第六話 羽ばたく者たち 第四幕 永遠のライバル(3)

 出てきた言葉は、そんな間抜けなものだった。目は鳩のようで口をぽかんと開けていて、左の高速ロングコーナーに入っていなければ事故を起こしていたかもしれない。

 ともあれ、ようやく頭が働き始めた。

「はああっ?」

 迅雷は、おまえなに云ってんの、という意味でホケキョを非難するようにそんな声をあげていた。妄言としか思えない。迅雷に精神的揺さぶりをかけようとしてのことだとしても、あまりにもでたらめすぎる。

 だがホケキョは一歩も引かずに繰り返した。

「だから! 真玖郎ちゃんは女の子! わかった?」

 わからない。それが迅雷の心の答えだ。だが迅雷がそれを云うより早く、真玖郎が呻くように云った。

「ホケキョ姉さん……」

 それは手から砂のこぼれていくのをどうしようもないような、諦めの声であった。それが迅雷には解せない。なぜ強く否定しないのか。迅雷であれば怒っているところだ。

 しかし真玖郎はそれきり沈黙し、そこへめぐるが他人事のように云う。

「あーあ、ばらしちゃった」

 その尾について千早もまた云った。

「ばらしてしまったな。だが時間の問題だったはずだ。良かれ悪しかれ遅かれ速かれ、真実を伝えねばならなかったさ」

 さらには味方であるはずの翔子までため息とともに云う。

「あー、やっぱりか」

「しょ、翔子ちゃん?」

「やっぱりかって……」

 つばさとことりが口々に翔子をそう問い糾すと、翔子は笑いを含んだ声で云った。

「いや、昨日なんとなく、気づいてしもうて……でも迅雷君にはありえへんことやろうし、ウチの勘違いかもしれへんから黙ってたんやけど、隼真玖郎が女やったと考えると、色んなことに辻褄が合うなあって」

 そんな周囲の話を聞いているうちに、なにか外堀が埋められていくような奇妙な切迫感が迅雷を襲った。

「……いや。いやいやいや。いやいやいやいや」

 人間、本当に緊張したり狼狽したりしたときは、言葉が馬鹿になってしまうものである。今の迅雷もその状態で、とにかく心がそれを受け容れることを拒んでいた。

「ありえないから!」

「だったら今から証拠を見せてあげる。真玖郎ちゃん、悪いけどバロンのコックピットとのリンク方式を変えるわよ。通信画面、映像付きで出すわ。カメラを引いて、バストアップでね」

 それに真玖郎が弱々しげな声で云った。

「ちょ、少し、待って下さい。その前に迅雷と話をさせて下さい」

「待ちません。でも私は手をゆっくり動かすから、少しの話をするくらいの時間はあるかもしれないわね」

 そう云うとホケキョはなにか作業にかかった。

「ホケキョ姉さん」

 真玖郎は懇願するように云ったが、ホケキョはもう取り合わなかった。

 そうした次第で、デグナー・ワンへ向かって道を駆け下りながら、真玖郎がすまなそうに口を切った。

「……迅雷。その、突然のことで驚いていると思うけど」

「な、え……なんなの? マジなの? なにもかもがおかしくないか?」

「とにかく落ち着いて、少しだけ私の昔話に付き合ってほしい」

「昔話?」

「そう、私の父の話だ。君と最後に会った日にも、話したと思うけど――」

 迅雷はまだ心が迷子になっていたが、真玖郎が語り出しては耳を傾けるよりほかになかった。

 それから真玖郎が話し始めたことを要約するとこうだ。

 真玖郎の父親はF1ドライバーになりたくてなりたくて、人生を磨り減らすほど努力し、でもなれなかった男だった。だが物語はここから始まる。夢に破れた男にはありがちなことだが、彼は自分の夢を我が子に託そうとしたのだ。ところがその計画はいきなり暗礁に乗り上げてしまった。というのも、真玖郎の母親が産褥で命を落とし、男には真玖郎しか残らなかったからだ。

