第六話 羽ばたく者たち 第四幕 永遠のライバル(1)

  第六話 羽ばたく者たち 第四幕 永遠のライバル


 勝負のデグナー・ワン、迅雷は誰よりも速くそのコーナーを駆け抜けていき、そのまま真玖郎の機先を制してデグナー・ツーをもターンした。

 それを見てジェニファーが素直に歓声をあげる。

「おお、速い! これはバロンがマシンパワーにものを云わせて前に出た感じです。しかしそれで綺麗なターンを決めてしまえるのはバロンの実力でしょう! そしてそんなバロンに、ファルコンも遅れを取ってはいません!」

 そう、真玖郎は迅雷のすぐ後ろにいる。時間にして半秒と離れていないだろう。

 迅雷は真玖郎に追われながら、しかし眼前のコースを見据えながら、立体交差橋の下をくぐり抜けてその先のヘアピンを目指した。そこへピットから翔子が声をかけてくる。

「迅雷君、相当はりきってるみたいやけど、少し落ち着いていかんと、後半タイヤがたれてきてしまうよ?」

「ああ、そうだな。気をつけるよ」

 ひとまず今のデグナーカーブは、立ち上がりも含めて完璧に制することができた。だが少し熱が入りすぎてしまって、ブレーキを強く使ってしまったのも事実だ。

 ――翔子の云う通りだ。エンジンは青のマシンのこっちが有利だが、タイヤは赤いマシンの向こうが有利。序盤からタイヤマネジメントをきっちりやっていかないと、終盤でタイヤの差が出そうな感じがする。

 本当は血が騒いで、もっともっと威勢良く走りたいのだが、その一方でレース全体を逆算してどこでタイヤを使うかを冷静に計算せねばならない。

 迅雷がそう心の鉢巻きを締め直したとき、翔子が自分でも確信を持てぬように云う。

「まあ飛ばしたいなら飛ばせるだけ飛ばして、序盤で逃げ切りを図る戦術もありやないかとは思うけど」

「そうだな……」

 抜きにくい鈴鹿で先頭を走っていること、そしてエンジンでは誰より有利であることを考えると、先手必勝の逃げ切り作戦は考慮に値する戦術であった。しかしリスクも当然ある。

「その場合、周回遅れに引っかかってしまわないかどうかが気がかりだな。いくら青旗ブルーが出るとはいえ、抜きにくい鈴鹿で相手を上手く抜かせてやろうとしたら、それはそれでテクニックがいる」

「周回遅れか……まあ、そろそろ出会うころやろうな」

 翔子が眉をひそめてそう呟いたとき、折良くジェニファーが後続について触れてくれた。

「三位はチーム・明日に向かって突撃団ですが、ナイト・ファルコンからは相当離されています。レースが第二十一ラップに突入した今では、各車両がかなりばらけてきており、最下位のチームはそろそろ周回遅れになりそう。ちなみに最下位はセイバーズではありません! 一時トラブルに見舞われてピットインしていたセイバーズですが、その後猛烈な追い上げを見せて、最終走者のプリンスは現在十番手です!」

「――だって」

 迅雷はそう云うと、猛烈に追い上げているという恋矢のことがちょっと気に掛かりつつも、ヘアピンや、その先の連続する右コーナーを突破していった。

 この調子で走っていけば、遅かれ早かれ周回遅れのマシンに出会うだろう。その場合、相手には当然ブルーフラッグが揚がるだろうが、道幅の狭い鈴鹿のことだ。場所にもよるが、進路を譲るのにもたつく可能性は十分に考えられた。そこで引っかかっているうちに真玖郎に追いつかれたのでは、笑い話にもならない。

 そうした迅雷の懸念を了解した翔子は、しかし発破をかけるように云う。

「せやかてのんびり走るわけにはいかんやろ?」

「――当然だ。もちろん飛ばせるだけ飛ばすさ。ただ、タイヤマネジメントを捨ててまでは飛ばさない。タイヤは勝負所まで温存する」

 迅雷がそう断を下すと、翔子もまた安心したように微笑んで一つ頷いた。

「よし。なら、そういうことでええやろ。幸い一秒の貯金もあるし、余裕を持って有利に走れるはずや」

「貯金? 貯金か……」

 そう呟く迅雷の声はわらいを含んでいた。

 たしかにストームヴィーナスに対する一秒の貯金はソアリングの四人で作ったもの。これがチーム戦であることを考えれば貯金を計算を入れての勝利を狙ったところで、恥じることはなにもない。しかしだ。

