第三話 プリンスとの勝負(13)
エレヴェーターで一階に下りると、そこにサイモンが立っていた。
「先生!」
そう云って目を丸くする迅雷に、サイモンが満面の笑みで話しかけてくる。
「はっはっは、ボーイ。見事な勝利だったぞ! さすが私の見込んだボーイだ! まさに圧倒的だったな!」
「待っていてくれたんですか?」
「うむ、エレヴェーターのところにいれば会えると思っていたぞ。ところでボーイたちはこのあとどうするのだ?」
それには迅雷ではなく、つばさが答えた。
「このあとあの喫茶店でお茶をします。よろしければご一緒しますか? ホットケーキ、奢ってさしあげますよ」
「非常に魅力的な提案だ。だが今日の私には、時間がない! このあと仕事で新宿センターへ行かねばならぬ用事があるのだ」
サイモンは心底残念そうに片手で顔を覆うと、腕の時計を見てまた顔をしかめた。どうしてもホットケーキを奢ってほしいらしいが、予定に押されてそれも叶わぬといったところなのだろう。サイモンはバーチャルレーサーであるのと同時に、オンライン・フォーミュラの運営サイドの人間でもあるらしいのだ。もちろん、具体的にどんな仕事をしているのか、迅雷は知らなかった。
「忙しかったのなら、俺を待ってなくてもよかったのに」
「そうはいかない。せっかく来たのだから、帰り際に一言くらい挨拶しておかねばな。それになにより、ボーイに一つ、報告がある。これはレース前に云ってボーイの集中を乱すようなことになったら目も当てられないし、かといってメールや電話ではなく、どうしても直接云わねばならないことなのだ」
迅雷の眉がぴくりと動いた。この期に及んでサイモンが迅雷に直接云わねばならないことがあるという。そんな案件は一つしかない。
「先生、まさか……」
「うむ、そうなのだ。先日の電話を最後にこれっきりと云っていた隼真玖郎から、私に連絡があった」
扉が開いたような感覚があり、迅雷は心を貫く熱いなにかを感じていた。そんな迅雷にサイモンが片目を瞑って笑いかけてくる。
「な、云っただろう。彼……というかまあ彼だが、隼真玖郎はボーイを無視できない。ボーイのことは過去の人間、連絡はこれっきりにして着信拒否にさせてもらうと云っていた当の本人が、言を翻して私に連絡を取ってきたくらいだからな」
「それで、奴はなんと云ってたんです?」
迅雷はほとんど殺気立ってさえいた。そんな迅雷の様子に、サイモンはどことなく嬉しそうにしながら頷いて云う。
「ああ、用件はシンプルだったよ。ライトニング・バロンは迅雷ですね、だ。問うまでもなく確信している様子だったが、念のため私に確認を取りにきたという感じだったな。私はそれにイエスと答えておいたが、それでよかったかね?」
「もちろん」
迅雷はそう答えながら、勢いよくガッツポーズを作っていた。これで目的の半分は達せられたのである。真玖郎が迅雷をライトニング・バロンと認識していることを、こちらでも認識した。あとは同じレースで走ればいい。真玖郎がバロンを迅雷と知っているのなら、そしてそれをこちらでも知っているのなら、それはライバル同士の勝負になる。
「よかったですね、迅雷さん」
「ああ」
ことりにそう頷きを返しながら迅雷は思う。今走っているこの道が、真玖郎に繋がっていることが改めて確信できたのだ。
「先生、それでそのあと、真玖郎はなにか云ってましたか?」
「いや、なにも。私に礼と詫びを云って電話を切ったよ。あまりに一方的だったので私の方からも電話をかけてみたのだが、見事に着信拒否になっていた。悲しい話だ」
なるほど、真玖郎はサイモンから必要な情報だけを聞き出し、サイモンからの連絡は拒否しているのだろう。身勝手と云えば身勝手だが、迅雷にとってはどうでもよい。
「どうあれ、真玖郎は動いた」
ひょっとしたら、今の恋矢との勝負も見ていたかもしれない。そう考えると迅雷は全身の血が奔騰してじっとしていられなくなり、つばさとことりを勢いよく振り返った。
「行くぞ、つばさ! 祝勝会だ! 今日は俺が奢ってやる!」
