第一話 バーチャルレーサー(7)
つばさも死力を尽くして走ったのだが、五周目以降のラップタイムは、僅かながら迅雷の方が常に上回っていた。つばさにとっては、前半に勝ったと思って少し気を抜いた走りをしたのも祟ったのであろう。
二人の差は一周ごとに縮まっていき、とうとう迅雷のブルーブレイブが、つばさのエーベルージュを指呼の距離に捉える。しかし。
「凄まじい追い上げをみせたライトニング・バロン! しかしこのレースは十五周です! 泣いても笑ってもあと二周、いや、一周か! 第十四ラップもいよいよ大詰め、両者、最終コーナーへ!」
ジェニファーがそう捲し立てた通り、エーベルージュが、コンマ数秒遅れてブルーブレイブが最終コーナーに突入していく。
先に最終コーナーを駆け抜けたのはつばさであった。それを見てジェニファーが唸る。
「コーナーでは、やはりプリンセスの方が安定しています。プリンセスのエーベルージュはコーナー特化型であることに加え、タイヤも小口径を選択しており、したがって旋回性が高く、高速でコーナーを突破! 一方、ブルーブレイブは大口径ホイールだ! エーベルージュのように高速でコーナーを突破することは出来ず、手前から十分に減速してゆったりと泳ぐように曲がっていきます!」
――だというのに、どうして振り切れない! どうして向こうの方がタイムが速い? ストレートで稼がれているからか?
つばさは迅雷のコーナリングの秘密が気になったが、確認することは出来ない。ゲーム画面上のミラーには迅雷の走りが映っているのだが、自分の走りの方で精一杯である。
――メインストレート。バックストレートよりは短いが、それでも直線路!
このとき、つばさは唸りをあげて迫るブルーブレイブの存在感を背中に感じていた。逃げたいが、逃げ切れない。
「今、エーベルージュがファイナル・ラップに入ります! そしてブルーブレイブも!」
――今のがファイナル・ラップだったら私の勝ちだった。だが。
「あと、一周か……!」
つばさは自然と相好を崩していた。負けてなるものかという想いももちろんあるのだが、それ以上に胸が踊る。心が沸き立つ。
実況画面では、ジェニファーが
「さあ、ファイナル・ラップです! そして、今、バロンが、バロンのブレイブが、エーベルージュに並んだ! 抜いたあーっ!」
まさしく、つばさは自分の左手に迅雷の青いマシンが現れ、それがストレート特化型らしい爆発的な伸びを発揮してじりじりと自分に追いつき、そして追い抜いていくのを見た。
「……つばさ」
このとき、久しぶりに迅雷が通信画面越しに話しかけてきた。
「おまえに追いついたら、このマシンがいかに優れているかを教えてやるって云ったよな」
果たしてつばさはにんまりと微笑んだ。
「ええ、云いましたね。第一コーナーまでまだ少し距離がある。教えてくださいよ」
「簡単な話だ。コーナリングはドライバーの技倆で補えるが、ストレートはエンジンで決まる。つまりコーナーでの戦いはドライバーの腕前次第でいくらでもひっくり返せるってことだよ」
「なるほど」
つばさは一つ蒙を啓かれた想いだった。
たとえどんなに優れたドライバーであろうとも、ストレートにおいてはただアクセルを踏むしかない。このとき、スピードを決定するのはドライバーの技倆ではなくエンジンである。
「でもそれって、自分によほど自信がないと云えない
マシンはストレートで速ければいい。それ以外のところは自分の腕前でなんとかしてやる。迅雷はそう云ったも同然であったのだ。
果たして、迅雷は強気に
「先に行くぞ!」
ストレートに強いブルーブレイブがエーベルージュに差をつける。そしていよいよ、第一コーナーが迫ってきた。ジェニファーの実況にも熱が籠もる。
「さあ、第一コーナーだ! ファイナル・ラップ最初の
もちろん、つばさは仕掛けにいこうと思った。だがここまで前を見てひた走ってきたつばさは、迅雷がどうやってここまでタイムを上げてきたのかをまだ知らない。
――お兄さん、あのマシンでいったいどうやって私より速く曲がっているんだ?
つばさが胸裡にそう疑問と好奇心を懐いた直後、その答えを明かすかのように、ブルーブレイブが失速した。
――ブレーキ? いや、違う。アクセルを抜いた!
