第三話 プリンスとの勝負(3)
「いけません、お兄さん!」
つばさの張り裂けそうな声に驚いて、迅雷は丸くした目でつばさを見つめた。
「つばさ……」
「だって……」
つばさの意気が急に衰えた。そこに不安の陰を見て、迅雷は力強い口調で云う。
「安心しろよ、ホストの座を奪われたくらいで俺は負けない。必ず勝つ。それに俺が勝ってプリンスをおまえの傍から追い払ったとしても、ことりに付き纏われたら意味ないだろ。ことりだって迷惑だ。ホストの座をくれてやることで、ことりにも近づかないと約束してくれるんだから、これはこれでいいじゃないか。こいつが俺のDNすら知らないっていうのも、本当のことみたいだしな」
恋矢がライトニング・バロンを知らないのであれば、バロンに不利なサーキットを選ぶということも出来ないはずだ。迅雷はそう思っていたから、実のところホストの座をくれてやったとしても、そこまで不利に落とされはしないだろうと楽観していた。
「お兄さん……」
もどかしげにそう呟いたつばさは、しかし深呼吸をすると、叫びたい情動に必死に理性の手綱をかけて、ぎりぎり冷静な口ぶりで話し出した。
「わかりました。
あまりに厳しい口調で云われたので、迅雷は首を捻りながらもひとまず答えた。
「DPによって決まるんだろう? DP……ドライバーズ・ポイントには累計と現有があって、レースの参加条件に関係してくるのは累計の方だ。レース毎に参加条件となる累計DPの上下限が設定されて、その範囲内に収まったレーサーしか参戦出来ないって。そう聞いたぞ。違うのか?」
「基本的には間違っていません。オンライン・フォーミュラでは、年齢によるバーチャルライセンスの区分と、今まで獲得した累計DPによって実質的なクラス分けを行っています」
それは当然のことだった。現実においても、F1レーサーと小学生が一緒に走るわけがない。自分の実力に応じたレースで腕を磨き、階段を上っていく。オンライン・フォーミュラにおいては、その基準がドライバーズ・ポイントなのだ。
「でも、そこにはルールの穴をついた裏技があるんですよ」
「裏技?」
迅雷が
「もう決まったことだぞ、つばさ嬢。この男との勝負のレース、僕がホストだ」
「ああ、もちろんだ。で、どんな条件にするつもりだ?」
それに答える前に、恋矢は迅雷に視線をあてた。
「ふっ、よかろう。あとで文句をつけられても困るから、最初に説明しておいてやろう。レースのホストは、スターティング・グリッドをある程度まで操作できるのだ」
「な、なに?」
愕然とした迅雷に、恋矢はねじ込むように云う。
「まず僕は貴様との勝負、一対一で走るつもりはない。僕ら二人に加えて十名前後のレーサーに参戦を募る予定だ。その上で、僕と貴様のどちらが速いかでつばさ嬢を巡る勝負の勝敗を決めよう。これには異存ないな?」
「それはもちろんだとも。それが普通だ」
レースとは元来、そういうものなのだ。つばさと戦ったときのような、一対一のレースこそ例外であり、また味気ないものだった。
「だがそうした普通のレースをして、どうしてスターティング・グリッドの操作が出来る? スターティング・グリッドは現有DP順……だろう?」
「もちろん、そうだ。だがそこに抜け穴があるのだよ」
そう勝ち誇る恋矢の尾についてつばさが云う。
「お兄さん。繰り返しになりますが、レースの
「な、に……」
絶句しかけた迅雷に、今度はことりが云う。
「厳密に云うと、レースの参加条件となる累計DPの上下限の設定は、オンラインでフリーの参加者を募るための設定なんです。それとは別に、主催者自身や、主催者のお友達など特定のレーサーは指名枠で、別の入り口から参戦できるんですよ」
そんなことりに相槌を打ち、話し手はまたつばさに戻った。
「先日、私とお兄さんが一対一で走ったときがまさにそれでした。ホストを務めた私は、フリー参戦者の募集はせず、したがって参加条件となるDPの上下限の設定も放棄して、私自身は主催者権限で、お兄さんは私からの指名枠でレースに出たんです。それと同じことが、参戦者を募るレースの場合でも出来るということです」