「へえ……」
その景気のよい言葉につばさが目を輝かした。高いものでも頼んでやろうと思っているのだろうが、今の迅雷はいくらでも奢ってやろうという気持ちである。
その後、サイモンに礼を云って別れた迅雷たちは、その足でカフェ・パドックを素通りしていつもの喫茶店へと向かった。その途中、迅雷はサイモンのドライバーネームを聞くのを忘れていたことに心づいたが、それは今の迅雷にとって些事である。
喫茶店でいつも通り、迅雷から見てつばさが正面、ことりが右斜め前という席に着いた迅雷たちは、あれこれ注文して、それを飲食しながら今日のレースについて課題なり反省点なりを話し込んでいた。それに一段落がついたところで、迅雷はテーブルの上に置いてあったつばさのタブレットを手に取り、自分のオンライン・フォーミュラ上におけるマイページにログインしてみた。
「お兄さん?」
「いや、真玖郎からメッセージが来てないかと思ったんだが、なかった」
あるのはレースの誘いがいくつかと、それ以外の様々なメッセージである。日本語ばかりでなく、英語やフランス語や中国語のものもあるのが、このゲームがワールドワイドであることを感じさせて嬉しいところだ。もっとも日本語と英語以外のメッセージは理解があやふやで返事のしようのないのが申し訳ないところではある。
迅雷はつばさにタブレットを返すと、椅子にもたれて卓の下では脚を伸ばした。その伸ばした脚が、つばさの足先に触れる。
「おっと、悪い」
迅雷が慌てて居住まいを正すと、つばさはにっこりと微笑んで迅雷の足を軽く蹴ってきた。そんな可愛い仕返しやペダルワークは出来るのに、車椅子から立ち上がることは出来ないと云う。迅雷はそこに想いを致して、思わずつばさをじっと見つめてしまった。
タブレットを触っていたつばさが、迅雷を見て云う。
「お兄さんは――」
「うん?」
「お兄さんも、プリンスのように私に同情していたりするんですか?」
つばさの隣でクリームソーダのアイスを食べていたことりが固まった。が、迅雷は恬然としたものである。
「いや、おまえをそういう目で見たことはないな」
身体障害者に対して一番いいのは普通に接することだという話を聞いたことがあり、迅雷は憐憫の情などは戒めていた。
くく、とつばさが喉の奥で笑う。
「ならいいんです」
「そうかい」
迅雷はそう云うと珈琲のカップを口元へ運んだが、正直なところ珈琲の味などより、昨日このセンターの屋上でことりと話したときの言葉の方に気を取られていた。
――どうして車椅子に乗ってるのかとか、車椅子のわりにペダルワークに不自由がないのはどうしてか、とか……迅雷さんって、そういうことなにも訊かないじゃないですか。
もちろん、迅雷だってつばさのことについてもっとよく知りたかった。かといって、あまり根掘り葉掘り尋ねることもできない。
と、そんな迅雷の心を読んだのか、つばさが手札を一枚見せるように云う。
「ちなみにですね、さっきプリンスの奴に話した通り、あいつと初めて会ったとき……去年の夏は、まだ車椅子じゃなかったんですよ」
「らしいな」
「はい。私が事故に遭ったのは去年の暮れなので」
「去年の暮れ?」
迅雷は思わずそんな声をあげていた。去年の暮れと云えば、たしかつばさたちの父親が交通事故で亡くなった時期ではなかったか。その一致が、偶然であるとは思えない。見ればことりも顔を曇らせてつばさを見ている。そして果たせるかな、つばさは珈琲カップのなかに目を注ぎながら苦い思い出を語るように云った。
「父が車の事故で亡くなったという話はしましたよね。そのとき、助手席には私も乗っていたので」
「そうか……」
つばさは父親と一緒に、自分の両脚の自由もなくしていたのか。そうと悟って迅雷は目を伏せた。
「悪いな。辛気くさい話をさせてしまった」
「いいんですよ。だって、あなたは私の彼氏ですからね」
そう云われて、迅雷もちょっと笑ってしまう。
「芝居だろう?」
「それでも彼氏は彼氏です。恋人のことをもうちょっと知っていてもいいはずですよ」
「ははっ」