「母の妹……現在の私の保護者である叔母さんによると、母は父のことを可愛い人だと語っていたそうだよ。その意味が今ならわかる。父は不器用で、母以外の女性には愛されなかったんだろう。だから再婚とか後妻とかはたぶん無理だった。父の子供は後にも先にも、私一人しか見込みがなかったんだ。だから父は、生まれて来た娘に真玖郎という男の名前をつけ、娘を息子として育てることにしたんだ。女性のF1ドライバーで大成した人はいないからね。父の夢を継ぐ私は息子でなくてはならなかった。昔話っていうのは、そういう私の生い立ちのことだよ。聞いてくれてありがとう」

 迅雷は返事もできなかった。舌が動かない。心が麻痺しているかのようだ。

 だが辻褄は合っている。

 真玖郎は昔から線が細くて中学生になると周囲のドライバーに体力面で劣るところが目立ち始めた。また父親の命令でいつも坊主頭で通しており、その一方でいつも長袖の服を着ていて体を隠すようにしていた。声は十七歳になってもソプラノで、一人称はいつの間にか『私』になっている。こうしたいくつかの点について、真玖郎が女だとすると、辻褄が合ってしまう。

 それにサイモンはこう云っていた。

 ――かなり変わっていて驚いた。向こうから声をかけられなければそれと判らなかったくらいだ。

 また先日、めぐるに男一人女三人のチームはやらしいと云われたとき、迅雷がそれはそちらも同じだろうと返すと、めぐるはこう云ったのだ。

 ――なに云ってんだ、こいつ?

 他にも、どれもこれもが思い返せば常に一つの答えを示す矢印になっている。

 だが、それでも迅雷の心はこう叫ぶのだ。

「……でも、そんなの、信じられるか!」

 そのときだった。

「映像、出すわよ」

 ホケキョが喜悦の滲む声でそう云ったその直後、サウンドオンリーの英語表記のみがあった画面に向こうのコックピットの映像が映った。

 さきほどホケキョの云った通り、カメラを引いており、相手ドライバーがバストアップサイズで映し出されている。

「真、玖郎……」

 通信画面に現れた真玖郎は、赤いヘルメットを被っていた。バイザーを上げていて、見覚えのある緑の瞳がよく見える。しかし首筋から肩にかけての線は細く花車きゃしゃで、なにより半袖のTシャツを着た胸の部分が大きく膨らんでいた。今は冬だがエントリーシート内は空調が効いているし、仮想Gフォースをある程度のボリュームに上げていると汗も掻くから、薄着であってもおかしくはない。そして薄着であるだけに、その体が隠しようもなく女であることが一目瞭然であった。

 その女が云う。

「やあ迅雷、今まで黙っててごめんね。実は私は女なんだ」

「あ……え……」

 映像と告白を視聴覚で同時に受け取った迅雷は、天と地を切り離すような巨大な空白に思考を埋め尽くされ、レース中にレースを忘れた。あとにも先にもこれほど驚いたことはない。一生で一番の衝撃と混乱が襲いかかってくる。クラッシュしなかったのはたまたまバックストレートに入っていたからだ。つまり運がよかった。

「さあ、先頭を往くバロンはまもなく一三〇R!」

「迅雷君、前見てるよな? 一三〇Rやで!」

「あ、ああ……」

 ジェニファーの実況、そして翔子の叫びで、体が勝手に動く。迅雷は体に叩き込まれた本能的な動きで、見事に一三〇Rをターンした。それを追いかけて、真玖郎のバイラウェイも一三〇Rを駆け抜けていく。

