第六話 羽ばたく者たち 第四幕 永遠のライバル(2)

「道理でなんかおかしいと思った! 俺のイメージからずれてるのはそれが原因じゃねえか! 今すぐボリューム上げろ!」

「……気軽に云ってくれるなあ」

「そうよ」

 と、ホケキョが真玖郎の尾について、ここぞとばかりに云う。

「あなた馬鹿じゃないの。どうしてそんな体に負担かけて走ってるの。いえ、コンマ一秒でもタイムを削るためってことはわかってるけど、普通はフォーミュラクラスだからって仮想Gフォースを一〇〇パーセントにしたりしないものなのよ? あなたがそんなに馬鹿だなんて思わなかったから、私、レースプラン、間違えちゃったかも」

 そこでため息をついたホケキョが、画面のなかで別の角度を向いた。恐らく、その視線の先に真玖郎との通信画面がある。迅雷にはサウンドオンリーでも、ホケキョは真玖郎の顔を見ながら話しているのだろう。

「真玖郎ちゃん、あなたレース前からこのことわかってたんじゃない?」

「もちろんですよ。だって迅雷はそういう男ですから。それに引き替え、私は仮想Gフォースを三分の二にカットして走っている。その分、迅雷より楽に走れますが、代償としてマシンのバランス感覚が鈍り、タイヤが伝えてくれるすべての情報を感じ取るスピードが迅雷の三分の二に落ちる。これがボディブローのように効いてくることを、私はレースが始まる前から判っていました。序盤に勝負を仕掛けた理由の一つは、そこにあったんです」

 これで真玖郎のオーバーテイクは戦略的な意味でより完璧さを増した。敵を知り、己を知って勝負に出たのだ。迅雷は改めて真玖郎の凄さを再認識しつつ、しかし先ほどの真玖郎の言葉に怒りを覚えていた。

 ――私は手を抜いてなんかいない。全力でやってる。

 今となっては、実に腹立たしい言葉だ。

「やっぱり、全力でやってなかったじゃないか!」

 するとそれにはホケキョが鋭い反論をした。

「それは違うわ、バロン。真玖郎ちゃんの体力を考えた場合、仮想Gフォース六六パーセントがデッドラインなの! だから真玖郎ちゃんは間違いなく全力でやっているわよ! 仮想Gフォース一〇〇パーセントで走っているあなたがイレギュラーなの!」

「それは、だが――」

 たしかに真玖郎は昔から線の細い部分があった。だがあれから二年近い歳月が流れている。体を鍛える時間は十分にあったはずだ。それとも真玖郎はそれを怠っていたのだろうか? いや、それは想像できない。迅雷の知る限り、真玖郎は基本的に真面目で努力家だ。毎日を怠惰に過ごすはずがない。

 そんな迅雷の考えを肯定するように、そのとき真玖郎が云った。

「これでも体はきちんと鍛えてるんだよ。それでもやっぱり仮想Gフォース一〇〇パーセントは過酷だった。色々試した結果、一回のレース・セッションをフルに走りきるには六六パーセントが適切だろうという判断に至ったんだ。だから、私はこれでいい」

「――おい」

 迅雷は膨れあがる怒りとともにそう声をあげていた。

「これでいいだと? ふざけるな、いいわけないだろう。たしかに時速三〇〇キロの世界は過酷だ。だが俺がそれで走ってるのに、おまえは汗を流さず悠々と走るつもりか。そんなんで俺に勝てると本気で思ってるのか。さっきホケキョがデッドラインとか云ってたけど、男ならデッドラインを踏み越えてこいよ」

「……男なら?」

「そうだ。真玖郎、もう一度云うぞ。今すぐ仮想Gフォースのボリュームを一〇〇パーセントにあげろ。俺はおまえと、お互いベストを尽くして戦いたいんだ!」

 そんな迅雷の熱い想いに、しかし真玖郎はなにも答えようとしなかった。

「……どうした?」

 だが、やはり真玖郎は答えない。サウンドオンリーの冷たい英文が、沈黙をだけを返してくる。

 ここに至って、迅雷は考えを切り替えた。

「よし、わかった。そういうことなら宣言だ。次の周回でおまえを抜いてやる」

「なに!」

 それには口を緘していた真玖郎もそんな声をあげた。こうした話をしているあいだも迅雷と真玖郎は走り続け、レースは第二十四ラップの最終コーナーを回ったところだ。

「さあ、トップの二人がメインストレートに帰ってきます! 今、コントロールラインを駆け抜けて、第二十五ラップへ!」

 ジェニファーの声とともに迅雷は下り傾斜のついたメインストレートを駆け下っていく。迅雷は冷静にマシンを駆動させる自分と、真玖郎への怒りに目の眩みそうな自分、二人の自分を感じていた。