つばさが雰囲気を和らげるためにそんな冗談を云っているのだと思って、迅雷は破顔一笑しながら、何気なくことりを見た。ところがことりは悲しそうな、苦しそうな顔をしてじっとつばさを見つめている。
「お姉ちゃん」
「うん?」
つばさが迅雷からことりへと視線を移す。ことりは少し迷った素振りを見せた末に、結局かぶりを振った。
「……ううん、なんでもない」
「なんだ、変な奴だな」
つばさがそう云いつつ、ことりに手を伸ばして、その頭を慈しむように撫でる。ことりは目を細めてはにかんだように笑っていた。
そんな姉妹の様子を見ながら、迅雷はそろそろ店を出ようかと考えていた。そのとき、迅雷の携帯デバイスに着信があった。マナーモードにしてあったが、バイブレーションの音を聞きつけて、つばさとことりが迅雷の方を見てくる。
「お兄さん、電話ですか?」
「みたいだ」
メールの着信かとも思ったが電話のようである。迅雷は上着のポケットから携帯デバイスを取り出して、何気なく発信者の名前を一瞥し、そして凍りついた。
「……ありえない」
まるで死者から電話がかかってきたような驚愕ぶりである。それを見て、つばさとことりも素早く異変に気づいたらしい。
「お兄さん、どうしたんです?」
そう尋ねてきたつばさに迅雷は迷子のような目を向けて云った。
「真玖郎からだ」
それにはつばさとことりも仰天したようだったが、一番驚いているのは迅雷である。
「だが、この番号はありえない。真玖郎と最後に会った日、あいつは名古屋に引っ越す、アドレスも変えると云っていたんだ。だからもうこの番号は生きていないはず……」
「そういえば、腹が立ってあれきり連絡を取ろうとしなかったからもう手遅れとか云ってましたね」
つばさの言葉に迅雷は一つ頷いて微笑んだ。
「よく憶えてるな」
と、今度はことりが云う。
「あの、もしかして、アドレス、変えると云って変えてなかったんじゃ……」
その言葉に迅雷は落雷のあったような衝撃を受けた。もしそうだとしたら、自分は真玖郎との繋がりを保ち続けていたのに、この一年半、一度として電話が繋がるかどうか試していなかったということになる。
「え、いや、だって、変えるって云ったら変えるって思うだろ」
思わずそんな云い訳を述べてしまった迅雷に、つばさがまた声をかけてくる。
「あの、お兄さん。電話に出ないんですか?」
「出るとも」
迅雷は硬い声でそう云って自分の手のなかで振動を続けている携帯デバイスを見た。死んだはずの番号だと思っていたけれど、もしもこの番号がまだ生きていたのなら、今こうして自分に連絡を取ろうとしているのがあの真玖郎なら、電話に出るに決まっていた。
迅雷はつばさとことりの視線が自分に注がれているのを感じながら、緊張した面持ちで電話に出た。
「もしもし」
「遅い。なぜもっと早く出ない」
記憶にある通りの透明な声だった。当時はまだ声変わりを終えていない、いわゆるボーイソプラノかと思っていたのだが、この時期になってもこの声ということは、真玖郎は男にしてはとても高い声の持ち主ということになる。
迅雷は声が震えないよう気をつけながら云った。
「真玖郎か?」
「久しぶりだな、迅雷」
迅雷はたちまち胸がいっぱいになってしまって、なにも云えなくなってしまった。云いたいことも訊きたいこともたくさんあったはずなのに、千の言葉は万の想いに押し流されて、まったくなにも話せない。
そうこうしているうちに、真玖郎の方が問わず語りに云った。
「さっきのレースを見たよ。とても素晴らしい走りだった。思わずこうして、連絡を取ってしまうくらいに」
「そうか……」
「レースが終わってしばらく時間が経ったからそろそろいいかなと思って電話をしたんだが、今よかったかい?」
「ああ」
「そうか。じゃあ訊くけど、ライトニング・バロンは君だな。人のコースレコードを全部塗り替えてくれて……あれはいったい、どういうつもりだ」
そう怒りをぶつけられると、迅雷は嬉しくなってきて微笑んだ。
「もちろん、おまえに喧嘩を売ってるのさ。挑戦状になるかと思ってな」
