第六話 羽ばたく者たち 第三幕 愛の風に乗って(2)


        ◇


 そろそろバトンタッチに備えねばならないと思った迅雷は、ヘルメットをかぶり、レーシンググローブを嵌めた。

 レースは第十八ラップの後半に突入している。トップを走っているのは千早のラスィリューザーで、それをつばさのエーベルージュが僅かの差で追いかけていた。

 迅雷は肩を回すと、ピットの翔子に尋ねた。

「なあ翔子、つばさのやつ、なんかさっきから速くなってないか?」

「うん、ラップタイム上がってるわ。全体的に速くなってるし、例のデグナーでも思ったよりタイム削れてる」

「そうか……」

 やはり気のせいではなかった。つばさは先ほどから追い風を捕まえた鳥のように速度を上げてきている。

「あいつ、二位に落ちたが、一位で居続けるプレッシャーから解放されたことで、逆に速くなりやがったな」

 追われる側から追う側に転落したことで、心機一転、怖いもの知らずのチャレンジャーになったわけだ。だが本当に強いレーサーは、一位で居続けるプレッシャーになど負けたりしない。

 迅雷はそう思いながら、ジェニファーが実況している中継画面のウインドウに視線をあて、つばさの走りをとっくりと見つめた。

 ――ここからもう一度トップをもぎ取ってみせろ。そして今度は抜かれるな。

 迅雷は心でそう思っていると、翔子が少し苛立たしげに云う。

「でもさっちゃんがこんなに速くなってるのに、それを寄せ付けへん氷車千早はなんなんや」

「理由の一つはエンジンだろうな」

 つばさは速いが、千早もそれ以上に速い。ではどう速いのかと云うと、これはマシンの色の差であろうと迅雷は思った。

「つばさのエーベルージュは赤、一方で千早のラスィリューザーは青よりの紫。単純にエンジンの力がエーベルージュより強いんだ。今までは鈴鹿のコース幅の狭さから来る抜きにくさと前を走るつばさが蓋になっていたけれど、トップに立ったことでポテンシャルを完全に発揮できるようになっている。しかもこいつ、ミスらしいミスがほとんどない」

「え?」

「良く云えば精密機械、悪く云えばワンパターンな走りで、一度これと定めたラインを毎周回忠実になぞってるように見える。特に一位になってからはそれが顕著だ」

 するとストームヴィーナス側のピットから、ホケキョが笑いを含んだ声で云った。

「ばれてしまったみたいだわよ、千早?」

 それに相槌を打った千早が、ヘルメットの下に苦笑の気配を漂わせて云う。

「合わせるのは得意でね。他人の走りや、前の周の自分の走りを忠実に追跡するのは私の特技なんだ。めぐると組んだバトンタッチのミニゲームでタイム差ゼロを二連続でやったことがあっただろう? あれは一回目は偶然だったが、二回目は私が再現したんだよ」

「千早はめぐるとなら、糸で繋がっているように走ることが出来るわ。さっきはめぐるが先走りすぎて駄目になっちゃったけど」

 ホケキョが画面のなかで横を向いてなにかを睨みつけた。きっと、その視線の先にめぐるがいるのだろう。とぼけるような口笛が間遠に聞こえてきた。

 ともあれ、迅雷は羨ましくなりながら感嘆の吐息とともに云う。

「そういう才能の持ち主ってことか」

「なに、所詮は曲芸の域を出ないさ。追跡できると云ってもあくまで自分の技倆の範囲内でのこと。結局、真玖郎ちゃんやおまえのようなタイムは出せないんだから」

 だからデグナー・ワンでつばさがタイムを削る意欲を見せたとき、ホケキョは千早に『マシンカラーも違うし、あなたのスタイルにも合わない』と云っていたのだ。

 つまりタイムを上げるのではなく、タイムを下げないのが千早の特性ということである。

 その千早はミスもなく、素晴らしい迅速な走りでシケインを走破し、最終コーナーを回っていく。それに続くつばさに迅雷は云った。

「聞いてたか、つばさ?」

「はい」

 と、つばさが返事をしたとき、ジェニファーがマイク片手に叫ぶ。

「Jホイールは第十九ラップに突入、いよいよ第二走者のパートも大詰めです!」

 残り二周、ついにあとがなくなってきた。迅雷はそう思いつつ、重ねてつばさに云った。

「千早はミスがない代わりに変化もしない。だからおまえがあと二周で進化できれば、それだけで抜けるぞ」


        ◇


「――それだけで抜けるぞ」

 迅雷の言葉がつばさの心臓を一撃する。熱い血潮が胸に溢れ返るかのようだ。

 ――私次第で、この勝負は今からでものに出来るんだ!

