第三話 プリンスとの勝負(11)
◇
雨模様となったレースの二十周目、今まで誰も見たことのないような速度で駆け抜けていくブルーブレイブを、つばさは伝説を目の当たりにしているような気持ちで眺めていた。
中継画面のなかでは、ジェニファーもまた度肝を抜かれている。
「は、速い! この雨だというのに速い! プリンスとの差をみるみる詰めていく!」
実況レディのジェニファーをしてそうとしか云いようのない走りだった。
ことりもまた信じられないといった眼差しである。
「普通、路面状態がウェットだとトップスピードは落ちるのに……」
「ああ。だが元よりハーフサーキットだしな。ブルーブレイブには多少減速するくらいでちょうどよかったのかもしれない」
そして迅雷が今、コントロールラインを駆け抜けて二十一周目に入る。その二十一周目も風のように駆け抜けて、迅雷は最終コーナーの手前までやってきた。そこでジェニファーが声を振り絞って叫ぶ。
「なんということだ! バロンがもう、もうプリンスに追いつきました!」
ヴァイスセイバーとブルーブレイブはほとんど同時に最終コーナーに突入していき、二十一周目を終えようとしていた。恋矢がレインタイヤを代償にしてまで作った十数秒の貯金は、たった二周で食い潰されたのだ。
それを見てつばさは、よしと思う。その一方で、これでまた迅雷は恋矢に蓋をされる格好になるのが歯がゆく、もどかしい。もし恋矢がいなければ、目の前に邪魔なマシンがいなければ、迅雷はいったいどんな走りを見せてくれるのだろうか。
と、そんなつばさの心に寄り添うようにことりが云う。
「弓箭寺さんには悪いけど、そろそろ迅雷さんには抜いてほしいよね」
「ああ」
つばさは心からそう思って頷いた。いつまでも恋矢をのさばらせている迅雷ではあるまい。
「……お兄さん」
早く、と急かしたくなる衝動をつばさはどうにか抑え込んだ。だが最速無比の迅雷を見たいという気持ちはあとからあとから溢れてきてどうしようもない。自分がわくわくしているのか、恋をしているのか、わからないくらいである。
◇
しばらくは楽々と走っていられると思っていた。だがあっという間に尻尾を踏まれて気が動顛した恋矢は、ピットの弾彦に向かって叫んでいた。
「弾彦、バロンにコールだ!」
「断られなきゃいいけどな」
弾彦はそう云いつつも、ライトニング・バロンのピットに連絡を試みてくれる。程なくして、弾彦が云った。
「サウンドオンリーで繋がるぞ」
そんな弾彦の映る窓の下にもう一つの窓が開き、恋矢は彼我のコックピット間で通信が確立したことを見て取ると叫んでいた。
「なんだ貴様、なにをした! どうしてそんなに、急にタイムが上がるんだ!」
「おまえが俺の蓋になってたんだよ。俺のフリー走行のタイム見ただろ? 前に邪魔なマシンがいなけりゃこんなもんさ」
なんでもないようにそう語る迅雷だが、恋矢は威風堂々たるものを感じてしまう。
「くそっ! 化け物め!」
「化け物云うなよ。それよりおまえ、さっさとレインタイヤに履き替えたらどうだ? 事故るぞ」
「ふざけるな、そんなことが出来るものか!」
二十二周目の最終コーナーはもうすぐだが、そこからピットに入っていてはみすみす迅雷にトップを譲ることになる。そうなればもう取り返しがつかない。
――行くしかない、最後まで。この状態でトップを死守する!
