第四話 浪速のハイスピードガール(4)
ふたたびログインし、スターティング・グリッドについてそのときを待っている迅雷は、
中継映像を映す画面ではジェニファーが歌うように語る。
「さあ、ショーコとライトニング・バロンの一騎打ちとなるこのレースがいよいよ始まろうとしています。セッションは左回りに十一周。両者のあいだでどのような取り決めがあったのか、フリー走行が二周しか行われなかったのが気になるところ。ショーコはともかくバロンは大丈夫なんでしょうか」
「あと三十秒くらいでシグナル灯るで」
そんな翔子の言葉に相槌を打った迅雷は、通信画面のなかのつばさを見た。
「つばさ」
「翔子ちゃんを相手にかなり不利な条件だと思うんですけど、ここまで来たら止めるわけにもいきません。グッドラック、カウボーイ」
「迅雷さん、ファイト!」
そう応援してくれたことりと、そしてつばさに親指を立て、迅雷はステアリングを握り、クラッチパドルに指をかけた。そのとき、五つの信号の一番左が赤く点灯した。そこから秒刻みで二つ目、三つ目の信号に火が入っていく。
スターティング・グリッドは、元より翔子がポールポジションを占めている。迅雷もこの半月余りでそれなりにDPを稼いでいたが、女子高生ナンバーワンレーサーの翔子にポイントで叶うはずがない。二人だけのレースなので、迅雷は自動的に二番手で、かつ最後尾だ。いよいよ、五つの信号がすべて赤く灯る。そして一斉に消える。
「スタート!」
ジェニファーが景気よく叫んだ声を合図に、二人だけのレースが始まった。
「行くぞ!」
迅雷のブルーブレイブは最高のスタートを切った。だがスタートが良かったのは翔子も同じだったのである。二人のマシンはいきなり競い合うようにして螺旋を描きながらメインストレートをひた走り始めた。
「あははっ、お互い、そうは問屋が卸さへんね!」
翔子が笑って云った通り、翔子は迅雷を置き去りに出来なかったし、迅雷は翔子をスタート直後に追い抜くことが出来なかった。
ジェニファーがマイク片手に声を張り上げて云う。
「スタートダッシュはどちらも上等、順位の変わらぬまま、二人は縺れながら第一コーナーへと突入していきます!」
◇
三周目を終えたとき、翔子が通信画面から迅雷に話しかけてきた。
「そろそろタイヤもあったまってきた頃合いやと思うけど、仕掛けてこんの?」
「そう焦るなよ」
迅雷はそう答えると、唇を舐めて通算四度目、裏面二度目の第一コーナーにかかった。翔子はなおも明るく話しかけてくる。
「ところでどや? 初めての立体サーキットは?」
「竜巻のなかを走ってるみたいだ。目はぐるぐる回るし滅茶苦茶なGがかかるし裏と表はひっくり返るし……ふ、ふ、ふ!」
迅雷は肩を揺すって笑う。このようなレース体験は、現実では絶対に出来ない。こうした世界を知って、迅雷の胸に去来する感覚は、『快』の一文字である。
「面白えじゃねえか」
「そか。うちも愉しいで、化け物に追いかけられとるみたいで」
――化け物だって?
