第四話 浪速のハイスピードガール(3)
迅雷が途方に暮れていると、つばさが云った。
「お兄さん、レースの中継が始まりました。中継画面、出しますよ」
次の瞬間、正面に展開していた翔子との通信画面が縮小して左上に追いやられ、左上に通信画面が三つ縦に並んだ。上から順にピットとの通信画面、翔子との通信画面、そして新しく展開した中継映像画面であり、そこから実況レディであるジェニファーの歌うような語りが聞こえてくる。
「さあ、両者ログインしてきました。今回のレースは余人を交えぬ一対一のバトル、ホストを務めるのは浪速のハイスピードガールとして名高い女子最速のティーンエイジャー、ショーコ! 対するは御存知、無敵のルーキー、ライトニング・バロン! どちらも青系統のマシンを使いこなすスピードスターです! そして実況を務めるのはわたくし実況レディのジェニファー! 戦いの舞台となるのは立体サーキットである飛行機雲サーキット! さあ、今日はいったいどんな勝負が繰り広げられるのか――!」
「飛行機雲か……」
迅雷はジェニファーの語りに一段落がついたところで、改めてそのサーキットの名前を口にした。なるほど、戦闘機が曲芸のような飛行を見せたあとの空に残る飛行機雲は、まさにこのサーキットのようであるのかもしれない。
「今、サーキットの鳥瞰図を出しますね」
ことりがそう云った二秒後、目の前にサーキットの全景映像が3D表示された。
それを見て迅雷は「うわあ」と唸り、サーキットの姿をためつすがめつしてまた唸る。咄嗟に言葉が出てこない。そんな迅雷の代わりを務めようと云うわけではないだろうが、ジェニファーが声高らかに云う。
「さて、両者とも既にスターティング・グリッドにスタンバイしていますが、フリー走行を始める気配がありませんのでわたくしジェニファーがまずこのサーキットについて簡単にご紹介いたしましょう。まずはメインストレートから始まって左の第一コーナーを御覧下さい、このコーナーには最大五〇度の傾斜がついています」
「――五〇度の傾斜とか絶対におかしい」
思わず口をついて出た迅雷の言葉に、翔子が朗らかに笑って云う。
「立体サーキットやから当たり前やん。こんなの序の口やで、あははっ!」
「いや、待ってくれ。五〇度だぞ?」
サーキットのコーナーは基本的に、内側を中心にすり鉢状になるような傾斜がついている。これは遠心力を軽減するためのもので、傾斜がついていればその分だけ高速でコーナーを突破できるのだが、それにしても五〇度はやりすぎではないか。
「鉄道と違って車高が低いから、内側に横転することはないだろうが……」
「これだけ傾斜がついてるとその分だけスピード出したくなるよね。でも……」
と、そんな迅雷と翔子のやりとりが聞こえていたはずはないのだが、このとき実況レディのジェニファーがまるで合いの手を入れるようにして云った。
「傾斜をあてにしてスピードを出しすぎてコースオフというのは、立体サーキットではよくある光景です。しかしこの飛行機雲サーキットの場合、万が一コースオフしたときには、空中へマシンが転落……十秒でドカンだ!」
「ふむ」
現実のレースでもランオフエリアに飛び出そうものならそのままリタイアということがほとんどなのだ。だが落下という事実は精神的に負担となり、ドライバーに心理的な影響を及ぼす。恐らくそこまで計算されているサーキットなのだろう。
とはいえ、それは迅雷にとって問題にならない。そんな惰弱な心は持っていない。迅雷にとって大問題になるのは、この先であった。
「さて、第一コーナーを抜けた先はS字の高速コーナーですが、これも傾斜角度が四五度から逆の四五度に振れる極端な設計! 御覧下さい、S字の中央部分を谷折りにしたようなレイアウトになっています。ここを走り抜けるとき、マシンはまるで振り子のようになるでしょう!」
「げっ……」
さしもの迅雷がそんな声をあげてしまうくらい、そのS字コーナーは危険であった。このS字コーナーを走り抜けるとき、ジェニファーの云った通り、マシンは振り子のようになる。となれば、その中にいるドライバーには、いったいどれほどの負荷がかかるのだ?
――これ絶対、俺にかかる仮想Gフォースがやばいことになるぞ。
迅雷はそう思って顔を曇らせているあいだも、ジェニファーの語りは続いている。
「S字の先は左のヘアピン。ここを回った先が長いバックストレートですが、御覧のようにストレートの中盤に三六〇度ループがあります。ループは見ての通りですから、マシンがひっくり返ってしまわないかと思った方もいるでしょう。しかしご安心下さい、これはゲームです! 路面の傾斜角度が一定の値を超えると路面に対して下向きの重力が発生するようになっているため、九〇度の垂直部分や一八〇度の天井部分を走ってもマシンがひっくり返ることはありません!」
「あ、なるほど……」
迅雷はそこで初めて、少しだけ安堵した。ジェニファーの語りはまだ続く。
「そしてループの下りで勢いのついたままRのきつい勝負の左コーナーが待っている! ブレーキのタイミングが難しいところです! そこを抜けたあとの右コーナーは九〇度の傾斜がついていてほとんど壁面を走るが如し! ただここは実際に走ってみると単なるアップダウンですから、立体サーキット版の減速コーナー……三次元的シケインと云えるでしょう! そしてここを抜けた先が最終左コーナーです!」
「……うはー、全部やばいな。だが一番やばいのは、やっぱりループエンドの左コーナーか」
迅雷が呻くようにそう云うと、しばらく黙っていたつばさが久しぶりに口を開いた。
「お兄さん、そこですけど、下向きの重力が働いていますからループの途中でひっくり返ったり落下することはありませんが、上っていくときはかなり減速します。そしてループの下りに入ると当然スピードがつくわけで……」
スピードがつきすぎてコースオフしようものなら空中へ躍り出てリタイアになるのであろう。だとしたらどのタイミングでブレーキを踏むか、ギアの選択やステアリングはどうするか、これが命運を分けることになる。
――勝負所はここだな。
迅雷がそう思っていたし、それは実際、間違っていない。だがそのとき、ジェニファーがさらなる追い打ちとばかりにこんなことを云った。
「そして飛行機雲サーキットは奇数周回と偶数周回でまったく違う面を見せることになります。みなさん、よく御覧下さい。最終コーナーに切り替えポイントがあるのがおわかりでしょうか?」
「うん? 切り替えポイントだって?」
迅雷は中継画面の映す最終コーナーに目を凝らした。
一般的なサーキットと同じく、最終コーナー付近にはメインストレートに平行するピットロードへの入り口がある。だがそれとは別に、驚くべき仕掛けが設けられていて、迅雷は我が目を疑った。
「……なんだろう、俺の勘違いかな? 最終コーナーでコースそのものがねじれているように見える」
「勘違いちゃうよ。あそこで路面がツイストしてんねん。で、次の周回は裏面に突入しまーす」
「はあああ?」
目を白黒させる迅雷の耳に、ジェニファーの語りが飛び込んでくる。
「そう、これもまた立体サーキットの特徴です! 最終コーナーを通り抜けるたびに裏と表が切り替わる! 奇数周回と違って偶数周回はメインストレートを逆さまに、三六〇度ループは内側ではなく外側を走るようになっています! もちろん表裏が切り替わると同時に重力の向きも逆転しますから、ドライバーは通常と変わらない感覚で走れますし、マシンが重力に引かれて落ちていくなんてこともないので安心です!」
ジェニファーは笑ってそう断言しているのだが、初見の迅雷にとっては安心もへったくれもなかった。
「偶数周回は逆さに走る……?」
「そう。で、三周目はまた元に戻る。表と裏が交互に連続するサーキットやねん」
翔子の言葉に、迅雷は返事もできない。
――これ、初見で対応できるのか?