 シケインを突破し、最終コーナーを回ってメインストレートに返ってきたところで、一息ついた迅雷は改めて通信画面のなかの真玖郎を見た。

 ヘルメットを被っているから面輪おもわしかとは見極められないが、この緑の瞳は間違いなく真玖郎だ。声も昔と変わっていない。それなのに胸のふくらみがある。

 そんな視線をカメラ越しにも感じ取ったのか、真玖郎はちょっと恥ずかしそうに云った。

「驚くのも無理はないけど、あんまりじろじろ見ないでくれ」

「だっておまえ……」

 迅雷はまだ、自分の正常な思考や認識がずたずたに切り裂かれた状態だった。

 ――真玖郎が女? 嘘だろ。だってそんなの、ありえない。真玖郎は子供のころから知ってる、俺の、ライバルで……女だった。

 突然、なにかが嵌るように、迅雷はそう認識した。現実を受け容れた。ずっとうろうろしていたのが、落ち着く椅子を見つけたような気分だった。

 そして。

「マジかよ。マジでおまえは女なのかよ」

 すると真玖郎がくすりと笑う。

「そうだよ。なんだったら、今度会ったときに、色々と見せてあげようか」

 真玖郎はそう云うと、なにやら恥ずかしがって顔を隠すようにヘルメットのバイザーを下ろしてしまった。

「先頭のバロン、今コントロールラインを駆け抜けて、レースは第二十七ラップに突入します!」

 ジェニファーのその叫びが、迅雷の意識に一撃をくれる。第一コーナーに向かってアプローチせねばならない。

 ――そうだ。レース中だ。集中しないと。でも。

「待ってくれ、こんなの心が追いつかない!」

 迅雷は一度レースを止めて頭を整理したいくらいだった。前提となっているすべての土台がひっくり返されたのだ。

「うっそだろ、おまえ!」

「事実だ。現実を受け止めろ、迅雷」

 その真玖郎の尾について、チーム・ストームヴィーナスの面々が口々に云う。

「真玖郎ちゃんが今までどんな気持ちでいたのか、思い知りなさい、バロン」

「ばーかばーか」

「バロンよ。我が友の想いを受け容れるがよい」

 一方、チーム・ソアリング側のピットではなにやら女たちが深刻そうである。

「これはまずいことになったね」

「まさか隼真玖郎が女とは……」

 順にことりとつばさの言葉だ。さらに翔子が腕組みしながら云う。

「プランを練り直さんといかんな」

 なんのプランか聞きたくはあったが、それより真玖郎の方が優先だ。迅雷は第一コーナーを先頭でターンし、第二コーナー、S字で真玖郎を徐々に引き離し、ダンロップになっている左の高速ロングコーナーにやってきた。

 そのときには動揺も一段落がつき、大地に水がしみこむがごとく現実を受け容れることができていた。

「そうか……そうか……そういうことか……だが、それでもわからないな」

「なにがだい?」

 そう問い返してくる真玖郎を、赤いヘルメットの女ドライバーを通信画面越しにじっと見ながら、迅雷は云う。

「わからないのは、おまえがこうしてバーチャルレーサーとして走っている理由だ。おまえは親父さんにレーサーをやらされてきた。だから親父さんが亡くなったのをきっかけにレースを辞めた。そう云ってたよな」

「ああ。私は普通の……普通の女の子になりたかったんだ。そしてこれは今だからわかることだけど、自分の人生を生きてみたいと思った。父に決められた人生じゃない、私の人生を。だから一度レースから離れて、本当の自分を探したかった。あれ以上、性別を偽り続けるのも無理があったしね」

「それでどうしてバーチャルレーサーだったんだ? レースを辞めると云って俺の前から去ったくせに、結局おまえは走ってる。なぜだ?」

 それはサイモンより、真玖郎がバーチャルレーサーとしてゲームの世界で走っていると聞いたときから、いつかは絶対に問いただしてやろうと思っていたことだった。今こそその答えを得ようとばかり、迅雷は詰問する。

「なぜ、リアルじゃなくてバーチャルだったんだ?」

 切実な響きを帯びた声で迅雷が訊ねると、真玖郎は苦笑の気配とともに云った。

「……サイモンさんから聞いてると思うけど、私がバーチャルレーサーになったのは中学生のときだ。いいシミュレーターがあるからやってみないかって誘われてね。でも当時の私にとってオンライン・フォーミュラは手慰み程度でしかなかった。オンライン・フォーミュラが優れていることはすぐにわかったけど、私の気になるレーサーはバーチャルサーキットにはいなかったからね」