「俺は厭だぞ」

「え?」

 目を丸くした翔子と、そしてサウンドオンリー表記の画面の向こう側にいる真玖郎に聞かせるつもりで、迅雷ははっきりと云う。

「これはチーム戦だ。だからこの先、真玖郎に抜かれたところで、真玖郎に遅れること一秒以内にチェッカーを受ければこっちの勝ちだ。全員チームの勝利だ。でも、俺はそんなの全然嬉しくないんだよ。そんなじゃ納得できるわけがない。喜べるわけがない」

 ルール上の勝利と、心の勝利は違う。

 迅雷の心はこううったえてきている。

 完全勝利すべきだ、と。

「……真玖郎」

 迅雷は心のままにそう口を開いていた。するとサウンドオンリーの英語表記がソプラノの声で返事をする。

「なんだ?」

「バトンタッチのペナルティタイムなんて関係ない。俺は、おまえより先にチェッカーを受ける。これはチーム同士の戦いであると同時に、俺とおまえとの戦いでもあるんだ。だから俺は、チームとしても個人としても、両方の意味でおまえに勝つ」

「ああ、君ならそう云うと思ったよ」

 迅雷も真玖郎も、どちらも当たり前のようにそう話していた。

「結局のところ、これは君と私の、どちらが先にチェッカーを受けるかという勝負だ。私はとっくにそのつもりだ。タイムに修正がかかるのはレースが終わったあとで考えればいい」

 そんな威勢のいい答えに、迅雷は自然と口元に笑みが浮かぶのを感じた。

「……云うじゃないか!」

「ライバルだからね」

 お互いの血潮が波濤となってぶつかりあう。そんな熱を感じながら、迅雷は先陣切ってスプーンカーブへ突入していった。

「さあ、先頭の二人はスプーンカーブに突入していきます! 二人にとってはまだ一周目ですが、ここをバロンとファルコンはどう攻略するのでしょうか!」

 ジェニファーのそんな煽りとともに迎えたスプーンカーブ、迅雷はタイヤが温まっていないなりにアプローチから立ち上がりまでを完璧に走り抜け、素晴らしい速度を維持したままバックストレートへ突入していった。のみならず真玖郎のスリップへの侵入を警戒し、そしてタイヤを温めるために蛇行を始める。二つの狙いを持った蛇行だ。

 だがそこへ余裕さえ感じさせるコーナリングでついてきた真玖郎が、あっさりと迅雷を捉えてマシンを迅雷の真後ろにつけた。

「ここでファルコンがバロンのスリップに入りました!」

「まだだ!」

 簡単には入らせない。迅雷はジェニファーの実況を否定してブルーブレイブを右に左に振り回すのだが、真玖郎はその動きを完璧に読み切ってしっかり喰らいついてくる。

「バロン、ファルコンを振り払おうとしますが、振り切れない!」

 そしてそのまま、バックストレートを半分ほど消化した。

「……真玖郎、おまえ俺がいつどのタイミングでステアを切るか全部読んでるな」

「私には君の呼吸さえ読めるからね」

「そうかい」

 迅雷はヘルメットの下で微笑むと蛇行をやめた。結局真玖郎は振り切れなかったが、タイヤがかなり温まったはずなので無駄ではない。それにどのみち、この先は一三〇Rだ。まさかダウンフォースのないまま突入するわけにはゆかないし、いずれ新鮮なエアを求めて向こうからスリップを出るだろう。そう踏んだ迅雷は、もはや後ろには構わずまっすぐに走った。ブルーブレイブが長い直線を弾丸のように駆け抜けていく。

 そしてあるとき、真玖郎が動いた。

「ファルコンがスリップから出ました! 立体交差橋を渡った先の一三〇Rに備えて、ダウンフォースを取り戻します!」

 ジェニファーがそう声を張り上げたところで、真玖郎がふと思い出したように云う。

「そういえば千早が一三〇Rでそっちのプリンセスをオーバーテイクしていたけれど……」

「あれはつばさがしくじったからだ。俺はそんなミスはしない!」

 そう雄々しく宣言した迅雷は、立体交差橋を渡り、その先にある世界最速の左コーナーへ全速で飛び込んでいく。それを見てジェニファーが叫んだ。

「バロン、初周からいきなり全開で突破していく! そしてファルコンも――」

 迅雷の尾について、真玖郎も一三〇Rを高速でターンした。その先はシケインだ。

 ――ここはブレーキング勝負になるが、まだ一周目だ。タイヤも完全には温まっていないはずだし、残り九周あることを考えれば、こんな序盤で無茶な勝負はない!