すると電話口で真玖郎はため息をついた。
「君なんか過去の思い出のなかに置き去りにしたつもりだったのに、追いかけてくるなんてな……もう二度と会わないと、決めていたのに」
「別にリアルで会ってくれなんて云わないさ」
それは迅雷の本心であった。面と向かって会って話してどうしようというのだろう。自分が真玖郎に望んでいるのは、そんなことではない。迅雷は闘争心がふくれあがってくるのを感じると、狼の目をして云う。
「そう、会ってくれなんて云わない。ただもう一度俺と走ってほしい。勝負しようぜ」
「それが君の望み?」
「そうさ。俺はおまえと戦うためにオンライン・フォーミュラの扉をくぐったんだ」
思い返せば、サイモンがまずきっかけを作ってくれた。真玖郎の持っているタイムアタックの記録をすべて破ったことは、刺激になったであろう。そして今日のレース、迅雷の走りが、真玖郎の心を動かしたのだ。
すべては今日ここに繋がっていた。あとは真玖郎に応と云わせるだけである。
「厭だって云うなら、今から名古屋に乗り込んでいくぞ。オンライン・フォーミュラの名古屋センターで毎日待ち伏せしてやる」
その言葉に真玖郎はどうやら窮したようである。というのも、うっと呻いたきり返事がなかったのだ。迅雷は沈黙を埋めるようになおも云う。
「だいたい、なんでおまえ、番号変えてないんだよ。俺と最後に会ったあの日、アドレス変えるって云ってたよな?」
責めるような口調になり、真玖郎が電話越しにちょっと怯んだのが伝わってきた。
「なんとなく……変えるつもりだったけど、君との繋がりが完全になくなってしまうようで、変えられなかったというか。だいたい、君こそあれ以来、一回も私の携帯デバイスにかけてこなかったじゃないか」
「私?」
社会人同士ではあるまいし、ちょっと見ないあいだにずいぶん気取った一人称を使うようになったものである。だが、それはともかく迅雷は云った。
「あのときはむかついていて電話をかけようという気にならなかった。そうこうしているうちに時間が経って、もう繋がらないと思って試さなかった」
「一回も?」
「一回もだ」
「……薄情者め」
そうなじる真玖郎の、迅雷を恨む顔が目に浮かぶようで、迅雷は喉の奥で一つ笑うと口を切った。
「で、勝負の日時はどうする? シートの予約時間を合わせないといけないだろう?」
「もう走ることは決定事項か」
真玖郎の言葉に諦めを感じて、迅雷は思わずデバイスを持っていない方の手を握りしめた。どうやら、向こうは折れる気でいる。と、そんな迅雷に一矢報いようというのか、真玖郎は突然こんなことを云った。
「いいだろう、勝負しよう。だが一つ条件をつけたい」
「条件? なんで条件なんかつけるんだ?」
迅雷は憤然と云った。真玖郎と音信不通になって一年半、手がかりを掴んでオンライン・フォーミュラを始めてからおよそ半月、この上まだ回り道をせねばならぬのか。
「俺は今すぐやりたいんだよ」
「だからこそ、安売りはしたくない」
「安売り?」
「君が私と勝負したいと云って、私がそれに飛びついたら、私も本当は君と勝負したかったみたいで、自分で自分が腹立たしいというか……だいたい、君が私の気持ちも私の事情もなんにも知らずに、知ろうともせずに、そうやって突っかかってくるのも気に入らない。私と勝負したいなら、もっと苦労してくれよ」
「ちっ、お高くとまりやがって。女かよ」
迅雷がそうぼやくと、電話の向こうで真玖郎が大きく唸った。それを聞いて、迅雷はここぞとばかりに捲し立てる。
「あーあ、ちょっと見ないあいだに面倒くさい性格になりやがったな。金玉ついてるんだから、もうちょっと男らしく話してくれよ」
「……迅雷」
「はい」
電話越しにも極寒の冷気を感じて、迅雷は思わず居住まいを正していた。なにをどう怒らせたのかわからないが、これは真玖郎が本気で怒っていると長年の付き合いで感じることが出来たのだ。
果たせるかな、真玖郎は危険な朗らかさで云った。
「せっかくだからなにか賭けようか」
