第四話 浪速のハイスピードガール(2)


        ◇


 そして翌日の土曜日、迅雷は二条姉妹とともに秋葉原レーシングセンター二階にあるレーシングルームの一室にいた。時刻は午後一時を回ったところで、エントリーシートの座席はまだ筐体の内部にエントリーされていない状態である。

 剥き出しのシートに座っている迅雷は、レーシンググローブを嵌めた手で携帯デバイスを持ち、メールのやりとりをしていた。膝の上には青いヘルメットがあり、左手はそのヘルメットに置いている。

 そこへつばさがコックピットの傍に車椅子を寄せて声をかけてきた。

「お兄さん、また片山さんですか?」

「おう。今日のレースのことはあらかじめ話していたんだけど、どうやら実況してくれることになりそうだ」

 するとつばさが眉根を寄せた。

「片山さん、復帰三回目の実況もまたお兄さんのレースですか……ま、わかってましたけど、片山さんって当分ライトニング・バロンの専属実況をやるつもりなんですかね」

 そう語るつばさの口吻には微妙な棘がある。そこから姉の微妙な悋気りんきを察したのか、傍に控えていたことりが殊更に明るい声で云った。

「で、でも片山さんが実況についてくれるなら楽しみだよね。それだけでレースが華やかになるし」

「ああ」

 迅雷は一つ頷いて懐に携帯デバイスをしまうと、この位置からでも見える筐体内側のスクリーンに視線を投げた。

「とうとう、御空翔子との勝負か」

 本日土曜日の午後、つまり今日これから、TSRのシートを巡って迅雷と翔子の勝負が行われるのだ。迅雷がシートに座ってスタンバイしているのもそのためである。

 悋気もようやく失せたのか、そこでつばさが気を取り直したように云う。

「レースのルールについては、お兄さんが全面的に譲歩しましたから翔子ちゃんがホストを務めることになっています。でも本当によかったんですか?」

「ああ。俺はシートを譲ってもらう立場であり、挑戦者チャレンジャーだ。主催者ホストは御空翔子がやるべきだ」

 迅雷の言葉に曇りや迷いはない。この一件、翔子にしてみれば降って湧いた面倒事なのだから、どんなに不利な条件で走らされることになっても、それで翔子が納得するなら受けて立とうと思っていた。

「どんなルールでも、どんなコースでも、たとえフリー走行なしだろうがなんだろうが、シートを譲ってもらえるなら俺は向こうの決めた条件で走る」

 迅雷がそう大断言すると、つばさがふっと花の蕾のほころぶように笑った。

「それ、前にも聞きましたよ」

 そう、翔子とのレースが決まったあと、迅雷は条件を詰めるにあたってルール設定は翔子に全面的に任せると云い張り、それをつばさから翔子に伝えてくれるよう頼んでいた。

 そして、今日と云う日を迎えたのである。

 そんな迅雷を前にして、ことりが小さなため息をついた。

「私、翔子ちゃんからこの勝負の話が出たとき、いっそ私がシートを降りて迅雷さんとお姉ちゃんと翔子ちゃんの三人で走ったらどうですか、って提案もしたんですけど……」

「翔子ちゃん、それだけは絶対になにがなんでも厭だったみたいだな。三人で走らな意味ないんや、せやからウチとライトニング・バロンの勝負なんや、って」

 もっともな話だと迅雷も思う。それにTSRはチーム戦なのだから、全員が心を一つにしなくては勝てないはずだ。ことりが一方的に辞退したところで、迅雷と翔子のチームワークが上手く機能するとは思えない。

「心に踏ん切りをつけるためにも、勝負は必要なのさ」

 迅雷はそう云うと、真剣な目をしてつばさを見た。

「さて、つばさ。確認だが、御空翔子……ドライバーネームはショーコ。大阪在住、高校一年生の十六歳。おまえたちの歳上の友達で、ミドルクラス女子最速のレーサーって話だったが、間違いはないな?」

「はい。お兄さんとは今日が初めての対面になります。対面と云っても向こうは大阪ですから、エントリーシートのなかでカメラ越しの対面ですけどね」

「ああ」

 一つ頷いた迅雷は、そこで次のように問うた。

「どんな性格だ?」

 そのざっくりした質問に、つばさとことりは顔を見合わせたが、やがてつばさが首をひねりながら云う。

「明るくて気さく、ってところですね。気持ちのいい人ですよ」

「翔子ちゃん、歳下の私たちに『翔子ちゃん』って呼ばれても全然気にしてませんし」

 嬉しそうにそう云ったことりに相槌を打って、つばさはなおも云う。

「翔子ちゃんとはリアルでも何回か会ってます。アクティブな人で、わりと簡単に新幹線に乗って東京に来ちゃうんですよ。今度は大阪で遊ぼうって話もありましたね。私の脚がこうなってしまったので未だに実現していませんが……」

 つばさは膝掛けをかけてある自分の膝のあたりを軽く叩いて肩を竦めた。迅雷は内心ひやりとしたけれど、おくびにも出さずに先を続けた。

「それで、バーチャルレーサーとしてのショーコはどうだ? ランカーで日本の女子高生最速ってのはもう解ったけど、具体的にどんなスタイルで走る?」

 それにはつばさは難しい顔をした。

「ううん、一言で云えば、ガンガン攻めていくタイプですかね。ちょっとお兄さんに似てるかもしれません。マシンもオンロードとオフロードの使い分けに何台か持っていますが、メインで使ってるマシンは青系統、ストレート特化型のマシンですし」

 そこで言葉を切ったつばさに代わってことりが云う。

「翔子ちゃんのメインマシンはスカイウォーカーって云うんですよ。水色をした綺麗なマシンです」

「へえ」

 迅雷もこれまでに戦ってきた、あるいは観戦してきたレースのなかで、青系統のマシンを使うレーサーを何度か目撃してきた。だが青寄りと云っても迅雷のブルーブレイブほど青いマシンはなく、水色になるほど青くしているマシンも滅多になかった。オンロードでは赤と白、オフロードでは黄色と緑のマシンが人気で、青は不人気だったのである。

「青対青……しかも俺と走りのスタイルが似ているタイプか。いいぜ、ちょっと楽しくなってきた」

 迅雷はごちそうを前にしたときのように笑った。これからの勝負を考えると血が滾る。一方、ことりが腕時計を見てつばさに耳打ちした。

「お姉ちゃん、そろそろ翔子ちゃんとの約束の時間だよ」

「うむ」

 一つ頷いたつばさが迅雷に眼差しを据える。

「ではお兄さん。シートにエントリー後、向こうと連絡が取れ次第、通信画面を繋ぎます。あと翔子ちゃんには、お兄さんの本名とかは云ってませんので、きちんと自己紹介してくださいね」

「ああ、まずは挨拶だな」

 いくらレースで決めるとはいえ、あくまで迅雷は横車を押してシートを譲ってもらう立場だ。礼儀正しく、頭を低く……そう思いながらヘルメットをかぶろうとし、苦笑してその手を止めた。

「レーサー同士だからって、初めて顔を合わせる相手にヘルメットを被ってるのもおかしいよな?」

「まあ、帽子を取るのと同じ意味で、顔はちゃんと見せておいた方がいいでしょうね」

 つばさの答えに一つ頷いた迅雷は、ヘルメットを膝の上に戻し、素顔のままでエントリーすることにした。

 ことりがつばさの車椅子のハンドルを引いて後退する。

 迅雷はそれを見てシートをエントリーさせようとしたが、最後にもう一つ、どうしても気になっていたことがある。

「ところでさ」

「はい?」

 と、返事をしたつばさに迅雷は勇を鼓して問うた。

「その翔子って子、可愛いのか?」

 すると、つばさだけでなくことりも無表情になった。姉妹の雰囲気が少し怖いものに変わったのを見て取り、迅雷は背中に冷やいものを感じたが、今さら取り消せない。

「どうしてそんなこと訊くんです?」

「いや、なんとなく」

 迅雷は咄嗟にそう言葉を濁したが、男はこれから初対面の女に会うと云うとき、絶対に相手の容姿が気になる生き物なのだ。つばさはどうかすると癇癪を起こしそうな気配があったが、今のところは落ち着きを保って、冷え冷えとした声で云った。

「可愛いですよ。私ほどじゃ、ありませんけど」

「お、云うな」

 迅雷はつばさの言葉に笑っていたが、ことりは姉の発言にややたじろいだ様子である。

「お、お姉ちゃん、なんてこと。翔子ちゃんに聞かれたら……」

「黙っておけばいいさ」

 つばさはそう云うと車椅子を操作してピットブースへと向かった。車椅子のハンドルを握っていたことりが、それに引っ張られるようにしてついていく。迅雷はそんな二人の後ろ姿に目を注いでいたけれど、やがて気を取り直してステアリング中央のタッチパネルに指で触れ、座席ごと筐体のなかへとエントリーしていった。


 青い初期画面クレイドルの中央には、大きな通信画面が待機状態で開いていた。レース中の通信画面は左上隅の方に追いやられていて窓も小さく、このように視界の正面を塞いでしまうような大きな通信画面を開くことはないが、やろうと思えば出来る。

 この大きな通信画面の傍に小さな通信画面もあって、そこにはつばさの顔が映っていた。先ほどからつばさは関西弁の少女と喋っていて、その会話のみが迅雷にも聞こえてくる。その会話に一段落がついたところで、つばさが迅雷を見て云った。

「ではお兄さん、翔子ちゃんに繋ぎます」

「ああ」

 迅雷がそう返事をすると、つばさの目線が横にずれた。

「翔子ちゃん、今からライトニング・バロンに繋ぐ。あとは二人で話してくれ。レース前の挨拶なり、レースのルールの再確認なり……ただ、喧嘩はしないで。レースで決着をつけるってことなんだから」

「うん、わかったから早よして」

 少女がそう云った次の瞬間、迅雷の目の前にいきなり見たこともない少女の姿が現れた。大阪のレーシングセンターにいる娘と、オンラインで通信画面が繋がったのだ。

 迅雷の顔を見るなり、翔子は目を見開いた。一方の迅雷は心臓を一撃されている。

 ――この子が御空翔子か。くそ、可愛いじゃないか。

 そう、御空翔子はいかにも今どきの女子高生という感じの明るい美少女であった。肩の上でおかっぱに切り揃えた栗色の髪は内側にカールしているシャギーヘアで、黒目勝ちならぬ鳶色勝ちの瞳はどことなく猫を思わせる。鼻筋の通った綺麗な顔をしており、肌は健康的な小麦色だった。画面越しでは背丈がよくわからないが、体格は中肉で乳房がよく張っている。服装は空色のワンピースの上に白い上着を羽織っているらしかった。つばさやことりもそうだが、女子はレースをするのに平気でスカートを穿いてくる。

 と、ここまで翔子の容貌を検めておいて今さらだが、迅雷は初対面の女性をあまりじろじろと見るのは不躾であることに気づいて挨拶にかかった。

「えっと、こんにちは、はじめまして。俺は――」

「待って」

 翔子が片手を上げてそう迅雷の挨拶を制してきた。話の糸口を取り上げられたかたちになった迅雷は、つんのめるようにして絶句する。そんな迅雷を、翔子は目を細め、顔を横に傾けたりして、色々な角度から眺めてくるのだ。実に露骨な視線であった。

「な、なんですか?」

「いいからちょっと待って。あんた……」

 そう云って翔子はさらに迅雷を見つめてくる。迅雷は少しばかり不愉快に感じたが、自分も翔子の顔を可愛いと思ってじろじろと見てしまったばかりだ。無礼はお互い様であると思い、迅雷は翔子がなにか云うまで待とうと思って、自分も翔子の顔をもう少し眺めることにした。

 ――やっぱり可愛いよな。

 つばさは『可愛いですよ。私ほどじゃ、ありませんけど』と強気に云っていたけれど、実際のところは甲乙つけがたい。というのも、つばさが陰性の美少女であるのに対し、翔子は陽性の美少女であるから、方向性が違うので比較のしようがないのだ。これはもう好みの問題で、月が好きな男もいれば太陽が好きな男もいるということである。迅雷はどちらも好きだった。

 ――しかしこいつは、どうしてさっきから俺をこんなに見るんだろう?

 と、そのとき翔子が「はああっ」と悲鳴のような吐息を漏らしながら、片手で口元を覆った。その迅雷を見る目が、心なしか瞳孔が開いて大きくなったように見える。

「ええ、嘘……嘘やん……ちょっと待って……」

 翔子がそんな風にぶつぶつと呟いているのを聞いて、迅雷は初めてそれに気づいた。

 ――あれ、こいつ、もしかして。

 迅雷は翔子の態度からある一つの可能性を考えていたが、いつまでもこのまま黙って睨めっこをしていたところで埒が明かぬと思い、翔子に話しかけることにした。

「あのう」

「ちょっと待って! 心の準備が出来てへん! あんた、あんた……」

「はじめまして、疾風迅雷です」

 迅雷が呆気なくそう名乗ると、翔子は画面の向こうで「きゃああっ!」と叫んでシートに背中を押しつけ、くねくねと身もだえした。

 そんな翔子の狂態に、つばさやことりは度肝を抜かれたらしい。

「しょ、翔子ちゃん? どうしたの?」

 そんなつばさの声が聞こえているのかいないのか、翔子は膝の上に置いてあったらしい、白いストライプの入ったライトブルーのヘルメットを放り投げながら甲高い声で云う。

「ええっ! うっそお! ちょっと待ってよ、聞いてへん! こんなの聞いてへん! ライトニング・バロンが疾風迅雷とか!」

 もはや翔子の側ではなにか竜巻でも起きているような感じである。彼女は画面の向こうで、狭いだろうに飛び跳ねたり身を捻ったりしている。その様子は笑っているようにも、悲鳴をあげてうろたえているようにも見えた。

 いずれにせよ、迅雷には初対面のはずの翔子がこんな反応を示す理由について心当たりがあった。

 ――やっぱりこいつ、俺のことを。

 そう思いながら、大騒ぎしている翔子に低い声で問う。

「あの、もしかしてリアルのモータースポーツに興味ある?」

「あるよ! マカオも見てたよ! あんた、疾風迅雷……今年のマカオで優勝した、来年からはヨーロッパF3に行くって云う……うー! わー! 本物やん!」

 こうした会話を端で聞いていて、ようやくつばさたちも翔子がこんな反応をする理由を理解したらしい。

「翔子ちゃん、お兄さんのこと知ってるんだ……」

「そら知ってるよ、当たり前やん。疾風迅雷ったらその筋じゃ昔から有名やからな」

 そのように手放しで持ち上げられると、迅雷としては面映ゆいやら照れくさいやらで反応に困ってしまう。そんなに大きく報道されたはずはないのだが、知っている人は知っているのだ。

 そんな迅雷をよそに、今度はことりが云う。

「マカオで優勝したっていうのは聞いてたけど、迅雷さんがそんなに有名だったなんて知らなかった……」

「いや、そら普通の人は知らんやろうけどやな、ウチらみたいにモータースポーツに興味あったら知っとるやん! って、二人はリアルのモータースポーツはあんまり知らんかったか! 名前で検索かけても四文字熟語の『疾風迅雷』の方が先に出てきてしまうしな……ほんでも中学生のころから全日本カート制して雑誌に写真とか記事とかえらい載っとったんやで。マカオで優勝した日にはテレビでちょっと特集組まれたりもしたんやで。そのときインタビュー受けてた動画保存してあるから今度見したるわ。それはそうとウチなんか今年の全日本F3選手権のレース観に行ったもんね。遠目でリアル疾風迅雷を見たんやで。羨ましいやろ――って、ウチの方が羨ましいわ! なんで疾風迅雷とリアルで知り合うてチーム組んでんねん! どんな運や!」

 翔子はべらべらとマシンガンのように話していたかと思うと、突然本気で怒り出し、画面越しにつばさたちに食ってかかっている。

 それをどうにか宥めたつばさがやっと云う。

「えっと、つまり翔子ちゃんはお兄さんの、疾風迅雷の……ファン?」

「ファンやない。大ファンや」

 そう大断言されて、迅雷は背中に喜びの電撃を感じた。

 翔子は顔を赧らめて微笑みながら、迅雷を画面越しにちらちらと見てくる。

「同世代のイケメンレーサーやったからな。ウチはあんたの追っかけやっててん。今年のF3選手権も全部生で観させてもろうたわ」

「全部? 本当か?」

 迅雷が目を丸くすると、翔子は小さな八重歯を覗かせて笑った。

「全国津々浦々回って追いかけて、声援送ったこともあるんやで。エキゾーストノートに掻き消されて、聞こえへんかったやろうけど……」

 その告白に迅雷は感動した。自分にファンがいるということが、ほとんど信じられないくらいだった。おもええばサーキットで声をかけてくれる観客はいたが、今までファンとの交流などほとんど持ったことがない迅雷である。自分のファンだという相手とまともに接するのは、これが初めてではないか。

「あ、ありがとう。御空さん」

「うふっ」

 突然翔子がそう笑って、婀娜あだな目をして迅雷を見てきた。

「翔子って呼び捨てでええよ。あんたの方が歳上やし。その代わりウチも迅雷君って呼ばせてな」

「そうか。わかった、翔子」

 歳下の少女に迅雷君と呼ばれることは、この際気にならなかった。ただ自分のファンだという少女との出会いが嬉しかったのだ。

 そして翔子は、迅雷に『翔子』と呼ばれた瞬間、ため息をついて笑いながらシートにもたれ、笑顔を隠すように両手で顔を覆うた。

「あかん、ハイになって頭おかしくなりそうやわ。ちょっと休ませて」

 それから翔子は小腰を屈めると、なにやらごそごそとやってスポーツドリンクを取り出し、それを一口飲んだ。どうやらシートのなかに持ち込んでいるらしい。現実のフォーミュラカーでも、ステアリングについているボタン一つで口のなかにストローが差し込まれ、水分補給が出来るのだから、これは別におかしなことではなかった。

 ――夏になったら俺もシートのなかにドリンク持ち込もうかな。

 迅雷はそんな益体もないことを考えつつ、通信画面のつばさに目を放った。

「つばさ、時間は大丈夫だっけ?」

「はい。シートを使える時間はたっぷり取ってありますから、別に小一時間くらい話していても平気ですが……」

 もちろん、お喋りをするためにエントリーシートに乗り込んだわけではない。だが翔子の方は話し止まらなかった。

「いやあ、しかしあの疾風迅雷が、まさかオンライン・フォーミュラに活動の幅を拡げてるとは思わんかったわ。でもシミュレーターとしてのOFの有用性を考えれば、自然の流れやったかもしれんな。フォーミュラ・クラスの有名バーチャルレーサーのなかには、ほんまもんのF1ドライバーがちらほら混ざってるって噂もあるし……」

 翔子がそんなことを話しながらドリンクの蓋を閉め、また屈んでどこかに置くのを見た迅雷は、そこでやっと声をかけた。

「それで翔子。今日のレースのことだけど……」

 すると翔子の目に危険な光りが宿る。それは勝負師の目であった。その目を見た瞬間、迅雷は彼女が女子高生最速のバーチャルレーサーであることを思い出し、撃鉄を起こすようにして意識を切り替えた。

 翔子が八重歯を見せて云う。

「ああ、TSR……スリースターズレースのシートを懸けて勝負やったな。ウチは迅雷君の大ファンやけど、それとこれとは話が別やで?」

「望むところさ」

 迅雷が雄々しく受けて立つと、翔子が嬉しそうににっと笑う。

「ほんなら早速セッション組もうか。ホストはウチで、ウチが全部の条件を一方的に決めてええってことやったけど、ほんまにええの?」

「ああ、シートを譲ってもらう立場だ。なんでも云ってくれ。ただ実況に片山……ジェニファーさんがつくことになってるから、クローズド環境でのレースはやめてもらいたい」

 クローズドでも運営側からなら割り込めるであろうけど、観戦者が誰もいないのではジェニファーとしても実況の張り合いがないであろう。

 翔子は二度三度と相槌を打っている。

「ああ、おっぱいでかくて有名な実況レディのジェニファーか。ライトニング・バロンにご執心やてネットで噂になっとるわ。オーケ、ほんならオープン環境でフリー参戦者は募らず一対一、サーキットは……」

 と、そこで言葉を切った翔子が、八重歯を見せてにやりと笑う。

「まあ、見てのお楽しみや」

「てことは、ノーマルサーキットじゃないな?」

「ふふん、どうやろね」

 思わせぶりに答えを伏せた翔子の目線が横に動いた。どうやらつばさやことりの映っている通信画面を見たらしい。

「さっちゃんとりーちゃんも、今日はよろしくな」

「うん」

「はい」

 とつばさとことりの姉妹が揃って返事をするが、迅雷は目を丸くした。

「さっちゃん? りーちゃん?」

 それが誰のことなのか、当たりはついたが、どうしてそんな風に呼んでいるのか、それがわからない。そんな迅雷に翔子がレースの準備をしながら語る。

「つばさの『さ』とことりの『り』や。つーちゃんやと可愛くないし、ばっちゃんは絶対ない。こーちゃんやと男の名前かと思うし、とーちゃんは御父おとんやん。せやからさっちゃんとりーちゃんやねん。この方が可愛いやろ?」

「へえ、そんな風に呼んでるのか」

 すると翔子に応じてピットの方でコンソールを操作し、レース・セッションの手続きを進めていたつばさが、迅雷に期待するような視線を寄越してきた。

「お兄さんも、よければさっちゃんと呼んで構わないんですよ?」

「いや、俺はこれまで通り、普通につばさと呼ぶ」

 迅雷がそうぶった切ると、つばさは一瞬操作の手を止めた。そんなつばさを端でことりがくすくすと笑っている。

 そこへ突然、翔子がこんなことを云った。

「あっ、そうそう。このレース、ウチに二〇〇秒のハンデつけてな」

「はっ?」

 これには迅雷だけでなく、つばさもことりも唖然とした。オンライン・フォーミュラにはタイムでハンディキャップを付与する機能があり、ホストは全参戦者の同意を得てこれを設定する権利を持つ。たとえば一〇秒のハンデをつけた場合、先にチェッカーを受けても後続のマシンがそれから一〇秒以内にチェッカーを受ければ順位は逆転するわけである。