 迅雷は自分の血の温度が上がるのを感じるとともに、自惚れでなく確信を持って云う。

「その気になるレーサーっていうのは、俺のことか」

 真玖郎はそれには答えず、こう続けた。

「オンライン・フォーミュラを本格的に始めたのは去年の秋頃だよ。高一の秋、君と別れて半年くらい経ってからかな」

 そう、ナイト・ファルコンが頭角を現わし始めたというのも、ちょうどそのころだったはずである。だから真玖郎はバーチャルレーサーとして早い段階で登録を済ませていたが、本格的に活動を始めてからは、まだ二年と経っていないのだ。

 そして真玖郎は、まるで罪の告白でもするように云う。

「君の前を去ったあのあとね、全部やめようと思った。リアルレースはもちろん、片手間にやってたオンライン・フォーミュラも、レースに繋がるものはすべて断ち切ろうと思って、運転免許も取らないぞなんて思いながら、新しい街で新しい生活を始めていたんだ。髪を少し伸ばして、女子高に通って、スカートなんて生まれて初めて穿いたよ」

 真玖郎はそこで笑ったが、迅雷は笑えなかった。

「最初のうちはすべてが新鮮だったけど、すぐに色褪せてしまったな。叔母さんにいい暮らしをさせてもらって、文句なんか云えるわけないけど、正直なにかが物足りなかった。その物足りなさの正体がわからないこと以外は、不満はなかった。友達も出来たしね」

 そこで言葉を切った真玖郎は、ピットとの通信画面を一瞥したようだった。

「そう、同じ学校に通うホケキョ姉さんや千早たちだ。で、そのホケキョ姉さんたちが、なんとバーチャルレーサーだったんだよ。レースをやめて女の子として生きてみて、初めてできた友達が、レーサーだったんだ。私はそこに自分の生まれついた星を見た。でも向こうは私の事情なんてなんにも知らないから、自分たちのレースの動画を嬉しそうに私に見せてくれて……女の子でもこんなに速く走れるのよ、あなたもやってみない、って。そのときは断ったんだけど、それが強い言葉になっちゃったものだから、逆に心配されちゃってさ。そのあと色々あって、ホケキョ姉さんには私の身の上とか全部話してしまったんだ。そうしたらホケキョ姉さん、こう云ったよ」

「――あんな風に怒るってことは、あなたまだレースのこと引きずってるのよ。もうお父さんはいないんだから、もう一度自分の意思でレースに向き合ってみたら? 自分の心を確かめるには、クルマに乗るしかないと思うの」

 そう割り込んできたのはホケキョだったが、それは当時真玖郎に云ったことをそのまま繰り返したのだろう。

 真玖郎が笑いを含んだ声で云う。

「そう、それ。それで私は、もう一度だけオンラインでレースをやってみることにしたんだ。そしてナイト・ファルコンとしてバーチャルサーキットで走ってみて……涙が出てきた。そして気づいた。私はレースが、クルマが、スピードが、こんなにも好きだったんだって。落とし物に気づいたような気分だった。父の亡霊から解き放たれて、自分の意思で走ってみて、私はレーサーとしての自分を初めて好きになった。その日から、私は本当の意味でバーチャルレーサーになったんだ。バーチャルレーサー、ナイト・ファルコンの誕生さ」

「なぜ――!」

 真玖郎の痛切な告白を聞いて、しかし迅雷の胸に突き刺さったのはまたしても『なぜ』であった。

 なぜ、ゲームの世界だったのか。

 なぜ、現実ではなかったのか。

「レースが好きだって気づいたんなら、どうしてF3の世界に戻ってこなかった!」

「……体力面で不安があったのと、なにより君に会うのが怖かった」

「俺に?」

「今の私を君に見られて、君にどう思われるのかがたまらなく怖かったんだ。君だけだ、私をこんなにも臆病にさせるのは。他の人にどう思われようと平気だけど、君は別だ。君だけが私の心を簡単に壊すことが出来る。今だってレースが終わったあと、ヘルメットを脱いで君に素顔を見せるのがためらわれるくらいだよ」

