第六話 羽ばたく者たち 第三幕 愛の風に乗って(1)
第六話 羽ばたく者たち 第三幕 愛の風に乗って
ことりと入れ替わりにエントリーシートに入った迅雷は、ログインするとブルーブレイブに乗った状態で予備ストレートの三番グリッドに
既につばさたちは二周目を終えようとしており、ジェニファーが熱っぽい口調で状況を語っている。
「レースは一位のプリンセスと二位のJホイールが、三位以下を引き離して先行する様相を見せています! 今、二人が相次いでコントロールラインを駆け抜けてレースは第十三ラップへ! そしてこのメインストレート、スリップに入ろうとするJホイールに対し、プリンセスはそれを許しません!」
ジェニファーがそう云った通り、メインストレート上でつばさのエーベルージュは右に左に蛇行し、スリップに入ろうとする千早のラスィリューザーを躱している。それがストレートの後半に差し掛かってからは、蛇行をやめて第一コーナーのアプローチに集中した。ここまでくると、今さらスリップに入ったところでダウンフォースが失われ、第一コーナーをノーブレーキでターンできなくなるから、千早もスリップに入ることを諦めていた。
「最初の一周目はお互い様子を見ながら走っている感じでしたが、十二ラップに入ってからはJホイールが積極的になりました。そして第十三ラップ、三度目の第一コーナーです!」
その第一コーナーを高速でターンしたつばさは、ブレーキを踏んで減速すると第二コーナーも回り、攻めの姿勢を見せている千早を寄せ付けなかった。続くS字もクイックかつリズミカルに攻略していく。
「ええよ、さっちゃん。さっき駄々こねたときはどうなることかと思ったけど、ここまではええ感じや」
「……どうも」
つばさの返事にはまだ微妙な棘がある。どうもまだ心から納得して、晴れ晴れと走っている様子ではない。これは迅雷のヨーロッパ行き云々よりも、先ほどの自分の行いを悔いているのではないだろうか。
迅雷はまだかぶっていないヘルメットを両手で抱きながら、つばさの走りを眺めつつじっくりと考えた。
――俺はヨーロッパへ行く。自分の夢のために、キャリアのために、ステップアップするために。それは誰に咎められることでもないし、つばさが聞き分けないのだとしたら、それはつばさが悪い……と、果たして本当にぶった切れるだろうか?
サーキットでは千早のマシンがエキゾーストノートの咆吼をあげながらつばさを追いかけ、追いつき、コーナーで攻める。それをつばさがどうにか凌いでコーナーを先に脱出し、立ち上がりの速さで差をつけて逃げていく。
その繰り返しを見ながら、迅雷はなおも思う。
――つばさがあんな風に自分で自分を追い詰めたのが俺のためなら、俺はもっとはっきり口に出して、つばさを許してやらなくちゃいけないんじゃないか。それにもしかすると俺は、つばさがああやって恥も外聞もなく俺一人にこだわったことが、少し嬉しかったのかもしれない。
だがどうにせよ、つばさはもう走り出している。だからこれは一度終わった話を蒸し返すことになるかもしれない。それでも今、二度とは来ない今日のこのレースを曇りのない気持ちで走ってほしい。それになにより、伝えたい。
迅雷はぐっと手を握りしめると、勇を鼓してつばさに声をかけた。
「つばさ」
するとつばさの眉が、ぴくりと動いたようだった。
迅雷はどうにか微笑んで続ける。