「僕はピットインなんかしないぞ。かかってこい、ライトニング・バロン。仕掛けてきたときが貴様の最後だ。ぶつけてでも止めてやるぞ」
「じゃあ勝負するか」
迅雷が牙を剥いたのが音声だけでは感じられた。ぶつけると云っても怯んだ様子はまったくない。
「貴様……!」
「おまえの後ろ姿を眺めながら走るのはもう飽きた。それにこっちはニュータイヤ、一方、おまえのタイヤはくたびれている。しかも雨だ。これでまともに勝負できると思ってるならやってみろ!」
傾斜のついた道を駆け上がり、ブラインドになっている第六コーナーを曲がって、恋矢と迅雷は相共にバックストレートに入った。短い直線で、使い切るのはすぐだが、一瞬の爆発的な加速でブルーブレイブが恋矢の隣に並ぶ。
「プリンスとバロンがほとんど同時に最終コーナーへ! そしてこれは、バロンが仕掛けた!」
実況のジェニファーが声のトーンを高めて叫ぶ。
一方、恋矢は右隣に並ぶ青いマシンを見て驚懼し、それから幅寄せしようとしたが、それを弾彦が叱咤した。
「恋矢、ぶつけることより、まず曲がることを考えないか!」
そう、いくらぶつけてでも止めるつもりだからと云って、コーナーの攻略を棚上げにしてしまっては本末転倒である。だがこのときの恋矢はどうしても迅雷に抜かれたくなくて、目の前のコーナーをおろそかにしてしまった。レースとは元より相手と競うもの。スピードを突き詰めるだけでなく他のマシンの挙動にも注意を払わねばならないのは当然だが、恋矢の場合は迅雷を意識しすぎていたのだ。
その結果、ブレーキのタイミングが少し遅れた。しかも雨に濡れた路面でレインタイヤを履いていない。ほんの些細なミスだったが、マシンがコーナーの外側へと大きく膨らんでしまう。
「しまっ……!」
慌ててステアリングを切ったがもう遅い。恋矢のミスによって生じた空隙をついて、迅雷がアウトインアウトの理想的なコーナリングで恋矢の目の前を駆け抜けていく。その様はまさに一陣の風の如しだ。そして。
「バロンがオーバーテイキング!」
ジェニファーが叫んだとき、恋矢はメインストレート外側のサンダーラインに引っかかってしまった。ライフゲージががりがりと削れていくのと同時に、減速ペナルティによって一気に速度が落ちる。
「おっと、一方のプリンスはステアリングを誤ったのか、それともレインタイヤでなかったのが祟ったのか! サンダーラインに引っかかってしまった!」
「なんと、いう、ことだ!」
恋矢はそう叫びながらどうにかこうにか体勢を立て直した。だがそのときには、迅雷はもう遙か彼方だ。
「……終わったな」
通信画面のなかで弾彦がそう呟いた。今の減速ペナルティによる失速は致命的だ。迅雷を陥れるための電撃戦が、皮肉にも恋矢の敗北を決定づけてしまった。
だが。
「まだだ! まだ、諦めてたまるか!」
恋矢はそう自分で自分を鼓舞すると、ブルーブレイブを追いかけて走り始めた。実況レディのジェニファーは既に迅雷の方しか見ていない。
「さあ、このレースで初めてライトニング・バロンがトップに立ちました。第二十三ラップ。レースはもう佳境です!」
――諦めない!
恋矢は迅雷に肩入れしているらしい実況レディの声が煩わしくなり、中継映像をオフにすると、そこからは執念に引きずり込まれるようにして二十三周目に突入していった。迅雷がどんなに速くても必ず追いついてやろうと、本気で思っていた。
「……恋矢」
そんな恋矢の気魄が伝わったか、弾彦は鉢巻きを締め直したような顔をして云う。
「もうレインタイヤに履き替えている時間はない。本気で追いつきたいなら、死に物狂いで走れ。ただ走れ」
云われるまでもなく、恋矢は今こそあらゆる搦め手を捨て去って、一人のバーチャルレーサーとして走り出したのだ。
