第六話 羽ばたく者たち 第三幕 愛の風に乗って(3)

 つばさはそう云うとスリップから出て加速し、ラスィリューザーの横に並んだ。元より千早はイン側を押さえており、つばさは第一コーナーにアウトからアプローチすることになる。

「アウトからでは抜けないさ!」

 そして第一コーナー、アウトから入ったつばさはその分だけ千早に先を行かれることになった。続く第二コーナーとS字でもやはり抜けはしないが、かといって離されすぎることもない。

「逃げるJホイール、それに食らいついていくプリンセス! 今はダンロップコーナーをぐんぐん登っていきます! そして頂上ピークを越えれば、その先はデグナーだ!」

 デグナー・ワン。先ほどからつばさがタイムを削ることにこだわっている場所に近づきつつある。

 つばさは当然先ほどより攻めるつもりだったし、千早もそれを解っているだろう。解っていて、千早は今度も頑なに自分の走りを守るつもりだろうか。それともつばさの挑戦に応じて、走りを変化させてくるだろうか。

 ――挑戦された方が厄介だ。

 つばさにはデグナー・ワンでタイムを削る余地がある。しかしそれは千早にとっても同じことだ。そしてどちらも、攻めの姿勢に転じるにはリスクが伴う。

 千早がどうするつもりか、そのリスクを取って攻めてくるのか、つばさが推し量っていると、不意にストームヴィーナス側のピットからホケキョが云った。

「千早。私としてはあなたにこれまで通りの走りをしてほしい。なんの準備もないのに敵に煽られて自分の走りを見失うなんて愚かしいもの。でももし、その……愛とやらでダークネス・プリンセスがさっきより速くなると思うなら、あなたもそれに応じてもう一段階上のスピードを目指した方がいいかも……」

 と、そこで言葉を濁したホケキョは、あきらかに迷っていた。つばさの可能性を半ば信じ、半ば疑っているのだ。だが監督レースディレクターの迷いはドライバーに伝染する。

 それを悟っているのか、ホケキョは次の瞬間にきっぱりと云った。

「いえ、ごめんなさい。忘れて。そしてチームオーダーよ、ジャッジメント・ホイール。これまで通りに行きなさい」

「了解だ、ホケキョ姉さん」

 そう云った千早は、まだ申し訳なさそうな顔をしているホケキョを励まそうというのか、強がるようにこう付け加えた。

「ホケキョ姉さんがなんと云おうと、私もそうするつもりだった。レースには情熱がいるが、土台には冷徹な計算が必要だ。愛なんかで速くなられてたまるか」

 そんな千早の挑戦的な言葉を聞いて、つばさは胸のなかで炎が燃え上がるのを感じた。まるで自分の迅雷に対する情熱を、軽んじられているようではないか。

 ――ますますもって負けられん。

 ことりが一位で渡してくれたバトンを取り返すために、迅雷への愛が最強であることを示すために、千早を抜かねばならぬ。

 そして千早とつばさは、ほとんど同じタイミングで下り坂に入った。あとはデグナー・ワンへ向かって一直線だ。

 後戻りできぬ加速をしながら、つばさは思う。

 ――私はここでタイムを削ると決めてから、三度、少しずつ攻めてきた。その三度目で限界だと思ったが、お兄さんはまだブレーキを我慢できると云ってくれたんだ。

 それはつまり、迅雷が勝算があると太鼓判を捺してくれたということだった。決して無謀なだけの挑戦ではない。冷徹な計算は、迅雷がしてくれている。一方でそれを信じ、自分の限界に勇気をもってぶつかっていくのは、情熱がゆえだった。

 だから千早の言葉すら、今のつばさには追い風である。

「レースには情熱がいるが、土台には冷徹な計算が必要だ……か。氷車千早、おまえの云う通りだ。おまえの云う通りのことを、私は今からやろうとしているんじゃないか!」

「なに?」

 千早が通信画面ではなくキャノピー越しにつばさを見てくる。つばさもまたキャノピー越しに、左前を走っている千早のラスィリューザーを見た。

「いいのか、氷車千早? 私がこれまで以上に速くなるのを、指を咥えて見ているだけでいいのか? 勝負しなくて、いいのか!」

「くどい! 私は自分の走りを堅持する!」

「なら、そこで見ているがいい!」

 そしてデグナー・ワンへ、つばさと千早が突入していく。千早は、これまで通りの走りを再現して同じようにブレーキを踏み、安全に進入した。

 それに対してつばさは攻める。攻める。コースオフするのではないかというくらい攻める。つばさ自身、怖かった。自分の判断では、もうブレーキを踏みたい。ここが限界領域だ。だが迅雷はまだ行けると云う。