 そう語る真玖郎の声は、実際、少しふるえていた。

「迅雷は、私が女でどう思う?」

「どうって……」

 どうとも云えない。心は天高く蹴り上げられたボールのようで、体がコースを的確に攻略しているのがほとんど信じられないくらいである。こんな状況でもマシンを迅速に走らせられるくらい、迅雷はレーサーだった。

「とにかく驚いているとしか云えねえよ! こんなんでよくレースになってるもんだと自分で自分を褒めてやりたいくらいだぜ!」

「……そうか。でも、レースっていいよね。さっきそっちのプリンセスが『レース中だから告白できる、素面じゃできない』なんて云ってたけど、それは本当にそうだ。こんなことが云えたのはレース中だからだ。クルマに乗ってればなんでも出来る。勇気百倍だ」

 そのあいだもレースは進み、迅雷と真玖郎はスプーンカーブを脱出してバックストレートに入ったところだった。

「バロン、ファルコン、相次いでバックストレートに突入! 徐々にではありますがバロンとファルコンの差が開きつつあります! このままバロンが逃げ切ってしまうのか!」

 ジェニファーのそんな声を聞いて、迅雷は物足りなさを思い出した。レースには勝ちたいに決まっているが、真玖郎には自分と対等の条件で全力を尽くしてほしい。と、そんな端緒を思い出しつつ、ホケキョに悔しげな目を注ぐ。

「……もともと仮想Gフォースをどうするかって話をしていたのに、こんな真相を明かされるとはな。ホケキョおまえ」

「うるさいわね。とにかくあなたもこれで解ったでしょう? 真玖郎ちゃんは女の子なんだから、仮想Gフォース一〇〇パーセントなんて無茶をして走ってほしくないの。いくら勝つためだからって、私は容認できない。はい、この話、終わり」

「くっ……」

 迅雷は咄嗟に反駁できなかった。フェミニストからは叱られるかもしれないが、たしかに相手が女と判ると、肉体に負荷のかかることを強いるのがためらわれたのだ。

 しかし。

「終わりになんてさせませんよ、ホケキョ姉さん」

 そう云ったのは、やはりと云うべきか、真玖郎であった。通信画面のなかで、ホケキョがたちまち悲しそうな顔をする。

「真玖郎ちゃん……」

「迅雷が私をライバルと思ってくれているように、私も迅雷をライバルと思っている」

「嘘よ! あなたは疾風迅雷のことを――」

「そうだけど、そうじゃない。私のなかに二人の私がいて、そのうちの片方は間違いなく迅雷のことをライバルだと思っているんだ。だからお願いします。仮想Gフォース一〇〇パーセントで戦うことを認めて下さい。全力を尽くして、やれることを全部やって負けたならいざ知らず、余力を残して負けたとあっては私は一生後悔する。隼真玖郎として疾風迅雷と戦える、これが最後のレースなんですから!」

「なに!」

 迅雷が驚きの声を発すると、真玖郎はホケキョから迅雷に目を戻して云った。

「迅雷、私、もうすぐ名前を変えるんだ」

「名前を?」

「うん。だって真玖郎って云う名前は男の名前だからさ、裁判所に申し出て改名しようって話がずっと前から出てたんだ。長年慣れ親しんだ名前だし、ためらっていたんだけど、叔母さんにも強く云われて……高校を卒業するまでには変えなくちゃ駄目だって。それでいよいよ逃げられなくなった。だから私は、名前を変える」

 そう聞いて迅雷の胸に鋭い痛みが走った。

 男だと信じていたのが実は女で、名前まで変えると云う。まるで幼少期から競い合ってきたライバルが、永遠に会えぬところへ行ってしまうかのようだ。

「……女になるのか」

「なるよ。ならなければならない。自分の肉体からは逃げられない。だから迅雷、隼真玖郎はいなくなる。別にバーチャルレーサーであることをやめるわけじゃないけど、隼真玖郎として君と戦えるのは、これが最後だ」