「レースに集中したまま聞いてくれ。さっきはことりに全部持っていかれちまって、俺はなにも云えなかったから今云うよ。実のところ俺はまったく怒ってない。怒るところはことりが怒ってくれたし、おまえは今まで、俺にとてもよくしてくれた。だから俺は、おまえに優しくしてやろうと思う」
迅雷君、迅雷さん、とピットの翔子やことりが目を丸くしているのが見えた。迅雷はそんな彼女らにちょっと笑いかけてから、つばさに目を戻した。
つばさはコーナーの出口を見据えながら、泣きそうな目をして云う。
「お兄さん……」
まずい、と迅雷は思った。レース中に涙は禁物だ。単純に前が見えなくなる。だがつばさは涙を
「そんなの、お互い様ですよ……お兄さんだって、私にとてもよくしてくれました」
「そうか? でも、とにかく俺は恩義に感じているんだ。それにこのままじゃおまえたぶんすっきりしないだろうから、俺から一つチャンスをやろう」
つばさが目をしばたたかせた。
「チャンス、ですか?」
「ああ」
迅雷はそう肯んじてから、唇を舐めた。これは喩えるなら自分の心臓を取り出してつばさの前に置き、生かすも殺すも好きにしろと委ねるような行為である。
それでも、このくらいの賭けに打って出ねばつばさの心を解き放てないような気がして、迅雷は云った。
「おまえがどうしてもって願うなら、今この場でヨーロッパ行きを取り止めてやる」
「な――!」
つばさはそう声をあげて、あわやステアリング操作を誤りそうになっていた。
「迅雷君、それは――」と、翔子も顔色をなくしている。
迅雷にしたところで、これは自分で自分の未来をぶち壊すような提案だった。既に契約は成立し、渡欧まで二ヶ月を切っている。この状況で全部を白紙に戻すような真似をしたらどうなるか? そんなことをすれば迅雷のキャリアは終わりだ。F1どころかF3でさえ、来年迅雷が乗るクルマはない。
迅雷自身、それを十分に解っていた。解っていて、つばさに自分の運命を抛り投げた。
迅雷は緊張のあまり胸が早鐘を打ち始めるのを感じつつ、つばさの返答を待つ。つばさは目をきらめかせながら、しかし悲しげに云った。
「……ずるい」
「えっ?」
「それはずるいですよ、お兄さん。そんなの、行かないでくれなんて、云えるわけないじゃないですか」
迅雷は座席からずり落ちそうなほど安堵しつつ、表向きは平然を装って笑う。
「そうか。じゃあ、もういいんだな」
「……はい」
噛みしめるような返事だったので、迅雷は大きな声でもう一度尋ねた。
「いいんだな?」
「はい! ヨーロッパへでも、どこへでも、好きなところへ行って下さい!」
つばさは硝子で出来た自分の心を、自分で叩き割るように叫んでいた。傷ついたかもしれないが、彼女はこれで先刻の自分の行いに、自分でけりをつけたのだ。
――でも、本当はまだ抱えてるものがあるよな。
つばさが終止符を打ったのは先の過ちについてのみだ。つばさがああいうことを云った根本的な原因は、まだなにも解決していない。それをどうすればいいのか、迅雷はわからないまま、つばさにこんなことを話していた。
「ところでつばさ、話は変わるけど、年が明けたら再勝負って話、憶えているか?」
それはプリンスとの勝負のルールを取り決めた日のことであった。
あのとき負けたままでは悔しいと思った迅雷がつばさに再勝負を申し出ると、つばさはあと四週間くらい勝利者の気分を味わっていたいと云って、迅雷との勝負を蹴った。それで迅雷はこう云った。
――わかった。じゃあ年が明けたら再勝負だ。約束な?