「おまえは俺に比べてマシンの挙動を感じ取るのが三分の一ほど遅れる。それで今まで勝ってこられたのは、相手が俺じゃなかったからだ。この俺を相手にしては勝てない。それを今から教えてやろう!」

「……迅雷!」

 迅雷と真玖郎は競り合いながら、牽制しながら、第一コーナーへと飛び込んでいく。

「勝負所を前に激しく攻めるバロンですが、ファルコンがそれを許しません! 依然としてファルコンが首位で第一コーナーをターンします!」

 するとサウンドオンリーの画面から、第一コーナーを制した真玖郎が余裕のない声で云った。

「負けないさ」

 それが迅雷には、強がりのように聞こえた。

 そして二人は第二コーナーを回り、S字に入る。

 そのかん、通信画面のなかではめぐるが千早に尋ねていた。

「……なあ、仮想Gフォースが一〇〇パーに対して六六パーだと、そんなに差が出るもんなの? ほとんど変わらなくね?」

「いや、バロンと真玖郎ちゃんの腕前が互角だとしたら、たしかに差はつくだろう。単純に考えてバロンが〇・一秒タイムを削れるところで、真玖郎ちゃんは〇・〇六秒しかタイムを削れないことになるんだから。そうした小さなタイム差が積み重なったら……」

「……負けるじゃんよ」

 呆気にとられたように呟いためぐるに、このときホケキョが云う。

「バロンと真玖郎ちゃんが互角だとしたらね。私の見込みでは、それでも真玖郎ちゃんの方が速いはずよ」

 だが迅雷に云わせれば、それは見込みではなく願望であろうと思う。そして今からその願望を、大地に叩きつけてやるつもりであった。

 S字を抜けたところで、翔子が居ても立ってもいられぬとばかりに尋ねてくる。

「それで迅雷君、ほんまのところどうする気?」

「どうもこうも抜くんだよ。真玖郎が仮想Gフォースをカットして走ってるなんて思わなかったから惑わされたが、状況がはっきりした以上はプランも決まった。次で抜く」

「次とは、シケインですか?」

 そう尋ねてきたのはつばさであった。鈴鹿最大の勝負所の一つであるから、彼女がそこを勝負の場と思ったのもむべなるかな。しかし迅雷はヘルメットの下でにやりと笑って、なにも答えない。真玖郎も聞いているのに、なにも馬鹿正直に仕掛ける場所を教えてやる必要はなかった。

「……まあ見ていろ」

 迅雷はそう云って、先を行く真玖郎のあとを追い、ダンロップコーナーを駆け上っていく。そのとき真玖郎が口を挟んできた。

「……そんなことを云って、本当は仕掛けるつもりなんてないんじゃないのか」

「なに?」

「そろそろ頭も冷えたころだろう。冷静に考えればわかるはずだ。今の君の状況から鈴鹿で勝ちたかったらタイヤを温存するしかない。それを中盤で……ありえない!」

「そうだな。俺もそう思う。だがそのありえないことを、やってやるって云ってるのさ」

「……馬鹿な! 迅雷、君らしくないぞ。それは勝つためのプランじゃない。それはただ、そう、ただ私をその気にさせるためだけの……」

 そのとき真玖郎の言葉が急に途切れた。行く手に別のマシンが見えてきたからだ。

 それを実況の方でも捉えてジェニファーが云う。

「先頭の二人は、ここでとうとう最後尾のマシンに追いつきした。第二走者がレースを終えた時点で先頭と最後尾ではかなりの差がついていたんですが、ファルコンとバロンが走り始めてからは五周を待たずして追いついてしまった。本レース初の周回遅れが出ます。当然、最後尾のマシンにはブルーフラッグが掲示されます」