 つばさはそう確信を持つと、高い集中力を保って第一コーナー、第二コーナー、S字を突破し、その先の左のロングコーナーを駆け上がっていった。

 鈴鹿の勝負所は第一コーナーとシケインだが、それ以外でも順位変動が起こらないわけではない。事実、千早はつばさを一三〇Rでオーバーテイクしたのだし、つばさにとっての可能性は、この先にある。

 それを先読みしたのか、千早が早手回しに云った。

「デグナー・ワンか」

 お互いのピットワークが筒抜けなのだから、千早がそこに行き着いたとしても不思議はない。問題は、それによって強引なブロックをされないかどうかであった。

 つばさは内心ひやりとしたのだが、千早は相手を妨害することなどまるで考えていないようである。

「面白い、プリンセス。私は私の走りをする。おまえを見くびっているのではなく、そうした方が一位に近いと信じているからだ」

「……あくまで、自分の最短経路クリティカルの追跡に徹底すると?」

「そうだ。惑わされはしない。だがもし、おまえがその私の上を行く自信があるのなら、未だ眠れるおまえの力を見せてみろ」

「いいだろう!」

 そして千早とつばさは相次いで左コースの頂上を越え、下り坂へ突入していった。この先がデグナー・ワンだ。

 そこへ向かって赤と紫のマシンが駆け下っていく。つばさは勇気を奮い起こして叫んでいた。

「前より速く行ってやる!」

「前とまったく同じに走ってみせる!」

 前より速くなろうというつばさと、前より遅くはならないという千早が、まったく異なるアプローチでデグナー・ワンへと進入し、そしてジェニファーが叫んだ。

「プリンセス、かつてない凄まじい踏み込みで気合いのアプローチ! だが、それでも、先に立ち上がってきたのはJホイールだ!」

 つばさとしては会心のコーナリングを決めたと思った。だがそれでも千早の方が速かった。

 ――あれだけ攻めても駄目なのか。

 これが現実であり、これが自分の限界なのか。そう思ってつばさが愕然としていると、通信画面から迅雷が低く厳しい声で云った。

「つばさ、もうちょっとブレーキ我慢しろ。まだ攻める余地があるぞ」

「ほ、本当に……?」

 つばさとしてはもう限界だと思った。よしんば攻める余地が残っているのだとしても、それは迅雷の視点の話であり、つばさには不可能ではないか。

 これ以上は本当に限界を超えることになる。

 ――怖いな。

 つばさはわけもなくそう思った。オンライン・フォーミュラのベータ版から数え、バーチャルレーサーになって四年、恐怖を感じたのは初めてだ。

 クラッシュして迅雷にバトンを渡せなくなるくらいなら、二番手でもいいのではないだろうか。

 そう弱気になったつばさを千早がわらう。

「どうした、プリンセス。これで終わりか?」

「まだまだ……」

 売り言葉に買い言葉でそう云ったものの、つばさの声は精彩をいていた。それを自分でも自覚していたつばさは、やはりガソリンが欲しくなった。

 デグナーカーブの次のヘアピンや、そのあとの右コーナー、そしてスプーンカーブを攻略しながら、つばさは自然と声のトーンを高めて云う。

「お兄さん」

「なんだ?」

 迅雷の声を聞き、迅雷の目に見られるだけで、自分は気持ちが高まってくるのだ。そのうえ素敵な言葉を囁いてもらえたら、どれだけ勇気が出るだろう。

「一つお願いがありまして」

「云ってみろ」

「あの、その……やはりガソリンがほしいかな、と」

 つばさは恥ずかしさのあまり舌がもつれるのを感じた、鈴鹿を一周するのはあっと云う間だ。もたもたしている時間はない。覚悟は、次の瞬間に決まった。

「私に好きって云ってみてください。その、口先だけでもいいので」

 本当はさっきの話の続きをして、迅雷に誰が好きで誰を恋人にするのかはっきり決めてほしかった。

 だが、口先だけの『好き』でも、自分は勇気をもって残り一周半を全力で駆け抜けることができるだろう。もう一度、あのデグナー・ワンで千早に戦いを挑めるだろう。

