第六話 羽ばたく者たち 第一幕 立ちはだかるは嵐(4)
「どうも。ショーコです。本名も翔子やで。御空翔子。よろしく」
翔子がそう云ってカメラに向かって手を振ると、めぐるが新種の生物でも見つけたような顔をして云う。
「ふうん、あんたが日本人女子中高生最速ってことになってるショーコか。ま、実際の最速少女は別にいるんだけどね」
「えっ、どういうこと?」
「いや、こっちのこと。でもチームリーダーが予備に回って監督してるのはうちのチームと一緒だね。ウチもホケキョ姉さんがレースディレクターやってくれてるんだ」
すると翔子は伊達眼鏡の奥の目を剣呑に輝かせた。
「てえことは、本番で走るんはあんたらやね」
「そうだよ。私は一番手。そっちの一番手は誰?」
めぐるにそう問われ、迅雷と翔子は思わずことりの方を見た。ことりは身をすくませていたのだが、逃げるわけにもゆかぬと思ったのか、おずおずとカメラの前に出てきて、しかし半ば迅雷の陰に隠れるようにし、右手で迅雷の服の裾を握った。
そんなことりを一目見ためぐるが叫ぶ。
「うわっ! くそっ、可愛い!」
褒めてくれているのだが、そんな叫びさえことりは怖がってしまったようだった。迅雷の服の裾をぎゅっと握りしめながら、蚊の鳴くような声で云う。
「あ、あの、は、初めまして。二条ことりと申します。DNはリトルバードです」
そんなことりの様子になにを感じたのか、めぐるはたちまち獲物を見つけた猟犬のような眼差しをする。
そのまま、ことりとめぐるはしばしカメラ越しに見つめあい、やがてめぐるがにやっと笑った。羊を前にした狼のように。
「ことりちゃん、だっけ? 今日の予選第一ブロックのハイライト見たんだけどさ、せっかくポールポジションだったのにあっという間に抜かれて順位落としてたよね」
「え、あの……」
「なんか理由がわかったわ。挨拶一つすら男の陰に隠れなきゃ出来ないようじゃね。くっくっく」
不敵に笑うめぐるを前に、ことりは息を呑んで後ずさりを始めている。そんなことりにとどめを刺すように、めぐるは云った。
「おい、ことりちゃん。明日のレース、私の前を走ったらどうなるかわかってんな?」
「えっ……」
完全に呑まれていることりを見かねて、迅雷はめぐるに云う。
「そんなあからさまな脅しはやめろ。ことりにはなにもさせんぞ」
「過っ保護ー! 別に実際になにかするつもりないって。ほんの軽いジャブだよ、ジャブ。わかってるでしょ?」
もちろん、迅雷もわかっていた。ただことりのためには、そう云ってやらねばならなかったのだ。
迅雷はことりの方を向いて云う。
「ことり、おまえからもなにか云い返してやれ」
「で、でも、怒らせちゃったら……」
そんな弱腰な態度に、迅雷はため息をつきたくなった。そこへ傍からつばさが云う。
「お兄さん。ことりは、初対面の人に対しては基本的にこんな感じですよ。お兄さんだけがなぜか例外だったのです」
「迅雷さんは、なぜか平気だったんです」
ことりも姉に同意してそう付け加えた。
嬉しい話だが、今回ばかりは困ったものだ。
と、ここで千早が声をあげた。
「よほどのことがない限り、TSRは一番手同士、二番手同士、そして最終走者同士がしのぎを削ることになる。めぐるの相手はその子。では、私の相手は?」
迅雷とことりがつばさの方を黙って見る。以心伝心、迅雷たちは少し横に動いて、そこへ車椅子を操作したつばさが入ってきた。
「うおっ! また美少女! しかも車椅子だ!」
そう騒ぐめぐるをうるさそうに一睨みすると、つばさは千早に視線を移して云った。
「私は二条つばさ。ことりの姉で、ダークネス・プリンセスだ」
「うむ。善き勝負をしよう、プリンセス」