迅雷は目をぱちくりさせたが、通信画面のなかの翔子は、命がけの勝負を楽しんでいるかのようである。
「初見でようついてくるわ。それは才能? それとも経験? どちらにせよ、大したもんや。こんだけ適応力が高いと、メタモルサーキットでもいい勝負が出来そうやね」
「メタモルサーキット?」
鸚鵡返しに呟いた迅雷に、ピット画面からつばさが云う。
「レース中にコースレイアウトがランダムで変化するサーキットのことですよ。一見ノーマルサーキットのようですが、マシンの走っていない区間が、あるとき一瞬でぱっと切り替わったり、コーナーについている傾斜角度が微妙に変わったりするんです。ひどいときは右コーナーが左コーナーになったりしますからね、走り込んでコースを覚えても無駄というテーマのサーキットですよ」
「そいつはひどい!」
迅雷は心の底から叫んでいた。そんなサーキットでは走りたくないというものだ。だが翔子は呵々と笑って云う。
「いつかメタモルサーキットでも勝負しような。今は飛行機雲サーキットやけど」
そんな話をしているうちにヘアピンを回り、二人は相次いで三六〇度ループのあるバックストレートに突入した。
迅雷はまだ仕掛けず、今は翔子の後塵を拝しながら、しかしその走りを忠実に真似している。
あるとき、翔子がまた迅雷に話しかけてきた。
「迅雷君、ウチを教科書にしとるね。それは正解や。でもな、レースは前に出えへんと勝てへんで。いつ仕掛けてくるの?」
「さて、いつかな」
――最後の一回だ。
迅雷は口で答えつつ、心にそう思った。このサーキット、勝負できる箇所は第一コーナーと、それから三六〇度ループを抜けた先の左コーナーしかない。だがタイヤのことを考えると、ループエンドで勝負できる機会は一回きりなのだ。それまではタイヤを温存し、このサーキットをよく知っているであろう翔子の走りをトレースして効率よく走るのが賢い。
幸い、翔子のマシンは迅雷と同じ青系統だ。これが赤や白なら参考にできないが、青なら真似をしてもかたちになる。
そうして迅雷は爪牙を研ぎながらも今はまだ我慢をして、翔子の後塵を拝していた。
そしてレースは順位変動のないまま進展する。
「第六ラップを迎えてなお、レースは静かな展開。バロンがショーコのあとを追いかけて、ただ走っているだけ! まだバトルが見られません!」
そんなジェニファーの実況を受けて翔子がまた云う。
「ほらあ、実況レディのジェニファーさん、焦れてきてるよ。さっちゃんから聞いてるで? 迅雷君、あの人に気があるんやろ? ええとこ見せんでええの?」
「ぐ……」
そう煽られて迅雷はちょっと見栄を張りたくなったが、今はまだ我慢だ。これは一回のチャンスをものにできるかどうかが勝負を分ける、我慢のレースなのだ。
――そんな見え見えの釣り針に引っかかってたまるか。
迅雷は大きく息を吸うと、ステアリングを切りながら翔子に問うた。
「なあ、翔子。守破離って知ってるか」
「しゅはり? 聞いたことあるようなないような……」
「芸事における弟子の心構えの話さ。弟子は最初、師匠の教えを忠実に守る。だがやがてその教えを敢えて破って、自分なりの芸を模索する日がやってくる。そしてついには師匠から離れて、自分の道を歩き出す。今はまだ『守』の段階なんだよ」
「ふうん、ほんならウチは迅雷君の先生っちゅうわけやね。光栄やわ、あの疾風迅雷がウチなんかを手本にしてくれるなんて」
あはは、と笑った翔子に、今度は迅雷の方が云った。
「おまえこそ、前を走ってるんだから誰にも邪魔されることなく自由にのびのび走れるじゃないか。俺を煽るより自分がタイムを縮めることを考えたらどうだ?」
すると翔子は笑っていたのだが、その笑いを噛み殺しながら云う。
「いやあ、それがね、迅雷君。ウチ、既にこのサーキットのベストレコードに近いタイムで走っとんねん」
「うん」
「せやから他の奴やったらとっくにぶっちぎってるはずなんやけど……あんた速すぎてちぎれへんわ、このアホンダラ! ああ、苛々する! 後ろにぴったりくっついて走られるとか気分最悪や! もう焦らさんと、お願いやから早く仕掛けてきて!」
その正直な告白に迅雷は笑ってしまった。レースはそろそろ六周目を終えようとしており、それをジェニファーが語っている。
「レースは順位変動のないまま第七ラップへ。十一周のレースですから、既に後半戦に突入したことになります」
――そろそろ守破離の『破』の段階に移行してもいいかもな。