 迅雷は急に自分が迷子になったような気がして、そこから目を逸らすように云った。

「……名前が変わるだけだろう?」

「そうだね。でも迅雷は、自分が別の名前になるとしたらどんな気持ちがする?」

「それは……」

「名前が変わったら、そこから色んなものが変わってしまうよ。たとえば、君はもう二度と私のことを真玖郎とは呼べなくなる」

 それは夢が壊れ、飛ぶ鳥が落ち、追いかけてきた星を見失ったも同然だった。レースのなかで、迅雷はいったい自分がなんのために走っているのかが判らなくなっていた。

 ――真玖郎は消える。俺のライバルはいなくなる。だとしたら、なんとつまらなく、張り合いのないことか。

 迅雷は心で血を流しながら、迫り来る一三〇Rを見据えて叫ぶ。

「……おまえだけが、今まで戦ってきた数多のレーサーのなかでおまえだけが、俺の運命を変える力を持っていた! おまえだったから、俺はオンライン・フォーミュラって云う新しい世界に飛び込んだんだぞ! わかっているのか、真玖郎!」

「わかっているさ。君がバーチャルレーサーになったと知った時点でわかっていた。そして私のなかでも、まだ君のライバルとしての血が生きていた! だからせめて、この勝負で君の気持ちに応えたい! 君のライバルに相応しい走りをしたい! 隼真玖郎としての最後の勝負、血を流してでも勝ちたい! だから、ホケキョ姉さん、お願いします! 仮想Gフォース一〇〇パーセントで走らせて下さい!」

 そんな真玖郎の言葉は、迅雷の心臓を一撃した。


        ◇


 心臓を一撃されたのはホケキョも同じであった。

 オンライン・フォーミュラの名古屋センターにあるレーシングルームの一室、筐体とセットになっているピットブースの席に着き、ワイヤレス・ヘッドセットを装着して真玖郎とやりとりしていたホケキョは、自分がたしかに心打たれているのを感じていた。

 仮想Gフォースは存在しないGだが、人間の脳の認識の上では本物になる。ボリュームを一〇〇パーセントに上げたら、脳はそれが現実か幻なのかを区別できない。常人ではそれに耐えられないから、ボリュームを絞って四〇パーセントや二〇パーセントにカットしているのだ。それでも充分、現実と変わらぬ走行感覚はあるのだから、普通にレースをする分にはそれでいいはずだった。真玖郎なら、仮想Gフォース六六パーセントでも大抵の相手に勝てた。

 だが今、それでは勝てない相手が目の前にいる。

「疾風迅雷、疾風迅雷め……!」

 真玖郎がここまでしなくては勝てない相手。

 そして、真玖郎にここまでさせる男。

 それがホケキョには心底忌々しく、憎らしく、そして羨ましかった。

「……疾風迅雷は、あなたの気持ちとは無関係に生きていて、あなたを女扱いせず、ライバルとしか見ない男だったのよ? そんな男のために、仮想Gフォース一〇〇パーセントって云う、本物の時速三〇〇キロの世界へ飛び込む気?」

「そこに迅雷がいるのなら、私はどこへだって行く。それにこのまま負けたら、私はもう迅雷のライバルでなくなってしまう。そんなのは厭だ。私は今でも迅雷のライバル足りうる存在なんだと自分に証明したい。そのためにはスピードしかなく、そのスピードを得るためには仮想Gフォース一〇〇パーセントがいるんだ!」

「く……」

 ホケキョは奥歯を砕けそうなほど噛みしめた。云うことを聞いてくれない真玖郎まで、憎らしくなりそうだ。

 ――私がこんなに心配してるのに!