ことりとめぐるのときとは違い、落ち着き払った顔合わせである。
迅雷はこの機に画面に映るめぐると千早を見比べたが、なんとも対照的な二人だった。
めぐるは背こそ低いが声は
と、そんな迅雷の視線に気づいたか、めぐるがカメラの方に顔を寄せ、牙のような犬歯もあらわに笑った。
「なに見てんだよ、ライトニング・バロン」
「いや、別に。ところでそっちの最終走者は真玖郎……ナイト・ファルコンってことでいいんだな?」
「もちろんさ。真玖郎ちゃん、ウチらのなかでは一番速いし。ていうか真玖郎ちゃんより速いのなんてオンライン・フォーミュラの世界じゃ数えるほどしかいないんだよ」
「天才、だからな」
千早の補足に、めぐるは大いに頷いている。
実のところ、迅雷も頷きたかった。仮に才能を数値化できるとしたら、真玖郎の数字は自分より上ではないか、とはずっと昔から思っていたことだ。もちろん才能だけで勝負が決まるはずもなく、実際の勝負は勝ったり負けたりだったが、それでもただならぬものを感じていたからこそ、迅雷は真玖郎をずっとライバルだと思ってきたし、こうしてオンライン・フォーミュラの世界に乗り込んできてまで再戦をしたかったのだ。
――もう一度、おまえと。
それがもう明日叶うのだと云うことを、迅雷はこのとき始めて心で感じた。頭ではとっくにわかっていたことだが、今さら体が
そんな迅雷に、めぐるがいきなり絡んでくる。
「よおよお、ライトニング・バロンさんよ。おまえと真玖郎ちゃん、リアルで何度も勝負したことがあるんだって?」
「あ、ああ。真玖郎、そんなことまで話したのか」
「うん。リアルレーサーだったってことは聞いてるよ。おまえとライバルだったってこともね。実際、真玖郎ちゃんと張り合うだけのことはあるよ。おまえの動画いっぱい見たけど、騒がれてるだけのことはあるなと思った。速いと思った。そこは認めてやる」
「私やめぐるやホケキョ姉さんより速いだろうな」
そう白旗を揚げた千早を軽く睨んで、めぐるは続けた。
「でも、おまえは真玖郎ちゃんには勝てないさ。真玖郎ちゃんは本当にセンスだけなら最強だし、リアルと違ってバーチャルなら仮想Gフォースのボリューム調整で体力的な問題もクリアできる。肉体の強さよりも純粋に技術やセンスが物を云うんだ。わかる?」
「ああ」
迅雷にはわかる。真玖郎は昔から線が細く、小学生のころはまだしも、中学生になると体力的な弱さを露呈することが多くなった。鍛えてはいたのだろうが、周りが成長期を迎えてどんどん男らしくなっていくのに比べ、真玖郎にはそうした身長の伸びや筋肉の発達がなく、相対的にいつまでも女子供のまま取り残されているようなところがあったのだ。しかしそうした肉体上の弱点を抱えながらも、レースでは負けなしで迅雷以外をまったく寄せ付けなかったあたり、真玖郎の才能の凄まじさを証明している。
そしてオンライン・フォーミュラでは、そうした真玖郎のたった一つの弱点さえもなくなっているのだと、めぐるは云いたいのだろう。
迅雷はそう解釈すると、しかし笑って云った。
「それでも俺だって、真玖郎に負けるために走るわけじゃない。おまえはさっき真玖郎より速いドライバーは数えるほどしかいないと云っていたが、明日の今頃は、そこに俺も加えさせてもらうぜ」
「なんとでも吠えてろ、ライトニング・バロン。真玖郎ちゃんが負けてたまるかよ、おまえなんかによ」
そう吐き捨てるように云っためぐるを、千早が少し困ったように見る。
「めぐる、ちょっとエキサイトしすぎだ。吠えているのはおまえの方だぞ」
「だって真玖郎ちゃんを悲しませる奴とか嫌いだし」
そのめぐるが何気なく云った言葉に、迅雷は首を傾げてしまった。
――俺が真玖郎を悲しませる?
