔子が思い出したように云う。
「ウチ、今日の夜には新幹線に乗らんとあかんから、ご飯とか食べていかれへん」
「そうなの?」
ことりがクリームソーダの残りをちびちびやりながら云う。
翔子は一つ頷くと、頬杖をついてつばさを見た。
「もういくつ寝たらお正月で、年が明けたら迅雷君とさっちゃんの勝負か」
その一言で、迅雷も自分のなかのスイッチが切り替わるのを感じていた。
「……そうだな」
迅雷はつばさを見た。
四人掛けの席に迅雷と翔子とことりとジェニファーがいて、つばさは通路に車椅子で座っている。
「おまえの抱えてる諸々に、今度こそすべて引導を渡してやろう」
するとつばさは伏せていた目を上げて迅雷を見て、もどかしげな顔をしたあげくに、結局なにも云わずにまた目を伏せてしまった。
その云えぬ想いも、サーキットでなら解き放てるだろうと迅雷は信じていた。
▼第六話第四幕あとがき
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
四幕構成にした第六話も今回でおしまいです。
次回、第七話はつばさとの再勝負、そして真玖郎との再会イベントになります。
更新時期は十月を予定しておりますが、例によって予定は予定なので、もし遅れましたらごめんなさい。気長にお待ちいただけたら幸いです。
それではまた次回!
なお永遠のライバル(4)ですが、更新当初、鈴鹿の第一コーナーは本来右コーナーであるところ左コーナーと誤って表記しておりました。布団に入ったあと文章を思い返していたら気づいて直したのですが、更新直後にお読みいただいた方は混乱したかもしれません。あそこは大事なところなので間違えてはいけませんでした。訂正とお詫びを申し上げます。
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