 迅雷はそう断を下してシケインへ飛び込んでいく。その刹那に、サウンドオンリーの画面から真玖郎が云った。

「まだタイヤが温まっていないし、こんな序盤から仕掛けては来ないと思っているだろう」

「なに?」

 迅雷が心を読まれたときの、あの驚きに打たれてそんな声をあげると、真玖郎は我が意を得たりとばかりに楽しげな声で云う。

「それが大きなミステイクだ!」

 真玖郎がそう叫んだときには、もう二人はシケインに突入していた。迅雷は既にアクセルを抜き、ブレーキを適切に踏んでマシンを減速させている。一方、真玖郎は加速した。左側から迫り出してくる赤のマシンを見て、迅雷は愕然と叫ぶ。

「そのスピードは、おまえ――!」

 そんな速度でシケインに突進していくなど、迅雷にはほとんど自殺行為に思えた。ここからコースオフを回避するには、よほど強くブレーキを踏み抜かねばならない。

 ――ファイナルラップとかならまだしも、一周目でそれかよ!

 そして当たり前だが、減速している迅雷に対し真玖郎は加速しているのだから、この時点でバイラウェイはブルーブレイブの前に躍り出ていた。

「ファルコンがバロンを抜いて飛び出した! こんな序盤で戦いを仕掛けた! だがこれで止まれるのか!」

「見ていろ、迅雷!」

 真玖郎のその叫びとともに、真玖郎ががつんとブレーキを踏んだのが迅雷にも判った。目の前のバイラウェイに急制動がかかり、次の瞬間、耳をつんざく高音がした。

「――ロックさせやがった!」

 迅雷がそう叫んだ通り、目の前でバイラウェイのタイヤがロックした。したがってタイヤは猛烈な音ともに路面を切りつける。同時に車体の下からは白い煙、タイヤスモークが巻き起こった。

「これはナイト・ファルコン、白煙をあげて――!」

「真玖郎ちゃん!」

 ジェニファーが驚愕の声をあげ、ホケキョが悲鳴をあげる。それも無理はない。タイヤをロックさせながら走るのは綱渡りをしているようなものなのだ。それでも真玖郎はマシンを御しきり、ブレーキからアクセルに切り替えてシケインを脱出、それに遅れて迅雷もシケインを抜けるが、このときにはもう明暗ははっきりと分かれていた。

「き、気魄のブレーキングで、ファルコンがバロンをオーバーテイク! タイヤをロックさせてまで抜きました! だが、いきなりこれをやってファルコンは大丈夫なのか!」

 ジェニファーがそう云った傍から、真玖郎はバイラウェイが万全であることを示すかのような鮮やかなターンで最終コーナーを回り、メインストレートに帰ってきた。

「これで完全に順位が入れ替わりました! ナイト・ファルコン、トップでコントロールラインを通過! 一位で第二十二ラップに突入!」

 この快挙に、しかしホケキョは喜ぶでもなく、ほとんどカメラに飛びつくような勢いで捲し立てる。

「真玖郎ちゃん、大丈夫? フラットスポット作ってない?」

 フラットスポットとは、ブレーキの際にタイヤがロックすることで、タイヤの一部が平らになってしまうことだ。こうなると目に見えてタイムが落ち、その後の走行はガタガタになる。だが。

「……大丈夫、そんな感じはしませんよ。そっちからでも確認できるでしょう」

「そう、そうね……」

 ホケキョは落ち着いて、手元のコンソールに目を走らせているようだ。

 一方、ジェニファーもまた真玖郎の走りに問題がないことを見て取ったか、唸るような声をあげて云った。

「ナイト・ファルコンのマシンは赤いバイラウェイ。見ての通りコーナリング特化型で、タイヤに強烈なプラス補正がかかっています。これほど赤いマシンなら一周未満でタイヤが完全に温まっていたとしても不思議はありません! また一度くらいのロックでは大きなフラットスポットも出来ないでしょう! まさに赤いマシンの有利性をすべて活かし、バロンを出し抜いた会心のオーバーテイキング!」