「賭けだと?」
迅雷はちょっと拍子抜けした。本気で怒っているようだったからなにを云われるかと思いきや、賭けをすると云う。それはいったいどういうことなのか、真玖郎は冷え冷えとした声で続ける。
「そう、君と私との勝負、負けたら勝った方の云うことを一つなんでも聞くっていうのはどうだい?」
「面白えじゃねえか」
迅雷はたちまち血の温度が上がっていくのを感じた。
「だったらおまえ、そのときはまず俺の前に来い。そして俺の前で改めて誓うんだ。F1レーサーになるって」
オンライン・フォーミュラもいいが、やはり真玖郎とはF1の世界で戦いたい。そう思って、俄然と心を燃やしながら口にした願いだった。
それに対し、真玖郎は冷ややかである。
「ふうん。まだ諦めてなかったんだ。そうだね、とりあえず君の前に現れるっていうところまでなら構わないよ。そのとき君が今の私を見て、それでも本気でF1レーサーにしたいって思うなら、誓ってあげよう」
「よしよし。じゃあ一応確認しておくが、おまえの方は?」
「君にはある一人の女性とデートしてもらう」
迅雷は一瞬、なにを云われたのかわからなかった。
「な、なに?」
「ずっと前から君のファンだった女の子がいるんだ。一回だけでいい、その子とデートしてやってくれ」
迅雷はほんの数秒、しかし迅雷自身にしてみればかなり長く感じる時間を迷い、戸惑い、やっと云った。
「美人か?」
「どうだろうね。でも美人だろうが不美人だろうが、これが私の望みだ」
「いいだろう!」
真玖郎の望みには驚かされたが、迅雷の望みに比べればどうということはない。迅雷の場合、一度はF1レーサーにならないと云い張った相手に、もう一度その道を目指させるのだから、これは大変なことである。それに比べればいくら見知らぬ相手とはいえ、男の自分が一度デートをするくらい、どうということはなかった。
「で、肝心の勝負の日時はどうする? それに俺につける条件ってなんだ?」
「それはスリースターズレースだ」
真玖郎はそれがすべての答えだと云わんばかりだが、迅雷にはわからない。
――スリースターズレース?
初めて聞いた単語に言葉を失っている迅雷に、真玖郎は歌うように語る。
「オンライン・フォーミュラの運営は毎週のように公式が主催するイベントレースを開催している。それは国内限定のものもあれば、国際規模のものもある。そのうちの一つ、国内向けのスリースターズレースが年末に開催されることになっているんだ。私はその最終走者として走る。そのレースにおいてなら、君の相手をしてやるよ」
「待て、わからん。それが条件をつけるってことになるのか? 年末のイベントってことは、まだエントリーを受け付けているのか? 予選は? それに最終走者ってなんだ?」
「わからないなら、まずそれを調べるところから始めるんだね」
いちいち説明する気はないということだ。ずっと真玖郎に意識を傾けていた迅雷は、そのときこちらを見ているつばさたちを改めて見た。
――ま、あとでつばさに聞けばいいか。
迅雷はひとまずの疑問をそう片付けると、真玖郎に念押しするように尋ねた。
「とにかくそのスリースターズレースってのなら、俺との勝負に応じるんだな?」
「そうだよ。予選で負けなければ決勝であたることになる。もっとも参戦するのも予選で勝ち上がるのも大変だと思うけどね」
その針でちくりと刺すような言葉を、迅雷は鼻先でせせら笑った。
「どんな条件だろうとクリアしてみせるさ。この俺はライトニング・バロン、そして疾風迅雷だからな」
「ところがこのレースは君一人の力じゃどうにもならないのさ」
迅雷は目を瞠り、それはいったいどういうことか尋ねようとした。だがその機先を制して真玖郎が云う。
「それじゃあ迅雷、もう切るよ。次に連絡するのはスリースターズレースのあとだ。負けたらなんでも云うことを聞くっていう話のとき」
「ああ」
「ちなみにレースに出場できなかったり予選で負けたりしたら敗北と
「ああ」
と、流れで返事をした迅雷は、しかしそこで躓いた。
――仲間集め?