 場所はダンロップになっている左の高速ロングコーナーだ。周回遅れのマシンは速やかに右側によってインを空け、真玖郎と迅雷が通り過ぎるのを見送った。

 すれ違いざま、迅雷はそのマシンを横目で一瞥してから云った。

「さっきジェニファーさんも云ってたが、セイバーズは追い上げてるんだっけ」

 それには翔子が笑って云う。

「うん、プリンスはよう頑張ってるわ。でも今のペースやとだいたいファイナルラップあたりで迅雷君たちに追い抜かれるんちゃうやろか」

「ふうん」

 迅雷はそう返事をすると、次の瞬間に恋矢のことを忘れた。どのみち、恋矢は今回の勝負には絡めない。可哀想だが、周回遅れにされることがほぼ確定しているドライバーのことを気にしても仕方がない。それより目の前の真玖郎だ。

 真玖郎と迅雷は東コースの頂上ピークを越え、つばさが千早を追い抜いたデグナーカーブへと向かう。

「ここは……」

 と、ホケキョが声を絞り出した。

 デグナー・ワンへの進入は、バランス感覚が要求されるところだ。つまり迅雷に有利である。

 そんなホケキョの肩に手を置いて千早が云う。

「大丈夫だ。今までだって、真玖郎ちゃんはここでバロンに抜かれてはいなかった」

「でも、バロンはもう真玖郎ちゃんの弱点を知ってしまった。アプローチが変わらないとも限らないわ」

 そう云ってホケキョは通信画面越しに、警戒に満ちた眼差しで迅雷を睨んでくる。迅雷はふっと笑って、デグナー・ワンに向かって加速した。

「さあ、デグナーです」

 ジェニファーはそれだけ云うと見守る構えだ。そして真玖郎が、迅雷が、相次いでデグナーカーブを駆け抜けていく。

 めぐるが拍子抜けしたように云った。

「なにも起きないじゃん」

「ここでは、仕掛けてこなかった……?」

 ホケキョの呟きに、当たり前だろうと迅雷は思う。どうせ勝負に出るのなら、迅雷のマシンの特性を最大限に活かせるところでなくては意味がない。そこがタイヤの使いどころというものだ。それを真玖郎は見抜いているだろうか。

 ――見抜いていたとしても、どうにもさせないんだがな!

 そしてそのまま、じりじりと、導火線が燃えていくように迅雷は真玖郎を追って走り続けた。立体交差橋の下、ヘアピン、マッチャンと呼ばれる二つの右コーナー、その先はスプーンカーブだ。

「ファルコン、バロンはまもなくスプーンカーブ。五つの複合左コーナーですが、体感では一つの大きな左コーナー、重要になるのはいかにスピードに乗った状態で脱出するか!」

 そこへ真玖郎と迅雷が相次いで飛び込んでいく。

 入り口内側の縁石にタイヤを引っかけつつ、オーバースピード気味に突っ込んでブレーキを踏み、外側の縁石を目安にしてブレーキからアクセルに切り替えてターンし、今度は出口に向かってアプローチする。

 この一連の流れを再現するのは同じだったが、この周回の迅雷は、スプーンカーブへの進入が本当の意味でオーバースピードだった。

「お兄さん、速すぎる!」

 ピット画面でそう叫んだつばさの尾について、ストームヴィーナス側から千早が云う。

「いや、これは……仕掛けてきた! 真玖郎ちゃん!」

 千早がそう叫んだときには、真玖郎はもうブレーキを踏んでいた。迅雷は左側に急制動のかかる赤いバイラウェイを見ながら、なおも加速していく。コース幅を目一杯に使っての、オーバーテイクが起ころうとしている。

 その瞬間、キャノピー越しにブルーブレイブを見ているに違いない真玖郎が叫んだ。

「仕掛けてくるならここだと思っていた! だが迅雷、そのブレーキングは!」

「ここでタイヤ全部使い切ってもいい!」

 そして迅雷はいつもよりブレーキングポイントを奥に取ってマシンを制御すると、アクセルに切り返してターンし、真玖郎に先んじてスプーンの出口へ手を伸ばす。

 それを真玖郎はどうにも出来ない。いや、あるいはどうにか出来たのかもしれないが、その上で見過ごしたのだとしたら、きっと真玖郎は見極めたかったのだ。迅雷が真玖郎を仮想Gフォース一〇〇パーセントに引っ張り上げるためだけに、どこまでやるのかを。