そんなことをしたつもりはない。むしろ真玖郎に去られて悲憤したのはこちらの方だ。迅雷はそう云いたかったけれど、そのとき千早が顔を前に戻して云った。
「すまんな、バロン。めぐるは普段から口が悪いんだ。許してやってくれ」
「いや、別に気にしていないさ。明日勝負するんだから、和気藹々とはいかないってのも解るよ」
迅雷はそう云ったのだが、めぐるはまたしても噛みついてきた。
「ふん、いい子ちゃんぶってるんじゃねえよ。私がおまえのことを嫌いみたいに、おまえも私のこと嫌いになっていいんだぜ」
「……そうやってずけずけ物を云うところ、俺は好きだけどな」
迅雷がそう本心から述べると、めぐるはふんと鼻を鳴らして千早の肩に手を置き、体重をかけた。どうやら千早を支えにしているようで、千早は少し迷惑そうな顔をしたが、めぐるは構わずに世間話でもするように続けた。
「しっかし、男一人に女三人のチームか。なんかやらしー」
「……それはそっちも一緒だろうが」
めぐると千早はもちろん女で、先ほどから二人はホー・ホケキョのことをホケキョ姉さんと云っている。となると、そういうことではないか。
だが、めぐるは不思議そうにまたたきしたあと、小首を傾げた。
「なに云ってんだ、こいつ?」
「えっ?」
今度は迅雷が目をまたたかせる番だった。
「……だっておまえら、さっきからホー・ホケキョのことをホケキョ姉さんって呼んでるじゃないか。てことは、そういうことだろう。違うのか? それともホケキョ姉さんって、もしかして男? そっち系の人?」
「はああ?」
戸惑う迅雷の前で、めぐるがそんな大声をあげて理解不能といった顔をした。なにかが決定的に噛み合っていない。どこかで
そこへ千早がめぐるの肩に手を置いて云った。
「めぐる、彼は知らないのだ。真玖郎ちゃんもそう云っていただろう」
「そうだけど、よりによってホケキョ姉さんのこと男とか云うから……おまえ、ただでさえホケキョ姉さんに腹を立てられてるのに、男扱いしたなんて知られたらマジでやばいぞ。黙っててやるから感謝しろよな」
めぐるは真面目にそう云ってくるのだが、迅雷はいよいよ迷子になったかのようだった。
「ホケキョが俺に怒ってるって、なんで?」
「おまえが真玖郎ちゃんの純情を踏みにじっているからだよ。ばーか、ばーか。ホケキョ姉さん、普段は優しいけど怒ると超怖いから、おまえそのうち覚悟しとけよ?」
「だからなんでだよ。真玖郎の純情? 俺がなにしたんだ……?」
めぐると云い、ホケキョと云い、どうして彼女らに真玖郎のことで目の仇にされるのかわからない。迅雷は本気で時間いっぱい抗議してやろうかと思ったのだが、そんな迅雷の前で千早が唇の前に指を立てた。
「それはトップシークレットなので、我々の口からは話せない。真玖郎ちゃんの口から直接聞いてくれ」
そう云われては、迅雷も引き下がるより他にない。ただ真玖郎に会ったら聞くことが一つ増えたと思っていると、傍から翔子が含み笑いをしながら云った。
「ふふん、ウチはわかったで」
「なに?」
迅雷やつばさたちはただ不思議そうな目を翔子に向けただけだが、めぐると千早にはただならぬ緊張が走った。
そうしたそれぞれの視線を浴びながら、翔子は得意げに口を切る。
「めぐるちゃん。そんなに迅雷君に突っかかるってことは、あんた隼真玖郎に惚れてるんやろ」
その指摘に、めぐるは盛大な肩すかしを食らったようにカメラの向こうでずっこけた。
そうした反応も目に入らぬのか、翔子は得々と自説を語り始める。
「あのな、ウチは迅雷君のこと全日本カート時代から知ってるけど、迅雷君が当時から雑誌に写真とか載ってたのに対して、隼真玖郎の方はインタビューとかに非協力的であんまり写真とかも載ってへんかったやん。でも露出がまったく皆無ってこともなかったから、ウチも写真見たことあるけど、すごい美少年やったね」
「そうなんですか?」
ことりの問いに頷いた翔子は、手振りを交えてなおも語る。