だがそこのところを尋ねる時間はなかった。
「じゃあね、迅雷。私に負けたら、約束を忘れるなよ?」
「お互いにな」
迅雷と真玖郎は最後にそう確認をしあって、そして真玖郎が電話を切った。迅雷は通話を終えた携帯デバイスを見て、今度はこちらから真玖郎にかけてみようかと思ったが、恐らく真玖郎は電話に出ないだろう。
「次はスリースターズレースとやらが終わったあとだな」
――必ず勝って、おまえをもう一度、俺の前に引きずり出してやる。
迅雷は心でそう宣言すると、デバイスを卓子に置いた。それから気を取り直してつばさたちを見ると、つばさが待ちかねていたとばかりに口を切った。
「お兄さん、スリースターズレースって……」
真玖郎との会話が漏れ聞こえていたはずはないが、迅雷が喋ったことは当然つばさたちも聞いている。迅雷は一つ頷くと、今真玖郎とのあいだで纏まった勝負の概要を簡略に語って聞かせた。
「――というわけで、俺と真玖郎は年末のスリースターズレースとやらで勝負することになったんだが……」
迅雷がそのように話を結ぶと、つばさとことりは黙って顔を見合わせた。なにか思うところがあるらしい。迅雷は耳を掻いてから尋ねた。
「本当は俺が自分で調べるべきことだが、よかったらスリースターズレースについて知っていることを教えてほしい」
ただのレースでないことは迅雷も薄々察していた。真玖郎の云った『仲間集め』と云う隻句や、今のこのつばさたちの反応からしてもそれは
果たせるかな、つばさとことりは迅雷に眼差しを据えると、つばさの方が口を切った。
「スリースターズレース……略してTSRとは、オンライン・フォーミュラの運営が主催する公式イベントレースの一つです。ノーマルサーキットで開催されるオーソドックス・スタイルのレースで国内限定、外国人レーサーは参戦しません。開催日時は毎年十二月下旬で、予選と本戦が二日に亘って行われます。エントリーの受付締切は予選の一週間前までなので、まだぎりぎり間に合いますね。そしてこのレースの最大の特徴はですね……」
そこでつばさが言葉を切るので、迅雷は思わず前のめりになって尋ねていた。
「特徴は?」
「三人一組で参加する、リレー形式のレースだと云うことです」
「は?」
一瞬、迅雷はなにを云われたのか解らない。理解が追いついたときには唖然茫然である。
「リレー? リレーって、あのリレー? バトンとか渡すやつ?」
「はい」
「嘘だろ? モータースポーツだぞ? 陸上じゃないんだぞ?」
「ゲームですから!」
つばさの高らかなその言葉に、オンライン・フォーミュラはフォーミュラと云いつつなんでもありだったことを思い出し、迅雷は卓に突っ伏しそうになった。
そこへ今度はことりが苦笑いしながら云う。
「えっとですね、TSRではメインストレートをテイクオーバーゾーンとし、
「そ、そうか……」
――仲間集めってそういうことか。
新鮮な驚きに打たれている迅雷につばさが云う。
「というわけで、TSRにエントリーするには大前提として三人一組でチームを組む必要があるんです。予備を含めて四人まで登録できますけどね。またエントリーに際してはチームを組む三人ないし四人が、あらかじめ指定されたサーキットでタイムアタックを行い、そのタイムを添える必要があります」
「てことは、予選に出られるかどうかはそのタイムで決まるわけだな?」
「はい。累計DPの上下限で出場の可否が決まっている通常のレースとは違うわけです。ただそのタイムは全員の平均値が参考にされますから、一人だけ突出して早くても他のメンバーが遅いと駄目なんですよ」
「そうか。だが俺たちならなにも問題はないな」
その点に関して、迅雷はまったく心配していない。つばさはバーチャルレーサーのなかでも名うてのレーサーだし、ことりもそれなりによく走る。この三人なら、間違いなく予選に出場することくらいは出来るはずだ。
ところが迅雷のその言葉に、つばさとことりはたちまち顔を陰らせた。迅雷はおやと思いながら尋ねる。
「どうした?」
「いえ、それがその……」
珍しくつばさの歯切れが悪い。ことりはと云えば、これはつばさが話し出すのを待っている。
「お姉ちゃん」
と、そうことりにせっつかれ、つばさはやっと口を開いた。
「すみません、お兄さん。私たちはお兄さんとチームを組めません」
迅雷は金槌で頭でも殴られたような衝撃を覚え、次の瞬間にはつばさたちに食ってかかっていた。
「な、なんでだよ! 俺たちはチームじゃなかったのか!」
三人一組で出場するレースだと聞かされたときから、迅雷はつばさとことりの三人で出るものだと頭から信じ込んで疑わなかった。この姉妹とは、これからもずっと共に道を歩いていくのだと思っていた。それがよもや、こんな返事があろうとは!