するとつばさはヘルメットの下で微笑んだようだった。
「もちろん憶えていますよ。約束したじゃないですか」
「そうか。忘れてないならいいんだ。TSRの最中に云うことじゃないかもしれないけど、俺はまたおまえと走りたい。今、そう思った」
レースのなかでなら奇跡も起こるのではないか。余人はレースに夢を見過ぎだと
つばさもまた、一つ頷いて云う。
「はい。私もまた、お兄さんと走りたいです。歩けなくても、クルマでなら追いかけていけるかもしれない……」
「おっと、悪いがそれは甘い考えだ。次に走るときは、もう寄せ付けはしないさ」
レースのことでは甘くない迅雷である。
鋼鉄のようなその態度に、つばさは苦笑混じりに云った。
「あ、そこは優しくないんですね」
「手加減なしの真剣勝負じゃないと意味がないからな」
迅雷はそう云うと莞爾と笑ってみせた。
それから迅雷はもう黙ってつばさのレースを見守る構えだったが、つばさの方は話を続けてきた。
「ところでお兄さん。この際ですから、一つお願いしてもいいですか?」
「なんだ?」
「実は今ちょっと苦しいんですよ。後ろから氷車千早……ジャッジメント・ホイールに追いかけ回されていて」
「ああ、そうだろうな」
こうした話をしているあいだも、もちろんつばさと千早のデッドヒートは続いており、十四周目に入っていた。つばさは今のところどうにか千早を凌いでいるが、二人の差は一秒もない。真剣で斬り合っており、いつどちらがやられるとも限らない状況だ。
そして一般的な心理では、追う側より追われる側の方が苦しいものである。バトンタッチの際のタイム差から生じるペナルティを考えれば千早も相当苦しいはずだが、つばさだって楽々と走れているはずがない。
しかもレースは中盤である。精神的なタフさが求められる局面だ。
「こういう状況ですから、ガソリンがほしいなと思いまして」
「なんだよ? また面倒くさいことじゃないだろうな?」
「いえ、簡単です。お兄さんの女性関係について、はっきりさせてくれればいいのです」
「は?」
「具体的には私とことりと翔子ちゃんとジェニファーさんのうち、いったい誰を恋人にするのか。それとも誰か一人ではなく全員恋人にするのか、決めて下さい」
一瞬、迅雷は目の前が真っ白になった。
「え、えええっ!」
なにを求められたのか理解が及ぶと迅雷はそんな動揺の声をあげたが、つばさはもはやなにかのスイッチが入ってしまっているようだ。
「もういい加減わかってると思うんですけど、私はお兄さんのこと好きなんですよ。それにさっきことりが云ってたじゃないですか。お兄さんのこと愛してるって」
「お姉ちゃん!」
それにはことりが顔を真っ
「この際だからはっきりさせたいんですよ。お兄さんは誰が一番好きなんですか。それともみんな平等に同じくらい好きなんですか。だとしたら……」
「えっ、いや、ちょっと待って……」
迅雷は自分が罠に嵌って、ふと気づけば切岸に追い詰められているような気がしてきた。しかしつばさは真剣で、ステアリングを切ってコーナーを突破しながらも、熱い火花の飛び散るような口調で尋ねてくる。
「待ちません。今を逃したらいつこんな話をすればいいんですか。こんなの
「俺は――」
つばさ、ことり、ジェニファー、翔子といった女たちの顔が、迅雷の脳裏を過ぎっては通り過ぎていく。しかし、そのときだ。
「――いい加減にしないか」
冷え冷えとした声が、すべてを断ち切るように響き渡った。千早だ。
千早はつばさを追いかけながら、暗い怒りを孕んだ目をして云う。
「レース中だぞ、プリンセス。私たちは今、勝負しているんだ。男の話なんかしている場合か。それとも私を侮っているのか」
千早がこのように怒るのも無理からぬことであろう。真剣勝負の最中に余所見をされたようなものなのだ。
しかし、つばさは心外そうに千早を見た。
「それは違うぞ、ジャッジメント・ホイール。私は決しておまえを侮っているわけではない。むしろ逆だ。おまえが手強いから、さらなる力が欲しいんだ。お兄さんの返答如何で、私は誰よりも速くなれるだろう。だから私は――」
「黙れ」
その短い一言には、つばさを黙らせるだけの力があった。傍で聞いていた迅雷やことりがごくりと固唾を呑むほどだ。