迅雷はそう思って、次のコーナーからそれまでとは違う走りを見せた。
◇
ピットブースでは車椅子のつばさと、備え付けの椅子に座ることりが、二人並んでジェニファーの実況する中継映像に目を注いでいた。
あるとき、つばさが低い声で云った。
「……観客は退屈と思っているかもしれないな」
「そうかな? 結構、見応えあると思うけど。迅雷さん、
ことりのそんな言葉に、つばさは笑ってしまう。
「まあそうなんだけど、あのプリンスとの勝負が銃弾をばらまくような派手な撃ち合いだったとすれば、今回の翔子ちゃんとの勝負は武士と武士が真剣を手にして睨み合ってる感じだからな。勝負は一瞬で決まると思うけど、それまでが長い。ところで……」
そこで言葉を切ったつばさは、ことりに顔を振り向けながら中継映像を指差した。
「第七ラップに入ってから、お兄さんの走りが微妙に変わった。気づいたか?」
するとことりはちょっと首を傾げたあと、既に第八ラップを終えようとしているレースの映像をじっと見て、やっと云った。
「コーナーの、アプローチと立ち上がりが変わってきてる……?」
「そうだ。このコースのことをよく知らないお兄さんだから、今までは翔子ちゃんの走りを忠実に真似して走っていた。だがそれを破り始めた。恐らくお兄さんのなかでコースの分析が終わったんだろう。偶数周回は捨てると云っていたけれど、なんだかんだで裏面にも慣れてきたらしい。つまりさっきお兄さんの云っていた、守破離の『守』から『破』に移ったというわけさ」
「それって……」
「ああ。仕掛けはもう始まっているんだ」
サーキットは表向き静かな局面を演じ続けている。しかし水面下では、勝負師が既に罠の配置を終えつつあるのだ。
◇
翔子のスカイウォーカーと迅雷のブルーブレイブが相次いで裏面の
「さあ、レースは第十ラップに突入しますが、依然としてバトルらしいバトルはなく、先頭ショーコ、二番手バロンの順で走っています!」
そう、この局面に来てもまだ迅雷は仕掛けてこない。だが迅雷がなにを考えているのは、翔子もほぼ正確に見抜いていた。
――タイヤを温存してファイナル・ラップで仕掛けてくるつもりやろ。このままずっとウチのお尻にくっついて走っとる疾風迅雷なわけないもんな。
だがこの飛行機雲サーキットは翔子が好んで何度も走っていたサーキットであり、コースの
――それでウチに勝てるわけあらへん。でも幻滅したりせえへんよ、迅雷君。ウチの走りをそっくりそのまま真似して、初見でここまでぴったりくっついて走ってる時点で充分、大したもんやから!
「ここまで来たら十周目も勝負はしないでしょう。しかしこのまま何事もなくレースが終わるとも思えません。バロンは一回のチャンスをものにすることを狙っているのか!」
――そうなんやろうけど、でもチャンスはやらんよ。負けるんは厭や!
ジェニファーの語りに心でそう気を吐いた翔子は、十度目の三六〇度ループに向かってバックストレートをひた走っていく。
「迅雷君、このまま最後までウチを教科書にしてくれてええよ」
通信画面のなかに映る迅雷に翔子はそう声をかけたのだが、実のところ、この時点で翔子は一つ心得違いをしていたのである。既に迅雷は『破』に移行しており、翔子の走りに忠実などではなかったのだ。岡目八目と云おうか、ピットのつばさやことりはそれに気づいていても、当事者の翔子は気づかなかったのである。もし翔子にもピットクルーがいれば話は違ったのかもしれないが、今日の翔子は大阪のレーシングセンターにおいて、一人でエントリーしていたのだ。
そして十周目も何事もなく終わろうとしている。最終コーナーで裏が表に返り、正常化したコースで二台のマシンがコントロールラインを超える。
そのときを待っていたとばかりにジェニファーが声を張り上げた。
「さあ、勝負のファイナル・ラップだ! この周回こそは、なにかが起きる! 起きなかったら怒るぞ、バロン!」
そんなジェニファーの声を追い風に、迅雷は第一コーナーでもその先の高速コーナーでも振り落とされることなく翔子についてきた。
そしてヘアピンを抜けて、二人は最後のバックストレートに入る。
「さあ、ここです! バロンがショーコのスリップに入りました!」
「またかい!」
翔子は迅雷をスリップから叩き出そうと軽く蛇行したが、迅雷はぴったりくっついてくる。過去の周回でもこのバックストレートにおいては、迅雷は何度か翔子のスリップに入っていた。三六〇度ループの上りで少しでも楽をしようというのだ。