 そんなジェニファーの賛辞を聞いて、真玖郎は楽しげな声で云った。

「そういうことさ、迅雷。青いマシンで走っていて、タイヤを温存せざるをえない君には絶対できない芸当だ」

「……くっ」

 たしかに真玖郎の云う通りだ。もしもブルーブレイブで同じことをやろうものなら、タイヤに大きなダメージを負ってしまう。ファイナルラップなら一か八かでやってみる手もあるが、一周目では絶対にできない。だからこそ、してやられたという感じがする。

「……まさかな。まさか一周目で、タイヤをロックさせてまで……だが今ので、そっちのタイヤもだいぶ消耗しただろう?」

「それでもまだ、ブルーブレイブよりは残ってるんじゃないかな」

 ふふふ、と真玖郎は笑う。はったりではないだろう。いくら赤いマシンとはいえ、タイヤを二度も三度もロックさせてはさすがにレースにならないだろうが、一度だけなら、まだ残り九周を戦えると真玖郎は踏んだのだ。だからこそ、あそこで勝負に出たのだろう。

「……くそっ」

 ――くそ! やられた!

 迅雷をしてすら、そう認めざるを得ない。

 そのときストームヴィーナスのピットから元気な声がした。

「ざまあ! バロンざまあ!」

「めぐる、ちょっと黙ってなさい。千早、めぐるを黙らせて!」

 ホケキョの言葉に、画面の外で「はいはい」と千早の低い声がし、めぐるとなにかやりあっていた。

 一方、ソアリングのピットにも変化があった。エントリーシートから下りてきたつばさが、ことりとともにカメラのなかに顔を出したのだ。つばさの方はヘッドセットをつけている。マイクの位置を調整して、彼女は云った。

「お兄さん」

「やられちまったぜ」

「でも、まだこれからでしょう?」

「当たり前だ!」

 迅雷はつばさにそう威勢よく答えると、メインストレートをひた走っていった。

「さあ、ここはメインストレート、バロンの戦場だ! そして二人は二度目の第一コーナーへ!」

 この第一コーナーは、シケインと並ぶ鈴鹿最大の勝負所の一つだ。減速コーナーであるシケインが真玖郎有利なら、ストレートエンドにある第一コーナーは迅雷有利のはずである。

「バロン、スリップにも入らずマシンパワーにものを云わせて加速、加速! このまま強引にファルコンを抜くのか!」

「だがベストなラインは私が押さえた」

 そう云った真玖郎が、第一コーナーにアウトインアウトの理想的なラインで侵入していく。それを迅雷は、外側から追いかけた。

「バロン、唸る豪腕とばかりにアウトから強引に抜こうとするが――さすがにこれは届きません! インを押さえたファルコンが、続く第二コーナーもターンしてS字に入っていきます!」

 ジェニファーは実に楽しそうに実況していた。

 それについては結構なことだと思いつつ、迅雷は真玖郎のあとを追ってS字を抜け、背景の観覧車を尻目に猛烈な横Gのかかる左の高速ロングコーナーに入った。走路は上り傾斜がついており、東コースの頂上へ向かって駆け上がっていく。

 仮想Gフォース一〇〇パーセントで走っている迅雷には堪える場面だったが、リズムが要求されるS字を抜けて一息つき、レースプランを見直す余裕のあるところでもあった。

 ――抜かれちまったもんは仕方がない。まだレースは始まったばかり。どこでどう抜き返してやるか。

 迅雷がその辺りのプランを詰め始めたとき、耳元でつばさの囁くような声がした。

「お兄さん、勝って」

 それは考えていたことをたまたま口にしてしまったような、独り言であったろう。が、聞こえてしまった以上、迅雷は笑って云う。

「勝つさ」

 もしも負けようものなら、つばさやことりにふられてしまうかもしれない。彼女たちは根本的に速い男が好きなのだから、勝負事に常勝不敗はないにしても、不甲斐ない走りは見せられない。

 だが。

「残念、一度こうなったら真玖郎ちゃんには勝てないわよ」

 ストームヴィーナスのピットからホケキョが笑いを含んだ声で云う。

「タイヤをロックさせるなんてかなり無茶をしたけど、とにもかくにも序盤でトップに立ったのは大きいわ。鈴鹿みたいな抜きにくいサーキットで前にいるということがどれだけ有利か、バロン、あなたほどのレーサーならわかるでしょう?」

