第三話 プリンスとの勝負(12)
低い稼働音とともに、オンライン・フォーミュラの筐体からエントリーシートが排出されてくる。密閉空間から外に出た迅雷は座席にもたれ、白い天井を仰ぎ見て長い息を吐いた。
「お兄さん!」
その勢いのある声に顔を振り向けてみれば、つばさが頬を紅潮させて、ひどく感激した目をして迅雷を見ている。ことりもまた同様だった。こうして見ると、二人は実によく似ている。
「お兄さん、勝っちゃったじゃないですか」
「当たり前だ。俺は疾風迅雷だぞ?」
迅雷はそう云ってにやりと笑うとシートベルトを外し、座席からすっくりと立ち上がり、コックピットの縁を跨ぎ越して床の上に降り立った。つばさはほとんど迅雷に見とれていたが、ことりの方は迅雷に如在なくタオルを差し出してきた。
「あの、汗……」
「おう、サンキュ」
迅雷はことりから受け取ったスポーツタオルで汗を拭き、そのタオルを返すときに今度はスポーツドリンクを受け取った。ペットボトルの蓋を開け、一気に半分ほど飲み干すと体が生き返ったような感じがする。それからつばさに笑いかけた。
「これでプリンスもおまえに付きまとったりしないだろう」
「はい」
つばさはそう夢見るように答えてから、ちょっと首を捻った。
「いや、あいつのことだから、素直に約束を守るかどうか……」
つばさはまだ楽観できないらしかったが、レースにおいて卑怯の限りを尽くした恋矢も、レースを離れれば恥を知る男であろうと迅雷は思っていた。恐らく、約束は守る。彼はもう、迅雷の許可なしでつばさやことりに近づけない。だが仮に恋矢が約束を守らなかったらどうするか。そのときも、迅雷は今さら知らんぷりなどするつもりはない。
「お兄さん?」
どこか不安そうな視線を寄越したつばさの、かたちのよい
「心配するな。あいつが約束を守ろうと破ろうと、おまえのことは俺が何度でも守ってやるよ」
そのときつばさがどんな感情に胸を貫かれたのか、迅雷気づかない。気づかないままスポーツドリンクの残りを一気に飲み干すと、空のボトルをことりに返してもう一度礼を云った。
それから迅雷とことりはつばさの傍に椅子を引っ張ってきてそこに座ると、しばらくは三人で勝利の余韻に浸っていた。
話をしながら壁掛けディスプレイが流している中継映像を見れば、ジェニファーが今日のレースをハイライトで振り返っている。荒れに荒れた電撃戦ではあったが、結局リタイアしたのはレース開始直後のあの二台のみで、他の十二台は無事にゴールしたようである。どのマシンも大なり小なりサンダーラインに引っかかってダメージを受けていた。
一度もダメージを負わなかったのは迅雷のみだ。それをジェニファーが褒めていた。
「電撃戦において無傷でフィニッシュしたライトニング・バロンには、パーフェクト・ボーナスとしてDPが追加で支払われます。おめでとう、バロン!」
「パーフェクト・ボーナス? そんなのあるのか……」
だがなにはともあれ、DPが増えるのは喜ばしい。
「これで真玖郎にまた一歩、近づいたかな」
迅雷はそう云うと天井に目を上げた。真玖郎ことナイト・ファルコンの持つタイムアタックの記録はすべて塗り替えてやったし、先日ポイントで格上のレーサーたちからレースに招待されたように、自分はオンライン・フォーミュラの世界で名前が知られつつあるらしい。真玖郎もライトニング・バロンの存在を意識していてもよさそうなものだ。
「あいつ、そろそろなにかアクションを起こしてくれないかな」
迅雷のそのぼやきにつばさが応じてくれた。
「メッセージボックスには、ライバルさんからのメールはありませんか?」
「ない」
迅雷は真玖郎がコンタクトを取ってきてもいいよう、オンライン・フォーミュラのマイページを通してメッセージを無制限で受け付けていた。そのなかには迅雷を褒めてくれたり、正体を知りたがったり、一緒に走ろうと誘ってくれるメッセージはあったが、迅雷が本当に待ち望んでいる真玖郎からのメールはなかったのだ。
勝利の余韻から醒めて眉宇を曇らせる迅雷に、このときことりが傍から励ますように云った。
「今日みたいなレースを続けていれば、きっとライバルさんも迅雷さんのことを無視できなくなりますよ。それに格上のレースに挑んでいけば、いずれナイト・ファルコンとぶつかる日もあると思いますから」