◇
一方そのころ。
「やった!」
迅雷が恋矢を追い抜いた瞬間、つばさは思わずそう喝采をあげていた。隣ではことりがはしゃいでいて、二人は自然と手に手を取り合って喜んだ。まだレースが終わったわけではないけれど、ともかくこのレースで初めて迅雷がトップに立ったのだ。
つばさは喜色を湛えて通信画面のなかの迅雷に話しかけた。
「お兄さん、やりましたね!」
「ああ。これでやっと自由に走れる」
その自由の意味がつばさには痛いほどよくわかる。今までずっと、前を走るマシンが邪魔だったのだ。だが今や迅雷こそが首位であり、邪魔するマシンはもういない。
「見ていろ、このレース、ここからは俺が支配する」
◇
ずいぶん時間がかかったが、恋矢と云う目の上のたんこぶが取り除かれた今、迅雷はもう誰にも邪魔されることなく、歓びに打ち震えながら自分の走りを満喫していた。
雨風も気にならない。迅雷は肌の粒立つような感覚とともに一つまた一つとコーナーを突破していく。レースは元よりライバルのあるもの。牽制したり駆け引きしたりといった勝負も醍醐味ではあるのだが、誰にも邪魔されることなくトップを走ることのなんと気持ちがいいことか。
そこからの迅雷は速かった。もう誰の声も耳に入らない。奔放不羈の暴れ馬となって、スピードを追い求め、アスファルトを切りつけて走る。やがて行く手に一番遅いマシンが見えてきたが、周回遅れは進路を譲るのがレースのマナーだ。運営から進路を譲れの意味で掲示される
◇
「は、やい……速い、速ーい!」
ジェニファーはもう実況というより一人の観客となってそう捲し立てていた。
無理もないことだとつばさは思う。実際、今の迅雷は凄まじかった。雨風をものともせず、サーキットを切り裂くように走る。ギアの選択からアクセルワーク、ブレーキングとなにもかもが完璧で、このサーキットの
「ライトニング・バロン、なんという……これは、速いとしか云いようがありません。そして最後尾のマシンを早くも捉えた! 周回遅れになりますから、当然ブルーフラッグが掲示されます」
電撃戦は荒れるものだが、さすがに周回遅れとあっては迅雷の走りを妨害しようと考える不届き者などいなかった。ブルーフラッグを掲示されたマシンは大人しく迅雷に道を譲り、迅雷はそこを駆け抜けていく。
先を行くマシンが次々迅雷のために道を空けていくその光景は、まるで神がやってきたかのようだった。
つばさもことりも迅雷の走りに見入っている。このレースの実況動画を見ているものたちも、周回遅れにされた当のレーサーたちでさえ、今の迅雷には魅了されただろう。
そこには若きスピードの神がいるのだ。
◇
さて、雨のなか、恋矢は二位をキープして走っていた。他のマシンが新しいレインタイヤに履き替えている一方、恋矢のマシンはスタート時からのノーマルタイヤを履いているので不利なはずだが、それでも二番手の座を奪われはしなかった。それもそのはず、恋矢は今こそ過去最高の走りを示していた。スピードの上がらぬウェットの路面コンディションだというのに、今が人生で一番速いときと云っても過言ではない。
それなのに迅雷が、ライトニング・バロンが見えない。自分がどれだけ速く走っても、何度周回を重ねていっても、その尻尾すらつかめない。
そうこうしているうちに、恋矢は持ち時間を使い切ろうとしていた。恋矢のレースは現在、二十九周目である。次に
「くそくそくそ、なぜだ、どうして追いつけない! 奴はどこにいる! どれだけ前を行ってるんだ!」
二十九周目に入るに及んで、恋矢は思わずそう喚き散らしていた。そんな恋矢に弾彦が気の毒そうに云う。
「恋矢……そのライトニング・バロンだけどさ」
「なんだ?」
「後ろからきてる」
「なに!」
――後ろ?