 もちろん、迅雷にはわかっていた。

 オーバーテイクが発生しにくいサーキットでは、ポールポジションのマシンがそのまま一位でチェッカーを受けることもままある。とにかく前にいるというだけで有利なのだ。

 そこへ今度は真玖郎が云う。

「迅雷はタイヤマネジメントや周回遅れに引っかかることをおそれて、逃げ切りを図ろうとはしなかったよね。たぶん、他のマシンのあいだに事故が起こってイエローが出ることも警戒したんじゃないかな」

 そう、イエローフラッグが出れば全車減速で追い越し禁止になってしまう。クルマの破片が散らばるようなことがあれば、その手前で全車停止だ。その場合、逃げ切り作戦は完全に水泡に帰す。そして実際、二番手が走っているときにシケインで軽い接触事故が起こっていた。あのときはイエローフラッグが出るまでには至らなかったが、次はどうかわからない。

 あらゆる状況に備えて、タイヤは温存しておきたかった。

「でも、実は私にとってそれが一番、やられたら厭なことだった。ブルーブレイブはエンジンにおいて私のバイラウェイを遥かに凌駕するからね。後先考えずに全開で飛ばされたら、こっちは君のミス待ちになる。だが前に出てしまえば、このレースのペースメーカーは私だ。もう好きには走らせないよ、迅雷」

「……つまりさっきのは、戦術的にも戦略的にも完璧なオーバーテイクだったってことだな。自慢か、おい」

「ふふっ、リアルと違って話しながら走れるんだもの。少しくらい雄弁になってもいいだろう?」

 映像付きではないが、真玖郎が楽しそうにしているのが迅雷にはわかった。一位になったことで余裕もあるのだろう。

「ふん、いい気なもんだぜ。こっちは息をするのもしんどいってのによ!」

 そうして真玖郎と迅雷は相次いでデグナーカーブへ突入していく。

 このときホケキョがなにかに気づいたようにはっとするのが左上の通信画面のなかに見えたが、迅雷はいちいち問いただしたりはしなかった。これ以上のお喋りをしている余裕はさすがにない。

 それがスプーンカーブを抜けてバックストレートに入ったときだ。

「ねえ、バロン」

 ホケキョがそう迅雷に話しかけてきた。

「なんだ?」

 すると向こうから話しかけてきたくせにホケキョは唇を引き結び、なにか慎重に言葉を選ぶようにしてやっと云った。

「……そういえばあなた、なんだかずいぶん辛そうね」

「バーチャルとはいえ、時速三〇〇キロの世界で走ってるんだから当たり前だろ」

 ホケキョは鋭く息を呑み、焦ったように続ける。

「リアルとバーチャルは変わらない?」

「ああ、まったく変わらない。本当によくできたゲームだ!」

 集中して走っているとき、迅雷はこれがゲームだということをしばしば忘れることがある。音も光景も仮想Gフォースもなにもかもが、現実を完璧に再現してくれている。

 だが、そんな今さらなことを訊ねてきたホケキョは、なにか目眩でもこらえるように片手で目を覆うと、視線を迅雷からずらした。

「真玖郎ちゃん、あなた気づいていた?」

「……もちろんですよ。迅雷はそうする男です。私にはわかっていました」

 その会話に迅雷は首をひねった。

「なんの話をしてる?」

「あなたが本当の馬鹿だった、って話」

 そんな風に返されて、迅雷もさすがに腹が立った。

「なんだよ!」

 だがそこへすかさず翔子が軌道修正を図ってきた。

「迅雷君、集中して。もうすぐ一三〇Rやで」

「……了解」

 冷静であらねば、レースには勝てない。迅雷は改めてそう思い直すと、無理やり気持ちを立て直して一三〇Rに挑んだ。

 そのあいだもホケキョと真玖郎の会話は続いている。

「これは少し、まずいことになるかもしれないわ」

「わかっていますよ。だからこそ、一周目で無茶をして前に出たんです」

 ――本当にこいつら、なんの話をしているんだ?

 迅雷は気にはなりながらも、真玖郎のあとについて完璧に一三〇Rを突破していった。続くシケインはどちらも無難に走り抜け、最終コーナーを回ってメインストレートに戻ってきたところでホケキョが云う。

「バロン、気になる?」

「気になるね」

「そう、でも、もうすぐあなたにも判るわ。あなたが本当に真玖郎ちゃんのライバルならね」

 その謎かけのような言葉が発せられたとき、真玖郎と迅雷はともにコントロールラインの上を通過していった。

「さあ、レースは第二十三ラップに突入です!」

 その二十三ラップ目の途中で、迅雷はあることに気がついた。最初は勘違いかと思ったが、走るにつれて疑惑は確信へと変わっていく。さっきのホケキョの謎かけは、これのことだったのだろうか?