「本気か、迅雷! 本気でこの周回中に私を抜く気か!」

「そう云ったろうが!」

「だがタイヤマネジメントにこだわるはずの君が、中盤でタイヤを捨てて――」

 その瞬間、迅雷は熱風を感じた。

 オンライン・フォーミュラでは仮想Gフォースはあっても風はない。それでもその一瞬、サーキットの熱い風が吹いた気がした。

 そして。

「ここでバロンがオーバーテイキング! しかもなお、その勢いに乗ったままスプーンを脱出し、鈴鹿最長一二〇〇メートルのバックストレートへ!」

 そんなジェニファーの嬉しげな声を聞いて、ホケキョははたと気づいたようである。

「まずい、真玖郎ちゃん、スリップに入って! このままだと走られる!」

「もう遅い!」

 迅雷はホケキョの言葉をそうぶった切ると、青いマシンで直路すぐじに乗り出し、一気に加速する。スプーンを出た時点でかなりのスピードがついていたから、これは猛烈に速かった。

「ファルコン、バロンに遅れること僅かでスプーンを脱出してきましたが、これはスリップに入りきれない。バロンが、逃げていく!」

 ジェニファーの実況通り、バックストレートで迅雷と真玖郎の差が徐々に開いていく。ストレートにおいて青と赤のマシンに生ずる、埋めがたい差であった。

「ファルコン、バロンに離される! バロンが独走態勢に入った! これがファイナルラップならバロンの勝利がほぼ決まっていたでしょうが、しかし今はまだ二十五周目、前半です! この時点でタイヤの薄い青のマシンが、あんなフルブレーキングをしてしまって本当によかったんでしょうか!」

「せや!」

 ピットでは翔子がカメラの方に身を乗り出していた。

「スプーンで勝負したんはわかる。どうせタイヤ使うならそのあとのバックストレートに繋げて逃げ切り図ろうって腹やろ。ウチでもそうしたわ。でも、今のでタイヤをかなり使ってしまった。前半でそれって、戦略的にどうなん?」

 そんな翔子の心配はもっともだ。この先、ふたたび競った状況に陥れば、今度はタイヤが持たない。際どいブレーキが出来なくなる。

 だが迅雷はヘルメットの下で笑った。

「安心しろ。このまま逃げ切ってやる。真玖郎はもう寄せ付けない」

 するとこれには真玖郎が口を挟んできた。

「……本気で逃げ切れると思っているのか」

「思ってるさ。今のままなら、もう二度と際どい状況にはならない。おまえがストレートはもちろん、コーナーでも遅いから、差の詰まりようがない。だから間違いなく逃げ切れる」

 すると迅雷はサウンドオンリーの英語表記があるだけの画面から、真玖郎の怒気が伝わってくるのを感じた。

 だが、それでもまだ煽る。

「ところでおまえさっき云ったよな。二位が一位を遅いだなんてどの口で云えるんだ、私の走りに缺痴けちをつけたいなら、私を追い抜いてからにしろ――って」

 真玖郎の返事はなかった。

 まったく、ヘルメットを被っているのがもったいない。真玖郎側には迅雷の映像が見えているはずだから、ヘルメットを被っていなければ、勝ち誇ったような笑顔を見せてやれたに違いないのだ。

「どうだ、抜いてやったぜ。だから今度こそ云わせてもらう。おまえは速いが、本気で俺と競り合いたいなら、ぐだぐだ云わずにもう一枚ギアを上げろ。仮想Gフォース一〇〇パーセントしないと、本当にこのままレースが終わっちまうぞ」

「……迅雷!」

 冷たい怒りの声が、迅雷の耳を突き刺した。その怒りのまま仮想Gフォースを一〇〇パーセントにしてくれればいいのだが、後方を走るバイラウェイにはまだその気配がない。

 そこへ翔子が慌てて云った。

「迅雷君、煽るのやめえや。それで隼真玖郎が仮想Gフォース一〇〇パーにしたら、追い詰められるの迅雷君の方やで?」

「……ふん」

 そんなことは迅雷だって解っていた。それでも真玖郎とは、対等な条件で勝負がしたいのだ。迅雷の方が仮想Gフォースを六六パーセントにするという手もあったが、そんなことは馬鹿げている。自分が下りていくより真玖郎に上がってきてほしい。そして真玖郎との戦いの喜びを、もっと大きなものにしたい。