 それを持ち出してきた翔子は、しなを作りながら云った。

「だってえ、あの疾風迅雷やで? レースの申し子相手に、まともにやったらウチなんかが勝てるわけないやん。ハンデつけてもらわんと」

「ハンデって」

 迅雷はようようのことで声を発した。

「いや、待て。それにしたって、二〇〇秒はありえないだろ」

「お兄さんの云う通りだ、翔子ちゃん。実力差にもよるけど、翔子ちゃんを相手に二〇〇秒なんてハンデをつけたらレースにならない。一〇秒か、一五秒くらいが普通だ」

 つばさの言葉に、ことりもしきりに頷いている。すると翔子は顎を持ち上げるようにして、心なしか迅雷を見下ろすような目をしてきた。

「なんや、天下の疾風迅雷ともあろうもんが、歳下の女の子相手に余裕持って走れんのかい」

「む……」

 そういえば、翔子は十六歳の高校一年生である。年齢のことを指摘されると、迅雷は矜恃を刺激されるのを感じた。しかもそこへ、翔子が露骨な挑発をしてくる。

「あーあ、がっかりやわ。あの疾風迅雷がこんな意気地無しやったなんて。まあ、でもウチが速すぎるからしゃあないな。よっしゃ、ハンデは一〇〇秒にしたる」

 その勝手な云い種に、つばさが目に角を立てた。

「一〇〇秒でもまだありえない」

「いや、いいぜ」

 つばさを押しのけるようにして、迅雷はそう云っていた。翔子はその瞬間無表情だったが、つばさとことりは息を呑んで目を瞠った。

「ちょ、ちょっと待って下さい、お兄さん。一〇〇秒ですよ?」

「わかってる」

 恐らく最初に云った二〇〇秒は、あとから譲歩することを想定して吹っかけたのであり、翔子は最初から迅雷に一〇〇秒のハンデを背負わせて戦うつもりだったのだろう。

「だが考えてみれば、俺はシートを譲って貰う立場だ。何度も云ったことだが、多少の不利は仕方がない。翔子がいかなる条件を提示しても受けて立つさ」

 迅雷はそう云い切ると、翔子が間髪を容れずに喝采を送ってきた。

「おお、さすがイケメンや! さっちゃん、りーちゃん、知ってた? ほんまもんのイケメンは、顔だけじゃなく心もイケメンなんやで!」

 見え透いたお世辞に迅雷は笑ってしまった。ピットとの通信画面のなかでは、つばさが諦めたように肩を落としている。

「それで翔子ちゃん、今日のレース、周回距離と周回回数は?」

「えっ……と、全長五キロオーバーのフルサーキットで左回りに十一周ってとこにしようと思ってるけど」

「ということは、一周あたり十秒差をつけなきゃいけないのか……」

 そこで言葉を切ったつばさは、迅雷をじろりと睨んでくる。

「お兄さん。云っておきますけど、翔子ちゃんは本当に速いですからね」

「だろうな」

 勝負はやってみないと判らないものだが、ただでさえ最速の女子高生を相手に一〇〇秒もの差をつけて勝たねばならなくなった。

 だがこの勝負はそもそも迅雷が無理を云ってシートを譲って貰おうというのだ。ならばこのくらいの無理難題は乗り越えてみせよう。

「やってやるぜ」

「よっしゃ! ほんなら早速レースや。迅雷君、用意はいい?」

「いつでも来い」

 迅雷はそう云って、膝の上に置いてあった青いヘルメットをかぶった。翔子の方も、青地に白のストライプが入ったヘルメットをかぶる。

 そうして翔子が迅雷をレースに招待すると、迅雷はそれに応じるべくステアリングのタッチパネルの参戦ボタンに触れ、そして度肝を抜かれた。

「こ、これは……!」

 ――見てのお楽しみや。

 翔子がそう云っていた今日の勝負の舞台となるサーキットは、オンロードのサーキットで、スターティング・グリッドには迅雷のマシン、ブルーブレイブが二番手の位置につけている。左前、ポールポジションの位置には翔子のスカイウォーカーがあった。そこだけ見れば、見慣れたレース前のメインストレートの光景だ。

 だがオンライン・フォーミュラではどのサーキットにも背景と云うものがあった。それは山であったり、都市であったり、月面であったりする。サーキットによってまちまちだ。ところがこのサーキットにはそれがない。いや、厳密に云うと青一色の背景がある。真っ青で広大な空間に、サーキットの走路だけが骨組みのように浮かんでいるのだ。そして遠くには白い雲が見えた。してみると、答えは一つ。

「このサーキット、もしかして、空に浮いてる……?」

「正解や! そして迅雷君、あれを見てみなさい!」

 翔子がそう云った『あれ』がなにを指すのか、迅雷にはすぐにわかった。メインストレートの反対側、バックストレートにそれはあった。ストレートのコースが天に向かって駆け上がっていき、一回転して下りてくる。すなわち、遊園地のジェットコースターによくある三六〇度ループだ。

「あ、あんなものがあるってことは、これは、このコースは……」

「飛行機雲サーキット。ウチが得意とする、空中に浮かぶ立体サーキットや!」

 通信画面のなかで翔子が、フルフェイスヘルメット越しにもわかる満面の笑顔とともにそう叫んできた。

「立体……サーキット!」

 オンライン・フォーミュラにそう呼ばれる種類のサーキットがあることはもちろん知っていた。だが挑戦するのはこれが初めてだ。いずれは挑んでみようと思っていたが、まさかこの負けられない勝負でいきなりぶつかることになろうとは思わなかった。

 見よ。改めてコースを見渡せば、このコースは三六〇度、どこを見回しても青空という空間のなかに静止している。コーナーの各所にはかろうじて縁石こそついているようだが、ランオフエリアなどはないため、もしコースオフしたらどこまでも真っ逆さまに落ちていくのではないか。そしてあのバックストレートの中央にある三六〇度ループを、どう走ればいいのか。

 ――どうするよ、これ。

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