 そして迅雷にとって、三度目の最終コーナーだ。

「依然としてファルコンがトップのまま、第二十三ラップの最終コーナーをターン。それにバロンが食らいついていく。ぶっちぎりで走る先頭の二人は、今、第二十四ラップに突入です!」

 そんなジェニファーの声を聞きながら、迅雷は疑惑をどうにか振り払おうとした。真玖郎は速い。迅雷も速い。三位以下を大きく引き離し、誰よりも速く走っている。しかしだ。

 ――くそっ。

 迅雷はここに来て、積み重なった違和感をどうしようもなくなった。

「おい、真玖郎。おまえ、クルマをどこか傷めたか?」

「なんだって?」

「どうにもこうにも……少し、ほんの少しだが、俺の思っていたより遅い気がする」

 するとストームヴィーナス側のピットからめぐるが喚いてきた。

「はああ? なに云ってるんだよ。ラップタイム見ればわかるだろ? 真玖郎ちゃん、超速いじゃん」

 そう、真玖郎は速い。鈴鹿をF1のトップドライバーと遜色のないタイムで走れている。しかしそれでも迅雷は思うのだ。

「一般的には速いが、俺の想像していたよりは遅い」

 その大断言に、真玖郎は傷ついた声で云った。

「想像って……君のなかで、いったい私はどれほど高く飛んでいたんだろうな。それは幻想じゃないのかい?」

「……いや、違う。おまえはこんなもんじゃない。俺がいったいおまえをどれだけシミュレートしたと思ってるんだ? 俺ほどをおまえを理解している奴はいない」

「いや、それは君の勘違いだ。君ほど私を理解していない人間もいないよ、迅雷」

「いいや、そんなことはない! 俺にはわかる! コーナーというコーナーで、なにかがほんのちょっとだけ遅いんだ。もっと速くターンできるはずなのに足りない気がする。手を抜いてるのか?」

 迅雷は静かな口調でそう怒りをぶつけたが、真玖郎はそれに沈黙で返した。迅雷は心に棘の刺さったまま、メインストレートを駆け抜けて第一コーナーで戦いを挑む。ブルーブレイブとバイラウェイが競り合い、そしてジェニファーが唸った。

「バロン、果敢にオーバーテイクを試みますが、ここはまたしてもファルコンがインを押さえてトップをがっちり守ります!」

 そして第二コーナーを回ろうというとき、真玖郎が平坦な声で云う。

「そらみろ、迅雷。君はまだ二位なんだ。その君が私を遅いだなんて、いったいどの口で云えるんだ」

 迅雷は思わず唇を噛みしめた。なるほど、二位の自分が一位の真玖郎を遅いだなどと、普通は云えるものではない。それは恥ずかしいことなのだ。

「私は手を抜いてなんかいない。全力でやってる。その私の走りに缺痴けちをつけたいなら、私を追い抜いてからにしたらどうなんだ」

「道理だな。だが……」

 だがそれでも、続くS字コーナーでの真玖郎の走りを後ろから見て、迅雷は思うのだ。

「ほら、このS字だって、おまえならもうちょっとタイム削れるだろうが! 他の誰がなんと云おうと、俺にはわかる! おまえは今でも十分に速いが、本当はもっと速いはずなんだ! それなのになにかが鈍ってる!」

 そうした迅雷の熱気に触れることを厭がるように、サウンドオンリーの画面から真玖郎が云った。

「うるさいな、私はちゃんとやってるって云ってるだろ。君のなかで私はどうなってるんだ?」

「最速の――」

 これまで出会った誰よりも、自分を狂わせるくらいの、夢を忘れさせるくらいの、といったありとあらゆる激情を『最速』の一言に詰め込んで、迅雷は云う。

「――ライバルだよ!」

 永遠に光り輝く好敵手。それが迅雷にとっての真玖郎であった。ほんのちょっとの緩みも、妥協も、真玖郎には許されない。

 そんな信仰にも似た思いをぶつけられて、真玖郎はどう思ったであろうか。ホケキョは真玖郎の映像を出すことを許さないので、真玖郎が今どんな顔をしているのか、迅雷にはわからない。