その話を聞いているうちに、迅雷はその権利の強さに気づいて息を呑んだ。
「ということは……」
「理解したようだな」
と、恋矢が迅雷をせせら笑った。
「前提としてDPには現有ポイントと累計ポイントがあり、レース参戦の可否は累計ポイントで、スターティング・グリッドは現有ポイント順で決まる。そして現有DPが累計DPを上回ることは絶対にない。ここまではいいかね?」
「ああ」
「では問い一だ。仮に僕の現有DPが五〇〇ポイントとしよう。そしてレースの参加条件となる累計DPの上限を四九九にしたとする。普通にやれば僕はレースに参加できないが、主催者権限で強行出場する。さてその場合、僕のスターティング・グリッドはどうなる?」
「決まっている。おまえは自動的にポールポジションだ」
そう答えたときの迅雷の表情や声音が悦に入ったのか、恋矢は笑って続けた。
「正解だ。では問い二。仮に貴様の現有DPが一〇〇ポイントとし、累計DPが二〇〇ポイントとし、レースの参加条件となる累計DPの下限を三〇〇ポイントあたりに設定したとする。もちろん貴様は僕が指名してレースに出場させるから安心だ。ところでこの場合、貴様のスターティング・グリッドはどうなる?」
「それはフリー参戦者の現有DPによって決まる。だがそうだな……現有DPがスターティング・グリッドに影響することは誰でも知ってることだから、チューニングにポイントを振るとして、まともな頭があれば、半分くらいは残すんじゃないか」
「うむ。ということは、フリー参戦者の現有DPは一五〇前後が期待できるというわけだ。それでその場合、現有DPが一〇〇しかない貴様のスターティング・グリッドはどうなる?」
――皆まで云わせる気か。
状況の不利を完璧に理解した迅雷はそう憤り、うんざりしながら答えを云った。
「おまえがポールポジションなのに対し、俺は最下位発進だ」
「そういうことさ。はははははっ!」
無邪気に手を叩いて笑う恋矢の目を醒まさせようと、迅雷は卓子に拳を叩きつけた。
「そんなのありかよ!」
「ありなのだよ、オンライン・フォーミュラにおいては」
「だとしてもおまえ、そんなこすっからい手を使おうってのか!」
「なにがこすっからいものか。勝利のための当然の戦略だ。これで僕のポールポジションは確実。貴様のグリッドがどうなるかは他の参戦者の現有DP次第だが、下から数えた方が早いと思っていたまえ」
恋矢は恬として恥じる様子もない。スリップに入られるや急ブレーキを踏んだり、イエローフラッグを無視したりするような男なのだ。スターティング・グリッドの操作くらい、ほんの些細ないたずらとしか思っていないのであろう。
そんな恋矢をつばさが軽侮の目で見つめている。
「こいつはこういう小ずるい手を平気で使うんですよ。レースの主催者がDPの上下限を自由に設定できるのは、本来クラス分けの機能を果たすため、実力の離れた者同士が一緒に走ることを防ぐためです。それなのに……」
「グリッドの操作を公然とやる人は嫌われちゃうんですけど……」
と、ことりが困ったように付け足した。
しかし恋矢は相手にもしない。
「ふっ、なんとでも云うがいい。レースは勝てばいいのだ、勝てば。特に今回のレースは絶対負けられないからな。はっはっは!」
そう心の底から笑っている恋矢を見ているうちに、迅雷もちょっと笑ってしまった。もちろん最初はこの恋矢を忌々しく思っていたのだけれど、こうまで堂々と高飛車に大笑されると、却って清々しい気もしてきたのだ。それに勝利のために打てる手はすべて打つと云う姿勢は、それほど嫌いではない。
「ま、いいさ。どうせ俺のDPはまだ二桁だ。レースまで一週間じゃ、どっちにしたって最下位発進だったろうさ」
「そうか、それはお気の毒。僕は遠慮なくポールポジションを取らせてもらうぞ」
「……好きにしろ」
レース当日までに迅雷が恋矢の現有DPを上回ることが出来ればグリッドの操作は破綻するが、先刻ことりから聞いた話では、一人のバーチャルレーサーが一日に使えるシートの時間には上限がある。ゆえにグリッド操作の罠を免れるのは絶望的であろう。
「だがおまえ、そこまでして負けたら、一切の云い訳は出来んだろうな」
「ふっ、そうだな。だが僕に本気で勝てると思っているのか」
そう語る恋矢は、自分が負けるなどとは露ほども思っていないようだ。実際、最下位発進がポールポジションを抜くのは難しい。オーバーテイキングの発生しにくい、道幅の狭いサーキットを選択されたら絶望的とさえ云える。しかし迅雷は
「勝つさ。だっておまえ、つばさより遅いんだろう?」
すると恋矢はむっとしたらしく、口吻を尖らせて反駁してきた。
「云っておくが、全バーチャルレーサーのDNと累計DPは公式サイトで公開されている。貴様のDNさえ判れば、あとは貴様がいくらDPを稼ごうとレースの参加条件となる累計DPの下限は貴様の累計DPの二倍に設定してやるぞ」
「そんなつまらん小細工をするような奴に負ける疾風迅雷じゃないのさ。スターティング・グリッドがレースの勝敗を決める絶対的な条件でないことを教えてやろう」
迅雷がそう云い放つと、恋矢の迅雷を見る目が仇敵を見るようなものになる。
「その自信を粉々に打ち砕いてやる……!」
「やれるものならやってみろ」
そうやって男二人が互いの意地をぶつけあっているところへ、つばさはっとなにかに気づいたように、慌てた口ぶりで嘴を入れた。
「プリンス、おまえがホストを務めることについては、もうなにも云わない。スターティング・グリッドの操作も好きにするがいい。だがその代わりと云ってはなんだが、おまえもいくつか譲歩しろ」
すると後ろめたい気持ちの一つはあったのか、それとも好きな女の云うことだからか、恋矢は意外にも素直な顔をしてつばさに視線をあてた。
「なんだい?」
恋矢は、よほどのことでない限りは譲歩に応じよう、という顔をしている。迅雷が注視するなか、つばさは真面目な顔をして切り出した。
「お兄さんは確かに速い……だがバーチャルレーサーとしてはまだまだ初心者だ。マシンもオンロードの一台しか持っていない。だからレースに使うサーキットはノーマルサーキットにしてくれ。オフロードや、月面や水中といった特殊サーキットはなしだ」
恋矢は少し思案顔になったが、つばさに目を戻すと微笑みながら頷いた。
「いいだろう。こいつがある程度の力を発揮できるサーキットでなくては、僕がこいつに勝っても、君は僕がこいつより速いとは認めないだろうからな。他には?」
「……道幅の極端に狭いサーキットを選択するのはやめろ。云い掛かりをつけてホストの座を奪い、スターティング・グリッドの操作まですると云う。その上オーバーテイキングの起こりにくいコースを選ぶのではあまりにも不公平だ」
それには恋矢は渋い顔をした。きっとマカオのギア・サーキットのような、追い抜くのが難しいコースを選ぼうと考えていたのであろう。
そんな恋矢につばさが重ねて云う。
「プリンス……レースのホストがポールポジションを務める上に、抜きにくいサーキットを選択したのでは、フリーで参戦者を募ったとしても人が集まらないかもしれないぞ? 順位変動の起こりにくいコースは、根本的に人気がないからな」
「む……」
それには恋矢も気づかされたといった顔をした。そう、オンライン・フォーミュラでは参加できるレースはごまんとある。シートを使える時間は限られているのに、どうしてわざわざ不利なサーキットと条件で走りたいと思うだろう? もし人が集まらなければ、恋矢と迅雷のあいだに入るマシンも少なくなり、結果として迅雷を有利にしてしまうのだ。
それでも恋矢はまだ迷っていた。そこへつばさがとどめを刺すように云う。
「もしその条件を呑むのなら、今ここでお兄さんのDNを教えてもいい。DNが判れば動画も探せる。対策も立てやすくなるだろう。断ると云うなら、おまえがお兄さんのDNを知るのはレース直前だ」
それには迅雷も驚いたが、しかし道幅の狭いサーキットを選択されるよりは対策を立てられた方が遥かにましだ。そして恋矢のなかでも、今の言葉で心の天秤が傾いたらしい。
「わかったよ、つばさ嬢。君の云う通りにしよう」
そう請け合った恋矢が、迅雷に視線を放つ。
「では、そういうことで決まりだな! 異存なければ、これからともにシートの予約をしようでないか」
恋矢はそう云うと、ズボンのポケットから小型の携帯デバイスを出した。迅雷もまた同じように携帯デバイスを手に取り、予約の画面を開く。そこへ恋矢が声をかけてきた。
「DNを教えてくれ」
「ライトニング・バロン」
すると恋矢の目が軽く見開かれた。
「そうか、貴様がバロンだったか。僕はまだ見たことがなかったが、少し噂になっているぞ。青いマシンを自在に使いこなしたとか、実況レディのジェニファーが肩入れしているようだとか」
「そいつはどうも」
そのあと、二人で揃って八日後の日曜日にエントリーシートの予約を入れた。
「ログイン前のフリー参戦者募集時間や休憩時間も含めて、最大一八〇分の枠を取った。三〇分のフリー走行ののち、休憩を挟んで一時間ほどのレースになる。サーキットについてはまだ決めていないが、フリー走行をするからには通達が当日になってもいいだろう」
「ああ、構わんよ。だが連絡はどうする? アドレスを交換するか?」
「いや、DNが判ったんだ。貴様のバーチャルレーサーとしてのマイページにあるメッセージボックスにメールを送信するさ」
「わかった」
迅雷は了承のしるしに頷くと、携帯デバイスをポケットにしまい、アイスティーの残りを飲み干して立ち上がった。
「じゃあ、俺たちはもう行くよ。このあとシートの予約を入れてるんでな」
「そうか。ならば僕はここで見物させてもらおう。自分より速い男としか交際しないと云っていたつばさ嬢の選んだ男が、どれほどのものなのか」
「好きにしろ。俺はもう行く。レースの日にまた会おう」
迅雷がそう云って恋矢に背中を向けたときには、ことりも席を立ち、つばさの車椅子の後ろに回ってハンドルを握っている。つばさは車椅子ごと席を離れながら恋矢に云った。
「ではな、プリンス。こうしておまえとお茶をするのは、今日が最初で最後になるだろう」
「いや。僕は今、この男から君を取り戻す騎士になった気分だ」
「抜かせ。私は遅い男は相手にしない」
「それなら君は、僕を見直すことになるだろう」
なるほど、もしも恋矢が迅雷に勝てば、そのときはすべてがひっくり返ってつばさの心が恋矢に向くこともありうるかもしれなかった。
――そいつは、面白くないな。
片山のことが気になるくせに、つばさが他の男の手に渡るのも業腹な自分に気がつき、迅雷は苦笑いをすると歩き出した。
ところ変わって、エントリーシートのある二階の部屋である。
レーシングルームはどの部屋も間取りや設備の配置が同じで、部屋の左右に白い巨大な筐体、エントリーシートが二基据えてあった。
迅雷は部屋の奥まで歩いていくと棚から青いヘルメットを選んだ。そこへ車椅子からつばさが云う。
「レース当日にプリンスから招待状が来るはずです。それまではどこのコースで走るのかも判りませんから対策は立てられませんが……」
「だから当日まではこれまで通り、真玖郎の持っているレコードを塗り替えつつ、適当なレースに出てDPを稼ぐことにしよう」
そう語る迅雷は微笑んでいる。それを見てことりが首を傾げた。
「迅雷さん、なんだか楽々としてますね」
「まあな。ホストの座は取られちまったが、前向きに考えるとレース当日まで余計なことを考えずに済むということでもある。プリンスはきっとレース当日までサーキットの選択に悩むんだぜ。ご苦労なことだ」
自分が戦場を選べる立場になったら色々と余計なことを考えてしまうから、迅雷としては今の状況はシンプルと云う意味で良かった。
「しかしチームか」
迅雷は胸にヘルメットを抱えてつばさとことりを順に見た。するとつばさが少し顔を陰らせて不安そうに云う。
「もしかしてお兄さんは、私たちとチームを組むことになにか不満でもありますか?」
「
そう語る迅雷の、つばさやことりを見る目はほとんど愛情に満ちてさえいた。
「レースは、一人では走れない。キッズカートに乗ってるうちはまだいいが、レースの規模が大きくなってくるにつれて関わる人間も動く金の量も増えていく。そして企業が絡んでくると、資金を出してくれるスポンサーの名前を背負って走ることになるんだ。会社がチームを作り、大勢のスタッフが後ろで働いてくれる。そうしてレーサーは初めてマシン乗れる。ゲームのレースじゃ、そこまで大袈裟なことにはならないだろうが、とにかくチームって云うのはかけがえのないものさ。だから、その、なんだ」
迅雷は咳払いをすると、つばさの前に立ち、改まったように右手を差し伸べた。
「これから、よろしく」
するとつばさはぱっと顔を輝かせ、迅雷の手をもぎ取るような勢いで握手してきた。
「運命共同体ですからね。ていうか私の運命がお兄さんの肩にかかってるわけですから、本当によろしくお願いしますよ!」
「おう」
そう返事をしながらも、迅雷はつばさの手の冷たさに軽く愕いていた。
「ところでおまえ、手が冷たいな」
「基礎体温、低い方ですから」
つばさはそう答えてなお迅雷の手を離さない。仕方がないので、迅雷はことりには左手を差し出した。
「ことりも、改めてよろしくな」
「はい」
ことりは丁寧に、迅雷の左手を両手で包み持ってくる。こちらは姉と違って温かい手だった。
「ことりの手はあったかい」
「それなら私の手も温かくしてあげますよ」
つばさはそう云うと迅雷の右手を両手で掴み、いそいそと擦り始めた。
「摩擦熱じゃないか!」
「ふふふふふ」
つばさは愉しそうに笑って、自分と迅雷の手を温めるまでやめなかった。
ところでこの一週間、迅雷たち三人は二基のエントリーシートしか予約していなかった。三人で二基だ。これには理由が二つあり、一つはほとんどのレーシングルームでエントリーシートが一部屋につき二基しか設置されていないため、一人だけ別室になるのを避けたということ。もう一つは誰か一人が外にいて、まだOF初心者の迅雷にナビゲートをする必要があったということである。そしてほとんどの場合、このナビゲート役を務めるのはつばさだった。
つまり走っているのは迅雷とことりばかりで、つばさはそのあいだ、二つのピットブースを行ったり来たりしていたわけである。
この数日、迅雷はそのことが気になっており、エントリーシートに乗り込もうという段になってそれを口に出した。
「つばさ、たまにはおまえが走れよ」
「え?」
「いや、いつも俺とことりばかりで、おまえは全然走ってないじゃないか。たまに走るときも、俺が休憩してるときにことりと二人で走ってやがる。考えてみれば、あの最初の日以来、俺とおまえが一緒に走ったことはない」
「そういえば……」
と、ことりも今さら気がついたように姉を見た。迅雷もまたつばさを見下ろし、ヘルメットを片手に
「というわけで、今日は俺と勝負しようぜ。俺もおまえに負けたままじゃ悔しいからな」
当然、つばさは二つ返事で気持ちよく了承してくれるものと思っていた。しかし。
「お断りします」
斬り捨てるようなその拒否に迅雷は思わず絶句した。そんな迅雷の目の前でつばさがにんまりと笑って云う。
「次にお兄さんと走ったら、十中八九負けると思うんですよ」
「やってみなくちゃわからんぞ」
とはいえ、当然、迅雷はつばさに勝つつもりでいる。負けたままでは終われない。だがつばさは車椅子の肘掛けに手を置き、なにかを味わうような表情をして云った。
「かなり有利な条件で勝負させてもらったとはいえ、私はお兄さんに勝ったんです! お兄さんはこの五日間、参加するレースは全部一位でしたから、今のところお兄さんに黒星をつけた唯一の存在ですよ、私は! この勝利者の気分を、もうちょっと味わっていたいのです! ですからお兄さんとは当分戦いません」
「つまり、しばらくウイニングランをさせろと?」
迅雷が呆れたように確かめると、つばさは満面の笑みとともに首肯した。それを見てことりがため息とともに問う。
「ちなみにお姉ちゃん、当分ってどれくらい?」
「もう一週間味わったから、あと四週間くらいかな」
「年が明けちまうじゃないかよ!」
そう大声を張り上げる迅雷の反応が愉快だったのか、つばさがきゃらきゃらと笑う。その嬉しそうな笑顔を見ては、怒る気にもなれなかった。
迅雷はため息を
「わかった。じゃあ年が明けたら再勝負だ。約束な?」
「約束です」
二人はそう云うと、指切りを交わした。
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