 そう思っての願いであったが、しかし迅雷はこう云った。

「だめだ」

「えっ」

 一瞬、つばさは目の前が真っ暗になった。シートもステアリングも消え失せて、暗闇の中に浮かんでいるような錯覚がした。

 その闇のなかから、つばさはふるえる声で問う。

「それは、私ではなく、ことりか、あるいは翔子ちゃんやジェニファーさんを選ぶと……?」

 それはありえてもおかしくはない選択だ。いったいどうして自分が確実に選ばれるなどと自惚れていたのだろう。

 誰を恋人にするのかはっきり決めてくれとは、自分が切り捨てられる可能性も十分にある話ではないか。

「お兄さん――」


        ◇


「お兄さん――」

 そう云うつばさの、ヘルメットのバイザーから覗く目は今にも泣き出しそうであった。それを見て取った迅雷は、一度はかぶっていたヘルメットを脱いで素顔を晒すと、わらってこう付け加えた。

「なにが駄目かって、口先だけってのが駄目だ。一回しか云わないからようく聞け。俺は、おまえのことが好きだ」

 迅雷は、自分でも驚くほど素直にそう告白していた。

 先ほど翔子に『愛は最強のエネルギー』だと云われてつばさを勇気づけてやりたい気持ちもあったが、それ以上につばさを可愛いと思うこの心を言葉にしたかった。それにこの機を逃せば、次はいつそんな機会があるだろう。

 迅雷は通信画面越しにつばさの目を見て、心臓に肋骨を蹴破られそうになりながら続けた。

「……おまえはさっき俺に誰が好きなのかはっきりしろって云ったとき、レース中だからできる、素面じゃ恥ずかしくて云えないって云ってたけど……それは俺も同じだった。こんなの普通じゃ云えないよ」

 そこで迅雷は言葉を切り、つばさがなにか云うのを待ったが、つばさはなにも云わずにただ走り続けている。

「つばさ?」

 迅雷が重ねて尋ねると、つばさははっとしたように目を和ませて云った。

「今、バックストレートに入ってなかったら事故ってました」

「ははっ」

 迅雷は冗談と思って笑ったが、あながち冗談でもないのだろう。

 つばさはつばさで感動しているようだったが、しかしふとあることに気づいたのか、針で刺すようにこう尋ねてきた。

「……でもお兄さん、ことりのことも好きなんですよね?」

「う……」

「それに翔子ちゃんやジェニファーさんのことも、いいなって思ってる」

「はい」

 つばさのことは好きだが、かといってつばさ一人に絞ると云ったわけではない。ゆえになんとなく後ろめたくて、思わず丁寧語になってしまった迅雷である。

 ――でもやっぱりそれじゃ話にならないよな。

 まだ常識と云う名の鎖に縛られている迅雷はそう思ったのだが、しかしつばさは意外にもあっけらかんと云った。

「まあ、それはいいですよ。私もお兄さんとことりが結ばれたらいいなと思ってますし」

「えっ?」

「だってことりに愛してるとまで云わせて、それでことりが失恋するようなことになったら厭ですからね。お兄さんがことりをふったら、私は怒りますよ。ましてお兄さんが私一人を選んでことりを切り捨てるような選択をしたら、私はいったいどうすればいいんですか。ことりのことが気になって気になって、絶対、幸せになんかなれませんよ」

「お、お姉ちゃん……」

 ことりは顔を真っ赧にして、感動しているのか恥ずかしがっているのかといった様子である。

 一方迅雷はといえば、これは呆気にとられていた。

「じゃ、じゃあおまえ、俺がことりと付き合っちゃったら、おまえはどうするんだ?」

「私とも同時にお付き合いすると云う方法が、あると思います!」

 迅雷が縛られている常識の鎖を断ち切る、つばさの明朗な一言であった。

 そして迅雷は、そういう答えが出てくることを実は予想していた。というのも、先日ことりに一夫多妻をどう思うか、などと問われていたからだ。パズルのピースはいくつか拾っており、それをつなぎ合わせたときにどんな絵が出てくるかは薄々察しがついていた。