どうやら千早は、なにがなんでもこの手の話が厭であるらしい。
「惚れた腫れたの話がしたければ、私を逆転不能なまでに引き離してからにしろ」
千早のそんな言葉に感じ入るところがあったのか、つばさもまた襟を正して答えた。
「いいだろう、すぐに置き去りにしてやる」
こうしてふたたびつばさがレースに完全に戻ったのを見て、迅雷は千早のどす黒い剣幕にまだ戸惑いつつ、胸にじわじわと安堵が広がっていくのを感じていた。そこへ通信画面から翔子が云う。
「ああ、残念。この際、ウチも迅雷君に舵取りをはっきりしてほしかったんやけどね」
「舵取りって……それ、レース中にする話なのか?」
「あれ、さっちゃんの云うこと聞いてへんかったの? さっちゃん、ガソリンが欲しいって云うてたやろ。こういうのは意外と大事なんやで。レース前にも云うたけど、心は体で体は心やねんからな。気持ちや執念がレースの勝敗を分けないと思ったら大間違いや」
「気持ち……」
それは迅雷にもわかる。遠い星のような夢を掴もうとしたり、目の前のライバルに負けたくないという炎のような執念、あるいは恩義のあるチーム部長を始め現場のメカニックやエンジニアたち、それに資金を提供してくれているスポンサーの期待に応えたいという気持ちで走ってきたのだ。そうした人間模様のなかでこそ、迅雷は強くなってきたような気がする。
だがそれはあくまでも男一匹の見る夢や、男同士のライバル関係から生じるものであり、またチームとしての団結から生じるものであった。男女のことは、迅雷にはわからない。
つばさのために恋矢と勝負したときも、恩返しの意味の方が強かった。それでも、今にして思う。
「やっぱり、愛は力になるのか?」
「当たり前やろ。なに云うてんねん。愛は最強のエネルギーやで」
「む……」
だとしたら千早になんと思われようと、さっきの機会に迅雷を取り巻く女たちの一切合切に決着をつけてしまうべきだっただろうか。
だがもう遅い。
つばさは千早との勝負に集中している。話しているあいだにもレースは進行し、今は第十五ラップに入ったところだ。つばさは最終コーナーからの立ち上がりで素晴らしい加速を見せていた。
「プリンセス、ここでもスリップに入ろうとするJホイールを寄せ付けず、トップで第一コーナーをターン! ここまでは堅調、このまま最後まで行けるでしょうか! それともJホイールや、その後に続くレーサーが逆転するのか!」
ジェニファーにそう煽られながら、つばさが、千早が、それ以外の全員が、第十五ラップへと突入してく。
◇
第十五ラップ、つばさと千早が相次いでS字を駆け抜け、ダンロップになっている左の高速ロングコーナーへ突入したとき、後方で事故が起こった。
「おっと、シケインで接触事故が起こったようです」
ジェニファーの言葉につばさはちょっと気を引かれ、中継画面を見た。どうやら八位と九位のチーム間で接触事故が起こっていったん停車、しかしイエローフラッグが揚がるまでもなく九位チームのマシンは何事もなく再発進し、レースに復帰していった。一方、八位チームのマシンはどこかに故障を抱えたらしく、再発進しつつも最終コーナー手前でピットレーンに入っていくということらしい。
ジェニファーが残念そうに云う。
「いい感じで順位を上げてきていたセイバーズですが、これは痛い! しかしまだレースを諦めてはいない模様、再発進が待たれます!」
「……セイバーズ、プリンスのチームか」
TSRは一人十周だからタイヤ交換の必要もない。ピットインはただのタイムロスでしかなく、一チームだけピットに入るのはほとんど最下位を宣告されるようなものだ。
それでも三十秒ほどのピット作業を経て、セイバーズの二番手はコースに戻ってきた。それを受けてジェニファーが顔を輝かしながら云う。
「どうやらセイバーズ、レース続行する模様! 観客の拍手が聞こえるようです!」
つばさもまた少しばかり嬉しかった。他のチームのことだが、トラブルでリタイアは悲しいし、順位がどうあれ最後まで走るというなら意気に感じることもある。
ピットでは翔子がほうと唸っていた。
「なんとか軽傷で済んだか。でも気の毒やけど、セイバーズはもう入賞には絡めへんな」