その走りに見入りながら、つばさはつばさで過去に何度も走ってきたこのサーキットの
「うあ……!」
つばさは思わずそんな嘆声を漏らした。第一コーナーへ切りつけるつばさの走りが『剛』なら、迅雷のコーナリングは『柔』なのだ。
――なんて滑らかなコーナリングなんだ。
このとき、つばさはレースのなかでレースを忘れた。その一瞬の隙をついて、コーナーの出口に
「お姉ちゃん!」
ことりの声で我に返ったときには、もう遅かった。遅れてアクセルを踏んだが、先にコーナーを抜け出したのはブルーブレイブだった。
「バロン、第一コーナーでプリンセスに競り勝った! ライトニング・バロン、譲りません!」
「しまった……!」
だがそれでも、つばさはあまり悔いてはいなかった。迅雷の後塵を拝しながら、ピット画面のことりに興奮した口調で捲し立てる。
「ことり、見たか。今のお兄さんのコーナリング。あれは……」
「うん、そうなの。あの人、ブレーキをほとんど踏まずにアクセルワークだけで走ってる」
「それであんなにぬるっと曲がるのか。だがそれだけじゃないな」
つばさは唇が笑みのかたちに歪んでいくのをどうしようもなかった。今見たものがそれほど信じられなくて、胸がどきどきして、顔が熱くなってくる。
「私の気のせいかもしれないが、アクセルを開けるタイミングが普通じゃなかった」
「うん。あとであっちの走行ログを見せてもらわないとはっきりしたことは云えないけど、ノーズがコーナーの出口を向く前から既に微妙に踏んでるような……」
「そうだ。そうすることでリアタイヤに力が伝わるから、コーナーからの脱出速度が上がるんだ」
「出来るの、そんなこと?」
「口で云うほど簡単ではない。少なくとも私には出来ない。うっかり踏みすぎたらコーナーの外へ吹き飛ぶくらい危険なことだ。だからタイヤに力を伝えるだけで留める程度の、精妙なバランス感覚が求められるんだが……実際にやっている」
そう口に出すことで、つばさは体が芯から震えるのを感じた。
「ようやくわかったぞ、あの人のコーナリングの秘密が。つまりコーナーへの突入でロスしたタイムを、脱出するときに取り戻しているんだ。そしてストレートでさらに伸びるから、結果的に私のタイムに優っている。面白い……面白いなあ、ことり! こんなに速い人がいるんだな!」
そして、それを追いかけるのが愉しい!
一般的に、心理的には追うより追われる方が苦しいものだ。だから二位に転落したことで、つばさは今こそ翼を
「さあ、続いてはダンロップコーナー。勝負はまだまだこれからです!」
ジェニファーの云う通り、仕掛けるべき場所はまだいくらでもあった。
◇
続くダンロップコーナーも迅雷が制したが、つばさは仕掛けてはこなかった。勝負所を窺っているのであろうか。
と、そう考える迅雷を惑わせるように、つばさが通信画面越しに云う。
「目の前にマシンがあると、本当に邪魔ですよね。自由に伸び伸びと走れなくて」
「そう思うんだったら仕掛けてこいよ」
迅雷はそう云って、続くS字カーブを睨みつける。
――ここは厄介だ。
どうしても身構えてしまう。だが肩に力が入りすぎてはステアの操作を誤ってしまう。いつも通りに、平常心で。
「バロン、プリンセス、相次いで高速コーナーに突入!」
「ぐっ!」
迅雷は首筋を始めとして、全身にかかる凄まじいGフォースに歯を食いしばりながら、必死にステアリングを操作した。
そう、今ジェニファーが云ったように、このS字カーブはカーブの緩やかな高速コーナーなのだった。いかにスピードを落とさずに駆け抜けるかが勝負の決め手になるのだが、その際にかかるGフォースは並大抵のものではない。はっきり云えば、ストレートを時速三〇〇キロで走るより、カーブを時速二〇〇キロで駆け抜ける方が、身体的負担は大きいのである。F1レーサーのレース中における平均的な心拍数は、一分間に一四〇回から一九〇回と云われているが、今の迅雷がまさにそういう状況であった。
――息が出来ない!
汗が噴き出し、死に物狂いで、鬼の形相である。ただ現実のフォーミュラカーに比べれば、オンライン・フォーミュラのエントリーシートは冷房が効いている分、救いはあった。
そんな迅雷を見て、つばさが通信画面越しにのどかな声をかけてくる。
「なんかお兄さん、大袈裟じゃないですか。この程度のGフォースで」
――おまえはいいよ! 仮想Gフォースを五分の一以下にカットしてるんだからさあ!
だがそんな反駁をする余裕もなく、迅雷は高速コーナーを抜け、ショートストレートを駆け抜けてヘアピンに向かった。
ストレート特化型のブルーブレイブにとって、もっとも苦手とする箇所がここだ。このヘアピンにおいては、さすがの迅雷もブレーキを踏まざるを得ない。
「ぐはっ!」
ブレーキを踏み込み、仮想の衝撃に打たれながら迅雷は思った。つばさは先ほどの高速コーナーでも仕掛けてこなかった。次のヘアピンは勝負できる場所ではないし、仮に勝負できるコーナーだったとしてもその先にこのサーキット最長のバックストレートが待ち構えている以上、無理はすまい。
ゆるりとヘアピンを回った迅雷は、そこでアクセルを全開にした。ブルーブレイブが水を得た魚のように蘇る。
――ここは俺の、俺たちの独壇場だ!
だが、このとき華麗なコーナリングでヘアピンを乗り越えたつばさのエーベルージュが、迅雷のブルーブレイブの真後ろにぴったりくっついていた。それを見たジェニファーが叫ぶ。
「先行してバックストレートに入ったのはバロンのブルーブレイブ! だが、しかし、ここでプリンセスのエーベルージュが、スリップに入った!」
「ああ、くそ! やっぱりなあ!」
そう来ることは、迅雷も予想していた。
スリップ・ストリーム。それは先を走る車の真後ろを走ることで先行車を風除けにするというものだ。たかが風除けと思うかもしれないが、時速三〇〇キロの世界においてその効果は端倪できない。強烈な向かい風を前の車に受け止めてもらうことで、後ろの車がどれだけ楽に走れるか。スリップ・ストリームは常にレースの勝敗を左右する重要な要素だ。
「あははははっ!」
つばさがステアリングから一瞬手を離して、楽しそうに手を叩いた。
「スタート直後を除けば、このレース、私がずっと前を走っていましたからね。私が遅れを取るのはこのファイナル・ラップが初めてです。だったらこの状況は最大限に利用しないといけません。さあ、引っ張っていってもらいましょうか。この長いストレートを、ストレート特化型のお兄さんのマシンで!」
「素直に入れさせるわけないだろ!」
云うや否や、迅雷は右に左に蛇行運転を開始した。どうにかスリップから抛り出そうとしている。それにつばさがぴったりついてくる。
「無駄無駄無駄、一回食らいついたら絶対離しませんよ!」
青と赤、二台のマシンがストレートを蛇のように走る。ブルーブレイブがエーベルージュを振り落とそうとしているのだ。しかし。
「ブルーブレイブ、エーベルージュを振り切れなーい!」
実況レディのジェニファーがマイク片手にそう叫んだ。迅雷の青いマシンは、ストレートではどのマシンよりも速い。にも拘わらず、コーナー特化型のエーベルージュが直線でブルーブレイブにぴったりくっついてくる。だが、これがスリップに入るということなのだ。スリップ・ストリームの絶大な効果である。
この状況にあって、迅雷は仕方なく絡め手に出た。現実のレースでは絶対にできない、レース中に相手のドライバーに話しかけることができるオンライン・フォーミュラのシステムを利用して。
「いいのか?」
バックストレートを半分ほど消化したところで、迅雷は通信画面越しにつばさにそう声をかけていた。つばさが片眉をあげる。
「なにがです?」
「このゲーム、これだけリアルってことは、空力はもちろん、マシンの不具合や故障も再現するだろう」
「ええ、もちろん。マシンだけじゃなく、風や天候の影響もありますよ。今日は快晴ですが、雨が降ることだってあるんです」
へえ、と迅雷は感心したが、すぐに気を取り直して云う。
「スリップ・ストリームは良いことばかりじゃない、リスクもある。前のマシンに風を受け止めてもらうってことは、風によって車体を押さえつける力、すなわちダウンフォースが働かないということだ。そうなれば前輪が浮き、最悪コントロール不能だぞ。それに空冷式なら、風があたらないとエンジンが焼け付くことだってありうる」
それを聞いたつばさがたちまち迅雷を嘲笑ってきた。
「ふん。ちょこざいな心理戦を仕掛けてきましたね。その手には乗りませんよ。そんなの全部、計算済みです。コーナリング特化型の赤いマシンがコントロール不能に陥ることはまずありません。それにエンジンのオーバーヒートについても、ずっと後ろにくっついて何周も走る気ならバイタリティにポイントを振って冷却効率を向上させた黄系統のマシンでないと厳しいですが、ストレート一本のスリップでは考えにくいですね」