さしもの疾風迅雷がそう二の足を踏んでしまうほど、滅茶苦茶ででたらめで幾何学的な変則サーキット、それが飛行機雲サーキットであった。
「さてこのように、立体サーキットとは、三次元的な空間で走行をするサーキットです。平面の二次元的なサーキットを走るのとはまったく違う技術が要求されようとしていますが、私の知る限りバロンが立体サーキットに挑戦するのはこれが初めて! 大丈夫か、バロン!」
――やばいかも。
迅雷が心でそう思っていると、翔子が目を丸くする。
「あ、そうなんや。初めてなんやね、迅雷君」
そんな翔子につばさがここぞとばかりに
「そうなんだよ、翔子ちゃん、お兄さんは元々DP獲得を優先してオーソドックスなノーマルサーキットでばかり走っていたんだ。そろそろ特殊サーキットにも挑戦していこうかという話は出ていたんだけど、実際はまだ……」
「でも、そないなこと云われてもウチは知らんな。サーキットの選択はウチに一任するって話やったやん?」
「う……」
そう云われると反論の余地がなく、つばさは迅雷に迷子のような瞳を向けてきた。
果たして迅雷はヘルメットの下で不敵な笑みを浮かべると、心を落ち着かせるような低い声で云う。
「つばさ。こうなったら腹を括ってやるしかないな」
その言葉につばさは熱いものにでも触れたような顔をし、ことりは一つ頷いている。そんな姉妹に迅雷は笑って云った。
「それにこのサーキット、俺にとっては途方もないサーキットだが、わくわくしてもいるよ。前から何度か見かけていて、いつかは挑戦してみたかったからな。いい機会だ、やってやる」
迅雷がそのように覚悟を決めると、翔子がフルフェイスのヘルメット越しにもにんまりと笑っているのが
「ほんならフリー走行いっとこうか。二周だけな」
「二周だけ!」
迅雷はさすがに叫んでいた。立体サーキットは初めてなのだ。フリー走行をやるのは当然として、三十分くらいは走り込みたいに決まっていた。ところが翔子は二周だけと云う。
「ウチはちゃっちゃとやりたいねん。それに迅雷君なら表と裏の一回ずつ、合計二周で適応できると思う。天才なところ見してよ」
「いや、おまえ……」
「ほんなら行くで」
翔子がそう云った直後、通信画面からヘッドセットをつけていることりが云う。
「迅雷さん、ホストによってフリー走行のゴーサインが出ました」
それと同時に翔子のマシンがゆるやかに発進していく。それを見て迅雷は追いかけるかどうか迷った。というのも、ここでフリー走行に入ってしまえば翔子の云い分を認めたことになるからだ。
だがそんな迅雷に翔子が云う。
「もしフリー走行でウチを抜けたら、三十分やらしたげるよ。でもあかんかったらやっぱり二周で終わり。どう?」
「その勝負、乗った!」
迅雷は神業でクラッチを繋いで飛び出し、ゆるゆると発進していた翔子のマシンに追いすがった。翔子はフリー走行をレースの前哨戦にしてしまったわけだが、勝負という形式になるとついつい応じてしまうのが迅雷である。
そんな迅雷の心意気、男らしさに、翔子が嬉しそうに笑う。
「あははっ。よっしゃ、ほんならウチについてきなさい! このコースのこと教えてあげるわ!」
このようにしてフリー走行の名を借りた勝負が始まったのを見て、実況レディのジェニファーがマイクを口にあてる。
「おっと、一対一のレースだからでしょうか。時間によってではなく、ホストの任意によってフリー走行が始められたようです!」
さしものジェニファーも、今迅雷と翔子のあいだで取り決められたことを知るはずはないから、実況する口ぶりもまだのんびりとしたものだ。
「ここで本レースのホストを務めるショーコのマシンを見てみましょうか。名前はスカイウォーカー、この飛行機雲サーキットにはよく似合うスカイブルーのマシンです」
ジェニファーがそう云うので、迅雷も第一コーナーへ向かって加速しながら、中継画面に映る翔子のマシンを一瞬だけ見た。
翔子のマシンであるスカイウォーカーはどことなく猛禽を思わせるフォルムをしている。ストレート寄りにチューニングをしているという話の通り、色は青空を思わせる水色だった。もっとじっくり観察していたいが、そんな時間はない。
「さあ、フリー走行、ショーコのスカイウォーカーから第一コーナーに入っていくぞ!」
ジェニファーがそう語っているとき、迅雷は路面が急速に左に傾いていくのを感じてひやひやしていた。
「うおお、景色が、すごく斜めに見える……!」
それでいてマシンはダウンフォースと遠心力により、コースにしっかりと押さえつけられて頼もしい感じがした。かといってスピードを出しすぎればたちまちコースオフという罠がある。
「ここはメインストレートの終わりにあって、スピードのついた状態で突っ込むコーナーや! ついアクセル踏みすぎてしまうけど、気をつけんとすぐコースオフするで!」
「だろうな……」
「あと裏面で走るときは逆バンクのついてる右コーナーになるからえぐいよ?」
瞬間、迅雷は絶句した。
――そうだよな。このサーキット左回りだけど、偶数周回、裏面で走るときは右回りになるんだよな。まったく、なんてサーキットだ!