やがて水色と青のマシンはループに入り、ぐるりと輪を描いてループの下りに突入する。と、そのときだった。
「バロンがスリップから出て加速! ショーコのスカイウォーカーと鼻先を並べました!」
はったりや牽制ではない。スリップから出てきた迅雷は、今までにない本気の加速を見せ、翔子の隣にくつわを並べた。
「……行くぞ、翔子!」
通信画面から、迅雷が久しぶりにそう声を発した。狼のようなその声に名前を呼ばれて身が震えそうになるのをどうにか
「来たね、迅雷君。やっと勝負やね!」
我慢に我慢を重ねて静かなレースを演じてきたのは、この先の左コーナーですべての決着をつけるため。泣いても笑っても一回きりの大勝負だ。
「さあ、バロンが動きました! やはり仕掛けてきました! わたくし、このレースが始まって今やっと楽しいです!」
中継映像にカットインしているジェニファーが、天に向かって拳を突き上げながら満面の笑顔でそんなことを云った。それを聞いて翔子もくつくつと笑う。
「やっぱりレースの醍醐味はバトルやもんね」
そう呟く翔子も目の色を変えていた。純色の青とスカイブルー、二台のストレート特化型マシンが勝負の左コーナーに向かってループを駆け下っていく!
「さあ、勝負だ――!」
画面のなかで、ジェニファーがその勝負の行方を見届けようというように身構えた。
――大丈夫、このサーキットは何度も走ってきた。ウチにミスはない!
「ここや!」
そして翔子は自分の
――あかんわ迅雷君! 見誤ったな! ブレーキを踏むタイミングが遅い! それじゃあ止まれずコースオフしてお空にダイブや!
二台のマシンのタイヤがアスファルトを切りつける音がする。翔子はブルーブレイブがコーナー立ち上がりの縁石を乗り越えて吹き飛ぶ瞬間を想像していた。だが実際には、ブルーブレイブのタイヤはその縁石を蹴った。蹴ったときには、マシンのノーズはコーナーの出口を向いていた。そして。
「曲がりきりおった!」
自分も左コーナーを突破しながら、しかし翔子は目を剥いて車一台分前に出ている迅雷のブルーブレイブを信じられないように見た。
「バロンが勝った!」
ジェニファーのその声が翔子に敗北を突きつけてくる。
「なんでや! ブレーキ遅かったやろ!」
「てことは、なにが違った?」
左上の通信画面から迅雷が笑いを含んだ声で逆に尋ねてくる。翔子は憤激を乗り越え、吐き捨てるように云った。
「決まっとるわ、タイヤしかない。でもウチらのマシンは同じ青系統やから赤のマシンみたいにタイヤにプラス補正とか掛からんし、迅雷君はウチの真似して走ってたから、タイヤの状態もウチと同じのはず……」
「それが間違いだ。俺はとっくにおまえの走りから自分の走りに切り替えていた。守破離の『破』だな」
その種明かしに翔子は胸を刺し貫かれるような思いだ。
「てことは……」
「単純にお兄さんの方が上手かったってことだよ、翔子ちゃん」
と、つばさが割り込むように話しかけてきた。
「翔子ちゃんとお兄さんとでは、根本的にコーナリングの技倆レベルが違う。『守』の段階ではお兄さんと翔子ちゃんのタイヤの消耗度合いは同等だったが、お兄さんが『破』に移行して自分の走りを始めた時点で、お兄さんの方がタイヤに負担をかけずに走れていたんだ。そうなればブレーキの効果も変わるから、ブレーキポイントも変わるということさ」
一瞬、翔子は全身から力が抜けた。ステアリングに突っ伏さなかったのは、まだレース中であり、翔子にレーサーとしての魂が息づいていたからだ。
今、壁面の右コーナー、事実上のアップダウンで迅雷が先頭を走っている。その先のツイストする最終コーナーを乗り越えて、逆さに反転したメインストレートに返ってくれば、もうそこがゴールだ。
「そしてここからは、守破離の『離』だ!」
翔子は息を呑んだ。先を走るブルーブレイブが加速したのだ。
「……まだや」
翔子も離されまいと必死に追いかけるのだが、ツイストする最終コーナーを回り、メインストレートに返ってくると、ブルーブレイブがぐんと前に出た。ここに来てエンジンの差が出たのだ。急いでスリップに入ろうとした動きも、事前に見切られて躱されてしまった。そこからはもう絶望的だ。彼我の差がみるみる開いていき、もう手も届かない。
「あかん、追いつけへん」
――迅雷君は、初めて走るサーキットでウチを手本にして走っとったはずやのに!