「日本人離れしたイケメンでな、赤毛で緑の目ぇしてんねん。あれはたぶん外国人の血が入ってるんやと思うけど――」
そこで翔子の目が自分の方を向いたので、迅雷は後を引き取って云う。
「真玖郎の母親の家系がそうだと聞いたことがある。母親は名古屋の人で、海外出身というわけじゃないみたいだったから、たぶん祖父母の代じゃないかな」
確かなことは真玖郎に訊かねばわからないのだが、真玖郎は一種の先祖返りなのかもしれなかった。
翔子は一つ相槌を打ってなおも云う。
「とにかくそんな美少年やったのに男らしく坊主頭にしてたのがウチは好印象やったね」
「ああ、丸刈りにしてるのは親父さんの教育方針だって、いつだったか真玖郎が云ってたな」
迅雷が思い出を一つ掘り返してそう呟くと、めぐるが無表情になって云った。
「……ひどい父親だよ」
「うん?」
めぐるのぼやきに翔子が画面の方へ顔を向けた。迅雷もまた同様であるが、迅雷たちの視線を浴びためぐるは画面のなかでつと目を逸らした。
「なんでもない」
「そう? まあええわ。とにかくあんなイケメンやからな。近くにおったら惚れる女の一人や二人いて当たり前っちゅうこと。どうや、めぐるちゃん? 当たりやろ?」
笑いながらそう尋ねる翔子に対し、めぐるはおもむろに両腕で大きなバッテンを作った。
「はい、はずれ。大はずれ。大不正解! なんでそんな色惚けた考え方するの? 自分が色惚けてるから他人もそうだと思った? 眼鏡、替えた方がいいんじゃない?」
そう辛辣に云われては、笑っていた翔子もたちまちつまらなそうな顔をする。
「えええ、ほんならなによ?」
「なにって友達だからだよ。友達を苦悩させてる奴は許せない」
めぐるはごく当たり前に、なんでもないように云ったが、今の言葉で迅雷は少し彼女を見直した。
そんなめぐるの尾について千早も云う。
「私たちのあいだには友情しかないさ」
「はん! 笑わせんなや。好きな男ができたウチにはわかるねん。男女間の友情なんて幻や。ウチはそんなもん信じら、れ……ん……」
そこで翔子は、なにかねじを巻いて動くおもちゃが力尽きるように言葉を失い、うつむいてしまった。
「翔子?」
「翔子ちゃん?」
迅雷とつばさが翔子にそう声をかけたが、翔子は返事もせず、また顔を上げもしない。ことりが心配そうに近づこうとしたところで、千早が云った。
「ところでそろそろ、この部屋を使える時間がなくなってきた」
迅雷はカメラの方へ顔を戻して頷いた。
「それはこっちも同じだ。というわけで解散だな」
「うむ。しばしの別れだ、バロン。最後に一つ云っておくと、私はめぐるやホケキョ姉さんほどおまえに敵愾心を持ってはいない。なぜなら、自分の持って生まれた
「おう、よくわからんが、ありがとう」
どうも千早は詩的な云い回しを好む娘らしい。迅雷はその解説を聞くのも億劫だったし、時間も迫っているので、適当にそう礼を云っておいた。
――だいたい『カショクノテン』ってなんだよ? 知らねえよ、そんな言葉。
調べる気も起きぬ迅雷はそう思いつつ、まだうつむいてなにか深刻そうな顔をしている翔子を一瞥し、それからピットのコンソールに手を伸ばした。
「じゃあ通信、切るぞ」
「あ、待った。最後にことりちゃん」
めぐるにいきなりそう名前を呼ばれて、ことりははっと顔をあげた。
「はい?」
「明日のレース前にもう一回連絡するからさ、お互いの顔を見て、通信しながら走ろうよ」
「えっ、どうして……」
ちょっと身を引いたことりに、迅雷は断れと云おうとした。だが、めぐるの二の矢の方が早かった。
「ねっ?」
「あ、はい」
ことりが押しに負けてそう了承してしまうと、めぐるは皓歯もあらわに
「よおっし、決まり。決まり決まり。じゃあまた明日ね、ことりちゃん。バロンとその他もばいばーい!」
「めぐる、おまえ……」
千早がなにかめぐるに小言を云おうとしたところで、通信が向こうから切断された。
レーシングルームに静けさが戻ってくる。
迅雷はコンソールに突っ伏したいところだったけれど、それを
「ことり……」