それはそうだろうが、つばさはセイバーズの最終走者であるプリンスがどんな気持ちでいるかを考えると、少しばかり情けをかけてやりたくなった。
「……翔子ちゃん。セイバーズにショートメッセージを送れるかい?」
「え、なに? プリンス?」
「うむ。あいつとは少しの因縁があったから、こういうときくらいはな……」
「ええよ、なんて云うの?」
「腐らず最後まで走り抜け、と」
つばさはそれだけ云うと、翔子がメッセージの送信作業へ移ったのを尻目に、今度は迅雷に云った。
「あ、お兄さん。誤解のないように云っておきますけど、これは別にプリンス個人にどうこうってわけじゃないですよ? ただのバーチャルレーサー同士としての激励です」
「わかってるよ。でもあれだけプリンスを嫌っていたおまえがと思うと、ちょっと驚いたな」
「最近のあいつは、少しマシになってきているようですからね」
走りのスタイルが大人になってきた、とはオンライン・フォーミュラ上の友人から噂で聞いた話だった。あの迅雷との勝負を境に、恋矢にも変化があったのだろう。
「それはそうと、私がプリンスに優しさを示して、焼き餅とかありますか?」
「……抜かせ」
そのぶっきらぼうな返事に微妙な
最終コーナーを回ったつばさは、その嬉しさに背中を押されるようにしてメインストレートを駆け抜けていく。
「さあ、先頭集団に目を戻しましょう。今、プリンセスとJホイールが相次いで第十六ラップに入ります! ここからレースは後半戦、プリンセスは最後まで一位を死守することができるでしょうか!」
――死守してみせるさ。
つばさは心でそう啖呵を切りながら、十六ラップの第一コーナーへ突入していく。
その後、リズミカルに攻略せねばならないS字を抜けて一息ついたところで、つばさは後方にしっかり食らいついてきている千早を意識しながら迅雷に尋ねた。
「お兄さん。この先のデグナーカーブの入り口なんですけど……」
「デグナー・ワンか?」
「はい。あそこのアプローチ、もうちょっとブレーキを我慢した方がいいですかね? なんというか、難しそうですけど、攻められそうな感じがするんですよね」
「ああ。たしかにデグナーはオーバースピード気味に進入できればタイムを削れるポイントになる。でも昨日ことりにも云った通り、それが簡単そうに見えて意外と難しい」
と、そこで翔子が嘴を挟んできた。
「うん、フリー走行のときの走行ログ見比べてて思ったけど、さっちゃんやりーちゃんに比べて迅雷君はそこブレーキ我慢してるよね。でもさっちゃんが同じことやるのは無理やないかな。下手打ったらコースオフやで?」
するとつばさがなにを云うより早く、迅雷が声を尖らせて云った。
「いや、無理ってこともないだろう。やってやれないことはない」
「なら本番の真っ最中に一発勝負させてみる?」
「む……」
それには迅雷も黙ってしまった。迅雷としては当然、つばさから確実にバトンを受け取りたいという気持ちがあるだろう。ここでつばさが無理をしてクラッシュということになったら目も当てられない。
それはつばさにも解る。解ったからこそ、口惜しかった。
「フリー走行のあいだに、チャレンジしておけば……」
鈴鹿は元より難しいサーキットだ。その上フリー走行の時間も限られていた。だからデグナー・ワンは意図的に捨てて、コースを覚えること、そしてスプーンからの脱出や一三〇Rの攻略の方に集中していたのである。
だが本当に後悔しているのはそこではない。つばさは迅雷のヨーロッパ行きを阻止するためのボイコットを画策しており、そのためフリー走行も万事を尽くしたとは云い難かったのだ。もしあんなことを考えていなければ、フリー走行のときからもっとこのコースを征服してやろうと強く思っていれば、デグナー・ワンでの進入にもチャレンジしていたはずなのだ。
――どうして私は、貴重なフリー走行を、棒に振るような真似を……。
そしてつばさはデグナー・ワンへ進入したが、無論十分に速度を落として安全に入ったのであった。後ろには千早が引き離されることなくついてきている。つばさは前方に迫り来るコーナーを的確に攻略しつつ、後ろからいつ千早が仕掛けてくるか警戒していて、神経の休まる暇がない。