首位を走る迅雷が後ろにいるとはどういうことか。恋矢は一瞬、その意味を理解できなかった。理解したときには、地面に叩きつけられるような衝撃があった。
「まさか、そんな……僕は今、人生で最速の走りをしてるんだぞ!」
自分がこんなに速かったことはかつてない。それなのに疾風迅雷にかかれば周回遅れだというのだろうか。
――なにが違う? どう違う? 同じ人間でどうしてここまで差がつくんだ。
「恋矢、落ち着いて聞け。もう他のマシンには全部ブルーフラッグが出ていて、バロンに周回遅れにされている。向こうはもうファイナル・ラップだ。今シミュレートを出したけど、このままだと最終コーナーで追い抜かれる」
「くっ、くっくっく」
驚愕が通り過ぎていくと、あまりの速さにだんだんと笑えてきた。
「……いくらなんでも、でたらめすぎるだろう。速いなんてもんじゃないだろう。他のマシンはなにをしてる?」
「なにって、周回遅れなんだから進路を譲るのが当然のマナーだろう。ブルーフラッグも出てるし」
そういえば先ほどから恋矢の見ている画面上にも青旗が振動掲示で点灯していた。最初にブルーフラッグが掲示されたときは静止掲示で、迅雷に抜かれたあとは消えていたのに、いつの間にか旗が振られているのだ。
過去最高の走りをしてもまったく敵わない。尋常な勝負では絶対に勝てない相手なのだ。ならばどうするか――悪魔の考えが頭を過ぎったのはこのときだった。
「この先にブラインドがあったな」
「ああ、コーナーの手前に上りの傾斜がついていて、高低差のせいでコーナーの出口が見えないんだ」
「今、その辺りにマシンはいるか?」
「いや、いない」
そこまですらすらと恋矢の問いに応えた弾彦が、そこでようやく気づいたらしい。
「恋矢、なにを考えてる?」
「もちろん、逆転の秘策さ」
だがそれは悪魔の発想であった。恋矢がなにを考えているのか見抜いたのであろう、弾彦が口吻を尖らせて云う。
「馬鹿な真似はやめろ、恋矢。いくらゲームだからってそこまでしたら、ライセンスの停止もありうるぞ。今日勝てなくとも努力を重ねればいつかは――」
「今日勝たなくちゃ意味がないんだ!」
相棒の言葉をそう退けながら、恋矢は重たく憂鬱な現実を受け容れねばならなかった。
今日を勝利で飾るチャンスはもうない。悔しいけれど認めざるを得ない。
――疾風迅雷、貴様は速すぎる!
だが叶わないと認めたとき、恋矢は却って目色を変えた。より危険な考えへと自分の心が傾倒していく。
「このままレースを終わらせはしない」
恋矢がそんな執念に魅入られ、引きずり込まれるようにして走っていると、迅雷が後ろから迫ってきた。
◇
雨のなかのレースはいよいよ佳境を迎えようとしていた。
「ライトニング・バロン、トップに立ってから完全に独走態勢です! 枷が外されたような走り! 雨のなかでここまで速いとは正直私も思いませんでした! そしてレースはファイナル・ラップです!」
もうレースは一方的な展開になっていた。あと一分もしないうちに迅雷はチェッカーフラッグを受けることになる。誰もがそう思っていたし、迅雷自身、すごくいい感覚で走れていてミスをする気がしなかった。
――いける。このまま俺がトップだ。
また極度に集中した境地に立っている迅雷の邪魔をしまいという配慮か、先ほどからつばさは話しかけてもこない。
ただことりがファイナル・ラップに入るとき、「迅雷さん、がんばれっ」と声をかけてくれたのが嬉しかった。
――がんばるよ。
今さら心でことりにそう返事をしながら、迅雷は甲高い排気音とともに第三コーナーを優雅に回る。そんな迅雷にジェニファーが言葉を添えてくる。
「バロン、ファイナル・ラップもここまでは順調です! さあ、このまま一位でチェッカーを受けるのか、それともなにかが起こるのか。レースは終わってみるまでなにが起こるかわかりません!」
これは実際、ジェニファーの云う通りだった。レースはまだ終わっていない。これまでも迅雷にミスはなかったが、周回遅れのマシンが道を譲ってくれるとき、なかには抜かれ方の下手が者がいて、あわや接触ということもあった。
なにが起こるかは神のみぞ知る。一つの油断が命取りだ。人の身では目の前のコーナーにしっかり取り組むことしかできない。
と、そのとき一瞬プリンスの駆るヴァイスセイバーの後ろ姿が見えた。どうやら一周回って恋矢に追いついたようである。当然ブルーフラッグが掲示されているはずだが、恋矢のことだからまた旗を無視して妨害してくるであろう。
と、これまで口を緘していたつばさが声をかけてきた。
「お兄さん。プリンスの奴をここで無理に抜く必要はありませんよ」
「わかっている」