 だがこれは迅雷と真玖郎の勝負であると同時に、チームの戦いでもあるはずだった。

「……ま、チームオーダーだっていうなら従うけどさ」

「そういう云い方するってことは、従いたくないんやね?」

 するとつばさが翔子の肩に手を置いた。

「翔子ちゃん」

 迅雷がこうした挑発行為に出る理由を、本当は翔子もわかっているはずなのだ。翔子はつばさになにか云いたげな目をしたけれど、結局は折れたのか、椅子にもたれて脚を高く組んでから仕方なさそうに云った。

「ま、ええ。ウチもさっちゃんもりーちゃんも迅雷君に託してるからな。迅雷君の好きに走ったらええよ」

「……すまんな」

「ふふっ。これで負けたら、来るべきウチと迅雷君の初デートで迅雷君はえらいことになるから」

 冗談とも本気ともつかぬ翔子の言葉に思わず笑った迅雷は、口元を引き締めるとサウンドオンリーの画面を見た。

「さあ、俺の本気は見せてやった。今度はおまえの番だぜ」

「くっ……」

 真玖郎の声には、はっきりとした怯みがあった。

 迅雷は真玖郎をライバルだと思っているから、終盤まで温存しておくべきタイヤを中盤でほとんど使い切ったのだ。今度は真玖郎の番である。真玖郎は迅雷をライバルだと思っているのかどうかを、その走りで示さねばならない。

「迅雷、君は……本当に、馬鹿だな! 本当に、馬鹿だ……」

 真玖郎がそう言葉を噛みしめたとき、レースはそろそろバックストレートを使い切ろうとしていた。

「さあ、第二十五ラップ、ふたたびトップの座をものにしたバロンが今、五度目の一三〇Rに飛び込んでいきます!」

 その一三〇Rを、迅雷が全速で駆け抜けていく。その先のシケインも間違うことなく、急減速しつつも今の状況でできる限り迅速に駆け抜けていった。

 それに遅れて真玖郎も一三〇R、シケインを電光石火に突破してくるのだが、迅雷には追いつけない。

 それを見て、ジェニファーが画面のなかで身を乗り出して云う。

「バロンとファルコンが最終コーナーを回って、今、第二十六ラップに入りましたが、少しずつ両者の差が開き始めています! バロン、このまま逃げ切りなるか、それともファルコンが追いつくのか! TSR決勝、最終走者のレースは後半戦に突入!」

 このような状況にあって、ストームヴィーナス側のピットでめぐるが云った。

「なあホケキョ姉さん。もう仮想Gフォース一〇〇パーに上げちゃわね?」

 迅雷にとってもホケキョにとっても、驚きの声をあげたくなるようなめぐるの提案であった。ホケキョはたちまち目に角を立てて、迅雷からは見えないめぐるを睨みつける。

「なにを云ってるの!」

「だってレース中にドライバーが任意で仮想Gフォースのボリュームを調整するのって、たしか無理じゃん? ドライバーの負担に関することだから、レース中にボリュームを変更する場合、ピットクルーの判断がどうたらこうたらって理屈でさ。だから変更するならピットからの操作じゃないと駄目だったじゃん?」