「うん、ありがとう」
迅雷がそのように頷いたときだった。控えめなノックの音がし、迅雷たち三人は揃って扉の方へ目を放った。このレーシングルームを訪ねてきた者がいる。誰であるかは察しがついた。
「ま、そりゃそうだ。来るよな」
このレースに負けたら迅雷の許可なくつばさに接触しない。そういう話ではあるが、レース終了直後に一言くらいあって然るべきである。
「たぶんプリンスだぜ」
迅雷はそう云いながら立ち上がった。その迅雷を目で追いかけてことりが云う。
「どうするんですか?」
「とりあえず部屋に入れてやろうと思う。約束が間違いないく果たされるなら、つばさとプリンスはこれが最後になるからな。どちらもお互いに云っておきたいことがあるなら云った方がいいと思うんだ。どうだろう?」
ことりに問われてそう答えていた迅雷は、つばさに顔を振り向けてそう尋ねた。つばさはほんの数秒の沈黙を挟んで、首を縦に振る。
「そうですね。私もあいつに云いたいことがあるので」
「よし」
迅雷は一つ頷くと、レーシングルームの扉を開けた。
案に違わず、そこには弾彦に伴われた恋矢が立っていた。いったいいつ着替えたのか、そして着替える必要があったのか、ともかく恋矢は本格的な白いレーシングスーツ姿であり、それと揃いの白い瀟洒なヘルメットを小脇に抱えていた。レーシングセンターから貸与されているものではなく、自前なのであろう。
弾彦が最初に口を切った。
「やあ。君たちの前から消える前に、お詫びにきたよ。ほら恋矢」
弾彦がそう促すと、蒼白な顔をしている恋矢は迅雷を睨みつけて、しかし唇を噛みながらなにも云おうとしない。色々とやってくれたが、素直に謝るのも業腹であると見える。つばさとことりは室内から黙って様子を窺っており、そして迅雷はにっこり笑って一歩前に出た。
「ま、とりあえずお疲れ」
そう云って、迅雷は恋矢の華奢な腹部に軽く拳を打ち込んだ。
「ぐっ!」
と、恋矢が呻いてその場に両膝をつく。
「ちょ……!」
さすがにことりが腰を浮かせて制止にかかったが、迅雷もそれ以上のことをするつもりはなかった。ただ恋矢を見下ろして憤然と云う。
「いくらゲームだからってブラインドコーナーで待ち伏せする奴がいるか、この馬鹿野郎が。今のはその礼だよ。文句はないな?」
「う、ぐ……」
恋矢は迅雷を睨み、殴られた腹を押さえながら立ち上がった。そんな恋矢が殴り返したりしないよう、脇から弾彦がしっかりその腕を掴みながら云う。
「恋矢。いい加減、なんとか云えって」
「……今ので帳尻は合わせた」
恋矢が頑固にそう云い張ると、弾彦は一つため息をついて迅雷にすまなそうな目を向けた。
「悪かったね。本当にこいつは未熟者で、従兄として、僕もお詫びするよ。申し訳ない」
「いいよ。それより突っ立ってないで入れよ。このレーシングルームを使える時間はもう少しあるから」
迅雷はそう云うと、恋矢たちを部屋のなかに招じ入れた。
迅雷たちは二基のエントリーシートのあいだに使われていない椅子を並べた。車椅子のつばさを迅雷とことりが左右から挟み、それに相対するかたちで恋矢と弾彦が座る。
こうして向き合うと、つばさが神妙な顔をして口を切った。
「プリンス、約束は憶えているな」
「ああ」
そう肯んじる恋矢の、つばさを見る目には、なんとも云えない悲しみがある。
「僕も男だ。約束は守るさ」
そう云ったきり目を伏せてしまった恋矢の背中を、弾彦が横からばんと勢いよく叩いた。
「こいつはこれでも田園調布にでっかいお屋敷のある、いいところのお坊ちゃんなんだ。ゲームじゃなにをやってもいいと思ってるから我が儘放題だが、現実のことはきちんとやる。そう躾けられているからね。だから心配しなくていいよ」
そう云った弾彦を鬱陶しげに睨みつけた恋矢は、ふたたびつばさに眼差しを据えた。別れを惜しむような視線だ。
「それではこれでおさらばだ。こうなった以上、僕は君の前から消える。色々と迷惑をかけてすまなかったな」
「ああ……」
そう返事をするつばさに晴れ晴れとしたものはなかった。まさか今さら心変わりをしたはずはないが、気まずい想いもしたのであろう。そんなつばさに、恋矢はこれが最後とばかりに云う。