ところでこうしたやりとりはチーム・ストームヴィーナスにも筒抜けになっている。レース前の取り決めで、チーム・ソアリングとチーム・ストームヴィーナスはお互いのピットとコックピットをすべてグループ通信で繋いでいたからだ。
今の話を聞いてのことだろう、千早が笑いを含んだ声で云う。
「なんだプリンセス、焦っているのか?」
「ほざけ」
そう冷たく返したつばさだが、実のところ焦っていた。
つばさのエーベルージュは一陣の赤い風となってデグナーカーブ、それに続く直線、右コーナー、ヘアピンを駆け抜けてゆくが、それを千早のラスィリューザーが僅差で追いかけてくる。振り切ろうにも振り切れない。
――こいつは速い。どこまでも喰らいついてくる。ひょっとすると、コース幅の狭い鈴鹿でなかったら
その千早がつばさを追いかけながらしみじみと云う。
「デグナーか……たしかにあそこは、なぜか難しい。直前が下り坂のせいかな、荷重が前にかかっているから、ちょっとのミスでコントロールを失ってしまう。あそこを完璧に走るにはブレーキのタイミング云々だけではなく、マシン全体のバランスを高いレベルで感じ取る必要があるだろう。そしてそのためには仮想Gフォースのボリュームを上げることが不可缺だ。Gが軽減されると楽に走れる分、タイヤが伝えてくれるマシンのバランス感覚がぼやけてしまうから……な。だがそれだとミドルクラスのライセンスで走っている私たちには無理な相談、仮想Gフォース二〇パーセントの上限があるからな。フォーミュラクラスのみが、仮想Gフォース一〇〇パーセントで走ることを許されている」
「そう、だな……」
それにはつばさも同意せざるを得ない。だがどうにかしたいと思って、迅雷に縋るような目を向けた。
通信画面越しにその眼差しを受けた迅雷は、一つ頷いて云った。
「つばさ。正直に云うと、俺はおまえから確実にバトンを受け取りたい。だからできればあまり危険なチャレンジはしてほしくないんだが、どうしてもやってみたいなら、毎周少しずつ切り込んでいけ」
「ちょっとずつ攻めて、周回を重ねるごとにタイムを上げていけということですね」
「そうだ。というか、それが普通だ。レーサーは毎周回、試行錯誤を重ねて、前の周回よりいいラップタイムを出そうとするもんなんだよ。でもおまえは今、一位で居続けるのに必死で、そんな余裕もなくなっているみたいだな」
「そ、それは……」
つばさは答えに窮したが、それは事実その通りだった。目の前のコースを攻略するのと、後ろの千早を警戒するのとで、前門の虎と後門の狼に挟まれているような気持ちでずっと走っている。
なによりつばさを雁字搦めにしているのは、姉としてのプライドであった。
――ことりが一位でバトンを渡してくれたのに、私が二位に後退するなど、あってたまるものか。
と、こう思っているわけだ。
迅雷はそこまで見抜いているわけではないだろうが、つばさに余裕がないのはわかっていたようだ。
「そういうわけだから、デグナー・ワンでタイムを上げてみたいなら、毎回少しずつチャレンジしてみるんだな。そうは云っても、あと四周しかないが」
現在第十六ラップで、デグナーは既に通り過ぎているから、機会はあと四回だ。つばさがそう思ったところへ、迅雷が云う。
「いや、ポジティブに考えよう。あと四回しかないじゃなく、まだ四回もあるだ。わかるか、つばさ?」
「――わかります」
つばさはそう答え、ステアリングを握る手に力を込めた。
――あと四回。変わるチャンスが、あと四回もある!
つばさが改めて闘志を燃やしたとき、この話を傍で聞いていた千早が低い声で云った。
「どうやらそれで話が纏まったようだが、どうする、ホケキョ姉さん?」
「放っておきなさい。マシンカラーも違うし、あなたのスタイルにも合わない。あなたまで無謀なチャレンジに付き合うことはないわ。それよりいつまで二番手を走っているつもり? いつ抜けるの?」
「チャンスは狙っているんだがな……」
千早はセオリー通り、鈴鹿の勝負所であるシケインと第一コーナーで追い抜きを図ろうと仕掛けてきていた。それ以外の部分でもつばさの神経を削ろうというように攻めてくる。
つばさはそれをどうにか凌いでいたが、首の皮一枚だ。
――このまま漫然と走っていては、いつやられるとも限らない。あと四周で、進化しなければ!