 ――お兄さん、私は、あなたを信じる。

 そして次の一瞬、つばさは自分の限界を突破して、自分ではもうコースオフするだろうというタイミングでやっとブレーキを踏んだ。

「まさか!」

 千早が愕然と叫び、次の瞬間にジェニファーが歓声をあげた。

「おおっ、プリンセスが前に出た! これはたしかにオーバーテイク!」

 その一瞬、これまでにない速度でデグナーへの進入を果たしたつばさは、千早より少しばかり前に出ていた。だが、まだ勝ちきってはいない。赤のマシンでは紫のマシンを一息には抜き去れないのだ。

「いや、まだ、並んだだけか! となると問題はこの先だ!」

 そう叫ぶジェニファーに同調して、迅雷もまた叫んできた。

「つばさ、次のインを取れ!」

 次のイン、つまりデグナー・ツーのインだ。あそこを押さえてデグナーカーブを先に脱出することで、完全なオーバーテイクが成立する。

 喩えて云うなら、今はまだ千早にジャブが当たっただけ。勝負を決めるにはもう一発、ストレートを浴びせる必要があった。

 デグナー・ツーを制しようと、つばさと千早は死に物狂いで走る。その途中、短い時間をついて千早が云った。

「まさか、本当に速くなるとは……」

「愛の力だ」

「抜かせ! 尋常な勝負に負けるのは構わない! だが真顔で『愛の力だ』とか云ってしまう奴に負けるのは、なぜだか非常に不愉快だ!」

 そして赤と紫のマシンは光りの矢となって、デグナー・ツーのコーナー、クリッピングポイント付近で交錯し、そこを僅かの差で先に脱出してきたのは赤い方であった。

「デグナー・ツーでもプリンセスが制した! これで完全にオーバーテイキング!」

 つばさは必死にマシンを走らせながら、心ではガッツポーズを作っていた。一方、千早は「くっ」と噛みしめるような声を漏らしつつも、つばさを追ってくる。すぐ後ろにいた。エキゾーストノートが直接聞こえてくる。

「……まだ、終わっていないぞ」

「当然だ」

 これで終わったなどと勘違いすれば、すぐまた千早に抜き返される。だが今度こそは一位で居続けねばならない。

 つばさはそう思いながら橋の下をくぐり抜けて、右回りの東コースから左回りの西コースに突入した。残り半周、油断なく怠りなく走り抜けねばならない。一つのミスで順位はまた逆転するだろう。

「二人はヘアピンを回って、マッチャンと呼ばれている二連続の右コーナーへ!」

 そのマッチャンを攻略しながら、つばさはここに来て千早の走りに変化が生まれたのを感じていた。

「変えてきた、か……?」

「これまで通りに走っていたのではほんの僅かの差で追いつけない! それが判った! なら変えるしかあるまい!」

 千早はもうこれまでの自分の走りを追跡トレースするような走りはしていない。タイヤも使い切るつもりで、危険と紙一重の走りでつばさを追いかけ回している。逃げるつばさも必死であった。

「逃げるプリンセス、追うJホイール! まだまだJホイールにも逆転の目は残っています。このペースですと、勝負は恐らくシケインまでもつれるでしょう!」

 そんなジェニファーの実況を背景に、二人はデッドヒートを演じながらスプーンを脱出し、バックストレートに入る。ここでは千早が有利だが、つばさは進路を微妙に遮ることで追い抜かせはしなかった。