するとことりはちょっと目を泳がせ、顔を曇らせながら微笑んだ。
「えっと、まずかったでしょうか」
「まずいって云うか、なんて云うか……」
たかが口約束だから反故にすることも出来るだろうけれど、律儀に行くなら、明日のレースでことりはあのめぐると常時通信を確立したまま走らなければならない。つまり左上にずっとめぐるの顔があって、レースの要所要所でお互いの顔を見ながら話して走ることになる。
「あのガウガウと噛みついてくる、小うるさい女と映像付きで話しながら鈴鹿を十周するんだぞ。大丈夫なのか? おまえが仕掛けようとしたら、あいつ絶対なんか云ってくるぞ」
「うっ……」
そこに想像が及んだのか、ことりは胸に矢を受けたがごとくである。
めぐるの方もそんなことりの気質を見抜き、つけ込んでやろうとして、通信しながら走ろうなどと云う提案をしたのであろう。元より負ける気はないのであろうが、だからこそ念には念を入れてきたのに違いない。
「や、やっぱりまずかったですよね……」
しょんぼりとうつむくことりを見ながら、しかし迅雷はその瞬間に思い直した。
「……いや」
「えっ?」
ことりは意外そうに目を上げた。そんなことりの前で、迅雷は胸の高さに握り拳を掲げて勢いよく云う。
「いや。おまえが勇気と根性を振り絞れば、問題なんてなにもない」
ことりの優しい気質を考えれば、めぐるとの通信は不利でしかないけれど、それもことりの気持ち一つでどうとでもなることではないか。
迅雷は皆まで云わなかったが、ことりは迅雷の考えのだいたいを察したようである。彼女はごくりと固唾を呑むと云った。
「で、でも、私、さっきも猿飛さんに押し負けちゃって……」
「負けるな。そうとも、次は負けなければいい」
話しているうちに、迅雷は危機が好機に翻るのを感じて活き活きとしてきた。考えようによっては、今日のめぐるとの出会いは、ことりにとってよかったのかもしれない。わかりやすい敵の存在ほど、勝負を熱くしてくれるものはないからだ。
迅雷はまなじりを決すると、ことりの両肩に手を置いて云った。
「いいか、ことり。これはチャンスなんだ。あいつをライバルと思え」
「ラ、ライバルですか」
「そうだ。おまえとあいつはともに明日のTSR本戦の一番手。向こうがポールポジションでこっちは三番手だから、スタートの位置も近い。開始直後から競り合うことになるだろう。だから明日、おまえたちはライバルだ。俺と真玖郎のように」
キッズカート時代からの真玖郎との無数の勝負が、迅雷の胸を猛烈な速度で過ぎっていく。思い出は数えきれず、勝ったときは相手にありがとうと云いたいほど嬉しかったし、負けたときは悔しくて涙を流しさえした。
「考えてみれば、おまえにはライバルがいなかった」
「お姉ちゃんにだっていませんよ」
ことりがそう云って姉の方を見ると、つばさはそれは違うとばかりにかぶりを振る。
「私は出会うレーサーすべてライバルだと思っているぞ。速ければ尚更だ。お兄さんはそういう次元じゃなくなってしまいましたが」
意外な言葉であったのか、ことりはちょっと鼻白んだようだ。そんなことりの肩をがっちりと掴みながら、迅雷は思い出を噛みしめていた。
「俺が成長できたのは真玖郎がいたからだ。他にも、速い奴はいっぱいいた。そいつらに負けたくない、勝ちたいって思っていたら、こんなに速くなっていたよ。だからおまえも……明日だけでいい、めぐるをライバルと思ってみろ」
「じ、迅雷さん、私は……」
追い詰められたようなことりの目の光りを見て、迅雷はことりの肩に置いた手の力を抜いた。
「わかってる。無理に性格を変えろとは云わないさ。俺だって今の優しいことりが大好きだしな。でも、なんていうか、明日一日だけでいい。熱い魂を見せてくれよ。ことりと云うより、バーチャルレーサー・リトルバードとして」
そう云われては、意気に感じるところもあったのかもしれない。ことりはいつもより少しだけ凛々しい顔をすると一つ頷いた。
「わ、わかりました。正直苦手な展開ですが、やってみます」
「よし!」
頼りない返事ではあるが、ことりの性格を考えれば大いなる前進だ。迅雷は
成り行きを窺っていたつばさが、そのときことりの方へ首を伸ばすようにした。
「ことり、本当に大丈夫か?」
「うん。迅雷さんのためにもがんばってみるよ。お姉ちゃんこそ……」
そこでことりは言葉を濁したが、その意味は迅雷にもわかる。ことりは課題が明確だが、つばさの方は、ここに来て彼女がなにを考えているのかわからなくなってきた。迅雷のヨーロッパ行きが根源にあることは
だが、あまりきつい言葉を向けるのもためらわれ、迅雷はおどけるように云った。
「おまえは氷車千早……ジャッジメント・ホイールだな」
「……ですね」
つばさは唇だけで笑うと迅雷から顔を背けた。しかしなにかがちくりと刺したのか、迅雷を見ないまま云い訳するように付け加えた。
「明日の私は、お兄さん次第ですよ」
「なに、どういうことだ?」
明日の出来は迅雷次第ということか。それとも精神的な意味で、なんらかの補償を求めているのか。迅雷はその辺りを問い
「翔子ちゃん、さっきからどうしたんだ?」
――逃げたな。
迅雷はそう思ったけれど、翔子が先ほどから黙り込んでいるのは事実だ。迅雷も気になって翔子の方を見ると、彼女はピットブースの椅子に座ったまま片手で口元を覆ってずっと思案顔である。
「翔子?」
迅雷がそう名前を呼ぶと、翔子は口元を覆っていた手を下ろし、深刻な顔をして迅雷を見つめてきた。
「迅雷君……」
「な、なんだ。どうした。明日のレースでなにかあるのか」
もしそうだとしたら大事だ。迅雷はそう思って身構えたのだが、案に相違して翔子はあっさりかぶりを振った。
「いや、レースとは直接関係ないことなんやけどな、ウチ、今度こそ本当にわかってしもうた」
「なにが?」
「隼真玖郎なんやけど……」
「真玖郎? 真玖郎がどうしたんだ?」
それに翔子はなにか答えようとして、途中で云い
「いや、なんでもない。知らん。これは迅雷君の問題やから、ウチは知らん」
「なんだよ。云いかけたことを途中でやめるなんて、らしくないじゃないか」
「いや、だってウチの勘違いかもしれへんし、いらんこと云って明日のレースに差し障りがあったらまずいからな」
翔子は一方的にそう話をたたむと、椅子からすっくりと立ち上がって妙にはきはきとした口調で云った。
「さあ、帰ろ。他のチームの動画見て、研究して、ご飯食べに行こう。迅雷君も第七ブロックのレースは気になるやろ? チーム・ストームヴィーナスがどんな走りをしたか」
「ああ、それはもちろん気になるな」
その言葉で迅雷の頭も完全に切り替わった。他のことはもうどうでもいい。第七ブロックの予選を見たい。真玖郎ことナイト・ファルコンはどう走り、どう勝ったのか。それにめぐることラブモンキーと、千早ことジャッジメント・ホイールも、つばさやことりとともに研究せねばならぬ。他のブロックから勝ち上がってきたチームだって油断はできない。特に二番グリッドを確保したチームについては、真玖郎たちと同じく研究せねばならないだろう。しかも時間は二十四時間もないのだ。
勝つためにやることは多くあり、今は明日の勝負に関係ないことは切り捨てるべきだった。
そしていよいよ、TSRの本戦が始まる。
▼第六話第一幕あとがき
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
サブタイトルをご覧になれば明白ですが、第六話は長くなりそうなので分割して四幕構成とすることにしました。
第一幕はここで終わりで、第二幕はことり対めぐる、第三幕はつばさ対千早、第四幕は迅雷対真玖郎という構成にしようかなと思っています。
次回、第六話第二幕の公開時期は七月予定。
予定であって実際はどうなるかわかりませんが、頑張りますので気長にお待ちくださいませ。
では。
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