 二台のマシンは左の高速ロングコーナーを駆け上がっていく。迅雷と真玖郎のあいだには沈黙が生じており、それを埋めるようにつばさが云った。

「……私からしてみれば、お兄さんもナイト・ファルコンも凄く速いとしか云いようがないんですけどね」

 そんなつばさの隣で、ことりも首を縦に振っている。

 翔子もまたこう云った。

「せやね。迅雷君は、隼真玖郎のことを心に大きく描きすぎちゃうん?」

「そんなことは……」

 ないさ。そう云おうとして、迅雷は迷った。もしかしたら本当にそうなのだろうか。自分のなかで真玖郎の影が実物よりも大きくなりすぎていたのだろうか。自分は真玖郎を追いかけているつもりで、いつの間にか幻想を追いかけていたのか。

 そんな迅雷を救ったのは、意外にも迅雷を嫌っているはずのホケキョであった。

「……仮想Gフォース」

 ホケキョの言葉に、その場の全員の耳が集まった。

 ホケキョが静かな迫力を込めて云う。

「……バロン。さっきの私の話を憶えてる?」

「俺が本当の馬鹿だった、って話か?」

「そう、それよ。あなたは本当の馬鹿で、だけど真玖郎ちゃんのライバルだから、やっぱり自力で気づいたのね。それもこんなにも早く」

 迅雷は苛立ち、ステアリングを握っていなければ右手をどこかに叩きつけたい気分で云った。

「もったいぶってないで答えを云ったらどうなんだ?」

「もう云ったじゃない。仮想Gフォースよ、仮想Gフォース」

 そこで言葉を切ったホケキョは、講義でもするような口調に切り替えて続ける。

「いい? オンライン・フォーミュラのバーチャルライセンスには四つの区分がある。十三歳未満のジュニア、十八歳未満のミドル、十八歳以上のレギュラー、そして十六歳以上で審査に通過した人にだけ下りるフォーミュラ。この区分によって仮想Gフォースの限界が定められているわ。仮想Gフォースを一〇〇パーセントにして走れるのはフォーミュラクラスのレーサーだけ」

 そんなことは、バーチャルレーサーになった初日にジェニファーから聞いていたことだった。

「なぜ、そんな今さらな話を?」

 するとホケキョは迅雷をくすりとわらう。

「あのね、時速三〇〇キロの世界で体感するGは猛烈なものがあるわ。それが贋物のGだとしても、脳が本物と感じるならそれは本物と変わらない。だからいくら仮想Gフォース一〇〇パーセントでの走りが許されているからといって、フォーミュラクラスのトップドライバーでも仮想Gフォースはある程度カットして走るのが普通です。それが常識というものです。だってそれが出来るのは、本物リアルのF1ドライバーだけなんだもの。でもバロン、あなたもしかしてもしかしなくても……馬鹿正直に仮想Gフォース一〇〇パーセントで走っているのじゃなくて?」

「当たり前じゃないか。体はきついが、仮想Gフォース一〇〇パーセントで走らないと、マシンのバランス感覚をフルで感じ取ることが……でき、ない……」

 話しているうちに、迅雷はある可能性に気づいた。

 それと同時に先日、めぐると千早が迅雷たちにコンタクトを取ってきたとき、めぐるが口にした言葉を思い出す。

 ――真玖郎ちゃんは本当にセンスだけなら最強だし、リアルと違ってバーチャルなら仮想Gフォースのボリューム調整で体力的な問題もクリアできる。

 あのとき迅雷はその言葉の裏にあるものを見過ごしてしまっていた。昔の真玖郎が体力的な弱さを露呈していたことや、その上で勝ちを重ね続けた真玖郎の才能のことに考えが傾いてしまっていたからだ。もしも才能を数値化できたら、自分より真玖郎の方が上ではないか、などと思っていた。

 しかし、あのときめぐるが口走った言葉をよくよく考えてみれば、ある真実が見えてくるではないか。

 そんな迅雷にホケキョが微笑んで云う。

「理解したみたいね」

 迅雷は息を呑むと、真玖郎を追いかけて走りながら切迫した口調で訊ねた。

「おい、真玖郎。おまえ、仮想Gフォースいくつにして走ってる?」

 すると真玖郎はわずかの沈黙を挟んで、観念したように白状した。

「……六六パーセント」

 迅雷は思わずステアリングから手を離して目を覆いたくなった。もちろんレース中にそんなことはしないが、心だけならそんな気持ちであったのだ。

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