 ――もうすぐだ。

 この先の一三〇R、シケインを越えて最終コーナーに入れば、そこでバトンタッチのために迅雷が出てくる。通信画面を一瞥すれば、迅雷は既に発進に備えている。

「……お兄さん」

「なんだ?」

「昔ね、どこかの俳優が恋人と月を見ながら、『あそこへ行けるようになったら一番におまえを連れていってやるよ』って云ったそうです」

「うん」

「私もね、そんな気持ちで、お兄さんに一番にバトンを渡したいです」

「そうか」

「はい」

「じゃあ待ってる。最後の勝負、負けるなよ」

「はい!」

 つばさはそう大きな声で云って、目の前に迫ってきた一三〇Rを睨みつけた。

 ――同じミスは繰り返さない。

 迅雷へ向かって走るのは大きな原動力だが、先を見すぎて目の前のコーナーをおろそかにしたために、先ほどは一三〇Rで千早に抜かれてしまったのである。

「一三〇Rよ、これまでで一番速く駆け抜けてやる!」

 その宣言通り、つばさは一三〇Rを全開全速で駆け抜けていった。たしかに今までで一番速かった。だが、それについてくる千早もまた賞賛に値すべきドライバーである。

「さあ、そして一三〇Rの次はシケインだ! ここがプリンセスとJホイールの、最後の勝負になるでしょう!」

 ジェニファーがそう云ったとき、千早が呻くように云った。

「……愛が力になるか。そうだな、その通りだ」

「うん?」

「レース中にいちゃいちゃし始めるから腹を立ててしまったが、実際それでタイムを上げたんだから認めざるをえない。おまえはたしかに愛を原動力にしてそのスピードを得ている」

「うふっ」

 つばさはヘルメットの下でそう笑った。嬉しかったのだ。

 そこへ千早がもう目の前にあるシケインを見ながら云う。

「だが、それでも――」

「皆まで云うな、勝負だ!」

 まずつばさがシケインに飛び込んだ。それとほとんど同じくして千早もまたシケインへ突っ込んでいく。最後のブレーキング勝負、その緊迫の瞬間に、つばさはブレーキを徐々に利かせてコース幅をぎりぎりまで使おうとした。正直なところ千早の動向を窺っている余裕はないが、目の端でラスィリューザーが大きく迫ってくるのがやけにゆっくり見えた。

 ――ぶつかる?

 一瞬、つばさはそう思った。ブレーキング勝負では赤のエーベルージュに分があり、千早はその分を自らの技倆で補わねばならない。無理をしたとしても不思議はない。

 お互いのマシンはほとんど横並びになり、接触寸前までいったところでジェニファーが叫んだ。

「危ない! ぶつかったら共倒れになりかねないが――!」

 だとしても、つばさには引く気などさらさらなかった。

 ――ここで引いたら負けてしまう!

 極限の集中のなか、目に映るすべてがゆっくりと引き延ばされて見える。まるで時間の流れさえ遅くなったかのようなその一瞬に、つばさは迫り来るラスィリューザーを気魄で押し返そうと叫んでいた。

「私は絶対、お兄さんに一番でバトンを渡す!」

「私は――」

 それに対する千早も、なにかを叫ぼうとして、しかし黙ってしまう。このままお互い一番を競って我を張って、それで本当に接触したら、二人ともリタイアになってしまうのではないか。

 そこに想像が及んだとき、情熱の方へ傾いたつばさに対し、千早が冷静の方へ傾いたとして、なんの不思議があるだろう。

「――私は、真玖郎ちゃんに確実にバトンを渡す!」

 それは友情だったろう。このレースで真玖郎を迅雷と走らせてやりたいという友への想いが、ここで千早に引き返すという選択をさせたのだ。

 一方、つばさは迅雷への愛情のみで突き進んでいた。

 そしてお互いのマシンがぶつかるかぶつからないかといったその瞬間、ラスィリューザーが急に後ろへ遠ざかった。紫のマシンは風に吹き飛ばされるようにつばさの視界から消えた。

「やった!」

 ――勝った!