なにも周回遅れにする必要はない。無理に挑まず、恋矢は見逃すのが賢い。だがそうとわかっていても、目の前にマシンがあれば抜きたくなるのがレーサーの性であった。
なにより、恋矢をオーバーテイクしてチェッカーを受けた方が勝ったという感じがする。だから迅雷は頭では無理をしないのが賢いと考えつつ、心では隙あらばと思っていた。
「バロン、ふたたびプリンスを射程距離に捉えました! しかしこれはもはや勝負とは云えません。そしてプリンスは相変わらず道を譲る気配がないぞ」
これをどうにか追い抜いてやってこそ、圧倒的な勝利と云える。
◇
「恋矢、踏みとどまるなら今だぞ」
「逆だよ。やるなら今だ、が正しい」
恋矢は再三にわたる弾彦の制止を振り切ると、後ろから迫るブルーブレイブの排気音に耳を傾けた。迅雷は必ず自分を追い抜くつもりであろう。根拠はないが、直感でわかる。
――僕もレーサーの端くれだ。こういうときは、圧倒的に勝ちたいと思うはず。そうだろう、疾風迅雷。
「だが、それが貴様の命取りだ、ライトニング・バロン!」
迅雷は勝負所と考えているのは最終コーナーに違いない。だが恋矢が勝負所と考えている場所は違う。
「恋矢!」
「やってやる!」
恋矢は腹を括ると、リアカメラによる映像をポップアップで表示し、今にも追いついてこようとするブルーブレイブとの距離を測りながら、考えを実行に移すタイミングを慎重に見定めていた。速すぎてもいけないし、遅すぎてもいけない。ぎりぎりまで相手を引きつけながら、恋矢は微妙にRが変わって複合コーナーのようになっている右曲がりの第五コーナーを駆け抜けていく。やがて道には上りの傾斜がつき、その果てに折れ曲がるような左の第六コーナーを迎えた。
コンマ一秒か二秒、
「ここだ!」
第六コーナーの出口で、恋矢はブレーキを思い切り踏み抜いた――!
◇
オンライン・フォーミュラの中継映像は複数の視点が用意されており、どの視点で見るかは視聴者が任意で選ぶことができるようになっている。また特定のマシンをカメラが追随していく機能もある。だが実況ファイターや実況レディがついている場合は、その実況を聞くことのできるチャンネルを選ぶのが普通であり、そのチャンネルではカメラワークは向こうに任せるようになっていた。
つばさもジェニファーのいる中継画面を主に見ていたのだが、迅雷のサポートをするという役割上、ブルーブレイブを追跡するカメラはもちろん、サーキット全体の状況を把握できるように他の視点からの映像を映したウインドウも開いていた。開いていただけで見てはいない。それはことりも同じだ。そして聞いているのはジェニファーの実況である。
「おっと、どうしたプリンス?」
先ほどからライトニング・バロンしか追いかけていなかったジェニファーが突然そんなことを云った。実況レディである彼女の手元でももちろん、サーキット全体が把握できるようになっているのであろう。
――プリンスがどうかしたのか?
つばさは無数に開かれているウインドウのなかから恋矢のマシンをすぐに探し出した。迅雷のすぐ前を走っていたはずだから、最終コーナーの手前あたりのはずだ。そう思っていたのだが、恋矢の白いマシンはあろうことか、第六コーナーの出口で停止していた。
「あれっ?」
と、ことりが小首を傾げる。
「これは、マシントラブルでしょうか――」
さしものジェニファーも一瞬、なにが起こっているのか判らなかったようである。つばさも平生であれば、まず第一にマシントラブルの可能性を疑ったであろう。だがこの勝負の意味と、恋矢のレースに対する姿勢と、そしてレース前に迅雷から聞いていた話が一つに合わさったとき、つばさの脳裏に答えが閃光のように走った。
――リアルのFSWショートサーキットの方で、事故の思い出があってな。
事故。そしてブラインドコーナー。
つばさはヘッドセットのマイクに向かって大声で叫んだ。
「お兄さん、止まって!」
◇
「お兄さん、止まって!」
つばさがやにわに叫んできたのは、迅雷がファイナル・ラップの第六コーナーに入ろうかというところだった。つばさがすべてを説明するには、迅雷は速すぎたのである。
しかしこのとき、不吉な
――そういえば、ここだった。
この第六コーナーは上り傾斜のせいで先の見えないブラインドになっている。そのせいであのとき、昨年の夏に受けたドライバーズ・スクールの試験、二泊三日の合宿の最終日に行われたレースで、迅雷は、このコーナーを抜けた先でスピンしていた周回遅れに激突したのだった。
マシンは見えない。見えたときにはもう遅い。無警告のままブラインドコーナーの出口で待ち構えていたマシンを躱すことなどF1レーサーでも出来ない。だが今のつばさの声は、警告ではなかったか?
半瞬のうちにそう悟った迅雷は、自分が過去を見ているようにも、未来を見ているようにも思った。このブラインドコーナーの出口にマシンが止まっているのだとしたら――そんな思いと、過去と現在と未来が交錯する。
「あーっ、あぶなーい!」
ジェニファーの叫びが耳を劈いたそのとき、迅雷はステアリングを敢えて切らずに、ブラインドになっている第六コーナーをわざと大回りに回った。その甲斐はあった。普通に曲がっていれば間違いなく激突していたコースに、恋矢のヴァイスセイバーが陣取っていたのだ。ブルーブレイブがヴァイスセイバーとすれすれのところを駆け抜けていく。
――なぜわかった!
通信していたわけではないが、迅雷には恋矢のそんな驚愕の叫びが聞こえるようだ。それに迅雷は笑って云う。
「同じところで二回もクラッシュするわけないだろ!」
そして停車しているヴァイスセイバーの傍を掠めすぎるようにして駆け抜けるブルーブレイブは、まさに青き流星であった。
「おおおっ! バロン、プリンスのマシンを見事に、躱す! どうして見えていたのか! レース中、ドライバーは他の映像を見ている余裕はないはずですが、ピットからの警告が間に合ったのか!」
まさにその通りだ。迅雷はつばさに救われたのだった。
「お兄さん!」
つばさが泣きそうな声をしてそう自分を呼んでくるが、泣くのにはまだ少し速い。短いバックストレートを駆け抜けて、最終コーナーを回る姿は快刀乱麻、そして戻ってきたメインストレートには、どんなマシンもいなかった。つばさとことりが手と手を取り合い、わっと歓声をあげる。
迅雷は誰もいないメインストレートをたった一人で駆け抜けて、マシンがそこへ連れて行ってくれるのを待った。
そして。
「ゴール! ライトニング・バロン、今一位でフィニッシュ!」
ジェニファーの声が高らかに響き渡り、迅雷の見る画面の右上にチェッカーフラッグのアイコンが点灯する。それを見た迅雷はステアリングから手を離し、そのチェッカーフラッグに向かってガッツポーズを作った。
オンライン・フォーミュラでは、チェッカーを受けたマシンはその瞬間からゴーストになって他のマシンと干渉しない存在になり、同時に自動走行でウイニングランをしてくれる。
「お兄さん!」
そう叫んだきりなにも声が出て来ないつばさに親指を立て、迅雷はヘルメットを脱ぐやにやりと笑った。
「見たか見たか、これが俺だよ」
勝利の栄光のまばゆさよ。迅雷は荒い息をつきながら、汗みずくになりながら、ウイニングランに浸っていた。
それにしても驚かされたのは最後のブラインドだ。迅雷はちょっと後ろを振り返ってぼやく。
「しかしびっくりした。さっきのあいつ、あれは……」
「ブラインドコーナーで待ち伏せしてたんですよ。あれは絶対そうです」
つばさが憤激に駆られた口調でそう云うのに相槌を打ちながら、迅雷は中継映像に目をやった。他のマシンも陸続とフィニッシュしている。恋矢はブラインドコーナーで停車したのが祟ったか、順位をかなり落として六位である。
ジェニファーは色々なことを話していたが、いつまでもその語りに浸っているわけにはゆかない。
夢から醒めるときがやってきたのを感じて、迅雷はゆっくりとログアウトした。
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