つばさはそう強く思いながら、鈴鹿最長のバックストレートを駆け抜けていく。
ここでは千早はスリップに入ろうとはしてこない。この先の一三〇Rの難度を考えた上での判断であろう。つばさを抜くよりもタイムを落とさないことを優先しているのだ。
一三〇Rは難しいコーナーで、アクセル全開で駆け抜けるには独特のコツがいる。つばさはフリー走行のときにクラッシュしたのが経験として活きていたし、千早も千早でどうやらそのコツを掴んでいるようだ。それでもほんのちょっと歯車が噛み合わないだけで失敗するのが一三〇Rである。
そしてその一三〇Rを越えた先はシケインだ。鈴鹿最大の勝負所の一つであり、減速コーナーゆえに事故も多い。
――シケイン、シケインか。
そのときつばさの頭を過ぎったのは、セイバーズのことだった。
――さっきセイバーズの二番手も、あそこで事故をもらってピットインする破目になっていた。氷車千早も毎回あそこではぎりぎりまで攻めてくる。だがやられてたまるか。絶対譲らないぞ。
負けたくないという気持ちが強すぎるあまり、つばさの気持ちはシケインの方へ一気に傾いてしまった。そこへ実況のジェニファーが活き活きと語る。
「さあ、プリンセス、Jホイール、ともに六度目の一三〇Rです!」
つばさははっと我に返った。
――そうだ、一三〇R!
どうして目の前の一三〇Rを飛び越えて、その先のシケインのことを考えてしまったのだろうか。千早からの圧力を感じていたせいか、セイバーズのもらった事故があったからか、それともつばさが自分で思っていた以上に精神的に疲弊していたのか。
恐らく、そのすべてだろう。
――まず一三〇Rを抜けないと。
そう気持ちを立て直そうとしたことで、余計に歯車が狂った。一瞬、一三〇Rを最速で抜けるためのラインを見失った。日常の生活においても、ほんのちょっとの
それがここで起きた。
――あれ、なんで。
自分で自分に茫然としたつばさは、とにもかくにもエーベルージュをインに寄せた。しかしスピードには乗れていない。
「あ、まずい」
迅雷がそう呟いた次の瞬間、つばさはアウトから鮮やかに、豪快に、紫の影が自分を抜き去っていくのを見た。
一瞬だった。日本刀で首を切り落とされたら、こんな気持ちになるのだろうか。
ともあれ、一位の交代劇に実況のジェニファーが叫ぶ。
「うおおおっ! Jホイール、アウトからプリンセスを抜いた! 豪快なオーバーテイキング! そしてプリンセスはどうした!」
どうもこうもない。一三〇Rは難しいコーナーで、千早はそこを見事にアクセル全開で駆け抜けていった。一方、つばさは躓いた。つまりただの
「く、そ……!」
つばさは胸が引き裂かれそうになりながらも、次のシケイン目指して走る。このレース、初めてラスィリューザーの後塵を拝しながら。
「どらあああっ!」
と、ストームヴィーナス側のピットからそんな声がした。めぐるだ。
「見たか見たか、プリンセス! これが千早の実力じゃ!」
「うるさい、黙ってろラブモンキー! レースはまだこれからだ!」
つばさはそうめぐるを撥ね付けると、シケインを乗り越え、最終コーナーをターンし、第十七ラップに突入していく。
「あっちゃー。やってもうたな、さっちゃん」
「お姉ちゃん、がんばって! 集中!」
ピットからの二人の声も、今のつばさには励ましにならない。ただ悔しくて悔しくて、ことりにも迅雷にも申し訳ないだけだ。
――必ず追いつく。追いついて、一位でお兄さんにバトンを渡す!
「プリンセス、Jホイールのスリップに入った!」
「ちっ」
スリップへの侵入を許し、千早がそんな風に舌打ちをした。一つのミスで追い抜かれたとはいえ、まだ決定的な差はついていない。
レースの前半は千早がつばさに食らいついていった。後半からはお互い逆の立場になっただけだ。
「行くぞ、ジャッジメント・ホイール! このまま逃げ切れると思うなよ!」
「さあ、トップが入れ替わって第十七ラップ、残り四周です!」
ジェニファーの声に煽られながら、千早とつばさは相次いで第一コーナーへ突入していく。
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