 口と心で同時にそう叫んだつばさは、まさにシケインでのブレーキング勝負に競り勝って、一番に飛び出してきたのだ。千早がどうして引いたのかということは、今のつばさにはどうでもいいことだ。とにかく自分がこのレースを制したのだ。そしてつばさは、まるで愛する人の胸へ飛び込んでいくような喜びとともに叫んでいた。

「やった、お兄さん!」

「よくやったつばさ、来い!」

 来いと云われたときには、つばさはもう最終コーナーを回っていた。予備ストレートから飛び出してきたブルーブレイブは最終コーナーでコースに合流、ゴースト状態でエーベルージュに憑依して、二人は重なって走る。そんな二人にジェニファーの声が追い風となって聞こえてきた。

「ダークネス・プリンセスがシケインでの勝負を制して最終コーナーをターン! それにバロンのブルーブレイブが憑依を成功させます。あとは、バトンタッチが上手くいくかどうかだ――!」

 そのジェニファーの実況を聞いて、つばさはたちまち気を引き締めた。

 ここでミスをすればペナルティとなってタイムに跳ね返ってくる。せっかく一位で迅雷にバトンを渡したとしても、そのタイミングによってはすべてが台無しになるのだ。

「お兄さん、いいですか?」

「いいからおまえは前だけを見て走れ。後ろから俺が調整する」

 マシンパワーは迅雷の方が上なのだから、迅雷がつばさに合わせた方が上手くいくのに決まっていた。つばさの仕事は、迅雷を惑わさぬよう一定の速度でまっすぐ走り続けることだ。

 それにしても、とつばさは思った。

 ――なんだか後ろからお兄さんに抱きしめられているような気分だ。

 ここでそんなことを口にしようものならさすがに怒られそうだったけれど、つばさはそんな気になってしまって、迅雷に身を任せるようにして走っていた。


        ◇


 一方、つばさに僅かに遅れてシケインを脱出してきた千早は、自分より速く飛び出していくエーベルージュの後ろ姿を見ながら悔悟に胸を灼かれていた。

「……譲ってしまった」

 すると左上の通信画面に新しいものが加わった。それはサウンドオンリーの英語表記があるのみで、映像はない。そのサウンドオンリーの画面から、優しい声がした。

「いいんだ。いいんだよ、千早」

「……真玖郎ちゃん」

「千早は私が迅雷と勝負できることを優先してくれたんだろう? あのままだったら本当に共倒れになっていたかもしれない」

「……めぐるの借金も、返してやりたかった」

「全部私が取り戻してみせる。なに、タイムだって実際のところは鼻の差さ。そんなに気にすることはない。さあ、バトンタッチだ。最後まで気持ちを切らさずに行こう!」

 真玖郎がそう云った直後、千早は予備ストレートから出てきた真玖郎のマシンと合流した。それを見て実況レディのジェニファーが云う。

「バロンに続いて、ナイト・ファルコンもJホイールに憑依します! あとはまっすぐ、コントロールラインに向かってストレートを駆け抜けるだけだ!」

 そこに至って、千早も気持ちを切り替えた。まだレースは終わっていない。つばさを追い抜くことはもう不可能だが、それでもタイムを〇・〇一秒でも削ることはできる。そして真玖郎とのバトンタッチを完璧に近づけることもできる。

 ――これ以上、傷口を広げはしない!

 そして迅雷とつばさ、真玖郎と千早が、バトンタッチの瞬間を迎えるべく相次いでコントロールラインを駆け抜けていった。


        ◇


 最終コーナーを回ったあと、つばさはただまっすぐ走り抜けただけだった。コントロールラインを駆け抜けた瞬間も陶然としていて、ただ迅雷が上手くやってくれたであろうとしか思わなかった。つばさは迅雷に身を任せていたのだ。

 そして、ジェニファーの声がする。

「今、先頭二チームが相次いでバトンタッチに成功! タイム差は――うっそお!」

 実況レディにあるまじきそんな言葉に驚いたつばさは、はっと我に返ると中継映像に目をやった。レースは第二十一ラップに突入、第二走者のレースは終わり、つばさのエーベルージュもゴーストとなってサーキットから退場しようとしていた。

 一方、バトンを受け取ってレースに突入した迅雷と真玖郎は第一コーナーへのアプローチを賭けていきなり激突している。

 ジェニファーはそんな二人の様子を尻目に、今のバトンタッチについて熱い口調で語り始めた。

「チーム・ソアリング、プリンセスとバロンのタイム差は、ゼロ! なんとなんと、同時にコントロールラインを駆け抜けました! したがって最終タイムにかかるペナルティは変わらず、〇・五四秒です! しかしそれにしてもこれは奇跡か、まぐれなのか!」

 まぐれだと、誰もが思うに違いない。たまたま運良くそうなったのだと。しかしつばさは違う。

 ――私とお兄さんの運命さ。

「一方、チーム・ストームヴィーナス――Jホイールとナイト・ファルコンのバトンタッチも誤差〇・一一秒! これもほとんど大成功と云えるバトンタッチです! ペナルティとしてかかるタイムは〇・二二秒、最初のバトンタッチの際に受けたペナルティ・タイムと合計して一・五四秒! ということは、差し引きしてチーム・ソアリングはチーム・ストームヴィーナスに対し、ちょうどきっかり一秒の貯金を得たことになります! 云い換えると、ストームヴィーナスが勝つためには、ナイト・ファルコンがライトニング・バロンに一秒以上の差をつけてゴールしなくてはなりません!」

 ――一秒か。

 たった一秒、されどモータースポーツにおいては非常に大きな一秒である。これで真玖郎は背水の陣を強いられることになった。

 ――あとは、お兄さん次第か。

 だが迅雷ならきっと勝つ。つばさはそう信じながら、ヘルメットを脱いで一息ついていた。そこへ翔子が声をかけてきた。

「さっちゃん、お疲れ様。よく勝てたね。今りーちゃんが行くから待っててな」

「ああ」

 迅雷がレース中である以上、ログアウトしてエントリーシートから下りるときはことりの手を借りねばならない。スクリーンは既に青い初期画面クレイドルになっている。左上にはいくつかの通信画面が縦に並んでいた。

 エントリーシートを排出しようとしたとき、その通信画面から千早が声をかけてきた。

「プリンセス――」

 見れば、千早もちょうどヘルメットを脱いだところだった。昨日ポニーテールに結っていた髪は下ろしていて、先日とは印象が変わって見える。

 その千早がつばさを指差して云った。

「今日は負けたが、次は一対一サシでやろう」

「ああ、いいとも」

 今になってみれば、つばさにもあのとき千早が引いた理由がわかった。ぶつかることを恐れ、クラッシュすることを恐れ、それによって真玖郎にバトンを渡せなくなることを恐れたのだ。もしあのまま千早が道を譲ってくれなかったら、つばさも迅雷にバトンを渡し損ねていたのかもしれない。

 こうした勝負の綾模様について、つばさは自分の気魄が勝ったようにも思えるし、千早に勝ちを譲ってもらったようにも思える。つまり完全に勝ちきった気がせず、いまいち釈然としない。

「……あとでアドレスを交換しようか」

「だな」

 つばさの申し出に、千早は小さく頷いて笑った。

 こうしてまた一人、オンライン・フォーミュラを通じて友達が増えた。


 そのあとエントリーシートを排出イジェクトし、レーシングルームの照明の下に出てきたつばさは、車椅子の隣に立っていたことりと目を合わせた。

 いったいなんと云ったものか、つばさが迷っていると、ことりの方が口を切った。

「走ってよかったでしょう、お姉ちゃん」

「……ああ」

 レース前、迅雷の視線を振り切るようにしてコックピットにエントリーしていったときはあれほど曇っていた心が、今は晴れ晴れとしている。

「おまえのおかげで、オンライン・フォーミュラを穢さずに済んだ。ありがとう、ことり」

 つばさはそう云って、ことりに介添えを頼むべく手を伸ばした。

 ことりがにっこり笑ってその手を取りながら云う。

「さあ、行こう。もう迅雷さんの勝負、始まっちゃってるよ」


        ◇


 ここで時間はつばさと迅雷のバトンタッチ直後に巻き戻る。

 つばさと同時にコントロールラインを駆け抜けた迅雷は、バトンタッチのタイム差について熱く語り始めたジェニファーの声も耳に入らず、ただ赤いマシンが実体化してレースに突入してくるのを、右のバーチャルミラーに映して見ていた。

 真玖郎のマシンだ。

 宿命のライバルの出現に迅雷が得も云われぬ高揚感を味わったその瞬間から、いきなりの競り合いが始まる。

 赤いマシンはその挙動から、第一コーナーでのオーバーテイクを示唆していたのだ。迅雷はマシンを通じて、真玖郎の「最初から仕掛けるぞ」という声なき声を聞いた。それを許す迅雷ではない。迅雷の方が先行しており、有利なラインを取れている。

 ――やらせるかよ!

 そうして二人が第一コーナーに向かってメインストレートを駆け抜けていると、例のペナルティタイムについて話していたジェニファーが、先頭の二人に目を戻して云う。

「さあ、最終走者にバトンが渡った第二十一ラップ、先頭集団に目を戻せば、大型ルーキー、ライトニング・バロンと、今年のOFWGPで三位入賞を果たしたナイト・ファルコンが、激しく競り合いながら第一コーナーに突入していく! バロンのマシンは青いブルーブレイブ、ファルコンのマシンは赤いバイラウェイだ!」

 バイラウェイ、というのが真玖郎のマシンの名前であった。

 OFWGPで入賞した結果、相当のポイントを得たのであろう。流麗なフォルムをした純色の赤に近いマシンで、注ぎ込まれたポイントの総量はもしかすると迅雷のブルーブレイブに匹敵、あるいはそれ以上かもしれない。

 そんなバイラウェイのことを、迅雷はよおく知っていた。過日、真玖郎の記録を破るためのタイムアタックに挑んでいたとき、バイラウェイのゴーストと何度も戦ってきたからだ。しかしそのときのバイラウェイは真玖郎の出した記録を辿るだけの忠実な影でしかなかった。真玖郎の命が宿る生きたバイラウェイと戦うのはこれが初めてになる。

 ――これが初めての、ようやくの、おまえとの勝負!

「さあ、第一コーナーです!」

 ジェニファーの声を合図に戦端が開かれると、バイラウェイが生ある者のようにエキゾーストノートの唸りをあげながら迅雷に迫ってきた。

 ジェニファーが瞠目して叫ぶ。

「バロンとファルコンが第一コーナーをターンするが――これは、近い!」

 そう、ブルーブレイブとバイラウェイはほとんど接触しそうになっていた。だが真玖郎は威嚇的な走りはしない。あくまでスマートに走るのが真玖郎のスタイルだった。それを迅雷は昨日のことのように憶えている。

「真玖郎……!」

 迅雷はこのとき、まるで魂が繋がっているような感覚を覚えていた。ある程度のレベルのドライバー同士は、お互いに信頼関係がある。ミスはしないし、したがってぶつかるようなことにもならない。そのギリギリの信頼関係で繋がりながら、迅雷と真玖郎は互いを縛り付けるように近づいて第一コーナーをターンし、同時に減速、第二コーナーもやはりぴったりくっついてターンしたあと、やっと離れた。

 そんな二人の様子を見て、ジェニファーが唸る。

「おお、まるで息の合った二人がコンビネーションを見せるかのような走り! そして結果はかろうじて! かろうじてバロンが少し前に出ています! バーチャルですから、肉眼で見極められないことでもすぐに判定が出ています!」

 ――かろうじてか。

 恐らく僅かの差でしかないだろう。

 それにしても、今のはすごいターンであった。なにがすごいと云って、今のターン一つで真玖郎とのあいだの途切れていたなにかが鮮やかに蘇ったのがすごい。

「そうだ、これだ、この感じ。おまえと走っている感じだ、真玖郎!」

 迅雷は全身の肌を戦慄に粒立たせながら、続くS字へと取りかかっていく。

「迅雷君」

「話しかけるな!」

 翔子の声を一蹴した迅雷は、集中力を一気に高めてS字コーナーへ乗り出していく。リズミカルなアクセルワークで、最短経路クリティカルを辿ってS字を稲妻のごとくに駆け抜けていった。

 素晴らしく速いが、それにぴったりくっついて追いかけてくる真玖郎もまた速い。

 S字からの立ち上がりも成功させたところで、迅雷は左の高速ロングコーナーの猛烈な横Gに耐えながら、一転、翔子に優しい声で云った。

「怒鳴って悪かったな。S字はリズムに乗らなきゃいけないところだから話しかけてほしくなかった。それで?」

「えっと、その、あれや。ホケキョさん!」

 翔子がホケキョに水を向けると、ストームヴィーナスのピット画面でホケキョがこほんと咳払いした。

「ライトニング・バロン。先刻の話の通り、私たちはグループ通信をして走ることになっているので、今からあなたのコックピットと真玖郎ちゃんのコックピットをリンクします。でもあらかじめ申し渡しておいた通り、サウンドオンリーですから」

「ああ」

 ――真玖郎ちゃんとはサウンドオンリーにしてもらいます。姿は見せられません。

 ホケキョがそう云った理由はわからないが、ともあれ真玖郎と話せる。迅雷にはそれだけで十分だった。

 左上に並んでいる通信画面は三つ。ピット、実況、それにストームヴィーナスのピットだ。つばさとの通信画面は、彼女がログアウトした時点で閉じていた。そこに四つ目の通信画面が開いた。英語でサウンドオンリーと表記されたその画面から、綺麗な声がする。

「迅雷……!」

「真玖郎!」

 真玖郎の声を聞いただけで、迅雷は体温が上がったような気がした。ともあれ、S字を抜けて少し落ち着いたところである。なにか話をするにはいいタイミングだ。

 果たして真玖郎は冷え冷えとした声で云った。

「ずいぶんもてるんだな」

「まあな」

 恋人が一気に三人も出来てしまった件については、開き直ってしまった迅雷は笑って答えた。

 ふん、と真玖郎が鼻を鳴らす。

「それについては色々……本当に色々たくさん云いたいことがあるが、今はいい。それよりさっきの第一コーナーで、君と一緒に走る感覚を思い出した」

「俺もだ」

 記憶のなかから忘れてしまっていたわけではない。だがそれは死者の思い出のようなものだった。それが今、命とともに蘇ったのだ。

「俺はこれを求めていた。クルマを通しておまえと戦う感覚。たった一度のターンで、震えが来るほど思い出したぞ、真玖郎」

「私も……さっきの一瞬、夢のようだった。なくしたものを取り戻したような感覚があった。そのことに自分で驚いたよ、迅雷」

 そこで真玖郎が言葉を切り、しばしエキゾーストノートが二人のあいだを支配した。翔子やホケキョは気を遣ってくれているのか、話しかけてこようとはしない。

 やがてまた真玖郎が云った。

「千早からバトンを受け取ったとき、千早とめぐるのためにも勝とうと思った。君を追い抜いて、二人が作ってしまった一秒のペナルティもはねのけて、一位でチェッカーを受けてやろうと。だが今は違う。今はただ君に勝ちたい。君と走っていて、胸が馬鹿みたいにどきどきする。まだ生きていたんだ、私のなかで、君のライバルとしての血が!」

「いいじゃないか!」

 迅雷はほとんど驚喜していた。どういうわけか真玖郎は迅雷を避けているところがあり、今回の勝負も迅雷が真玖郎をサーキットに引きずり出したわけだが、それで真玖郎がどこまで本気でやってくれるのか少しだけ不安だったのだ。

 だがその不安も今の告白で完全に払拭された。

 たった一度の勝負、たった一度のターンで、ライバルの血は蘇った。

 見よ、ダンロップコーナーの坂の頂上を迎え、道は下り坂に転じる。その先はつばさが素晴らしい勇気で攻めたデグナー・ワンだ。

 そこへ向かって迅雷のブルーブレイブと真玖郎のバイラウェイが駆け下っていく。そんな二人をジェニファーが煽る。

「さあ、デグナー・ワンだ! ここへの進入は簡単なようで難しく、ここでタイムを削ることができれば勝利に一歩近づきます! バロンとファルコンは果たしてどう走るか! まだタイヤが温まっているとは云えないが――」

 そんなことは迅雷と真玖郎には関係なかった。タイヤが温まっていないなら温まっていないなりの走りがある。第一コーナーもシケインも関係ない。すべてのコーナー、すべてのストレートが勝負の舞台だった。

「行くぞ、迅雷」

「ああ。やっと、これが、念願の――」

「勝負だ!」

 迅雷と真玖郎、二人の声が重なり、別格二人の戦いが幕を開けた。


▼第六話第三幕あとがき

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

第六話第三幕はこれで終わりです。

前回のあとがきで『第三幕は短いので七月中にアップするか、第四幕と一緒に八月にアップするかといった予定』というようなことを書いてしまったのですが、いざ推敲してみたらレース展開をまるっと書き直したくなってしまい、とても時間がかかりました。すみません。

というわけでやはり第四幕は九月にしようと思います。

予定は予定ですが、頑張りますので気長にお待ちいただけたら幸いです。

それではまた次回!

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