「お兄さん、集中!」
――わかってるよ。
路面にはいよいよ五〇度の傾斜がついていく。迅雷はつばさに心で返事をすると、目の前を走る翔子のマシンを睨みつけた。
「第一コーナー、ショーコのスカイウォーカーが見事なコーナリングで突破! そしてそれを、ライトニング・バロンが正確に
そう、スカイウォーカーの通った軌道を、迅雷のブルーブレイブがそっくりそのままなぞっていった。初見のサーキットであるし、目の前にお手本があるなら、ひとまずそれを真似ておくのが正解だ。
通信画面のなかでは、翔子がヘルメット越しにも悔しげに笑っていた。
「いきなりウチの真似するとか、やっぱり天才! フリー走行は二周でよさそうやね!」
「抜かせ!」
フリー走行は二周でいいとは、つまり翔子は迅雷を褒めつつも、このフリー走行の名を借りた勝負ではきっちり勝つ気でいる。負けてたまるかとは思うのだが、初見サーキットでは迅雷もあまり勝負に出られない。
――ライン取りは、翔子の真似をするしかないな。
幸い、迅雷と翔子は同じ青系統のマシンに乗っている。翔子の走りを模倣すれば、このサーキットのことを数倍の速度で学習できるのは事実だった。
――もっとも、こいつの真似をして走っていたら絶対勝てないんだが。
そうこうしているあいだに、五〇度もついていた道の傾きは平らに戻っていた。第一コーナーを抜けたのだ。そして二台のマシンは次のセクションに入る。
「さあ、第一コーナーを超えた両マシン、続いてS字を描く高速コーナーへと突入していきます!」
――問題はここだな。
ジェニファーの声を追い風にして、迅雷は初めて走る立体サーキットの妙に翻弄されながら、スカイウォーカーを追いかけるようにしてひた走った。
S字に入る直前、通信画面のなかで翔子がにやりと笑いかけてくる。
「迅雷君、フォーミュラクラスやろ? もし仮想Gフォースを一〇〇パーにして走っとんなら、次はきついで」
そう云った翔子のマシンが大きく右に揺さぶられたように見えた。S字の手前は右コーナーだが、コーナー全体に四五度の傾斜がついている! そして続く左コーナーでは、逆向きにやはり四五度の傾斜がついているのだ。
そんなでたらめな傾斜のついた高速コーナーを駆け抜けていくとき、マシンは振り子になったようにも、ブランコを横から見たようでもあった。
「お兄さん」
「迅雷さん」
つばさとことりがそう心配そうな声を寄越すが、ここでためらう疾風迅雷ではない。
――どのサーキットでも高速コーナーがドライバーに与える課題は一つ。いかに速く駆け抜けるか、だ! ゆえに、高速コーナーでは誰もが男を試される!
そして迅雷のブルーブレイブが、マシンを振り子にするS字の高速コーナーへと突入していく。たちまち、全身を粉々に打ち砕くような衝撃が襲いかかってきた。
「おおおおおっ!」
「お兄さん!」
つばさのその叫びで、迅雷は正気に返った。一瞬、気が遠くなりかけていたのだ。ただでさえ高速コーナーは右から左から襲い来るGによって体がばらばらになりそうなのに、でたらめな傾斜がついているものだから、仮想Gフォースをカットしていない迅雷には猛烈、猛悪な力がかかったのである。仮想とはいえ、頭が真っ白になっていたほどだ。
通信画面のなかでつばさが愁眉を作って云う。
「お兄さん、あそこはもっとスピードを落として入った方がいいですよ」
「でも、今は攻略できていたよな?」
「それはそうですけど……」
記憶がないのに攻略できていた。つまり迅雷は本能だけで、地獄の高速コーナーを攻略してみせたのだ。
「大丈夫。いけるいける。びびって速度を落としていたら、勝てるものも勝てなくなっちまうだろ?」
そうして迅雷は先を行く翔子のスカイウォーカーに目を放った。S字に入る前に比べて、彼我の距離は縮まっている。翔子がヘルメット越しに感心したような顔をした。
「あのS字をあんな速度で突破するとか……さすがは疾風迅雷やね」
「云ってろ」
次のヘアピンは尋常なヘアピンであり、迅雷はクルージングのようなコーナリングで優雅に回ってみせた。その先がバックストレートで、途中に三六〇度ループがある。
「さあ、バロンとショーコはともにバックストレートへ入ります!」
迅雷はスリップに敢えて入らなかった。とてもそんな気にはなれない。ストレートの先で、コースが天に向かって急上昇しているのが見えたからだ。
――本当にあんなの上れるのか?
と、そんな迅雷の心を読んだように翔子が云う。
「迅雷君、気合い入れていき! スピードが足りひんと、あのループを登り切れずに途中で失速して、ずるずる後ろへ下がっていくことになるで!」
「やっぱりそうなんじゃねえか!」
仕方がないので、迅雷はアクセルを全開にした。オンライン・フォーミュラ最青のブルーブレイブが猛烈な加速力を発揮して、べらぼうな速度を叩き出し、たちまち翔子のスカイウォーカーに並ぶ。だが翔子もむざむざ抜かれはせず、二台のマシンは宇宙へ飛び出すロケットのように三六〇度ループに突入していった。
――世界が回る。
迅雷は常人離れした平衡感覚によって自分が今どんな向きになっているかを正確に把握していた。九〇度に達したあたりで、重力の向きが変わっていくのも感じ取っていた。遠心力やダウンフォースだけではなく、ゲーム特有のペテンが働いて、マシンがひっくり返らないようになっている。
――なるほど、これが路面に対して下向きの重力が働くってやつか。
地球上の本物の重力が消失するわけはないのだが、仮想Gフォースによって迅雷の感じる重力はゲーム上のものに上書きされているのだ。
そして、三六〇度ループの頂点を超え、猛烈な下り坂が始まった。ブルーブレイブが、スカイウォーカーが、駆け上がってきた上り坂と同じ傾斜の下り坂を、今度は滝のように、雪崩のように駆け下り始める。
バーチャルサーキットのこととはいえ、車でこんな斜面を駆け下るのは人生で初めての経験だった。現実でやれば自殺行為で、ほとんど落下に等しい。そしてその先にRのきつい左コーナーが待ち構えているのだ。
「さあ、こっからやで迅雷君! この勝負のキモはわかってるな?」
「ブレーキ、そしてタイヤ!」
「せや! このスピードでループを駆け下っていったらストレートエンドの左コーナーで間違いなくコースオフ! だったらどのタイミングでアクセル抜いてギアはどうしてブレーキはいつ踏むか!」
「だが、毎回毎回フルブレーキングをしてたら、タイヤがもたない……!」
だからこそ、ここが飛行機雲サーキット最大の勝負所になる。いつ勝負するか。勝負するときと勝負しないときで、ギアの選択とブレーキのタイミングはどうするか。タイヤの状態も常に頭に入れておき、臨機応変にやらねばならぬ。
「とりあえず初見だから……」
迅雷は隣を併走するスカイウォーカーを見た。すると翔子の方でも迅雷を見たのか、二人は通信画面越しではなく、スクリーンに映る互いのマシンのキャノピー越しに視線を合わせた。もちろん、そんな気がしただけだ。オンライン・フォーミュラではドライバーの顔は見えない。それでも迅雷は翔子と目を合わせているような気がした。そして翔子が云う。
「初見の迅雷君に一回ぽっきりの出血大サービスや。まだタイヤがあったまってへんけど、あったまってへんなりにウチがここで勝負するときの走りを見せたる」
その瞬間、迅雷は見ようと思った。ここで答えを教えてくれるなら、このフリー走行における勝ち負けなどどうでもよい。それほど重要なことだ。教官の手本を見るような気持ちで、迅雷は減速しつつ、先を行かせた翔子の走りに注視した。
「行くで! よう見とき!」
そして翔子がある地点でブレーキを踏み抜いた。タイヤの摩耗など気にしない最初で最後のフルブレーキングだ。それを見たジェニファーが叫ぶ。
「おっとこれは、ショーコがまるで最後の勝負を挑むかのような猛烈なアタックを見せます!」
そして迅雷の目の前で、翔子のスカイウォーカーが力強いグリップ走行で、ストレートエンドならぬループエンドの左コーナーを駆け抜けていく。縁石をタイヤが踏んでいる、ぎりぎりの走りだ。それはこの飛行機雲サーキットを知り抜いている翔子ならではの
「なあっ!」
自分の走りを一瞬で奪い取られた翔子が愕然と目を剥いた。
「なんや、その肌感覚! おかしいやろ! なんで初見でそれが出来るねん!」
「初見じゃない。今、おまえが走るのを見た」
「だからそれがおかしいんや!」
そう叫ぶ翔子は、しかし笑っている。迅雷が思ったとおり、憧れた通りの天才肌で嬉しいのだ。
「でも迅雷君、あそこで抜けへんかったら、もう勝負できるところないで?」
そうだろうか。迅雷はそう思ったが、次の右コーナーは九〇度の傾斜がついている。路面が傾いて九〇度に到達したとき、迅雷はまさしく壁を走っていた。だが、これは――。
「さっき片山さんも云ってたけど、これコーナーじゃなくてただのアップダウンだ!」
「あははっ、せやろ? 見てる人は壁を走ってるように見えるかもしれへんけど、実際に走ってみるとそうやねん。あとここはコーナー特化型の赤いマシンより、緑のトルクあるマシンの方が有利になったりするんやで。オンロードの常識が書き換わってしまうのが面白いところやね」
そう云ってきゃらきゃらと笑う翔子のマシンが、坂を上っていく過程で徐々に傾きを元に戻していった。九〇度に傾いていた路面の傾斜が、元に戻りつつあるのだ。
そしてこの壁面コーナーを抜けたとき、迅雷は翔子に少し離されていた。
「ちなみにウチはトルクにもちょっとポイント振ってます。今の壁面と云い、さっきの三六〇度ループと云い、立体サーキットは要所要所でトルクが必要になるからね」
「そうかい……」
だとすると、ブルーブレイブよりスカイウォーカーの方が立体サーキットに向いているということか。
「だが、最後に物を云うのはドライバーの技倆さ」
「でも、あとは最終コーナーしかあらへんよ? あそこは裏と表の切り替えポイントで勝負できるコーナーやないし」
そう、あの最終コーナーはツイストしており、そこからコースは裏面に突入して、メインストレートを逆さまに、コーナーにおけるバンクの付き方は反対に、左回りが右回りに、そして三六〇度ループの外側を走る偶数周回が始まるのだ。
「ふふっ。裏面の走り方もちゃんとお手本見せてあげるわ」
「……くそっ」
奇数周回の表面と、偶数周回の裏面では、まったく違う走り方をしなければならないはずだ。となると、このサーキットを知り尽くしている翔子を教科書にするより仕方がない。
――翔子は俺に手本を見せてくれてはいる。ならここで馬鹿みたいに勝負に打って出るより、いったん翔子の走り方を見せてもらった方が得策。
頭ではそうわかっているが、心は悔しくてならなかった。
そんな迅雷につばさが云う。
「お兄さん、これはフリー走行です。その悔しさは本番まで取っておきましょうよ」
「……それしか、ないか」
こんな無茶苦茶なサーキットで勝つためには、ここは我慢するしかなかった。
そして二台のマシンはコース自体がねじれた最終コーナーへと突入する。
「表が裏に切り替わりました!」
ジェニファーがそう叫んだ切り替わりの一瞬、迅雷は重力が回転するのを感じていた。だが最終コーナーを抜けて裏面のメインストレートに入ったときには、重力の感覚は平生と変わりない。ただそこには、右回りの全然違うサーキットが出現していたのだ。
「さあ、こっから裏面や! 飛ばしていくで!」
翔子のスカイウォーカーが加速し、それを迅雷が追いかけていく。
だが結局、二周目の裏面も翔子が常に先を走り、フリー走行の二周目、裏面から表面に戻ったメインストレートを先に駆け抜けたのは翔子だったのだ。
◇
十分、休憩入れよ。
翔子がそう提案するので、迅雷は一度エントリーシートを排出してヘルメットを外し、座席に座ったままことりから差し出されたスポーツドリンクを飲んでいた。そこへつばさが声をかけてくる。
「さて、フリー走行が二周しか出来なかったわけですが……」
「まあ、それはしょうがない。終わったことだ。裏と表を一周ずつ、合計二周走れただけでもよかったよ。それに翔子はあのサーキットの走り方の手本を惜しみなく見せてくれた。周回数以上の価値はあったさ」
迅雷はそう云うとスポーツドリンクを一口飲み、それから翔子のことを考えて思い出し笑いをした。
実際に話してみると、翔子は相手を引きずり、巻き込み、自分のペースで強引に話を進めるタイプだった。それで色々と無茶な要求を呑まされてしまったのである。
――プリンスは事前の仕掛けが大好きな奴だったが、翔子は即断即決で畳みかけてくるんだな。こういうところって性格出るよな。
「お兄さん、なに笑ってるんです?」
つばさが首を傾げて問うてくる。
「なんでもないさ」
迅雷はそう答えると、シートからちょっと身を乗り出し、貸し出し用のヘルメットなどが置かれている棚の上、壁にかかっているディスプレイに視線をあてた。
プライベートレースでは、休憩時間中の中継画面は無人のサーキットの映像がひたすら流され、ホストがこのタイミングで入ってきた人のために『休憩中』などとコメントを置いておくのが普通だ。今もホストの翔子から『フリー走行終わり、休憩中』のメッセージが出ており、それが時折画面を右から左に流れていった。
それに加えて、このレースでは実況レディのジェニファーがついている。
「フリー走行がたったの二周で終わってしまいました。飛行機雲サーキットの表と裏を一回ずつなので最低限の情報収集は出来たと思うのですが、これでよかったのか。それとも事前に走り込んでいたんでしょうか。ショーコとバロンはまだログインしてきません」
ジェニファーがそんな話や、オンライン・フォーミュラにまつわる四方山話などをして間をつないでくれていた。
「実況レディも大変だな。一人で喋り続けるのってきついだろ」
迅雷がそう云いながら乗り出していた体を元に戻すと、つばさがちょっと口吻を尖らせて云う。
「大変なのはお兄さんですよ。この飛行機雲サーキットをどう攻略します?」
「うん。まず裏面になる偶数周回は捨てる」
迅雷がそう断言すると、つばさもことりも驚いたようだったが、二人ともすぐに納得した顔をする。
「裏面はやっぱり走りにくいですか?」
「ああ。慣れればまた別なんだろうけど、コーナーは全部逆バンクだし、S字の高速コーナーも表が谷折りなのに対し、裏は山折りだから勝手が違いすぎてな……勝つ走りではなく負けない走りに切り替えていく」
「となると、勝負は表面の奇数周回ですか?」
ことりの問いに、迅雷は大きく頷いた。
「このレースのセッションは十一周……つまりファイナル・ラップが奇数周回になるように調整されている。最終コーナーを回ったあとの最後のストレートだけは裏面になるけど、そこまでは表面だから、勝負するならファイナル・ラップだろう」
「すると問題はやはりあの三六〇度ループのあとの左コーナーですよね」
「それと高速コーナーだよ」
ことりが心配そうにそう云ってくれたのだが、迅雷はそれにはかぶりを振った。
「いや、あそこは横Gがきついけど、俺が頑張ればいいだけだ。それ以外のコーナーもミスさえしなければ無難に攻略できるだろう。問題となるのは、あのストレートエンドならぬループエンドの左コーナーだな。このサーキット、見た目がイカれてるからどんなもんかと思ったが、実際に走ってみると凄く手堅いサーキットで、勝負所になるのは第一コーナーとあそこの二箇所しかないんだよな。わけてもループエンドは一番のポイントで、あそこを上手く走れるかどうかでタイムはかなり変わってくると思う」
だが下手を打てばコースオフして空を飛ぶことになる。だがそれこそが、このサーキットの醍醐味なのかもしれなかった。
そこでつばさが眉宇を曇らせて云う。
「翔子ちゃんとの会話で云ってましたけど、ブレーキとタイヤですか」
「ああ。あれだけの下り坂を駆け下った先にあのRの左コーナーがあると、一回だな。一回のフルブレーキングでタイヤを全部使ってしまうことを覚悟しないと駄目だ。一回やったら、二回目からはブレーキのタイミングを大幅に変えなきゃいけなくなる」
もちろんピットインしてタイヤを履き替えるという選択肢もあるのだが、それを先にやったら負けが決まったようなものである。
迅雷はスポーツドリンクに蓋をすると、それをことりに返し、ぎらぎらした瞳で筐体の内部を睨みつけた。
「裏面を捨てると云ったのは、俺が走りにくいという理由のほかに、ファイナル・ラップのループエンドにすべてを懸けるという意味もあるんだ」
「第一コーナーでは駄目なんですか?」
ことりの問いに、迅雷はかぶりを振った。
「駄目ではないが、よりゴールに近いループエンドの方が重要になる。勝負はファイナル・ラップで、あそこまではタイヤを温存する。静かなレースになるぞ」
そして、迅雷と翔子の勝負が始まる。
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