「そういうことを云ってるのじゃなくて……」

 じれったそうなホケキョの言葉を遮って、めぐるはなおも云う。

「だって実際抜かれちまったし、こっから勝つためにチームとして取る戦略はそれしかないじゃんよ」

「だとしても――」

 と、千早が二人のあいだに割り込んできた。

「――真玖郎ちゃんの同意なしでいきなりそれをするのはありえないだろう」

 そこで言葉を切った千早が、恐らくは通信画面越しに真玖郎の顔を見ながら云う。

「それで真玖郎ちゃん、どうする? 時間が経てば経つほどチャンスが減っていく。決断するなら早い方がいい」

 そんな千早の問いにさえ、真玖郎はなにも答えようとしなかった。

 そこへ迅雷は、相手を挑発するような勢いのある口調で云う。

「ほら、どうするどうする真玖郎。めぐるは俺に賛成みたいだぜ?」

「おまえに賛成したわけじゃねえよ!」

 すかさずめぐるがそう訂正してきたが、迅雷はそれを完璧に無視して続けた。

「千早も内心じゃこっち側だ。おまえは、どうするんだよ。このままレース終わっちまっていいのか? まだ勝負したいだろ!」

 ――してくれよ。

 迅雷が心でそう祈りを付け加えたとき、ようやっと、サウンドオンリー画面から真玖郎の声がした。その声には苦悩が濃く滲んでいた。

「迅雷、君は、どうしてそこまで私を……」

「どうして? どうしてだと!」

 迅雷の怒りの炎に薪がくべられる。心の奥底から憤激が突き上げてくる。

「なにを今さら! それはおまえが俺のライバルだからだ!」

 ライバルだから、全力で戦いたい。相手が仮想Gフォース六六パーセントで走っていると知って、それで勝ってもちっとも嬉しくない。それが迅雷の心だ。

 では、真玖郎は違うのだろうか。それはたしかに真玖郎は昔から線の細いところがあった。体力面に不安があるからこそ、仮想Gフォースのボリュームを絞っているのだろう。しかしかといって、このまま不完全燃焼でレースを終えて満足なのか。

「おまえは俺に勝ちたくないのか? 俺はおまえに勝ちたいぞ。それはおまえが俺のライバルだから。そう、おまえは俺のライバル。じゃあ俺はおまえの、なんだ!」

「ライバルだ!」

 それは真玖郎の、血の奔騰に掻き立てられるような叫びだった。

 そしてその叫びの直後、迅雷と真玖郎は相次いで第一コーナーへと突入していく。

「第一コーナーですが、ここはバロンが先行しています。続く第二コーナーも難なくターンし、そして迎えるはS字!」

 このS字コーナーを、迅雷は軽々と走り抜けていった。タイヤがあとどれほど持ってくれるのかは不安なところだが、使ってしまったタイヤは戻らない。行けるところまで行くだけだ。そして一方の真玖郎もまたS字を迅速に駆け抜けてくる。だが。

「……そうだ。タイヤが伝えてくれるすべての情報をもっとクリアに感覚できれば、すべての切り返しをもっと速く行える。私はもっと速く、なれる……!」

 声だけではあったが、迅雷はそこに真玖郎の一点に凝集された感情が灼熱するのを見た。そして。

「ホケキョ姉さん、私の仮想Gフォースを一〇〇パーセントに上げてください!」

 よし、と迅雷は内心で歓喜し、翔子は通信画面のなかで「わちゃあ」と云いながら頭を抱えていた。

「これで本当に本当の最終決戦か……」

 つばさがそう、しみじみと呟いたときである。

「だめよ」

 ホケキョの言葉が、すべてをぶった切った。

 一拍置いて、真玖郎がふるえる声で云う。

「な、なぜ……?」

「チームリーダーとして認められないわ。病は気からとか、火傷をしたと思い込んだだけで皮膚に蚯蚓みみず腫れができた話とか、聞いたことがあるでしょう。人間の体にはそういうところがあるの。体と心は繋がってるのよ。だから仮想Gフォースを一〇〇パーセントにして走ったら、真玖郎ちゃんの体になにが起こるかわからない。私はそれが心配なの」

「ホケキョ姉さん……!」

 真玖郎の声は今にもばらばらに砕け散りそうであった。

 その尾について、迅雷もまた怒りに突き動かされて云う。

「おい、邪魔するなホケキョ! これは俺と真玖郎の勝負なんだ!」

「と同時にストームヴィーナスとソアリングの勝負でもあるわ!」

「ぬ――!」

 叫び出しかけた迅雷は、しかし深呼吸を一つすると怒りの感情をどうにか宥め、左の高速ロングコーナーを走っている今、自分を襲っている猛烈な横Gを感じながら云う。

「いいか、ホケキョ。仮想Gフォース一〇〇パーセントはたしかに過酷だ。リアルでF1で走ってるのと変わらない。俺は毎回、汗が噴き出し、コーナーによっては息が出来なくなる。だがそれでも、耐えられないほどじゃない。そうとも、俺がこうして耐えているのに、真玖郎が耐えられないなんてことがあるか! 男なんだから!」

 その瞬間、ホケキョがコンソールに勢いよく掌を叩きつけて叫んだ。

「違う! 真玖郎ちゃんは女の子よ!」

 一瞬、迅雷はなにを云われたのか解らなかった。頭が理解を拒んでいた。が、時間の経過とともに、ともかく字面だけは理解する。

 そして。

「……は?」

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