「うん、エンジンの温度は許容範囲内だよ、お姉ちゃん」
ことりの声が聞こえて迅雷は「ちっ」と舌打ちをした。そこへ今度はつばさが話しかけてくる。
「ところでお兄さん、あなたはたいへんよく戦いましたが、結局のところこのレースは私の勝ちです」
迅雷は軽く目を瞠り、今度はつばさが逆に心理戦を仕掛けてきたことを察して身構えた。
「……なぜ、そう思う」
「お姉ちゃん?」
と、ことりも不思議そうに姉に問いかけた。つばさはそんなことりに向けてか、笑いを含んだ声で云う。
「案ずるな、ことり。私は負けないさ。なにも口から出任せを云っているわけじゃないぞ。既に私には、お兄さんに勝つための絵が見えているのだ」
つばさは大きな声で云ったが、それはもちろんことりだけでなく迅雷に聞かせるためでもあろう。迅雷は蛇行運転を続けながら呻くように云った。
「俺に勝つための絵だと……?」
「ええ、そうです。先ほどお兄さんの素晴らしいコーナリングを見せていただいて、私はその秘密に気がつきました。お兄さんは突入で失ったタイムを脱出のときに取り戻していますね。しかもブレーキをほとんど踏まない、神業のようなアクセルワークも行っている。しかしこのサーキットでは、絶対にブレーキを踏まなければいけないポイントが二つあるんですよ!」
それはもちろん、迅雷もとっくに承知していることだった。だがそれをつばさが指摘してきたことで、彼女が自分の予想より優れたレーサーであることを悟り、迅雷は思わず「うっ」と声をあげてしまった。
それを聞いたつばさが嬉しそうに「うふっ」と笑う。
「云うまでもないでしょうが、ブレーキポイントの一つは先ほどのヘアピン、もう一つはメインストレートより長いこのバックストレートの、ストレートエンドです! ヘアピンを除けばこのサーキットで一番Rのきつい、あの右コーナー!」
そう、この長い長いバックストレートを駆け抜けた先にあるあのコーナーを曲がるためには、必ずブレーキを踏んで減速しなくてはいけない。しかもヘアピンと違って、あそこは勝負できるコーナーなのだ。あそこだけはブレーキのタイミングが勝負を分ける!
つばさはその前にスリップから飛び出していくだろう。その直後は加速がついているので横一線に並ぶはずだ。そうなると、今度はどちらが先にブレーキを踏むかの勝負になる。それに負ければ、そのときオーバーテイキングが起こって、迅雷とつばさの順位がふたたび逆転するのだ。
迅雷にもそこまでの絵が見えてしまった。
――レースにはときどきこういうところがある。先の展開が見えていても他にどうしようもないときが。
迅雷の誤算は、つばさがそれに気づいていることだった。彼女はゲーム中毒ではあるのだろうが、このゲームがここまでリアルに即していると、それは現実で経験豊富なレーサーと変わらない。
迅雷は通信画面のなかのつばさを見て思う。
――おまえはどこまで判っている? 俺のマシンが抱えてしまった致命的な負債も見抜いているのか? だが俺の計算じゃ、おまえのマシンも俺のマシンと同等の負債を負っているはずなんだが……。
そのとき、ジェニファーがまたマイクを片手に声を張り上げた。
「さあ、この長いストレートも残すところあと僅か! 先に動くのはどっちだ!」
もはや考えている時間はない。勝負のときはもうすぐそこまで迫っていた。蛇行運転をしていた迅雷は、せめてアウトインアウトのライン取りをしようとして外側に貼り付いて蛇行をやめた。その直後のことだった。
「では、お先に」
つばさがひょいとステアリングを動かした。
「おっと、先に動いたのはエーベルージュ! ブルーブレイブのスリップから出ました。しかしスリップから脱出した直後は加速がついている! 両者のマシンが並ぶ!」
まったく、このときばかりはエーベルージュもストレートで速かった。イン側にエーベルージュ、アウト側にブルーブレイブという配置で、右コーナーへと突入していく。そして、二人はほとんど同時にブレーキを踏み――迅雷のマシンの挙動が乱れた。アウトインアウトの理想的なコースから外れて、マシンが外側に膨らんでしまう。そして。
「エーベルージュが、ブルーブレイブを抜いた!」
風のようにコーナーを駆け抜けたとき、ジェニファーがそう叫んで、迅雷はふたたびつばさの後塵を拝する立場へと転落していた。
「くっ!」
迅雷は思わずステアリングを握る手に力を込めた。残すコーナーは二つ、そこでつばさを追い抜くことが出来るのか。
それにしても、今いったいなにが起こったのであろう。つばさの通信画面から、ことりの声がした。
「お姉ちゃん、すごい! でも、いったいどうして……」
「決め手はタイヤだ」
つばさのその言葉に迅雷は感心した。
「……やはり見えていたか」
「――お兄さん、あなたは速い。でもやっぱりフリー走行なしは無謀でしたよ。序盤でコースとマシンの状態を探っているときに、タイヤを使いすぎましたね」
――タイヤはその状態が現実と同じになるようにシミュレートされるわ。摩耗したらブレーキの利きが甘くなるわよ。
その片山ことジェニファーの言葉を思い出しながら、続く左コーナーを迅雷はブレーキを極力使わずに曲がりきった。
「こうしてブレーキを使わなければタイヤの消費は抑えられる。だが、たしかに俺は序盤でタイヤをいじめすぎた。しかしおまえのコーナーワークは俺と違ってかなりタイヤを消耗するはずだ。差し引きして、俺たちのタイヤの消費具合は同等だと思ったんだがな」
だが現実には、ブルーブレイブの方がブレーキの利きが甘かったのだ。結果、それがタイムロスに繋がり、つばさに逆転を許してしまった。
「いったい、どこで計算を間違えた?」
「そこはゲームですから。コーナー特化型の私のマシンのタイヤは、お兄さんの考えているより頑丈に出来てるんですよ」
「……なるほど」
それでは計算が狂ったのも仕方がない。迅雷は笑って、そして目の色を変えた。
「だが、勝負はまだ終わっちゃいねえ!」
最後の最後まで諦めるわけにはいかない。迅雷の魂が乗り移ったかのようにブルーブレイブが唸りをあげる。エーベルージュも疾走する。そうして最終コーナーへと向かう二台のマシンのデッドヒートに、実況のジェニファーも声をあげた。
「両者譲らず! ブルーブレイブはエーベルージュにぴったりくっついて最終コーナーへと向かいます! 勝負は最後までわかりません! 果たしてどうなるか!」
「これで私の勝ちだあっ!」
一つのミスもなく、つばさが完璧に最終コーナーを曲がりきった。そのすぐあとに迅雷が続く。
「んんん! 先頭はエーベルージュ! 先頭はダークネス・プリンセス! だがここからは直線だ! 両者の差はほとんどないぞ! そして最後のメインストレート。フィニッシュまで残すところ僅かの距離を、二台のマシンがひた走る! ほとんど同時だ! いや、ブルーブレイブが加速して、エーベルージュを追い抜こうとしている!」
だから一見すると迅雷の方が有利に思える。しかし違うのだ。
「くそくそくそ、この俺が……」
――フリー走行なしで初めて乗るマシンで初めて走るサーキットだったとはいえ、この俺が!
実況のジェニファーもそれに気づいたらしい。
「ああっ! しかし、しかし……このサーキットのメインストレートは、バックストレートより短あい!」
そうなのだ! その事実を改めて突きつけられて、迅雷は天を仰ぎたくなった。
――ストレートはエンジンで決まる。ドライバーに出来ることは少ない。
「惜しかったですね、お兄さん」
つばさの声は謙虚な響きを持っていた。
「今片山さんの云った通り、普通はメインストレートの方が長いんですけど、このサーキットは逆なんです。だからほら、フィニッシュラインがもう――」
つばさは最後まで云わなかった。迅雷はステアリングを握りしめたまま、淡い微笑を浮かべて目前に迫ってきたゴールを無念そうに見やる。
「このストレートがどこまでも続いていてくれれば、あるいはゴールがもっと奥にあってくれたなら……いや、どれもこれも云い訳か」
ゴールは、もうすぐそこだった。だから本当の勝負は、あのバックストレートのストレートエンドで、迅雷がエーベルージュのタイヤの状態を見誤った時点でついていたのかもしれない。
――あそこで差された時点で詰んでいた。
そしてジェニファーが、ここがレースの
「ゴール! 一位は鼻の差でエーベルージュ! 僅かに遅れてブルーブレイブもフィニッシュです!」
その瞬間、迅雷は目を閉じた。聞こえてくるのは切ないほどの
「両者、素晴らしい走りでした! さすがの
――でも負けた。ああ、負けた負けた! マカオを制した疾風迅雷が女の子に負けちまった!
悔しくて悔しくてたまらないのに、これはどうしたことだろう。
「はっはっはっはっは」
迅雷は悔しいのに笑っていた。悔しいけれど充実感があった。二つの矛盾した感情に溺れながら荒い息をついていると、つばさが声をかけてきた。
「お兄さん」
目を開けると、画面の右上にチェッカーフラッグのアイコンが点灯していた。そして迅雷はもうマシンの操作を放棄していたのに、マシンは自動的に走っている。
「あれ、どうなってるんだ?」
「フィニッシュしたマシンは自動的にウイニングランモードに移行します。手動に切り換えることも出来ますが、基本的に自動走行で、マシンはゴースト状態になり、レース中の他のマシンに干渉しません。ログアウトしたければステアリングのパネルから
迅雷は一瞬、狐につままれた思いがした。
「……ああ、そうか。これってゲームだったな」
「当たり前じゃないですか。寝惚けてるんですか? 呼吸、荒いですよ」
「仮想Gフォースが堪えたんだ」
仮想のGは現実の迅雷の心身を削ぎ落とすように痛めつけた。心臓は強く速く打っており、全身は汗みずくである。これでF1のコックピットのような灼熱地獄だったら、迅雷はしばらく話も出来なかっただろう。
「冷房が効いてて助かった」
迅雷は笑ってそう云うと、タッチパネルを操作した。ウイニングランの映像を見ながらゲームの
ゆりかごからそれを見ている迅雷は、こう思った。
「まるで、別の世界でレースをしていて、今、元の世界に戻ってきたみたいだ」
オンライン・フォーミュラとはそれほどの体験だった。スピードの世界から戻って来たときの違和感といい、心地よい疲労感といい、まるで本当のレースをしたかのようである。あの加速感覚、コーナーを曲がるたびに右から左から襲い来るG、高速で後ろへ飛び去っていく景色、すべてが現実のそれとまったく同じだったのだ。
「これが、オンライン・フォーミュラ。真玖郎、おまえの選んだ戦場か……」
迅雷はそのままぼんやりと考え込んでしまった。その様子を外側から見て察してか、サイモンがピット画面から云う。
「ボーイ、シートを操作するぞ」
云うや否や、座席が動き始めた。エントリーシートが筐体のなかから引きずり出される。どうやら外側からも操作できるらしい。
夢が終わり、現実が戻ってくる。
……。
迅雷がヘルメットを脱ぎ、グローブを外して一息ついていると、サイモンがエントリーシートに近づいてきた。
「惜しかったな、ボーイ。だが実に見応えのあるデッドヒートだった。ナイスファイトだったぞ」
そう莞爾と笑って親指を立ててくるサイモンを、迅雷はすまなさそうに見上げた。
「せっかくマシンまで用意してもらったのに、負けてしまってすみません」
「なにを云う、謝る必要などない。ボーイはブルーブレイブの力をすべて引き出してくれた。マシンのデザイナーとしてこんなに嬉しいことはない。ありがとう、ボーイ」
「礼を云うのは俺の方ですよ。いいマシンをありがとうございました」
迅雷は笑ってヘルメットをサイモンに抛り投げた。サイモンがそれを胸で受け止めるのを尻目に、迅雷はしたたる汗を拭うとシートベルトを外して立ち上がった。座席は非常に低い位置にあり、ほとんど地べたに座っているも同然だったから、視点が一気に高くなる。
コックピットの縁を跨いで床に降り立った迅雷は、そのままつばさの方に近づいていった。
つばさの座席も既に筐体から排出されており、つばさは膝の上にヘルメットを置き、レーシンググローブも外して、ハンカチで掌の汗を拭いながらことりとなにごとか話していた。それが真っ直ぐに歩いてくる迅雷に気づくと、笑って右手を差し出してくる。つばさの前まで来た迅雷は、足を止めるやつばさの右手に自分の右手を思い切り叩きつけた。
パン! と気持ちのいい、乾いた白い音がした。
それだけで、すべてが通じ合ってしまった。もう言葉は必要なかったが、つばさは花が咲くように笑って云う。
「ようこそ、オンライン・フォーミュラへ」
「悔しいけど面白かった」
今このとき、バーチャルレーサー、ライトニング・バロンが本当の意味で誕生したのだ!
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