だがその憤りも、次の言葉で静まりかえる。
「先約があるんです」
あっ! と迅雷は声にならない声で呻いた。そんな迅雷につばさが申し訳なさそうに続ける。
「オンライン・フォーミュラって、オンラインゲームですから、いろんな人と交流を持てる場でもあるんですよ。それで私たち、レースを通じて何人か友達が出来たんです。そのなかの一人に、大阪に住んでいる女の子がいます。歳は私より二つ上の十六歳、高校一年生の方です。名前は
――翔子。
迅雷はその名前を胸に打ち付けつつ、相槌を打ってつばさの話に耳を傾けた。
「翔子ちゃんと私たちは、実は結構長い付き合いでして、リアルで直接会ったこともあるんです。去年のTSRにも三人で出る予定でした。でも私がその直前に事故に遭ってしまったので……」
例の、父親を亡くし、車椅子に乗ることになった事故であろう。そこで言葉に迷ったように黙り込んだつばさに代わってことりが云う。
「それで今年こそは三人でTSRに出場しようねっていう話になってて、迅雷さんと知り合う前からの約束なんです」
「そ、そういうことだったか……!」
それでは仕方ない。どう考えてもお手上げである。思わず頭を抱える迅雷に、つばさが気の毒そうに云う。
「一応、予備である四人目の枠は空いてますけど、意味ないですよね」
「ないな。真玖郎の奴は最終走者で走るとか云ってたから、俺をアンカーにしてもらわないと」
それにしてもと、迅雷は真玖郎を忌々しく思う。リレー形式の勝負ということは、チームとしての勝負である。真玖郎と勝負するために苦労しろとはこういうことか。
「ちなみにお兄さん、私たち以外に宛はあるんですか?」
「ない。俺のバーチャルレーサーの知り合いと云ったら、おまえたちの他にはサイモン先生と、あとはあのプリンスくらいだ」
とはいえ、恋矢と組むのはありえない。サイモンに至ってはDNすら知らないくらいだし、予定をつけてもらえるかもわからない。
ことりがつばさを見ながら云う。
「私たちだけなら予定を変更して迅雷さんを入れてもいいんだけど……」
「問題は、翔子ちゃんがなんと云うか……」
そう云って、姉妹は頭を寄せ合って唸ってしまった。
そんな姉妹を見ながら迅雷は思う。エントリーの締め切りまでもうそれほど時間はないようだし、今からメンバー集めをしたところで信頼できる相手を探せるのかどうかは疑わしい。それにリレー形式と云うことは、テイクオーバーゾーンにおけるバトンタッチの練習を重ねなければならないだろう。
そしてこのままメンバーが見つからなければ、真玖郎との勝負も叶わないし、不戦敗扱いになって顔も名前も知らないファンだという女の子とデートをする破目になるのだ。
ならば、ここは道理を引っ込めることになってでも、無理を押し通す場面ではないか?
迅雷はそう思うと、据わった目をして口を切った。
「つばさ」
「はい」
こちらの覚悟が伝わったのか、つばさはたちまち色を正して迅雷の視線を真正面から受け止めた。そんなつばさに迅雷は低い声で問う。
「おまえは俺のなんだ?」
「……彼女です」
思った通りの答えに、迅雷は膝の上に置いた手を固く握りしめた。
「だったらさ」
「わかった、わかりました。お兄さんの云いたいことは全部わかりました」
迅雷に皆まで云わせずそう捲し立てたつばさは、そこで言葉を切ると自分の右手を胸にあてた。
「翔子ちゃんに掛け合ってみましょう」
「頼む」
迅雷にはつばさとことりしかいないのだ。去年からの約束があると云う御空翔子なる少女には悪いけれど、ここはなんとしてでもシートを譲ってもらうより他に方途がない。
ことりが眉宇を曇らせて云う。
「翔子ちゃん、怒らないといいけど……」
それには、つばさが腕組みしながら答えた。
「なあに、昔から誠意をもってすれば動かない人はないと云う。よく事情を話せば解ってくれない翔子ちゃんではない。それに考えてみれば、このままお兄さんが不戦敗になった場合、お兄さんはライバルさんの紹介する女の子とデートをすることになる。阻止しなくてはな」
するとことりは数秒の沈黙を挟んで、淡い微笑みを浮かべた。
「それもそうだね」
ふふふ、と姉妹がなにか通じ合ったような顔をして笑っているのだが、迅雷にはよく解らなかった。解っていることはただ一つ、つばさが翔子を説得できるか否かによって、真玖郎と戦えるかどうかが決まるということだ。
「頼むぞ。シートを譲ってくれるなら、俺はその翔子って子のためになんでもするってことも、併せて伝えてくれ」
今回の一件、翔子にとっては青天の霹靂、詫びの一つや二つ惜しいことはなにもない。
◇
その日の晩のことである。
青梅にある家の自室で一〇キロのダンベルを使ってアームカールをしているとつばさから連絡があり、迅雷はダンベルを床に置くや携帯デバイスを耳にあて、胸をどきつかせながら早口で尋ねた。
「どうだった?」
「翔子ちゃん、ものすごく怒りました。『なんでや、三人でTSRに出るって去年からの約束やったやん』って。でもまったくの聞く耳持たずというわけではなかったので……」
「なかったので?」
迅雷が答えを急ぐと、つばさはこほんと咳払いをして続けた。
「私とことりの二人がかりで説得して、お兄さんの事情も全部話しました。あ、話したと云っても本名とか個人情報に関する事柄は伏せてありますよ? ただ翔子ちゃんを説得するために、お兄さんがバーチャルレーサーになった
「俺の個人情報なんかどうでもいい。それよりシートの行方はどうなったんだ?」
迅雷は口調が荒っぽくならないよう気をつけながら、答えを急いだ。果たしてつばさはずばりと云った。
「結論から云うと勝負ってことになりました」
「なに?」
「翔子ちゃん曰く、『話はわかった。気に入らんが、噂のライトニング・バロンとは戦ってみたい。シートを譲ってほしいならウチより速いことを証明してみい』ということです」
それを聞いて迅雷は、雲間から日の光りが差し込んできたような嬉しさを覚えた。
「つまり、シートを懸けてレースってことだな!」
「そういうことです」
「よし!」
迅雷はデバイスを持っていない方の手でガッツポーズを作った。願ったり叶ったりとはこのことだ。
「話がわかるじゃないか、御空翔子!」
レースで勝負して決めるという状況に持ち込めたのなら、そこから先は自分の腕次第である。迅雷としては万々歳だし、翔子に会ったら礼を云わねばならない。
そこへつばさが声をかけてきた。
「あー、いいですか、お兄さん。まずTSRのエントリーの締め切りまで間がないので、お兄さんを予備の四人目ということにしてエントリーしようと思います。明日、エントリーに必要なタイムアタックをやりましょう。その上で、本番のシートを懸けたレースは週末の土日のどちらかにしようと思うんですが……」
「ああ、どちらでも構わない。最優先で予定をつけるよ」
「わかりました。じゃあそういうことで進めておきますね」
そこでつばさの声がちょっと間遠になり、ことりに翔子へメールを打てと指示しているのが聞こえた。少し待って迅雷は云う。
「ありがとう、つばさ。ことりにも礼を云っておいてくれ」
「はい。でもお兄さん、云っておきますけど、翔子ちゃんは私より速いですよ?」
なんでもないように云われたその言葉に、迅雷は息を凝らすほど驚いた。
「おまえより? 本当か?」
「はい。翔子ちゃんのDNは本名そのままでショーコって云うんですけど、国内、全期間、ミドルクラス、女子……この条件でランキングをつけた場合、翔子ちゃんは現時点で総合一位です」
「えっ、それって……」
思わず絶句した迅雷に追い打ちをかけるようにしてつばさが云う。
「はい。性別を非公開にしている人や、十代でフォーミュラクラスに選ばれている人を抜きにして考えれば、日本人の女子中高生のバーチャルレーサーで一番速いってことですよ」
そのシンプルな肩書きに迅雷は思わず唸った。
ミドルクラスであってフォーミュラクラスではないらしいが、それは云い換えればアマチュア最速と云っても過言ではないということだ。
「つまりプリンスなんかとは格の違う相手ってことだな。いいだろう、相手にとって不足はない。どんな条件でも勝負を受けてやる」
そう豪語する迅雷に戦慄はない。むしろ最速の少女がどれだけ速いのか、楽しみですらあった。
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