たった十一周、フリー走行も含めれば十三周の短い時間で、迅雷は自分を通り過ぎ、追い越していったのだ。
「青は藍より出でて藍より青し……弟子は今、師匠を超えよった……」
そして、実況レディのジェニファーが声高らかに叫ぶ。
「ゴール! 今、バロンが先にチェッカーを受けました! 僅かに遅れてショーコもフィニッシュ! このレース、始まってからファイナル・ラップまで一貫して先頭を守り続けてきたショーコですが、最後の最後でやられてしまった! 一撃の勝負でした! しかし――」
そのジェニファーの指摘で、翔子ははたと気づいた。
「あ、せやったわ」
◇
フィニッシュラインを超え、最初にチェッカーを受けた迅雷は、マシンがゴースト状態になってウイニングランに入ると両手でガッツポーズを作った。
「ようし、勝った! 勝ったぞ!」
これでスリースターズレースのシートを譲ってもらえる。真玖郎と勝負ができる。そう思って迅雷は勝利の喜びを二倍にしていたのだが、そこへつばさが冷たい声でこう云った。
「いえ、お兄さんの負けです」
「はっ?」
迅雷は目を丸くして通信画面を見た。そこではつばさが驚いたような顔をし、ことりは苦笑いを浮かべている。
「あの、お兄さん、もしかして素で忘れてたんですか? 私てっきりお兄さんにはなにか考えがあるものと思っていましたから特にこれといって忠告しなかったんですけど……」
「え、なにが?」
そんなボタンの掛け違いのようなやりとりをしていると、実況レディのジェニファーがその美しい声でこんなことを云う。
「――ファイナル・ラップまで一貫して先頭を守り続けてきたショーコですが、最後の最後でやられてしまった! 一撃の勝負でした! しかしこの勝負は事前の申告によって、ショーコに一〇〇秒のハンデがついています」
「あっ」
そのとき、迅雷もまた思い出した。同時に翔子の言葉が耳の奥によみがえる。
――よっしゃ、ハンデは一〇〇秒にしたる。
「あああっ! しまった! そういえばハンデつけるって云ったわ!」
「えええ! なんで忘れてるんですか、お兄さん!」
「いや、だって、立体サーキットが色々ぶっとんでるから、その衝撃で……」
まったく、レースのなかで勝利条件を忘れるとは、疾風迅雷ともあろう者が不覚を取ったものである。それというのもこの飛行機雲サーキットが悪い。表と裏を交互に走らねばならないし、壁面コーナーはあるし、三六〇度ループはあるし、あのループの先にある左コーナーをどう攻略するかに頭が占められてしまって、一〇〇秒のハンデをつけるという取り決めのことなど頭から吹き飛んでしまったのだ。
だがもちろん、そんなことはなんの云い訳にもならない。
――負けた。
がらがらと、積み上げた煉瓦が崩れていくような衝撃が迅雷を襲う。こういう場合、なにをどうするべきなのか。迅雷は最近読んだ漫画のキャラクターの真似をして、通信画面のつばさにこう云った。
「てへ」
「てへじゃないんですよ! シートどうするんですか、負けちゃって!」
「ああああ……」
迅雷はヘルメットをつけた頭を抱え、視線をピットとの通信画面から翔子との通信画面に映した。そこではちょうど翔子がヘルメットを脱ぎ、素顔もあらわに八重歯を見せて、してやったりの笑顔である。
「いやあ、勝負に負けて試合に勝ってしもうたね。ハンデつけてもらっててよかったわ、ほんま」
そんな翔子のいい笑顔を見て、迅雷は思う。
――え、マジ? マジでこれで終わり? 俺、TSR出られないの?