 それでもいざその絵に直面してみると、なにか途方もなく巨大な壁を相手にしているような気持ちになってくる。

「……いいのかなあ」

「いいんですよ。たしかに日本は一夫一妻制ですけどね、それはお役所のことであって、私たちが個人的に三人でいちゃいちゃすることについて、いったい誰がなにを云えるんです? 誰もなにも云えませんよ。私たち三人がそれでよければ、それでいいじゃないですか。なあ、ことり?」

 するとピットとの通信画面のなかでことりがこくこくと頷いていた。それを見た瞬間、迅雷のなかで「いいのかなあ」が「いいんだ」に変わった。

 一度そう変わってしまえば、それで決まりだ。シグナルが赤から緑に変わったときのように、迅雷は常識から自由になって飛び出していた。

「じゃあそれでやっちまうか」

「あ、ウチも乗せてね」

 翔子がそう、車の相乗りを頼むように入ってきた。

 つばさは目を輝かせて云う。

「決まりですか?」

「決まりだな。おまえもことりも翔子も――俺の恋人!」

「イエス!」

 つばさがそう全身で叫んだところで、ラスィリューザーとエーベルージュは相次いで一三〇Rに突入していった。


        ◇


 一三〇Rでは、どちらも全開で駆け抜けていって勝負はつかなかった。次のシケインへは千早が先に進入していく。

「さあ、シケインです。そしてその先の最終コーナーを回ればいよいよ第二十ラップ! 第二走者にとってはこれが最後の周回となります!」

 ジェニファーがそう実況しているあいだに、つばさは千早とシケインでのブレーキング勝負に突入していた。火花を散らすようなその戦いは、しかし先行していた千早がその分だけ先にシケインを脱出していく。

「Jホイールが首位を堅持します!」

 ジェニファーがそう軍配をあげたところで、千早が少し茫然としたような声で云った。

「……なんとまあ、なんというか、言葉もない。凄い瞬間に立ち会ってしまった。いいのか、それで。独占欲とか嫉妬心とか、ないのか」

「自分でも驚くほどない。他人にはわからないかもしれないが、私はことりとならまったく問題ないのだ。翔子ちゃんでも平気だろう、たぶん」

「ううむ、わかるような気がしないでもないが……我が友のことを考えると困ったことになったぞ。いや、我が友もそこに割り込めばいいのか? いや、だが、それよりなにより、レース中にそんなことをしているおまえには、絶対負けんぞ!」

 その瞬間、つばさは千早から怒りの色を感じ取った。恐らくレース中に不謹慎だと思っているのだろう。勝負の場に色恋沙汰を持ち込むなと憤っているのだろう。

 だがつばさにはそれが不思議でならない。

「勝負に愛を持ち込んでなにが悪いんだ?」

「全部だ。全部悪いに決まっている。戦いは自らの力のみでストイックに行うものだ。愛だの恋だのは、神聖な勝負の舞台でやることではない!」

 そんな千早の針のように尖った清廉さに、つばさはある確信を懐きながら尋ねた。

「……おまえ、異性と付き合ったどころか、好きな人が出来たことさえないだろう」

「ない! だが、それがどうかしたのか?」

 その答えにつばさはふっとわらう。

「なら、残りの一周で、愛の力というものを叩き込んでやる!」

「……色惚けめ!」

 そう吐き捨てた千早が、インを押さえて最終コーナーを回る。それに一歩遅れたつばさは、メインストレートに入るや否や千早のスリップに入った。

「さあ、先頭の二人が最終コーナーを回ってメインストレートに帰ってきました。そしてもうまもなく、第二十ラップです!」

 最終コーナー寄りにあるコントロールラインがみるみる迫ってくる。あそこを越えたら、つばさと千早の最終決戦の始まりだ。

 残り一周、今、ラスィリューザーとエーベルージュが相次いでコントロールラインを越える。

「さあ、私たちのファイナルラップを始めようか」

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