「こんなことを云っても信じてもらえないかもしれないが、僕は君を守ってあげたかったのだ。それだけなのだ。だが僕の出る幕ではなかったな」
恋矢はそれだけ云うと、もうこれ以上一秒とてこの場にいられないとばかりに立ち上がり、踵を返して去りかけた。だが。
「待て」
そう一声発して恋矢を引き留めたのはつばさであった。驚いて振り返る恋矢に、つばさは重い口調で続ける。
「実は、最後に云っておきたいことがある」
すると恋矢は一瞬言葉が出てこないらしかったが、やがて自嘲の笑みを浮かべて云う。
「今さら僕になにを云うことがあるんだ? 説教か、それとも恨み言か? まあいいさ、これで最後なのだから、なんでも云うといい」
恋矢はそれだけ云うと、一度は立った椅子にもう一度腰を下ろした。
つばさは少し思案顔をしてから、色を正して恋矢に切り出した。
「プリンス、私はおまえが嫌いだ」
その言葉に恋矢は胸に矢を受けたが如しである。だが堪え忍んで、つばさの言葉に耳を傾ける姿勢を崩さなかった。そこへつばさがなおも云う。
「どう嫌いかと云うとだな、まず私より遅い。それだけならまだしも、レースで卑怯なことばかりする。オンライン・フォーミュラはゲームだが、そのゲームをする我々はリアルなのだ。さっきおまえの従兄が現実のことはきちんとやると云ったけれど、ゲームも現実のうちだ。これからもバーチャルレーサーであり続けるなら、そのことを少し考えてほしい」
いつの間にか目を伏せていた恋矢は、短く、しかし確かに頷いた。
それきりつばさが黙るので、これで話は終わりかと思われたが、恋矢が立ち上がりかけたところでつばさが口を開いた。
「ところで、それはそれとして、おまえに一つ確かめたいことがある」
「僕に?」
小首を傾げた恋矢に首肯を返し、つばさは恋矢の心の奥の奥まで見透かそうとするような瞳をした。
「……プリンス、前から不思議だったんだ。おまえは私のことが好きだと云うけれど、実際のところ、私のどこをどう好きになったのだ? 顔か?」
「違う」
恋矢はそう即答してから、つばさの顔ではなく脚を見た。つばさの靴を履いた両足は、電動車椅子の踏板に揃えて置かれている。
「僕は、ただ、君を守ろうと……」
「では、私たちが初めて会ったときのことを憶えているか?」
それに恋矢は勢いよく
「もちろん、忘れはしないさ! 今年の七月、このセンターのエレヴェーターが全部点検中になってて、君が二階に上がれず難儀していたところに僕がたまたま出くわした! 僕は君を負ぶって階段を上ってあげると云ったのだけれど冷たく拒まれて、悲しかったよ。そんな君を見て、僕は――」
「違うな」
恋矢の話をつばさが途中でそう切り捨てた。誰もが目を丸くするなか、恋矢がつばさに問う。
「違うって、なにがだい?」
「それは二回目だ。私とおまえが初めて会ったのは、そこではない。もっと昔、去年の夏だ。私がまだ事故に遭う前、車椅子ではなく、二本の脚で立っていたころのことだ」
それからつばさが話し始めたことには、誰もが驚かされた。
今から一年と四ヶ月前の夏、まだ自分の脚で自由に歩き回っていたつばさは、センター二階の廊下の曲がり角で人とぶつかって尻餅をついた。そんなつばさに「失礼、お嬢さん」と云って手を差し伸べてくれた少年こそ、恋矢だったのである。
どうか許していただきたい、気にしないで下さい、とそんな短い会話を交わして、その場は終わりだったそうだ。そのとき恋矢は別につばさに一目惚れしたとか、そういう様子はまったくなかった。つばさと恋矢が再会するのはそれから一年後になる今年の夏、恋矢が出会いの場面と思っている、このセンターのエレヴェーターの定期点検の日のことである。
つばさがそのように話を結ぶと、恋矢は信じられないといった面持ちで云う。
「そんなことが……あったっけ?」
「あったのだよ」
つばさがそう肯んじると、ことりが目を丸くして「初めて聞いた」と呟いた。ことりがそうなのだから、迅雷がそのような昔の話を知っているはずがない。
――俺とつばさが出会うずっと前に、そんなことがあったのか。でも、どうしてプリンスの奴は忘れていたんだ?
迅雷が恋矢を不思議そうに見ると、恋矢は戸惑った様子で声もない。やがてつばさはため息を一つついて項垂れた。
「やはり忘れていたのか。これまでのおまえの言動から、そうじゃないかと思っていた」
「つばさ嬢……」
恋矢は嗄れた声でそれだけ云ったが、続く言葉は出てこない。迅雷はもちろん、ことりも弾彦も、今の思いがけない告白を前にどうすればよいのか判らなかった。
この沈黙を壊したのは、やはりつばさであった。つばさは突然胸を張り、声をも張り上げて高らかに叫んだのだ。
「この自らの足で立ち上がることも出来ない可哀想な少女を見ろ! 彼女は僕が守るのだ!」
その
呆気に取られる四人の視線を受けながら、つばさは恋矢を指差して低い声で云う。
「私がおまえのことを嫌いな理由、その三。実はおまえは、私のことを全然まったくこれっぽっちも好きじゃない」
それはこれまでの前提をひっくり返すような、衝撃的な言葉であった。迅雷でさえ仰天しているのだから、恋矢の方は価値観がひっくり返されたくらいの衝撃ではないか。
恋矢は目も口も梟のように丸くしたあと、どうにか理屈をつけ始めた。
「そ、そんなことはない。初めて見たとき、君の美しさと儚さと、そしてその車椅子に座る姿を見て、これは僕が守ってやらねばならないと思ったよ。だが、それは愛だろう?」
「いや、違う。あなたは愛情と同情を混同している。あなたは私がこんなだからそんな気を起こしたんだ」
つばさはそう云いながら差し俯いて、車椅子の踏板の上に置いてあった脚をぶらぶらさせた。ペダルワークは出来るから、脚自体は動くのだ。してみると歩行に障りがあるのは膝か、腰か、それとも――と迅雷が横道に逸れて考えたところで、つばさがなおも云う。
「だいたい初めて見たときと云うけれど、あなたは初めて見たときの私を綺麗さっぱり忘れていたじゃないか」
恋矢は返す言葉もなく、驚天動地のなかで立ち尽くしている。
「王子様気取りも結構だが、あなたは自分の心に忠実に生きるべきだ、恋矢さん」
その突き放すような言葉に、恋矢は後ろ向きに倒れそうになった。もっとも椅子に座っていたから、背もたれに体を支えられたのだが、その恋矢を横から手を伸ばして、背もたれと一緒に支えようとする者がいる。弾彦だ。
「恋矢、君って奴は自分の心さえ見えてなかったのか」
「弾彦……」
恋矢が力なく従兄を見る。弾彦はそんな恋矢ににっと笑いかけた。
「でもよかったじゃないか。うん、実は君の心が彼女になかったと云うなら、それに気づけたのは君にとってよかったと思うよ」
弾彦は嬉しげに笑って二度三度と頷きながら、恋矢の華奢な肩を励ますように叩いている。
「それになにより、これであの可愛い婚約者の泣き顔を見ないで済む。僕はそれが一番嬉しい」
その言葉には迅雷もつばさもことりも、全員驚倒した。
弾彦は今、いったいなんと云ったのか。
「こ、婚約者?」
思わずそう叫び出した迅雷に、弾彦は一つ
「そうなんだ。こいつの家はわりと金持ちでね、親同士の取り決めで許嫁がいるんだよ」
「いや、あれは……」
しどろもどろに云い訳を始めた恋矢を、迅雷は遠い世界の人間のように見た。
「許嫁って、いったい何時代の人間だよ」
そうただただ驚く迅雷に、そして新鮮な驚きに打たれているつばさやことりも聞かせるようにして、弾彦はくつくつ笑いながら云う。
「恋矢の婚約者は、それはそれは可愛い女の子さ。だから恋矢、君はこれでよかったんだ。あの子を泣かせちゃいけない。あの子はあんなにも、君をよく慕ってるんだからね。王子様がやりたいのなら、あの子に相手をしてもらえばいいのさ。あの子なら喜んでお姫様をやってくれるだろう」
すると恋矢は弾彦を憎々しげに見て吐き捨てるように云う。
「七歳の子供を相手にどうしろと云うんだ!」
これには迅雷たちのあいだに衝撃が走った。
「な、七歳? 小学一年生?」
迅雷は聞き間違いかと思った。つばさもまた心なしか身を引いている。
「プリンス、おまえ……!」
「いや、違うぞ。誤解だ。親同士の取り決めと云っただろう。この件について僕の自由意志はなかった。たしかに向こうは僕を好いてくれているようだが、七歳の子供に好かれたところで……なあ?」
同意を求められて、迅雷はため息混じりの笑顔を浮かべて云う。
「ロリコンだったのか」
「だから違う!」
「ああ、わかったわかった。もういいからその婚約者とやらとよろしくやってくれよ」
「全然わかってないだろう!」
迅雷と恋矢がこのようなやりとりをしている傍らで、ことりは弾彦に問いを投げていた。
「可愛いんですか?」
「すごく。今でも可愛いし、将来は人に騒がれるような美人になるよ。それに親に決められた婚約者だけど、刷り込みがうまくいったせいか、向こうは恋矢のことをわりと本気で自分の王子様だと思ってる。恋矢って、顔はいいしね」
このような話が横から聞こえてきて、もう恋矢は耐えられなくなったらしかった。
「もういい、僕は帰る!」
「お、おう」
迅雷も特に引き止めようという気はなく、恋矢が椅子から立ち上がって遁辞を告げるのを聞くに任せた。恋矢は一歩を後ろへ退くと、つばさに眼差しを据えた。
「それではつばさ嬢、さらばだ。そこの野蛮人に君を任せるのはいささか心配なのだが、もはや僕の出る幕ではない。それが口惜しいが、もしなにか困ったことがあればいつでも声をかけてくれ。君を助けるよ」
「どうも」
つばさは冷ややかにそう云いながら肩をすくめた。恋矢はちょっと傷ついた顔をしたが、やがて回れ右して去っていく。弾彦がそれに続いた。
迅雷は二人を見送ろうとレーシングルームの扉のところまで行った。そこで廊下に出た恋矢たちに向かって云う。
「おい、プリンス。三ヶ月に一回くらいならつばさに会わせてやってもいいぞ」
「本当か!」
恋矢はその言葉に飛びついてきた。その恋矢の鼻先に指を突きつけて迅雷は云う。
「ただし、今日のレースみたいに卑怯なことばっかりするのはやめろ。おまえ、今はまだ根っからの悪人ってわけじゃないみたいだけど、ああいうことばっかりしてたら本当に根性が腐ってしまうぞ」
恋矢はうぐと呻いた。そこへ迅雷が畳みかけるように云う。
「俺がなにを云いたいのか解るな? つばさは俺の女だが、おまえが改心するなら、友達でいることくらいは認めてやろうって話だぞ?」
恋矢は追い詰められた者の目をして迅雷を見つめたあと、絞り出すような声を出した。
「……覚えておこう」
「時間かかると思うよ」
弾彦がそう笑って恋矢の肩を軽く叩く。
それを最後に二人は迅雷の前から去っていった。
迅雷は扉を閉めると、回れ右してつばさたちの方へ引き返してきた。とりあえず恋矢たちの座っていた椅子を元の場所に片付けようとしたところで、つばさが尖った声を寄越す。
「お兄さん。私とプリンスを会わせるなんて、勝手にそんな約束をしないでほしいですね」
「三ヶ月に一回くらいならいいだろう。そのときは俺も同席するよ。それにプリンスがバーチャルレーサーとしてまともになるかどうか見てみたい。あいつ、おまえより遅いと云っても走れる方だからな。このまま駄目になったらもったいないだろう」
弾彦の云った通り、時間はかかりそうだが――と迅雷は心のなかで付け足して肩をすくめた。そんな迅雷を針の視線で見ていたつばさは、しかし仕方のなさそうに苦笑する。
「まさか、プリンスの面倒を見るつもりですか?」
「それこそまさかだ。そこまで暇じゃない。ただなんというか、あいつにももうちょっと楽しくゲームしてもらいたいかなって思ってさ」
するとつばさが嬉しそうに目を細めて
「さっきことりとも話したんですけど、お兄さんも、いつの間にかこのゲームを好きになっていたんですね」
「そうじゃなきゃ、いくら真玖郎と戦うためだからって続けてないさ」
オンライン・フォーミュラは現実と変わらぬ走行感覚を与えてくれるゲームでありながら、現実では出来ないことも出来る。電撃戦や特殊サーキットもそうだが、世界中のレーサーと気軽に戦えるし、中高生でもF1以上のエンジンのマシンを扱える。バーチャルサーキットだから同じサーキットが並列しており、複数のレースを同時に開催することが出来る。事故の危険がない分、ブロックに関するレギュレーションが緩くて順位変動が起こりやすいため退屈と云われない。フォーミュラと云いつつ峠やラリーも出来る。
F1レーサーを志している迅雷としては悔しいけれど、このゲームはとてもとても面白かったのだ。
「えへへ」
なにが嬉しかったのか、つばさがそんな風に笑っている。そこへことりが声をかけてきた。
「あの、そろそろ片付けないと、次の人が来ちゃいます」
「ああ」
エントリーシートは予約制で、次の走者にこの部屋を明け渡さねばならない。迅雷は椅子を片付けたり荷物を纏めたりし始めた。
その作業に一段落がついたところでつばさが云う。
「それじゃあ、今日も喫茶店に行きましょうか」
おう、と迅雷は頷いて云う。レースの終わったあと、センター一階にある例の喫茶店でお茶をしながら反省会やらなにやらの打ち上げをするのは、三人のあいだの恒例行事になっていた。そしてさあ部屋を出ようとしたところで、迅雷はふと思い出したようにつばさを振り返った。
「しかしこれで芝居も終わりだな」
「えっ?」
と、つばさが目を丸くした。そんなつばさに、車椅子のハンドルを握っていたことりが後ろからそっと云う。
「ほら、迅雷さんがお姉ちゃんの恋人って云う……」
「あ、ああ! いや、待って下さい、お兄さん! その芝居は続けましょうよ!」
「なんで?」
心底不思議そうに小首を傾げる迅雷に、つばさは耳を赧くしながら云う。
「だ、だってこの先、第二のプリンスが現れないとも限らないじゃないですか! お兄さんが私の彼氏でいてくれた方が色々と都合がいいんです!」
ふむ、と考える構えを見せた迅雷に、今度はことりも云った。
「あの、迅雷さん。私からもお願いします」
ことりにまでそう頼まれては、そうそう無碍に出来るものではない。
「わかった。それなら当分、その設定でいこう」
するとつばさの顔がたちまち華やいだものになる。なにがそんなに嬉しいのか、女心を知り尽くした誰かに聞いてみたいものだと思いつつ、迅雷は先に部屋を出て、つばさのためにその扉を押さえておいてやった。
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