そんな迷子のような迅雷の瞳をどう思ったか、翔子が不意に笑顔を消して云う。
「ま、でもシートは迅雷君に譲ったるわ」
「え」
それには迅雷も呆気にとられたし、つばさたちも驚いたらしい。ことりが目を丸くして翔子に問う。
「いいの、翔子ちゃん?」
「いいもなにも実質はウチの負けやし。このサーキットで何回も走っとんのに初めての人に逆転されるとか大概やわ」
翔子が八重歯もあらわににやりと笑う。迅雷はそんな彼女を信じられないように見た。
「ほ、本当にいいのか?」
「ええよ。でも迅雷君がすっきりせえへんなら、もう一本勝負しようか。TSRのシートを懸けたレースが一回限りやなんて、そんなことはお互い云うてへんもんな」
「おお……」
迅雷の翔子を見る目が、たちまち燦爛としたものになっていく。
「翔子、おまえっていい女だな」
「せやろ? 今なら結婚してあげるわ。それでどうする? このままシート譲ってあげてもええけど、もう一回勝負する?」
「もう一回だ!」
なにがどうあれ、負けは負けだ。だから好意に甘えてシートを譲ってもらうなどできない。再勝負しかないのだ。迅雷がそう雄々しく断言すると、翔子は今度こそ花のように
「さすがイケメンやわ。もう愛人でもええ」
冗談を云っているようで翔子の目に微妙に本気の光りがあるような気がしたが、迅雷がそれを問うより早く翔子が気を取り直したように云う。
「よっしゃ。ほんなら今日はもう時間ないし、また明日な。日曜日やし、秋葉原センターのシート取ることにするわ」
「おう、頼むぜ……って、待て待て! 今、秋葉原って云った?」
「うん。明日、朝一の新幹線に乗って東京行くわ。レース終わったらデートしよ」
迅雷は咄嗟に返す言葉を失った。
デートだって?
これに気の利いた返事のできぬ迅雷に代わって、つばさが激越な反応を示した。
「翔子ちゃん! どどど、どういうことなんだ!」
「いや、ウチは疾風迅雷のファンやって云うたやん。ウチかて生迅雷に会いたいんや。さっちゃんとりーちゃんばっかりずるいやろ」
「でも、だからってデートって……」
ことりがぼそぼとした声で、しかりはっきりとした非難を示して云う。だが翔子はどこ吹く風と云った様子で、迅雷に尋ねてきた。
「迅雷君は、ウチとデートするの厭?」
「いや、別にそんなことはないぞ」
迅雷はそう云うと、おもむろにヘルメットを脱いだ。それを見たことりがピットでなにか操作をする。スピーカーやマイクの同期を、ヘルメットからコックピットに切り替えてくれたのだ。そうして素顔を晒した迅雷は、翔子を見据えて正直かつ晴朗に云った。
「おまえ可愛いし」
すると翔子は心臓を串刺しにされたように目を丸くし、息を凝らし、それから顔を真っ
「えへへ」
その気になれば、迅雷と翔子はここから二人の世界に入ることも出来ただろう。だがそれは許さじとばかりに、つばさがまたしても声をあげる。
「翔子ちゃん、本当に――」
「くどいで、さっちゃん。東京に行くと云うたら行く。ウチは即断即決の女や」
そしてレースのあとで、迅雷とお茶でもするつもりなのであろう。それにはデートと云う名前がついている。
つばさは上半身をわななかせ、なにか大きな感情を乗り越えると、冷気に曇った目をして云った。
「わかった。でも私たちも同席するから」
「えええ、ついてくんの?」
「なにか問題でも? デートはレースの後なんだから私やことりも当然その場にいるし、私たちだけ家に帰されるのは納得いかない」
そう断言するつばさの隣では、ことりがうんうんと相槌を打っている。翔子はちょっと考える素振りを見せたが、恐らくそれはポーズであり、最初から腹は決まっていたのであろう。
翔子はすぐに、にっと笑って頷いた。
「しゃあないな。ほんなら四人でデートしようか。ところで迅雷君」
「うん?」
成り行きを見守っていた迅雷は、突然水を向けられて居住まいを正した。そんな迅雷に翔子が人差し指を立てて云う。
「そろそろログアウトしよか」
「あ、ああ」