 と、爆発しそうなホケキョの肩に、そのとき手を置く者があった。

「ホケキョ姉さんの負けだよ」

「千早……」

 千早は淡い笑みを浮かべて云う。

「真玖郎ちゃんは女の子だけど、サーキットにいるときは女の子である前にレーサーなんだ。そして疾風迅雷のライバルたらんとして、自分の限界に挑もうとしている。友なれば、背中を押して送り出してやるべきだ」

 その言葉にぐっと心を掴まれたとき、頭の後ろで手を組んでいるめぐるもまた放埒に云った。

「そうだよ。だいたい過去には女のF1ドライバーだっていたんだろ? 平気平気、バロンに出来て真玖郎ちゃんに出来ないなんてあるもんか。仮想Gフォース一〇〇パーセントがなんぼのもんじゃい」

 そのめぐるの勇気に溢れた言葉はホケキョの背中を押したし、傍で聞いていた真玖郎にとっても力となっただろう。

 ホケキョは二人の妹分の顔を順に見ると、真玖郎の映る通信画面に目を戻す。その瞬間を捉えて、真玖郎が力強く云った。

「私は迅雷のライバル。そして迅雷は私のライバル。だからこのまま、実力を発揮できないままで負けたくない。私の力の限りを、あいつの目に焼き付けてやりたい」

 そんな真玖郎の言葉に、ホケキョはふっとわらった。

 迅雷だけが真玖郎をライバル視して追いかけてきているのだと思っていたけれど、結局真玖郎にとっても、迅雷は負けたくない、負けられない相手だったわけだ。

「……もう」

 ホケキョは仕方のなさそうに笑うと、コンソールの上で手を動かし始めた。

「勝ちなさいよね」

「ホケキョ姉さん」

 バイザーの奥で真玖郎の緑の目が輝いた。静かに驚喜する真玖郎に、ホケキョは笑いながらなおも云う。

「あなたが勝ったら、疾風迅雷のファンだった女の子が彼とデートすることになってるんでしょう。だったらその子に云っておいて。デートをしたら、向こうの取り巻きの女どもなんか蹴散らして、彼をあなた一人のものにしてきなさいって」

「はい」

「それじゃあ、行くわよ。最終コーナーを回った直後に、一〇〇パーセントに上げるからね!」

 真玖郎に心の準備をさせるためにそう云ったホケキョは、実況画面を見た。そこでは実況レディのジェニファーが先頭の二人を絶え間なく追いかけている。

「バロン、ファルコン、一三〇Rを越えてシケインへ! そして――第二十七ラップのシケインを制したのは、バロン!」

 ――第二十七ラップ。

 と、ホケキョは胸裡に呟いた。最終コーナーを回れば、もう第二十八ラップだ。レースは残り三周。本物のF1レースのように鈴鹿を五十三周するならいざ知らず、たった三周である。それくらいなら真玖郎も踏ん張れるかもしれない。

 シケインを脱出してきた迅雷が、真玖郎が、すぐそこの最終コーナーを回っていく。それにタイミングを合わせて、ホケキョは最後の一押しをした。

「ゴー!」

 その瞬間、ホケキョはナイト・ファルコンが受けている仮想Gフォースのボリュームを最大にまで上げた。

「ぐっ!」

 真玖郎がそううめき声をあげたのも一瞬のこと。彼女はヘルメット越しにも明白なレーサーの面魂を見せて、コントロールライン目がけて飛び込んでいった。


        ◇


 真玖郎とホケキョの一連のやりとりを傍で聞いていた迅雷は、正直なところ震えがくるほど嬉しかった。

 ――私は迅雷のライバル。そして迅雷は私のライバル。

 それがすべてだ。その言葉だけで自分は誰より速くなれるし、真玖郎も誰より速くなれるだろう。ではどちらが速いのかというと、これは勝負してみなくてはわからない。

 そして今、真玖郎は仮想Gフォース六六パーセントの殻を破って出てきた。

 今こそ本当に、自分たちはこのバーチャルサーキットで現実とまったく同じ条件での勝負をしようとしている。

「ブルーブレイブとバイラウェイが相次いでコントロールラインを駆け抜けて、今、第二十八ラップに突入です!」

 すると左上に縦にならぶ四つの通信画面、その一番下のウインドウのなかに映る真玖郎が声をかけてきた。

「さあ、行くぞ、迅雷。ここからが本当の勝負だ!」

「望むところだ!」

 そうして二人は、第一コーナーに向けて有利なラインを争いながら加速していく。

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