そういえば迅雷も翔子もまだエントリーシートのなかである。ヘルメットを外しているから仮想Gフォースは感じなくなっているが、マシンはゴースト状態でウイニングランを続けているのだ。
中継画面では今日のレースを振り返っていたジェニファーが、そろそろ語ることもなくなっていたのかこんなことを云う。
「二人ともまだ残っているみたいですし、たまには勝利者インタビューでもしてみましょうか。ショーコにコールしてみましょう」
「ああ、あかん。ウチそういうの苦手や」
翔子が慌ててなにごとか操作すると、スカイウォーカーが一足先にログアウトしていく。それを見て迅雷も通信画面に目をやった。
「ことり、頼む」
「はい」
直後にサーキットの光景が消え失せ、目の前のスクリーンは青い
――明日のデートって、片山さんも誘ったら来るかな。
つばさも可愛いし、ことりも可愛いし、翔子も可愛いのだが、やはり迅雷の心を一番強く揺さぶるのは片山ことジェニファー・ハミルトンなのである。
「お兄さん、シート出しますよ」
「ああ、了解だ」
そう答えると、エントリーシートが後ろに動き出し、筐体の内部からゆっくりと排出されていく。
そのあとシートから降りて借り物のヘルメットを棚に戻した迅雷は、ピットブースの椅子の後ろに立って、カメラ越しに翔子と顔を合わせていた。
そこで明日の待ち合わせやらレースの条件の確認やらをして、二人でシートを予約する。翔子が予約したのも秋葉原センターのシートだ。
「ほんなら明日、楽しみにしててね、迅雷君」
「おう」
レースを楽しみにするべきなのか、それとも翔子の来訪自体を楽しむべきなのか、迅雷は自分でもいまいち判断のつかないままそう返事をしていた。
そこへつばさが冷たい炎の燃える目で迅雷を見てくる。
「私たちも一緒ですからね、お兄さん」
「わかってるよ」
別に迅雷だって、つばさたちを仲間はずれにするつもりはない。二人が同席を望むならいつだって賛成するつもりだ。
だがそのとき、またしてもジェニファーの華やかな姿を思い出した迅雷は、願望とも冗談ともつかぬ口調でこう付け足した。
「どうせなら片山さんも呼ぶか?」
「あ、いいですね! 賑やかにしましょうよ! あとで私が聞いておきます」
つばさとしては邪魔者をどんどん引き入れようという腹づもりであったのだろう。だが迅雷としては、思いがけず楽しくなってきた。片山とは連絡先を交換して以来、メールのやりとりをしているが、休日に会って出かけたことはまだ一度もなかったのだ。
通信画面のなかでは翔子が体を斜めにしている。
「えええ、増えるん?」
「増えるんだよ、翔子ちゃん。片山さんって知ってる? 日本人かと思うだろうけど、実は今、このレースの実況をしてくれた実況レディのジェニファーさんのことなんだ!」
「ほんまに? あ、そんならいっぺん会うてみたいわ。聞きたいこともあるし」
翔子は俄然と乗り気になって、笑顔を浮かべてつばさやことりと話し始めた。
このようにして、迅雷と翔子が出会ったその日は過ぎていく。
そして翌日、翔子は本当に東京にやってきた。
▼四話あとがき
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
四話はこれで終わりです。
次回はショーコ・イン・トーキョーというわけで翔子との再勝負なんですが、レースパートはさっくり省略し、その後のデートパートで四人のヒロインの掘り下げを重点的にやっていこうと思います。
特にTSRにはつばさやことりも出るわけで、この姉妹にはそれぞれ課題を設定していきたい。
迅雷の来年の予定を知ったつばさのあれこれとか、今まで触れてこなかったバーチャルレーサーとしてのことりについてとかに切り込んでいこうかな、と。
時期は四月を予定していますが、予定は予定であって約束するわけではありません。
でもなるべく早くお届けできるよう頑張りますので、気長にお待ちくださいませ。
それではまた次回!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます